(第235回)


説教日:2010年5月16日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 先主日には春の特別集会をいたしましたので、主の祈りについてのお話はお休みしました。今日は主の祈りに戻りまして、その第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。これまでいろいろなことをお話ししてきましたが、今日で、この第6の祈りについてのお話は終わりにしたいと思います。
 これまで、この祈りの後半の、

 悪からお救いください。

という祈りが視野に入れている「」には広がりがあるということをお話ししました。この祈りによって、私たちそれぞれが経験しているさまざまな悪から救い出されることを祈り求めていることはもちろんのことです。私たちは、また、ともに主イエス・キリストの御名によって神さまを礼拝している神の家族の兄弟姉妹たちが、それぞれの置かれたところで経験しているさまざまな悪から救い出されることを祈ります。さらには、時代をともにしている主の聖徒たちが、それぞれの置かれたところで経験しているさまざまな悪から救い出されることを祈ります。
 そればかりでなく、この祈りは、神さまが天地創造の御業によって造り出された「すべてのもの」、ローマ人への手紙8章22節において、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われているときの「被造物全体」が、悪から救い出されることを祈るものです。
 これに対しては、この祈りは、文字通りには、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るものであって、この「私たち」に「被造物全体」を含めることには無理があるのではないかという反論があろうかと思います。
 これにつきましては、やはり、神さまの創造の御業におけるみこころにまでさかのぼって考える必要があります。神さまの創造の御業におけるみこころのことは創世記1章26節ー28節に記されています。27節、28節に記されていることだけを見てみますが、そこには、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここでは、神さまが人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの世界を治める使命、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されています。これは神さまの創造の御業のことを記していますので、私たちがどのようなものであるかを理解するうえで決定的に大切なことを示しています。私たちがどのようなものであるかを理解するためには、人が神のかたちに造られているということがとても大切ですが、今日お話しすることと関わっているのは、神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命のほうです。
 すでに繰り返しお話ししていますが、ここに出てくる「従える」ということばや「支配する」ということばは慎重に理解しなければなりません。ここに記されていることは、神さまが語られたことです。それでこれらのことばの意味合いは、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったために、本性が罪によって腐敗し、自己中心的に歪められてしまっている人間のことばがもっている意味合いとは違っています。
 聖書の中では真の支配者は、しばしば、羊の世話をする牧者にたとえられています。たとえば、エゼキエル書34章には真の牧者としての王のあり方が示されつつ、罪の自己中心性よって歪められた牧者であるイスラエルの王が糾弾されています。そして、契約の神である主が真の牧者である「ダビデ」を与えてくださることが約束されています。ダビデはエゼキエルより4百年ほど前の王です。ですから、これは、そのダビデ王のことではなく、ダビデに与えられた契約において約束された、ダビデの子、すなわち、ダビデの永遠の王座に着座して治める王のことです。
 イエス・キリストはこのダビデの子として来られました。そして、ヨハネの福音書10章11節に記されていますように、イエス・キリストは、

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

と言われました。そのとおりに、イエス・キリストは、私たちご自身の民のために、いのちをお捨てになりました。私たちを永遠のいのちに生きるようにしてくださるために、十字架にかかって、私たちの罪に対する刑罰をすべて受けてくださったのです。このことに、罪の自己中心性によって歪められていない「従える」こと「支配すること」がどのようなことであるかが示されています。
 このような意味において、神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになったものの「かしら」として立てられています。神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになった地の豊かさを開発し、それを生かして、生き物たちが豊かないのちに生きることができるようにお世話をすることによって、生き物たちを治める使命を委ねられています。


 このように、造り主である神さまは創造の御業において神のかたちに造られた人を、ご自身がお造りになったこの世界の「かしら」としてお立てになり、この世界と一体にあるものとされました。それで、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときには、この世界も「かしら」である人間の罪がもたらしたのろいに服してしまいました。それが、創世記3章17節に記されている、

 あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

という神である主のみことばの意味するところです。これは、罪を犯してしまった人に対して神である主が下されたさばきの宣言の最初のことばです。
 また、こののろいが全被造物に及んでいることが踏まえられて、ローマ人への手紙8章19節ー22節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されています。
 このように、神のかたちに造られた人は、神さまの創造の御業に表されているみこころにしたがって、「被造物全体」と一つに結び合わされています。そして、人の罪の結果を受けて、「被造物全体」がうめいています。
 しかし、

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われていますように、このうめきは絶望のうめきではありません。被造物も、私たち神の子どもたちとの一体において、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」る望みの中にあります。「被造物が虚無に服したのが」神のかたちに造られた人との一体においてであるので、「滅びの束縛から解放され」るのも、神の子どもたちとの一体においてであるのです。
 このことを、みことばの光のもとに受け止めるときに、私たちは「被造物全体」のうめきを聞き取ります。そして、続く23節に、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されていますように、私たち自身がこの世で経験しているさまざまな苦しみと悲しみの中でうめくときに、それが「被造物全体」のうめきにつながっていることを感じ取ります。
 その意味で、私たちが、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るときに、ただ私たち神の子どもたちだけが、この罪のもとにある世界で生きるためにうめいている状態から救い出されることを祈り求めるのではありません。私たちとの一体にあって、望みをもってうめいている「被造物全体」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることをも祈り求めているのです。

 このように、私たちは「被造物全体」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることをも視野に入れて、

 私たちを悪からお救いください。

と祈りますが、そのためにも、わきまえておかなくてはならないことがあります。
 それは、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業が、「被造物全体」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることを視野に入れているということです。
 そのことは、エペソ人への手紙1章20節ー23節とコロサイ人への手紙1章15節ー20節に明確に示されています。エペソ人への手紙1章20節ー23節の方はすでに何度かお話ししていますので、ここではコロサイ人への手紙1章15節ー20節の方を取り上げたいと思います。そこには、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 [第3版]

と記されています。
 ここにはとても豊かなことが示されていますが、いまお話ししていることと関わっていることに限ってお話しします。
 御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業が、「被造物全体」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」るようになることを視野に入れているということは、19節、20節に、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されていることから分かります。
 かなり込み入ったこともありますが、いくつか注釈しておきますと、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

と言われているときの「満ち満ちた神の本質」という訳は意味を汲み取った訳です。このことば(パン・ト・プレーローマ)は、それ自体で「満ちていること」や「満ちあふれいていること」を表すことば(ト・プレーローマ)に、さらに「すべて」を表わすことば(パン)を加えて強調しています。より直訳調には「神の充満のすべて」という感じになります。これでは分かりにくいので、新改訳はその意味を汲み取って「満ち満ちた神の本質」と訳しています。
 ここで、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ

と言われていることは、続く20節に「十字架の血」が出てくることから分かりますが、人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストのことを述べています。つまり、十字架にかかって死んでくださって、贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストは「満ち満ちた神の本質」を宿した方であり、この御子イエス・キリストが、神さまはどのような方であられるかを余すところなく啓示されたということを明らかにしています。また、御子イエス・キリストがそのような方であられるので、その「十字架の血」は「万物」を神さまと和解させてくださる土台となりえるということを意味しています。
 また、これは第3版の引用ですが、

御子によって万物を、御子のために和解させてくださった

と訳された部分は、第2版では

 御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった

となっています。このどちらの理解にも言い分がありまして、どちらとも言えない気がします。
 しかし、おそらく、第3版の、

御子によって万物を、御子のために和解させてくださった

という訳の方が原文の意図を表していると考えられます。というのは、後でもう一つのことを取り上げますが、全体として、20節に記されていることは16節に記されていることと対応しています。そして、この第3版の、

御子によって万物を、御子のために和解させてくださった

という訳は、16節の最後に、

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

と記されていることと対応していることを示しているからです。どちらも、「御子によって」と「御子のために」があって、対応を示しています。その場合には、この和解が神さまとの和解であるということが示されていないことになりますが、それは、当然のこととして想定されていると考えられます。
 16節の、

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

というみことばの「御子によって造られ」ということばは、創造の御業を実際に遂行されたのは御子であるということを示しています。そして、「御子のために造られた」の「ために」ということば(エイス)は目的を表すもので、創造の御業の目的が御子であるということを示しています。それは、「万物は御子にあって造られた」(16節)からですし、「万物は御子にあって成り立って」いるからです。
 これと符合して、20節の、

御子によって万物を、御子のために和解させてくださった

というみことばも、和解の御業が御子によって遂行されたということとともに、御子を目的としているということを示しています。和解の御業が御子を目的としているというのは、「万物」は十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げられた御子イエス・キリストにあって、神さまと和解させていただき、お互いの間においても、まったき調和と平和のうちに保たれているからです。
 これによって、御子イエス・キリストによって遂行された創造の御業と、贖いの御業に基づく和解が対応していることが示されています。
 このこととの関連で注目すべきは、「和解させてくださった」ということばです。[注 このことば(アポカタラッソー)は、ギリシャ語の文献では、こことエペソ人への手紙二章一六節に出てくるだけなので、パウロの造語ではないかと考えられています。]この「和解させてくださった」ということばは、その前に敵対関係があったことを意味しています。16節の最後には、

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

と記されていました。そこには何の敵対関係はありません。創世記1章に記されている神さまの創造の御業の記事では、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことが繰り返し記されています。また、最後にお造りになったすべてのもが「非常によかった」のをご覧になったと記されています。ところが、20節の「和解させてくださった」ということばによって、そのようにして造られた「万物」が造り主である神さまと敵対関係にあるものとなってしまったということが暗示されているのです。
 もちろん、20節の、

御子によって万物を、御子のために和解させてくださった

というみことば、積極的には、そのように神さまと敵対関係にあった「万物」が、神さまと和解させていただいていることを示しています。これによって、御子イエス・キリストによって成し遂げられ、実現している和解によって、御子イエス・キリストによって造り出された「万物」が本来の状態に回復されていることが示されています。

 それでは、なぜ「万物」が造り主である神さまと敵対関係にあるものとなってしまったのでしょうか。ここでは、このことも、二つのみことばを比べることによって見えてきます。
 まず注目したいのは、先ほど引用しました16節の最後の部分の前に記されていることです。そこには、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。

と記されています。
 ここに出てくる「天にあるもの、地にあるもの」は[メリスムスという表現形式で]一般的な意味で「万物」を表しています。創世記1章1節で、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「天と地」が「すべてのもの」、「万物」を表しているのと同じです。同じように、「見えるもの、また見えないもの」も、一般的な意味での「万物」を別の角度から表しています。
 これに対して、「王座も主権も支配も権威も」ということば(すべて複数形)は、そのような一般的なものではなく、特別なものです、結論的に言いますと、これは2章15節に、

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

と記されていることから分かりますが、エペソ人への手紙にも繰り返し出てきます、暗やみの主権者たちのことです。これに先立つ13節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と記されていますが、ここで「暗やみの圧制」(単数・直訳「暗やみの権威」)と言われているサタンの主権に属する者たちのことです。これらの存在が造り主である神さまに敵対して働いているのです。
 しかし、16節では、本来、これらの「王座も主権も支配も権威も」御子によって、また御子のために造られたものであるということが、わざわざ示されています。
 これに対して、20節の後半には、

地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。20節の方が後から出てきますので、省略があります。ここでは、「見えるもの、また見えないもの」に当たることばは省略されて、「地にあるものも天にあるものも」によって、一般的な意味での「万物」が示されています。そして、この「万物」が、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、神さまと和解させていただいていると言われています。
 しかし、ここには、もう、「王座も主権も支配も権威も」は挙げられていません。彼らは御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかることはなく、神さまと和解することもないのです。そればかりか、先ほどの2章15節に、

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

と記されていましたように、霊的な戦いにおいて敗北し、最終的なさばきに服することになります。
 これによって、「万物」が神さまと敵対する状態に陥ってしまったことの原因が見えてきます。それは、神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、暗やみの主権者であるサタンの誘惑に従って、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによっています。それによって、人は神さまに対して敵対している「暗やみの圧制」の下にあって、その支配に従う者になってしまいました。そのために、創造の御業における神さまのみこころによって、神のかたちに造られた人との一体に置かれたローマ人への手紙8章22節の「被造物全体」、すなわち、コロサイ人への手紙1章20節の「万物」も、神さまと敵対する状態に陥ってしまったのです。
 そうであるとしますと、コロサイ人への手紙1章13節、14節で、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と言われていることは、19節、20節で、

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださった

と言われていることの出発点であり、中心にあることが分かります。
 お気づきのように、コロサイ人への手紙1章20節では、すでに「万物」が神さまと和解させていただいていることが示されています。これに対して、ローマ人への手紙8章21節、22節で、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われているのは、その終わりの日における完成を待ち望んでいることが示されています。
 私たちは、神さまが御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業が「被造物全体」の回復にかかわっていることと、やはり、その中心に私たち神の子どもたちがその贖いの恵みにあずかっていることがあるということを踏まえて、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と祈り続けたいと思います。

 


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