(第232回)


説教日:2010年4月18日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 私たちはこの後半の祈りにおいて、

 私たちを悪からお救いください。

と祈ります。
 これまで、この祈りで取り上げられている「」について、いろいろなことをお話ししてきました。この場合の「」は広く理解されている「悪い者」すなわちサタンのことではなく、サタンの働きをも含めた、より広い意味での「」であるということをお話ししました。
 そして、私たちが、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るときの「」はただ単に、私たちが個人的にこの世で経験するさまざまな「」にとどまらないということもお話ししました。この「」は、この時代をともにしている主の契約の民のすべてを視野に入れて見たときに見えてくる「」でもあります。
 2千年にわたる教会の歩みの中で、20世紀に入ってから、造り主である神さまを神と信じ、イエス・キリストを主として告白しているために迫害を受けて殉教した方々の数は、それまでの時代の殉教者の数より多いと言われています。さらに、その数は今も増え続けています。
 エペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されています。この教えにつきましては、すでに主の祈りの223回目のお話でお話ししました。この教えはその前の10節ー17節に記されています、霊的な戦いに関する教えとのつながりで記されています。
 この教えの前半は、「御霊によって」祈るべきことを教えています。後半は、「目をさまして」いるべきことを教えています。この後半は、新改訳の訳では分かりにくいのですが、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」て祈ることによって「目をさまして」いるように、ということを意味しています。そして、前半とのつながりをしている「そのためには」ということばから分かりますように、そのこと、すなわち、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」て祈ることによって「目をさまして」いることが、前半で言われている「御霊によって」祈るために必要なことであると言われています。霊的な戦いの状況にあっては、私たちが「御霊によって」導かれて祈ることと、私たちが自分のことばかりでなく、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」て祈ることは、一つのことの裏表のような関係にあって、切り離すことができません。


 さらに、主の祈りの第6の祈りで取り上げられている「」は、神さまがよいものとしてお造りになったこの被造物世界全体とのかかわりで考えられる「」をも視野に入れて理解する必要があるということをお話ししました。
 これにつきましては、おそらく、このような理解はこの祈りに出てくる「」ということを拡大解釈しすぎているという批判があろうかと思います。しかし、この主の祈りが、御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、3日目に死者の中からよみがえってくださって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神の子どもとしていただいている私たちの祈るべき祈りであるということを考えますと、この全被造物に及ぶ意味の広さを欠くことはできないと考えられます。
 今日は、このような問題を念頭において、さらにお話を続けたいと思います。
 このこととのかかわりで、これまで、ローマ人への手紙8章19節ー23節に記されているみことばに注目してきました。そこには、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されています。
 22節には、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されており、「被造物全体」がうめかなければならない状態にあることが示されています。私たちが主の祈りの第6の祈りで、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るときの「」は、この「被造物全体」がうめかなければならない状態にあることに現れている「」をも含んでいると考えられるのです。
 ここで、

被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている

と言われているとき、それが誰とともうめくことなのかが問題となります。これにつきましてもすでに(227回のお話で)お話ししたことですが、続く23節に、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と記されていることが注目に値します。ここでは、私たち神の子どもたちがうめいていることが記されています。それで、この前の22節で、「被造物全体」が「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」と言われている中には、私たち神の子どもたちは含まれていないと考えられます。つまり、「被造物全体」が一つになってうめいているということが示されているのです。
 ただし、この「被造物全体」には、御使いたちは含まれていないと考えられます。というのは、「被造物全体」がうめいているのは「虚無に服した」からですし、「神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」る望みがあるからですが、御使いたちは罪を犯していないし、「虚無」に服してもいないからです。また、サタンをかしらとする悪霊たちも、この場合の「被造物全体」には含まれていないと考えられます。というのは、ここでは、「被造物」が「切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んで」いると言われていますが、彼らは「神の子どもたちの現われを待ち望んで」はいないからです。もちろん、サタンを初めとする悪霊たちは神さまによって造られた被造物です。
 そのようなわけで、ここで言われている「被造物全体」は神さまがお造りになった被造物のうちの「人格的な存在ではないもの」たちのことであると考えられます。より具体的には、これまで何回かにわたってお話ししてきましたことからお分かりになると思いますが、神さまが創造の御業において、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命とともにお委ねになったものたちのことです。
 ここでは、「被造物」が「切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んで」いると言われています。「被造物全体」は望みの中にあってうめいています。その意味では、「被造物全体」が一つとなって「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」ことと、私たち神の子どもたちのうめきは切り離しがたく結び合っています。「御霊の初穂をいただいている私たち」は、この「被造物全体」のうめきの中で、うめいています。また、そのようにうめきながら、「被造物全体」のうめきをより切実なものとして感じ取るのです。

 すでにお話しましたように、神さまは神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命、すなわち、神さまがお造りになったすべてのものを神さまのみこころにしたがって治める使命をお委ねになったことによって、「被造物」を神のかたちに造られた人と一体にあるものとされました。「被造物が虚無に服した」のは、神のかたちに造られた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったからです。「被造物」神のかたちに造られた人との一体にあるものとして「虚無に服した」のです。
 先ほど、御使いたちはここに言われている「被造物全体」には含まれない、ということをお話ししました。、また、御使いたちは、自らがうめきつつ「被造物全体」とうめきをともにすることもありません。それは、御使いたちには歴史と文化を造る使命が委ねられていないからです。もちろん、御使いたちは「被造物全体」がうめいていることを知っていますし、そのことを嘆いているはずです。しかし、「被造物全体」との一体において、ともにうめいているわけではありません。
 御使いたちには歴史と文化を造る使命が委ねられていないということは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも変わっていません。神さまは、人が罪を犯して堕落してしまったからということで、人から歴史と文化を造る使命を取り上げて、御使いにお委ねになるということはなさらなかったのです。ヘブル人への手紙2章5節ー8節前半に、

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
 「人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。」

と記されているとおりです。
 後ほど触れることになりますが、ここで、

 ある個所で、ある人がこうあかししています。

と言われていて引用されているのは、詩篇8篇4節ー6節です。
 今日においては、この「被造物全体」のうめきがますます身近に聞こえるものとなっています。それは造り主である神さまを信じていない人々にも感じ取られています。そのような中で、私たち神の子どもたちが「被造物全体」のうめきを聞き取ることがないとしたら、そして、そのために祈ることがないとしたら、私たちは神の子どもに与えられている大切な使命を見失ってしまっていると言うほかはありません。

 ローマ人への手紙8章19節ー22節には「被造物全体」が「切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んで」うめいていることが記されていました。それは、それに先立つ18節に、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と記されていることを受けています。
 この18節に続いて19節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

と記されています。実は、この19節には、新改訳には訳し出されていませんが、「というのは」という理由を表わす接続詞(ガル)があります。これを生かして訳しますと、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。というのは、被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるからです。

となります。[実は、18節にも「というのは」という理由を表わす接続詞(ガル)があって、その前の17節とつながっているのですが、それは今お話ししていることと直ちにつながっていませんので、おいておきます。]
 ですから、パウロは18節で、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

と述べて「将来私たちに啓示されようとしている栄光」の計り知れない価値を告白しています。そして、続く19節で、その理由について、

というのは、被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるからです。

と述べているのです。
 このつながりを見落としてしまいますと、パウロがここで教えていることの中心を見失ってしまうことになります。確かに、このつながりは意外なものです。それで、新改訳や新国際訳(NIV)などでは、「というのは」という接続詞が訳し出されていないのではないかと思われます。
 この意外なつながりは大切なことを示しています。パウロは「将来私たちに啓示されようとしている栄光」の計り知れない価値を自己中心的に、あるいは、人間中心的に考えているのではなく、それを「被造物全体」とのかかわりで考えています。ということは、人を神のかたちにお造りになって歴史と文化を造る使命をお委ねになった神さまのみこころとの関係で考えているのです。具体的には、21節で、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます

と言われていることとのかかわりで考えています。

 このことは、先ほど引用しましたヘブル人への手紙2章5節ー8節前半の中で、

 人間が何者だというので、
 これをみこころに留められるのでしょう。
 人の子が何者だというので、
 これを顧みられるのでしょう。
 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。

という、詩篇8篇4節ー6節が引用されていることとも一致しています。
 詩篇8篇4節ー6節は、創造の御業において神のかたちに造られた人の栄光のことを告白しています。そして、それは、人が神のかたちに造られたこととともに、

 万物をその足の下に従わせられました。

と言われている、歴史と文化を造る使命が委ねられていることとのかかわりで考えられています。言い換えますと、造り主である神さまが神のかたちに造られた人にお委ねになった「万物」に対する責任とのかかわりで、自分たちの栄光を考えているのです。
 そして、このヘブル人への手紙2章では、先ほど引用した部分に続く、8節後半ー10節に、

万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されています。
 ここで御子イエス・キリストのことが「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエス」と言われています。「御使いよりも、しばらくの間、低くされた」ということばは、その前に引用されている詩篇8篇4節ー6節のみことばの中にある、

 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。

というみことばを受けています。つまり、御子イエス・キリストは神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の性質を取って来てくださったということを示しています。そして、

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と言われていますように、イエス・キリストが十字架の死によって罪の贖いを成し遂げてくださり、栄光を受けてよみがえってくださったことが示されています。そして、その死はご自身のためのものではなく、私たちのためのものであったことが示されています。このことも、その前に引用されている詩篇8篇の、

 あなたは、彼を、
 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
 彼に栄光と誉れの冠を与え、
 万物をその足の下に従わせられました。

というみことばを離れて考えることはできません。イエス・キリストは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人の一人として来てくださって、その贖いの御業を通して、神のかたちとしての栄光を回復してくださっただけでなく、人としての性質においても、御使いにまさる栄光をお受けになったのです。
 ここでは、それは、私たちのためであったとあかしされています。10節に、

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

と記されているとおりです。
 「御使いよりも、しばらくの間、低いもの」の「しばらくの間」ということばは、それがずっと続くわけではないことを示しています。それが人が神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられていることに触れている詩篇8篇にあるということは、神のかたちに造られた人も、本来は、「御使いよりも・・・低いもの」であるのは「しばらくの間」であるはずであったことを意味しています。そのことから、イエス・キリストがお受けになった人としての栄光が、そして、私たちがそれにあずかっている栄光が、御使いの栄光にまさるものであることが分かります。

 ですから、みことばは、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、これに歴史と文化を造る使命、すなわち、ご自身がお造りになったすべてのものを、みこころにしたがって治める使命をお委ねになるほどの栄光をお与えになったとあかししています。最初に挙げました疑問に間接的に応じることになりますが、それに対して、「そのようなことには、興味がない。」と言って済ますことができるでしょうか。
 そればかりではありません。みことばは、神のかたちに造られた人に与えられたこのような栄光のために、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人間だけでなく、人に委ねられ、人との一体に置かれたすべての被造物が「虚無に服した」ということをあかししています。それに対して、「そのようなことには、興味がない。」と言うことができるでしょうか。
 あるいは、確かに人は罪を犯したけれども、悪いのは人を誘惑したサタンである、と言うことができるでしょうか。しかし、そのように言うことは、罪を犯した直後のアダムとエバが自らの罪を他人のせいにしたのと同じ論理です。
 すでにお話ししましたように、御使いたちには歴史と文化を造る使命が委ねられていません。ですから、被造物は御使いたちとの一体性には置かれてはいません。それで、もともとは御使いであったサタンやその下にある悪霊たちが造り主である神さまに対して罪を犯して堕落しても、他の被造物たちが「虚無」に服することはなかったのです。人がサタンの誘惑を退け、神である主に従い続けていたなら、その従順に対する報いとして、あの人となって来られたイエス・キリストが人としての性質においてお受けになった栄光、すなわち、御使いにまさる栄光を受けていたはずです。そして、主はサタンとその下にある悪霊たちだけをおさばきになっていたはずです。
 みことばは、さらに、永遠の神の御子イエス・キリストが人となって来てくださって、その十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださったばかりでなく、死者の中からよみがえってくださって、人が神さまに従いとおしていたなら受けていたであろう栄光を受けてくださり、私たちをその栄光にあずからせてくださっているとあかししています。そして、それは、ヘブル人への手紙2章5節のことばで言いますと、「神は、私たちがいま話している後の世を」すなわち、新しい天と新しい地を御使いたちにではなく、私たちに委ねてくださったと言われていることが実現することを意味していると教えています。それは、ローマ人への手紙8章21節に、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されている約束が成就し完成することを意味しています。
 永遠の神の御子イエス・キリストが貧しくなって来てくださって、十字架にかかって私たちの罪に対する刑罰を受けてくださったのには、そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったのには、このような豊かな意味があります。神さまは、それをみことばをとおして明らかにしてくださっています。それに対して、「そのようなことには、興味がない。」と言うことができるでしょうか。
 そのように言って済ますことができないとしますと、私たちは、そのような、私たちと私たちと一つに結ばれている「被造物全体」に対する神さまのみこころが、御子イエス・キリストのお働きに基づいて完全に実現することを祈り求めるほかはありません。もちろん、それは、主の祈りにおいては、

 みこころが天で行なわれるように
    地でも行なわれますように。

という祈りに現れてきます。同時に、自らの罪と罪に満ちているこの世界にあって、そのみこころの完全な実現に対する望みのうちに、うめいている神の子どもとしては、「被造物全体」のうめきに共鳴しつつ、このうめきを生み出している「」からの解放を祈り求めるほかはないのではないでしょうか。

 


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