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説教日:2010年5月2日 |
それでは、神さまがサタンと悪霊をお造りになったのかという問題があります。これにつきましては、聖書のみことばには、サタンと悪霊たちはもともとは御使いとして造られたものであるのに、造り主である神さまに対して高ぶって罪を犯して、御前に堕落してしまったということを推測させる記述があります。その代表的なみことばは、イザヤ書14章12節ー15節と、エゼキエル書28章12節ー19節です。 イザヤ書14章12節ー15節には、 暁の子、明けの明星よ。 どうしてあなたは天から落ちたのか。 国々を打ち破った者よ。 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。 「私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。」 しかし、あなたはよみに落とされ、 穴の底に落とされる。 と記されています。 これは、多くの国々を制圧して、神さまの御前に高ぶるようになるバビロンの王に対して、神さまがさばきを執行されるということを、イザヤをとおして預言されたみことばです。この預言がなされたときは、まだアッシリヤが覇権を握っていまして、バビロンはその後でアッシリヤを滅ぼし、当時の世界を制圧するようになります。これはそのバビロンの王に対するさばきの宣言です。ですから、これは、直接的にサタンの堕落のことを示しているものではありません。 しかし、このバビロンの王の高ぶりに、神さまの御前におけるサタンの高ぶりが映し出されていると考えることができます。というのは、その高ぶりは、バビロンの王が語った、 私は天に上ろう。 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、 北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、 いと高き方のようになろう。 ということばに表されているからです。 ここに用いられていることばは、日本にいる私たちにはあまりなじみがないものですが、古代オリエントの文化においてはよく知られていました。「神の星々のはるか上」の「王座」はカナン神話の最高神とされているエールが座して、すべてを治めているとされているところです。また、「北の果てにある会合の山」とは、古代オリエントの神話の中で神々が会合する山とされていた山のことで、その最も高い所にエールが座しているとされています。そして、「いと高き方」はエールの通称です。 このような神話的な表象は、単なる人間の王の描写としては、あまりにも誇張されたものです。それで、ここに人間の王以上の存在を暗示するものがあると考えられるのです。それで、サタンはもともと非常に優れた御使いとして造られたのですが、自分に与えられた栄光のために高ぶってしまい、自らが神のようになろうとした罪を犯して、造り主である神さまの御前に堕落してしまったと考えられます。ただし、サタンが優れた御使いとして造られたことを推測させる記述は、このイザヤ書14章12節ー15節よりはエゼキエル書28章12節ー19節の記述に見られます。しかし、今日はそれに触れる時間的な余裕はありません。 このように、サタンは自分に与えられている栄光のために高ぶってしまって、「神のように」なろうとして造り主である神さまに対して罪を犯したと考えられます。 それにしても、サタンは一介の被造物でしかありません。あらゆる点において有限であり、時間的であり、変化し得るものです。そのサタンが「神のように」なろうとしたとはどういうことでしょうか。サタンが自分も「神のように」なれると考えたということは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまと自分との間には、それほどの違いはないと考えているということを意味しています。これによってサタンは、造り主である神さまと、神さまによって造られたものの間にある、絶対的な区別を見失い、否定してしまったのです。 聖書のみことばは、造り主である神さまが、神さまによって造られたものと絶対的に区別される方であることを、神さまの「聖さ」と呼んでいます。サタンは、この神さまの聖さを冒してしまっています。 これがサタンの罪としての「悪」の本質です。それはまた、神のかたちに造られていながら、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間の罪の本質です。人も自らを神の位置に据えようとする罪の自己中心性を内に秘めています。 このように、サタンの罪は、一介の被造物でしかないものが、その被造物としての限界を見失って、「神のように」なろうとすることにあると考えられます。言い換えますと、神も自分たちとそれほど違うものではないと考えるとともに、自分が「神のように」なろうとすること、自分を神の位置に据えようとすることにあるということです。その意味で、神さまの聖さを冒すことが罪の本質です。 ところが、これには、もう一つの問題があります。それは、造り主である神さまが人を神のかたち、ご自身のかたちにお造りになったということです。 創世記1章27節には、 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。[第3版] と記されています。 これは、これまでお話ししてきたことばで言いますと、造り主である神さまが人を「神のようなもの」としてお造りになったということを意味しています。その意味では、「神のようなもの」としてあること、「神のようなもの」として生きることは、造り主である神さまのみこころでもあるのです。そうしますと、サタンが神のようになろうとしたことには問題がないのでしょうか。 お気づきのように、これはただ字面を並べて比べたために感じられる問題です。この、ことばとしては同じように見える二つのことの間の違いを理解しておくことは、サタンの罪としての「悪」を考えるうえで大切なことと思われます。そして、それは主の祈りの第6の祈りの、 私たちを悪からお救いください。 という祈りに対しても意味あることとなります。 このことを考えるために、何度か取り上げた個所ですが、ヨハネの福音書1章1節ー3節を見てみましょう。そこには、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。 このみことばも「初めに」ということばで始まっています。この「初めに」は、先ほどの創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「初めに」に当たります。この「初め」は神さまが天地創造の御業を始められた時であり、それによって、この世界の時間が始まりました。 そして、1節で、 初めに、ことばがあった。 と言われているときの、「あった」(エーン)は未完了時制で、「過去における継続」を表しています。つまり、この世界の「初め」において「ことば」はすでに継続して存在しておられたということです。ですから、「ことば」は時間を越えた永遠の存在です。それで、1節の終わりでは、 ことばは神であった。 と言われています。 ここで特に注目したいのは、その前で、 ことばは神とともにあった。 と言われていることです。このことが大切なことであることは、2節においても、 この方は、初めに神とともにおられた。 と言われていていて、このことが繰り返されていることから分かります。 この場合の「神とともにあった」(プロス・トン・セオン)ということばは、永遠の「ことば」が神さまとの愛の交わりのうちにあったことを示しています。しかも、この「あった」は1節でも2節でも未完了時制で、「過去における継続」を表しています。そして、2節では、 この方は、初めに神とともにおられた。 わざわざ「初めに」ということばが繰り返されていて、父なる神さまと「ことば」との愛の交わりが永遠のものであることが示されています。そして、その愛は無限の愛であり、永遠の愛であり、不変の愛です。 ヨハネの手紙第一・4章16節に、 神は愛です。 と記されています。神さまの本質的な特性は愛です。神さまはその無限、永遠、不変の愛の交わりにおいて、まったく充足しておられます。 ちなみに、このことに、私たちは、「愛するもの」と「愛されるもの」と「愛そのもの」の三つと、それぞれが無限、永遠、不変であられるということに、三位一体の神さまの三つの位格の現れを見て取ることができます。そして、その御父、御子、御霊という三つの位格が愛において一つとなっているということに、三位一体の神さまの一体性の現れを見ることができます。無限、永遠、不変の栄光の父なる神さまと、無限、永遠、不変の「ことば」である御子との間に、御霊による無限、永遠、不変の愛の通わしがあり、この愛において、神さまは一つであられるということです。 ですから、この世界もなく、時間もないのであれば、何もないのかと言いますと、そうではなく、あらゆる点において無限、永遠、不変であられる神さまが、永遠に、無限の愛の交わりにあって、充足しておられます。これは、この世界もなく、時間もない状態の中に、神さまがひとり寂しく存在しておられたということではありません。もし神が一位一体であれば、神は永遠の次元においては愛する相手がなく、永遠に孤独であるということになってしまいます。 3節には、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。これによって、この世界の「すべてのもの」は父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって造られたことが示されています。ですから、神さまはご自身の必要を満たすために、この世界をお造りになったのではありません。むしろ、ご自身の無限、永遠、不変の愛から溢れ出る豊かさによってこの世界を満たすために、この世界をお造りになりました。 バビロニアの神話においては、人間は神々に奉仕するものとして造られたとされています。それは古代オリエントだけの理解ではありません。人間が神々に何らかの奉仕をして、その報いを受けるという思想は、今日においても至る所で見られます。聖書が示すところは、これとはまったく違います。 このように、神さまは、天地創造の御業において、ご自身の本質的な特性である愛を、ご自身がお造りになったこの世界に向かって現しておられます。それが創造の御業です。そして、神さまは、そのようにして現されているご自身の愛を受け止める存在をもお造りになりました。それが、神のかたちに造られた人です。人は造り主である神さまの愛を受け止めて、愛をもって応答することができるようにと、神のかたちに造られています。そして、愛をもって神さまに応答することは、何よりも、神さまを造り主として愛し、敬い、礼拝することに現れてきます。 このことを踏まえますと、サタンが神のようになろうとしていることと、神さまが人を神のかたちにお造りになったことの違いが見えてきます。 先ほどお話ししましたように、サタンが神のようになろうとしたことは、罪によって、造り主である神さまと神さまによって造られた自分との間の区別を見失ったこと、すなわち、神さまの聖さを冒してしまっていることから出ています。そして、その神のようになろうとしていることは、神さまへの対抗心を特徴としています。 私のことに引き合せて言いますと、私は複雑な事情のある家庭に生まれまして、おまけに、気が弱くて優柔不断で、ある疾患のために常にハナを垂らしているという状態でした。鼻で息ができませんので常に口をあけて息をしているという状態です。それでも勉強ができればよかったのかもしれませんが、そのようなこともありませんでした。小学生の時には継続的ないじめに遭い、小さなときから劣等感の塊のようなものでした。そのような私でも、私なりの世界がありました。そして、今でも覚えていますが、そこで秘かに自分が中心となるように考えたり、振る舞ったりしていました。自分がだめなものだと思っているのに、それで謙虚になるということはなかったのです。自分よりすぐれた人には嫉妬したり、ときには、その人がいなければいいのにと、心でその人を抹殺してしまうこともありました。それによって、自分がその人の位置に就けるかのような思いをもってしまいました。 私はそのようなものですので、ある程度ですが、サタンの罪が分かるような気がします。もちろん、優れた御使いとして造られたサタンは、はるかに大きな世界にかかわっていたはずです。そうであるがために、仲間の御使いたちにではなく、造り主である神さまご自身に対して対抗心を燃やしたり、嫉妬心を燃やしているのであると考えられます。そのために、できるだけ多くのものを自分に従えて神さまに対抗しようとしていると考えられます。そして、それに従ったのが悪霊たちでしょう。サタンの思いの根底には、神さまさえいなければ自分が神の位置に立てるのにのにというほどの嫉妬と憎しみが燃えているのだと思われます。 しかし、私たちは愛する人に対しては、そのような対抗心を燃やしません。むしろ、その人がいることが自分の喜びとなります。 ヨハネの手紙第一・3章1節には、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 と記されています。そして、4章9節、10節には、その神さまの愛について、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。神さまは、神さまに対して罪を犯し、神さまに背いて歩んでいた私たちを「神の子ども」としてくださるために、ご自身の「ひとり子」を「私たちの罪のために、なだめの供え物として」遣わしてくださいました。そして、十字架におかかりになった御子の上に、私たちの罪に対する聖なる御怒りによる刑罰を余すところなく下され、私たちの罪を完全に清算してくださいました。それは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」てくださったということでした。そのようにして、神さまは私たちを「神の子ども」としてくださいました。それは、神さまが私たちを、その愛において、お喜びくださっているということを意味しています。 ヨハネはこれに先立って3章16節で、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と述べています。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって「ご自分のいのちをお捨てに」なったことに、神さまの本質的な特性である愛が表されています。神さまの栄光の中心はこの限りない愛における栄光です。御子イエス・キリストの十字架においてこそ、神さまの栄光は最も豊かに現されているのです。 そうしますと、ヨハネが、 ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と述べていることは、私たちが「神のようになる」ことに他なりません。「兄弟のために、いのちを捨てる」ということは、罪ある私たちにとっては自然にできることではありません。私たちがそのようにすることに先だって、イエス・キリストの十字架の死によって罪をまったく贖っていただいて、「神の子ども」としていただいている必要があります。そのようにして「兄弟のために、いのちを捨てる」ということは、私たちが「神の子ども」らしくあり、「神の子ども」として生きることに他なりません。それは、神さまの愛への応答であり、神さまご自身を私たちの喜びとすることであり、兄弟姉妹たちのあることを私たちの喜びとすることです。 これに対しまして、サタンは「神のように」なろうとしていますが、ご自身に背いていた私たちをも生かすために、ご自身の御子をも遣わされた神さまの愛を映し出すことはありません。かえって、自分のためにあらゆるものを縛りつけ、搾取するという、神さまの愛とは似ても似つかぬものを現しています。これがサタンの罪が生み出しているものです。 実際にお読みいただきたいと思いますが、ヨハネの手紙第一には「悪い者」すなわちサタンのことがよく出てきます。しかも、サタンに打ち勝つということが述べられています。それは、そのことが記されている前後の文脈を見ると分かりますが、いわゆる「エクソシズム」(悪魔払い)によってサタンに打ち勝つことではありません。むしろ、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、父なる神さまの愛に満たされ、神の子どもとして互いに愛し合うことにおいて打ち勝つということです。 主の祈りの第6の祈りにおいて、私たちは、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と祈ります。それは突き詰めていきますと、私たちがそのように御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛に触れながら、神さまを愛し、互いに愛し合うことを妨げるものから、私たちを救い出してくださいという祈りです。それは、私たちが互いに愛し合うことにおいて、答えられたと言える祈りです。 |
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