主の祈りの第6の祈りでは、
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
と祈ります。これまで、この祈りの後半に出てくる「悪」についてお話ししてきました。これは「悪い者」すなわちサタンのことではなく、サタンの働きをも含めた、より広い意味での「悪」であると考えられます。
そして、これは私たちそれぞれが自らのうちに罪を宿しているために、また、この世にあるがために経験するさまざまな「悪」ばかりでなく、ともにこの場に集って造り主である神さまを礼拝している信仰の家族たちが経験しているさまざまな「悪」を含んでいます。さらに、私たちばかりでなく、この時代をともにする主の契約の民が経験しているさまざまな「悪」も含まれます。その中のある方々は、私たちの想像を絶する試練を経験しておられます。
そればかりでなく、この祈りに出てくる「悪」は、ローマ人への手紙8章22節で、
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
と言われている、「ともに産みの苦しみをして」うめいている「被造物全体」をも視野に入れていると考えられます。
このように言いますと、一つの問題が思い起こされます。それは、私たちは、
私たちを悪からお救いください。
と祈るときに、このようにさまざまな形の「悪」を思い浮かべることはできないということです。
私たちには被造物としての限界があります。それで、私たちには自分自身のことがいちばんリアルに感じられますので、
私たちを悪からお救いください。
と祈るとき、まず第一に、自分が経験している問題と、それにともなう痛みや苦しみを考えてしまうという現実があります。これは、必ずしも、私たちが自己中心的であるということを意味してはいません。もちろん、私たちは自らのうちに罪を宿しています。そのために、祈りにおいてもしばしば自己中心的になってしまいます。しかし、私たちに被造物としての限界があるということ自体は罪ではありませんし、罪の原因でもありません。
そのような私たちにとっては、この時代をともにする主の契約の民のことはそれほどリアルに感じられません。まして「被造物全体」のこととなりますと、さらにリアルには感じられません。それで、
私たちを悪からお救いください。
と祈るときに、直ちに、迫害を受けてさまざまな苦しみを味わっている聖徒たちのことや、「被造物全体」のうめきが思い出されるということはありません。
今日は、このような私たちの限界に関連して、いくつかのことをお話ししたいと思います。これは、主の祈りの第6の祈りだけにかかわることではなく、その他のすべての祈りにもかかわっています。
* * *
お話ししたいことの一つは、確かに私たちにはそのような限界がありますが、私たちは愛によってそれを越えていくということです。
たとえば、家族の一人が病気など試練の中にあって苦しんでいるときに、私たちは自分のこと以上にその家族のことを覚えて祈ります。そのことは、血肉の家族だけでなく信仰の家族についても当てはまります。信仰の家族は信仰生活をともにしているという現実性がありますので、それだけ心にかかるという一面があります。このことは否定されるべきことではなく、みことばにおいても認められています。ガラテヤ人への手紙6章10節に、
ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。
と記されている通りです。
それとともに、これにはもう一つの大切なことがあります。それは、私たちがその人のことを覚えて祈ることによって、その人のことがさらに心にかかるようになるということです。このことは、私たちが祈りの視野を広げていくうえで大切なことです。
先ほどお話ししましたように、私たちには被造物としての限界がありますので、いまだお会いしたことがない人々のことは現実的に覚えることができません。そうではあっても、今このときに厳しい迫害に会って苦しんでいる主の民がおられますし、厳しい状況の中で福音をあかししておられる聖徒たちがおられます。今日では、インターネットなどで、そのような方々のことが分かるようになってきました。もちろんさまざまな制約がありますが、なるべく具体的にその方々のことを知って、祈ることによって、その方々のことがより現実的に感じられるようになります。
もちろん、これにも限界があります。私たちは今この時代にあって迫害などさまざまな試練の中で苦しみ、痛んでおられるすべての方々を知ることはできません。また、ある方々について何らかの情報が得られたとしても、その方々の置かれた状況のすべてを知ることもできません。そうではあっても、私たちが私たちの限界の中で知りえたかぎりのことに基づいて、祈ることには意味があります。なぜなら、私たちが祈っている父なる神さまは、文字通り、「すべての聖徒」たちのことを完全に知っておられるからです。
神さまが「すべての聖徒」たちのことを完全に知っておられるのであれば、祈る必要はないのではないかという疑問が出て来るかもしれません。
しかし、それはみことばが示す考え方ではありません。主の祈りに先だって、イエス・キリストは祈りについて大切なことを教えてくださっています。マタイの福音書6章では、主の祈りは9節から記されていますが、その直前の7節、8節には、
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
と記されています。
ここでは、父なる神さまは私たちに「必要なものを知っておられる」と言われています。ですから、父なる神さまへの祈りは、人間が作った偶像に自分たちの必要を伝えることとはまったく違います。さらに、これは、ただ単に父なる神さまが情報として私たちに必要なものを知っておられるということではありません。父なる神さまは、私たちに必要なものを惜しむことなくお与えになるということをも意味しています。ですから、祈りは物惜しみしておられる神さまを説得して動かそうとするものではありません。
ここでイエス・キリストが教えておられるのは、父なる神さまは初めから私たちに必要なものをご存知であられ、それを惜しむことなく私たちにお与えになるということを信じ、神さまに信頼して祈るべきであるということです。
ヤコブの手紙1章5節ー7節には、
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
と記されています。
ここでは神さまのことが「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神」と言われています。私たちが祈る父なる神さまは「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神」なのです。
確かに、ここでは「知恵」を求めることが取り上げられていますので、神さまが「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」のは知恵であると言うことができます。しかし、神さまが神さまが「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」のは知恵に限られているのではありません。先ほどのイエス・キリストの教えに沿って言いますと、私たちに「必要なものを知っておられる」神さまは、その私たちに「必要なもの」を「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」のです。それで、イエス・キリストは、父なる神さまを信頼して祈るようにと教えておられます。
* * *
「それにしては」と、私たちは秘かに思います。私たちはしばしば自分たちが願うものがなかなか与えられないと感じているのではないでしょうか。
これについては、ヤコブの手紙4章2節後半ー3節に、
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
と記されています。
私たちは自分の願っていることがいちばんいいことだと考えています。しかし、私自身を省みて言うことですが、私はしばしば自分の都合を中心として祈ってしまいます。しかも、そのとき願っていることは、しばしば、目先のことしか見えていない自分の尺度で測って願わしいと思われるものです。ときには、それは他の人へのねたみやひがみから生まれている願いでもあります。その願っているものが得られたら、きっと人から「すごい」と思われるであろうものです。そんな私の願っている通りに物事が運んでいったなら、私はとんでもない傲慢な人間になっていることでしょう。
イエス・キリストが、父なる神さまは私たちに「必要なものを知っておられる」と言われるときの私たちに「必要なもの」とは、無限の知恵に満ちた父なる神さまのみこころのうちにある、私たちに「必要なもの」のことです。ローマ人への手紙8章28節、29節には、
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
と記されています。
無限の知恵に満ちた父なる神さまのみこころのうちにある私たちに「必要なもの」とは、最終的に私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるという、父なる神さまの永遠からのみこころに沿ったものです。ここでは、父なる神さまがそのため、つまり、最終的に私たちを「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるために、ご自身の無限の知恵と力をもって、文字通り「すべてのことを働かせて」くださると言われています。
そのような意味での、父なる神さまが知っておられる私たちに「必要なもの」の中にあって中心的なものの一つが、ヤコブの手紙1章5節ー7節で取り上げられている「知恵」です。このことを踏まえますと、そこで神さまのことが「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神」と言われているのは、神さまが「知恵」だけを「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」という意味ではないと考えられます。神さまは、ご自身が知っておられる、私たちに「必要なもの」を「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」のです。
それで、私たちは父なる神さまを信頼して、祈り求めることができます。ヨハネもヨハネの手紙第一・5章14節、15節において、
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
とあかししています。このヨハネのあかしも、神さまは、ご自身が知っておられる、私たちに「必要なもの」を「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」方であることを踏まえています。
神さまがこのような方であるので、私たちが時代をともにしている「すべての聖徒」たちのことをほんのわずかしか知りえないとしても、知りえたかぎりの「聖徒」たちのことを覚えて、とりなし祈ることには意味があると考えられるのです。
そればかりではありません。私たちが覚えることができる「聖徒」たちはごく限られた方々であるとしても、他の方々は、また、別の限られた「聖徒」たちを覚えて祈っています。そのようにして、「すべての聖徒」たちのための祈りにはネットワークのようなつながりが出来上がっています。そして、神さまは、ご自身の子どもたちのそれぞれに「必要なもの」知っておられ、それを「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」方です。神さまは私たちの祈りのネットワークのようなつながりを越えて、そのすべての祈りをお聞きくださることがおできになりますし、ひとりひとりの聖徒に必要なものを「惜しげなく、とがめることなくお与えになる」のです。その意味で、私たちがごく限られた「聖徒」たちを覚えて祈ることにも意味があります。
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これらのことを考えますと、イエス・キリストが主の祈りを示してくださるのに先だって、
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
と教えられたことの、さらなる意味が見えてきます。
父なる神さまは初めから私たちに「必要なもの」を知っておられますし、それを「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えに」なります。それで、私たちは父なる神さまを信頼して祈るように導かれています。このことは、これまでお話ししてきたことです。そればかりではありません。これに続いてイエス・キリストが示してくださった主の祈りは、まさに、父なる神さまが知っておられる、私たちに「必要なもの」を祈り求める祈りなのです。
私たちは目先の都合にしたがっていろいろなことを、しかも、際限なく求めてしまいます。そして、それこそが自分にとって最も必要なことであると感じてしまっています。しかし、無限の知恵においてすべてを見通しておられる神さまのみこころからしますと、私たちにとって最も「必要なもの」とは、神さまの御名があがめられることであり、神さまの御国が来ることであり、神さまのみこころが天におけると同じように、地でも行われるようになることなのです。特に、神さまの御名があがめられることは、私たち主の民にとって、永遠に変わることのない存在の目的です。
すでにお話ししましたが、これら三つの祈りは、基本的に、神さまご自身がなしてくださることを祈り求めるものです。そして、これらのことは神さまのみこころにかなったことですので、神さまが必ず成し遂げてくださいます。そのようなことを私たちが祈るようにと教えられていることにも意味があります。それは、父なる神さまはこれらのことを、私たち神の子どもたちの祈りにお答えくださる形で実現されることを望んでおられるということです。
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このことのさらに奥には、父なる神さまが私たちをご自身の子として扱ってくださって、私たちにご自身の「みこころの奥義」をお示しくださっているという事実があります。エペソ人への手紙1章7節ー11節に、
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行なう方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。 [新改訳第3版]
と記されているとおりです。
7節では、
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
と言われています。これは、これに先立つ5節において、
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
と記されていることばにしたがって言いますと、父なる神さまが永遠の聖定において、私たちを「ご自分の子」にしようと定められたことを実現してくださっているということに他なりません。
父なる神さまが私たちを「ご自分の子」にしてくださったことは、私たちがイエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、死と滅びの中から贖い出されたことだけで終わってはいません。神さまはさらに「この恵みを、私たちの上にあふれさせ」てくださって、
あらゆる知恵と思慮深さをもって、 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。
と言われています。
ヨハネの福音書15章15節には、
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
という、イエス・キリストのみことばが記されています。このイエス・キリストのみことばに照らして見ますと、父なる神さまがその「みこころの奥義」を知らせてくださったのは、私たちを「しもべ」として扱っておられるのではなく、「ご自分の子」として扱ってくださっているからであることが推測できます。
そうであれば、私たちは父なる神さまの愛と恵みに応えて、その「みこころの奥義」の実現を祈り求めるべきではないでしょうか。実際、これまでお話ししてきましたとおり、主の祈りは、基本的に、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求める祈りです。
エペソ人への手紙1章9節、10節では父なる神さまの「みこころの奥義」のことが、
それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
と言われています。
これは、この数週間にわたって取り上げてきました、ローマ人への手紙8章21節に、
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
と記されていることが完全に実現することに当たります。
* * *
今日、取り上げている問題は、主の祈りが基本的にこのような父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求める祈りであるとしても、私たちが実際に主の祈りを祈っているときに、私たちの限界のために、私たちの思いがこのような全被造物にかかわることにまで追いついていかないということでした。実際、私たちはこの礼拝においても、主の祈りを祈りました。そのとき私たちは、直ちに、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現にまでは思い至らなかったかもしれません。それどころが、この時代をともにしていながら、迫害を受けてさまざまに苦しんでおられる聖徒たちにも、思いが至らなかったかもしれません。
これに対しては、もう一つのことをお話ししておきたいと思います。
私たちは主の祈りそのものを祈ることができます。
主の祈りは、主イエス・キリストが教えてくださったとおりのことばで祈ることができる祈りです。それで、私たちはさまざまな機会に、また、個人的にも集いにおいても、主の祈りそのものを祈ります。
それと同時に、主の祈りは、私たちが祈るべき祈りの「お手本」でもあります。
先程も私自身のことに重ねてお話ししましたように、私たちは自分の目の前の都合に目が奪われて、何が私たちにとって本当に大切なことであるかを見失いがちな者です。その意味で、私たちは何をどのように祈ったらいいか分からない者です。そのような私たちに、イエス・キリストは主の祈りをお示しくださって、何をどう祈るべきかを教えてくださったのです。
それで私たちは、主の祈りに示されている主題に沿って、自分たちのことばで祈ることができます。その場合には、私たちが主の祈りの一つ一つの祈りを祈ったときに、とっさに思いつくことを越えて、一つ一つの祈りを意識的に拡大させて祈ることができます。そのようにして祈っていきますと、私たちは私たちと同じ時代にあって主イエス・キリストを信じているために迫害を受けて、さまざまな苦しみを味わっておられる聖徒たちのことを覚えて、とりなしの祈りを祈ることができるようになります。さらには、父なる神さまが私たちを「ご自分の子」として扱ってくださっておられるためにお示しくださった「みこころの奥義」にまで思いを広げて、その実現を祈ることができるようになります。
私たちは毎日の祈りにおいて、自分の思いに流されて終わらないで、信仰の家族たちのためのとりなしの祈りを初めとして、時代をともにしている「すべての聖徒」たちのためにとりなし、祈りたいと思います。さらには、父なる神さまの愛によって子としていただいている者として、父なる神さまの「みこころの奥義」にまで思いを広げて、その実現を祈りたいと思います。それらの祈りは主の祈りに沿った祈りであるとともに、主の祈りに集約されていく祈りでもあります。
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