(第236回)


説教日:2010年5月23日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 主の祈りは、その第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りで終わります。私たちは、この後、

 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

という頌栄のことばをもって祈りを閉じています。
 新改訳ではこの部分はカギカッコの中に入っていて、欄外に「最古の写本ではこの句は欠けている。」と注釈されています。
 具体的には最も古いとされている4世紀のシナイ写本とバチカン写本に、この頌栄のことばが欠けています。また、これらの写本よりさらに古い、テルトゥリアヌス(220年没)、オリゲネス(254没)、キュプリアヌス(258年没)など、初期の教会教父たちの著作においても、この頌栄のことばは欠けています。
 ただし、2世紀のものとされる『ディダケー』(『十二使徒による異邦人に対する主の教え』)には、

 力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

という頌栄のことばが出てきます。これには「国と」ということばと「アーメン」が欠けています。また、それほど古いものではありませんが、写本によっては、

 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

とは違うことばが記されています。ほとんどのものは、「国と力と栄え」の三つがそろわないで、「力と栄え」あるいは「国と栄え」という組み合わせ、また「」あるいは「」だけのものなどです。
 さらに、これらの写本の示すところよりも重要な証言があります。それは主の祈りはルカの福音書にも記されていますが、そこにも、結びの頌栄のことばがないということです。この結びの頌栄のことばがないという点はすべての写本が一致しています。
 これらのことから、もともとのイエス・キリストの教えには、頌栄のことばはなかったと考えられます。
 ユダヤ人の祈りは頌栄のことばをもって閉じるものであったことから、主の祈りにも頌栄のことばがあったはずだという主張もあります。確かに、ユダヤ人の祈りは頌栄のことばをもって閉じるものであったのですが、その頌栄のことばは必ずしも決められたとおりのことばで祈るものではなく、祈る人が自分で考えてことばを選んで祈ることもできたということが、この場合に当てはまると考えられます。つまり、イエス・キリストは、何をどのように祈るかということについては、

 御名があがめられますように。

という祈りから始まって、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りまで、祈るべき事柄とその順序を教えてくださいました。しかし、その結びのことばである頌栄に関しては、祈る人が自分のことばで祈るようにされたということです。
 東方教会は、「ギリシャ正教」や「ロシア正教」など、「何々正教」という名で呼ばれています。その東方教会の伝統的な典礼では、主の祈りを祈るときには、会衆が6つの祈りを祈りますが、

 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

という頌栄のことばは、典礼を導いている司祭が述べているようです。東方教会は古い伝統を維持していると考えられていますが、主の祈りに関するこの伝統がどれくらい古くからのことかは分かりません。
 このことから、教会の歴史の初期の時代においては、結びの頌栄のことばは、礼拝を導く人に任せられていて、いろいろなことばで結ばれていたのが、その中の一つのことばが、人々に深い印象を与えたということでしょうか、それが記録されて、写本の中にも残るようになったのではないかという見方もあります。
 いずれにしましても、

 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

という頌栄のことばは、イエス・キリストの教えには含まれていなかったと考えられます。
 そうしますと、この頌栄のことばは、後から付け加えられたものとして、祈るべきではないのではないか、という疑問が出てきます。これに対しましては、その当時の祈りは、頌栄のことばで終わっていましたから、イエス・キリストも、主の祈りが頌栄のことばで終わることは当然のこととしておられたと考えられます。ただ、その頌栄のことばまでは指定されなかったということです。それで、私たちが、主の祈りを、

 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

という頌栄のことばで閉じることには問題はないと言えます。そればかりか、主の祈りを頌栄のことばで閉じることは、主の祈りが、何よりもまず、

 御名があがめられますように。

という祈りから始まっていることからしますと、ふさわしいことであると考えられます。
 また、この、

 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

という頌栄のことばは、歴代誌第一・29章11節に記されている、ダビデの祈りのことばの一部ですが、

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

という頌栄のことばなどが背景となっていると考えられています。


 イエス・キリストは主の祈りによって、私たちが祈るべきことを順序立てて教えてくださいましたが、それに続いて、13節、14節に記されていますように、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

と教えておられます。
 皆さんもこの教えについては、ある疑問をお感じになると思います。それは、私たちが人を赦すことが、私たちが神さまから赦していただくことの根拠となるのだろうかという疑問です。今日は、その疑問に直接お答えすることはできませんが、この教えを理解するための背景となることをお話しします。
 すぐに分かりますように、このイエス・キリストの教えは主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りと深くかかわっています。
 この第5の祈りについては、すでにいろいろなことをお話ししましたが、13節、14節に記されていますイエス・キリストの教えとかかわっていることを簡単に復習しておきたいと思います。とはいえ、今日は、第5の祈りについてお話ししたときとは少し違う面からお話しします。
 第5の祈りに出てくる「負いめ」ということば(オフェイレーマ)は、基本的に、、経済的な「負債」や「支払うべきもの」、「義務として負っているもの」などを表します。そして、イエス・キリストがこの山上の説教を語られたときに用いておられたと思われるアラム語でこのことばに当たることば(ホーバー)は、そのような「負債」だけでなく、「罪」すなわち「赦してもらわなければならない罪」をも表しました。マタイの福音書はユダヤ人を対象として記されていると考えられますが、ヘブル語やアラム語を話していたユダヤ人たちには、そのような意味合いが伝わったと考えられます。
 ここでイエス・キリストが「負いめ」ということばを用いておられることには意味があると考えられます。それは私たち人間の本質にかかわっています。

 聖書のみことばは、神さまの本質的な特性が愛であると教えています。ヨハネの手紙第一・4章16節には、

 神は愛です。

と記されています。聖書のみことばはまた、神さまは人をご自身のかたち、すなわち、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったと教えています。創世記1章27節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されているとおりです。
 また、ヨハネの手紙第一・4章7節、8節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

と記されています。
 言うまでもなく、ここで、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。

と言われている愛は、罪の自己中心性によって歪められてしまっている愛のことではありません。これに続く9節ー11節に、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されている愛です。
 ローマ人への手紙6章23節に、

罪から来る報酬は死です。

と記されていますように、死は罪に対する刑罰として入ってきました。つまり、人はもともと死ぬものとしては造られていないということです。私たちは皆、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているものです。肉体的な死も、その罪に対する刑罰としての意味をもっています。また、終わりの日に執行される最終的なさばきによる永遠の滅びとしての死も、罪に対する最終的な刑罰です。
 人がもともと死ぬものとして造られているのであれば、死は避けられないものです。しかし、このように、死が罪の刑罰として入ってきたものであれば、その罪が贖われるなら、人が死に服する必要はなくなります。
 神さまは私たちが死と滅びを刈り取ることをお喜びになられません。それで、私たちのためにご自身の御子を「なだめの供え物として」お遣わしになって、十字架において、私たちの罪に対する刑罰をすべて御子の上にお下しになりました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださったのです。ヨハネは、

 ここに愛があるのです。

とあかししています。
 また、これに先立って、3章16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。私たちの主であられ、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが、私たちのために十字架にかかかって、いのちを捨ててくださったことによって、

 私たちに愛がわかったのです。

と言われています。
 これが、創造の御業において神さまが人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったというときの愛です。これは、神のかたちに造られた人の本来の愛がどのようなものであるかを示しています。

 実際には、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、私たちの本性が罪の自己中心性によって腐敗してしまいました。それは、造り主である神さまを神としないで、自分を神の位置に据えようとするほどの自己中心性です。「そんな大それたことは考えたこともない」というのが、私たちの実感です。しかし、それは私たちにそれほどの能力や権力がないために際立って現れてこないだけのことです。私たちには私たちなりの小さな世界があります。その世界では、無意識のうちに自分が中心になろうとしています。自分が中心になっていないために、いら立ったり、憤ったり、すねたり、落ち込んだりするのも、その裏返しの表現です。
 このように、私たちの本性が罪によって腐敗してしまっているために、私たちの愛さえも、罪の自己中心性によって歪められてしまっています。改めて説明するまでもないと思います。愛しているはずの人が自分の思うとおりになっていないということで、いら立ったり、憤ったり、すねたり、落ち込んだりしたことはないでしょうか。
 私自身いくつも心痛く思い出すことがあります。あのことこのこととある中の一つですが、まだ、最初の子どもが小さかったときのことです。生まれて間もなく重症のアトピー性皮膚炎を発症しました。それがなかなか治らず、いつもからだを掻いている状態でした。特に、寝る前は体温も上がって、痒みもいっそうひどくなりました。それで、その子が眠るまで妻と交代でからだをさすっていました。軽くさすると効き目がないので、「こりこり掻いて」と注文されたものです。痒みがひどくて、なかなか寝つけないこともよくありました。朝方までかかってしまったときもあります。しかし、そのようなときに、私も疲れてきて、「もうお父さん疲れちゃった」と言って、その手を止めてしまったことが何度もありました。いつも、ふと気がつくと幸いにも眠っていました。その子を大切に思っているはずなのに、自分が疲れたということしか考えられなかったことを、後から思い起こして、痒くてたまらないときに、そんなことを言われた子どもの思いはどんなだったのだろうかと、胸が締めつけられる思いになりました。とはいえ、それは、もうその子をさすらなくてもよくなってから、やっと気がついたことです。

 ヨハネの手紙第一からの三つの引用しましたが、そこに記されていることは、神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったことによって、ただ単に神さまの愛が示されたということだけではありません。神さまは、それによって、私たちを内側から造り変えてくださるのです。コリント人への手紙第二・5章17節に、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されているとおりです。
 神さまはご自身がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じて、贖い主として受け入れる人を、イエス・キリストが成し遂げられた贖いにあずからせてくださって、その人を新しく造り変えてくださいます。そして、そのように、神さまは、私たちが御子イエス・キリストを神さまが遣わしてくださった贖い主として信じて、受け入れたときに、その十字架の死に私たちをあずからせてくださって、私たちの罪を贖ってくださり、罪の結果である死と滅びから贖い出してくださいました。そればかりでなく、私たちをイエス・キリストの復活にもあずからせてくださって、私たちを復活のいのちで新しく生まれさせてくださいました。それが、4章10節で、

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。

と言われていることです。
 私たちがイエス・キリストの復活のいのちによって新しく造り変えられ、復活のいのち、すなわち永遠のいのちに生きるものとしていただいていることに基づいて、4章7節では、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と言われています。イエス・キリストの復活のいのちの本質的な特性が愛なのです。
 このように、三つの引用のすべてが、神さまが私たちを愛してくださって、御子イエス・キリストを遣わしてくださり、御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業に私たちをあずからせてくださって、私たちを永遠のいのちに生きるものとしてくださったことを踏まえています。このような神さまの愛に包まれて生きている私たちは、当然、神さまを愛することを期待されますが、これらの引用では、私たちが兄弟を愛すべきであると言われています。先ほどの4章7節では、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

と言われていました。その前の3章16節では、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と言われていましたし、4章10節、11節では、

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と言われていました。
 さらに、これまで引用していませんが、4章19節には、

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と記されています。
 常に、神さまが私たちを愛してくださって、私たちのために御子を遣わしてくださり、私たちを愛を本質的な特性とする御子の復活のいのちに生かしてくださっていることが先にあります。そして、私たちが神さまを愛していることは、兄弟姉妹たちを愛することに現れてくるということが、このヨハネの手紙第一の基本的な教えです。
 どうしてそうなるかと言いますと、その理由は二つあります。
 一つは、すでにお話ししてきましたように、私たちが愛を本質的な特性とするイエス・キリストの復活のいのちで生かされているからです。
 もう一つは、神さまはご自身の御子をもお遣わしになって、十字架にお付けになるほどに、その兄弟姉妹のひとりひとりを愛してくださっているからです。その神さまの愛を自己中心的に受け止めているのではないかぎり、私たちは神さまがそれほどまでに愛しておられる兄弟姉妹を愛するはずです。
 このように考えますと、5章10節に、

イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。

と記されていることが理解できます。さらにヨハネが4章20節、21節において、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

と述べていることも理解できます。

 しかし、私たちの現実はどうなのでしょうか。先ほどの私のあかしのとおりです。私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストから、この上ない愛を受けており、神さまと兄弟姉妹たちへの愛を負っているにもかかわらず、神さまへの愛においても兄弟姉妹たちへの愛においても、欠けていることを、心痛く感じる他はないものです。
 このことを踏まえますと、イエス・キリストが主の祈りの第5の祈りで、

私たちの負いめをお赦しください。

と祈るように教えてくださったことが、イエス・キリストの私たちへの愛とあわれみから出ていることが分かります。イエス・キリストは、私たちがなおも自らのうちに罪の性質を宿しているために、私たちの愛が貧しいものであること、しかも、自己中心的に歪んでしまっていることを十分にご存知であられて、このように祈るように教えてくださったのです。それは、父なる神さまが、私たちの「負いめ」を、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、赦してくださることを示してくださっているものでもあります。
 それと同時に、イエス・キリストは、私たちがご自身の贖いの御業にあずかって、罪を赦していただいているだけでなく、ご自身の復活のいのちによって生かされていることを踏まえておられます。そのことが、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈るようにという教えに表れています。
 この祈りでは「私たちも」(カイ・ヘーメイス)ということが強調されています。この「私たちも」の「」(カイ)が、この祈りの理解にとって大切な意味をもっています。これによって、私たちがすでに神さまの一方的な愛と恵みによって私たちの「負いめ」を赦していただいているということが示されています。神さまが私たちの大きな「負いめ」を赦してくださっているので、「私たちも」「私たちに負いめのある人たち」を赦しますということです。
 また、「赦しました」と訳されていることばは、不定過去時制ですが「セム語的完了時制」を反映していて(詳しいことは「主の祈り186回」でお話ししています)、現在のことを表している可能性が高いと考えられます。セム語族に属するアラム語やヘブル語を話していたユダヤ人たちにはこのことが理解できたと思われます。実際、異邦人を対象としていると考えられるルカの福音書に記されている主の祈りでは、「赦します」と現在時制になっています。
 ですから、この、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

あるいは、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

という祈りは、私たちはすでに神さまの一方的な愛と恵みによって「負いめ」を赦していただいているので、私たちも兄弟姉妹たちの「負いめ」を赦しますという告白あるいは決意です。先ほどの、

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

ということばに合わせて言えば、

私たちは赦しています。神がまず私たちを赦してくださったからです。

という告白になります。
 マタイの福音書6章14節、15節に記されています、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えには、このような背景があります。イエス・キリストは、私たちが神さまの一方的な愛と恵みを受けて、神さまに対する「負いめ」をすべて赦していただいているということを踏まえて、このように教えておられます。

 


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