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説教日:2010年5月30日 |
このことは、主の祈りが、神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 というように呼びかける神の子どもたちの共同体の祈りであることとかかわっています。 ヨハネの手紙第一・3章1節には、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 と記されています。 その父なる神さまの愛は、ここでは説明されていませんが、先週も引用しました、少し後の4章9節、10節に、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。 神さまの私たちに対する愛は、神さまが「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされ・・・た」ことにあります。けれども、それは、 私たちが神を愛したのではなく、 と言われていますように、私たちが神さまを愛したので、それにお応えになって、御子をお遣わしになったのではありません。むしろ、私たちは私たちとこの世界の造り主であられる神さまに対して罪を犯していたのです。 ここで用いられています「なだめの供え物」ということばは、神さまが「私たちの罪」に対して聖なる御怒りをもっておられることを踏まえています。神さまはその「私たちの罪」に対する聖なる御怒りを、十字架におかかりになった御子イエス・キリストの上にすべて注がれました。それによって、私たちの罪を完全に清算してくださいました。これが福音のみことばがあかししている罪の贖いです。このようにして、御子イエス・キリストは「私たちの罪」のための「なだめの供え物」となられました。 このことを御子イエス・キリストを中心として見ますと、イエス・キリストはまったく受け身であられたのではありません。ご自身は気が進まなかったのに、「私たちの罪」のための「なだめの供え物」となることが父なる神さまのみこころだから、やむなくそれに従われたということではありません。3章16節に、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 と記されていますように、御子イエス・キリストも私たちを愛してくださって、ご自身の意志で十字架にかかって、「ご自分のいのちを」捨ててくださいました。それは、単なる肉体的な死ではありません。私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべてお受けになって死んでくださったということです。 このように、父なる神さまは私たちを愛してくださって、ご自身の御子を「私たちの罪」のための「なだめの供え物」としてお遣わしになりました。そして、御子イエス・キリストは私たちを愛してくださって、十字架にかかって私たちの罪」のための「なだめの供え物」となってくださいました。この点で、父なる神さまと御子イエス・キリストは完全に一致しています。 このようなことがあって、3章1節では、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 と言われているのです。そのように、私たちは父なる神さまの愛により、また、御子イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、神の子どもとしていただいています。それで、私たちは父なる神さまに、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけることができるのです。 このことから、いろいろなことを考えることができますが、いまお話ししているマタイの福音書6章14節、15節に記されていますイエス・キリストの教えとのかかわりで、一つのことをお話しします。 それは、このように、「私たちの罪」のための「なだめの供え物」となってくださった御子イエス・キリストはまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられるということです。 ヨハネの福音書1章1節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と記されています。このみことばについては、主の祈りのお話の中でも繰り返しお話ししてきましたので、結論だけをお話しします。ここに出てくる「ことば」は、この少し後の14節に、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 と記されていることから分かりますが、今から2千年前に人となって来てくださった御子イエス・キリストのことです。その御子イエス・キリストについて、1節では、まず、 初めに、ことばがあった。 と言われています。この「初めに」は、聖書のいちばん初めの創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「初めに」当たります。また、 初めに、ことばがあった。 と言われているときの「あった」と訳されたことばは[未完了時制で]「過去における継続」を表します。それで、 初めに、ことばがあった。 というみことばは、神さまが創造の御業を遂行されたときに、「ことば」は、すでに存在しておられたということを示しています。時間は神さまがお造りになったこの世界の時間です。それで、時間はこの世界が造られたときに始まっています。しかし、「ことば」はこの造られたたときにはすでに、継続して存在しておられたのです。つまり、「ことば」は永遠の存在であられます。それで、1節の最後には、 ことばは神であった。 と記されています。 さらに1節では、 ことばは神とともにあった。 と記されています。これは、「ことば」が、天地創造の御業の「初めに」、すでに、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられたことを示しています。神さまの本質的な特性は愛ですが、神さまは永遠の存在であり、神さまのすべてが完全です。当然、神さまの愛も完全な愛です。その愛は愛する相手があって初めて現実となります。そのことは、永遠にして完全な愛である人格的な存在が、少なくとも二つあることを意味しています。そうでなければ、神さまには完全な愛の性質があるけれども、その愛を完全には表現できないということになってしまいます。しかし、 ことばは神とともにあった。 というみことばは、神さまの愛は永遠に、完全な形において表現されているということを示しています。 先ほど引用しました14節の、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 というみことばは、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる「ことば」が「人となって、私たちの間に住まわれた」ということを示しています。このこととが、先ほど引証しました、ヨハネの手紙第一・4章10節で、 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と言われていることに当たります。 このことには二つのことがかかわっています。 一つは、御子が私たちと同じ人の性質をお取りになって、まことの人となられたということです。そうでなければ、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになることはできなかったはずです。また、もし御子イエス・キリストに罪があったなら、ご自分の罪のためにさばきを受けなければならなかったはずですから、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになることはできませんでした。ですから、御子はご自身のうちに罪を宿しておられない、まことの人の性質を取って、来てくださったのです。それは、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになったときの人の性質です。 もう一つのことは、私たちの罪は、すべて、私たちの造り主にして無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪であるということです。なぜなら、神さまは人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったからです。ですから、私たちが人を憎んだとしても、それはその人に対する罪であるだけではありません。それは、何よりも、私たちをご自身のかたちにお造りになった神さまのみこころに背くことです。 そればかりではありません。人は罪によって、自分たちも含めて、この世界のすべてのものをお造りになった神さまに背を向けてしまっています。そして、造り主である神さまを神としてあがめることもしなくなってしまっています。 このようにして、私たちの罪は無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪です。人間の世界でも王に対する侮辱は大変な犯罪として処罰されるでしょう。あるいは、ある人にとって宝物のように大切なものを傷つけてしまったということと、どこにでもあるビー玉を傷つけてしまったということには大きな違いがあります。同じ何かを傷つけたこといっても、何を傷つけたかによって、その償いに必要なものは違います。私たちの罪は永遠、不変の栄光の主であられる神さまに対する罪です。そのために、私たちの罪を清算するためには無限の償いがなされなければなりません。そのような償いは、あらゆる点で有限な被造物にはできません。そのために、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が、ご自身の意志で、私たちの罪のための「なだめの供え物」となってくださいました。それ以外に、私たちの罪が完全に清算される道はありません。 また、父なる神さまはご自身が完全な愛をもって愛しておられる御子を「私たちの罪のために、なだめの供え物として」お遣わしになり、その御子に、私たちの罪に対する聖なる御怒りをすべてお注ぎになって、私たちの罪を贖ってくださったのです。 このように言いましても、御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、父なる神さまの御怒りによる刑罰をお受けになった時に、一体何が起こっていたのかは、私たちの想像をはるかに越えています。これは、私たちの罪を完全に清算するさばきの執行ですので、文字通り、最終的なさばきです。その意味で、これは地獄の刑罰に相当するさばきです。しかも、これは、永遠に完全な愛の交わりのうちにおられる父なる神さまと御子との間においてなされたことです。父なる神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを、すべて御子に対して執行されました。そして、御子はその苦しみをすべてご自身のこととして味わわれました。 このようなことが起こったということは、まったく、父なる神さまと御子のご意志によることであって、その他のどのようなことによってもいません。そして、その父なる神さまと御子のご意志を動かしていたのは、私たちに対する愛以外の何ものでもありません。 私たちにはそのような愛を、想像することもできませんでした。ただ、神さまのみことばに基づいて信じたのです。しかし、みことばのさらなる光の下に思い巡らせば巡らすほど、その愛が信じがたいほどの深さと豊かさを秘めていることに驚くほかはありません。 やはり先ほどのヨハネの手紙第一・3章1節の、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 というみことばに戻りますが、私たちは、私たちの有限な心ではとても想像することもできない神さまの愛による、御子イエス・キリストのいのちという無限の値をもって罪を完全に償っていただいて、神の子どもとしていただいています。 このことを踏まえますと、マタイの福音書18章23節ー35節に記されています、イエス・キリストのたとえが理解できます。そこには、 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。」と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ。」と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。」と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。 と記されています。 ここで「一万タラント」と「百デナリ」という金額が出てきます。新改訳欄外注にありますように、1デナリは「当時の1日分の労賃に相当」します。そして、1タラントは6千デナリに相当します。ですから、かりに1日の賃金が1万円であるとしますと、1タラントは6千万円、「一万タラント」は、6千億円ということになります。また、時間的に見ますと、1タラントを貯めるには、1年、365日毎日働いて、その賃金のすべてを貯めたとしても、約16年半かかります。「一万タラント」を貯めるためには、16万4千3百83年かかります。つまり、そのしもべには決して返すことができないということを意味しています。 王は、それほどの借金を負っているしもべを、一方的なあわれみによって赦してやりました。ところが、そのようにして、王の深いあわれみにあずかったしもべが、同じ王のしもべである仲間の百日分の賃金に当たる借金を猶予することもなく、そのしもべ仲間を投獄してしまいました。そのようなしもべが、本当に、王の一方的なあわれみを受け止めているだろうかということが、このたとえの主旨です。 もしかすると、私たちは「一万タラント」と「百デナリ」という対比は大げさすぎると感じるかもしれません。しかし、先ほどお話ししましたように、私たちの罪が無限、永遠、不変の栄光の造り主である神さまに対する罪であり、そのために御子イエス・キリストのいのちという無限の値が支払われているということからしますと、これは、決して、誇大なたとえではありません。それどころか、とても控えめなたとえです。そして、この程度のたとえであっても、同じ王のしもべ仲間に何のあわれみも示さなかったしもべは、その王のあわれみを受け取っていないことが明らかになります。ばく大な借金を棒引きにしてもらって「よかった」と感じてはいるでしょうが、王のあわれみの深さに心が動かされていませんし、そのようなあわれみ深い王のしもべであることの意味を理解してもいません。その王のあわれみ深さに心を動かされたまことのしもべであれば、王のあわれみを身をもって映し出そうとするはずですですが、そのようなことはまったくありません。そのしもべは自分の損得を考えているだけだったのです。 33節には、 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。 という、王のことばが記されています。王はその悪いしもべに、ただ、しもべ仲間の借金を帳消しにしてあげるべきだったと言っているのではなく、しもべ仲間にあわれみ深くあるべきだったと、その悪いしもべの心のあり方を問題としています。そして、このたとえをまとめる最後の教えにおいても、イエス・キリストは、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら」と言われて、私たちの心のあり方にまで触れておられます。それは、御子イエス・キリストをとおして示してくださった神さまの私たちに対する愛とあわれみが、人間的な言い方ですが、神さまにとって、「心からのもの」であったからでもあります。 これらのことから、このイエス・キリストのたとえは、私たちの罪が赦されるための根拠や条件を示しているのではなく、すでに、神さまの一方的な愛とあわれみによって罪を赦していただいている者の本来の姿を示していると考えられます。父なる神さまがその一方的な愛とあわれみによって遣わしてくださった、永遠の神の御子イエス・キリストが、十字架にかかって、私たちの罪を贖ってくださったことを信じている神の子どもたちにとって、兄弟姉妹の罪を赦すことは、最も自然なことであるのです。 そして、それでも、兄弟姉妹の罪を赦すことがないとしたら、その人は、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛とあわれみを自分のこととして受け止めてはいないと言うほかはないということを示しています。先ほどお話ししましたように、このたとえでは、私たちの心のあり方が問題となっています。もし私たちが兄弟姉妹の罪を赦すことがないとしたら、形としては、御子イエス・キリストの十字架の死によって自分の罪は赦されていると思ってはいても、そのことに示されている父なる神さまと御子イエス・キリストの愛とあわれみは、その人の心に届いていないということになります。 お気づきのことと思いますが、このことが、いま私たちが取り上げています、主の祈りの後に記されているイエス・キリストの教えにも当てはまります。 |
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