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説教日:2010年4月11日 |
神さまが人をお造りになったときのことを記している創世記1章26節ー28節には、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 このみことばがあかししていますように、神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、人にご自身がお造りになったすべてのものをお委ねになりました。これは、神さまが神のかたちに造られた人に、ご自身がお造りになったこの世界をご自身のみこころにしたがって治める使命をお委ねになったということです。 この使命は一般に「文化命令」と呼ばれていますが、神さまがお造りになったこの世界の歴史と文化を造る使命です。神のかたちに造られた人は、造り主である神さまがお造りになった一つ一つのものに触れて、その特質を発見し、理解します。神さまの御手の作品としてのすばらしさに触れてるのです。それは、神さまがお造りになったものをとおして示されている神さまの知恵と力、愛といつくしみに触れることでもあります。それは人を造り主である神さまへの礼拝へと導くことになります。 それでは、神さまはなぜ人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったのでしょうか。それは、ご自身のためというよりは、神のかたちに造られた人のために備えてくださったことです。すでにお話したことの繰り返しになりますが、このこと、神さまが人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったのは人のためであるということを念頭において、お話を進めていきたいと思います。 人は神のかたちに造られていて、造り主である神さまを知っているものとして造られています。最初の人アダムは造られたその瞬間から、神さまに向き合い、神さまとの愛の交わりに生きることができました。それは、ちょうど、生まれてきた赤ちゃんが生まれた瞬間から、お母さんに向き合い、お母さんとの交わりを始めることにたとえられます。 創世記2章7節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されています。 これはいろいろなことを示していますが、今お話ししていることとのかかわりで言いますと、神のかたちに造られた最初の人は、他の人に出会う前に神である主と向き合い、神である主との交わりのうちに生きるようになりました。大切なことは、人が主に向く前に、主が人とともにあって、御顔を人に向けてくださっているという事実です。それで、人は造られて、何かを意識した瞬間にまず、神である主のご臨在に触れていたのです。このことは、神のかたちに造られた人が誰よりもまず造り主である神さまご自身と向き合い、造り主である神さまとの愛の交わりに生きるものであるということを示しています。つまり、神のかたちに造られた人にとって、造り主である神さまとの関係は人との関係よりも深く、根本的なものであるということを意味しています。 聖書のみことばは、神のかたちに造られた人間同士の関係で最も深いものは夫と妻の関係であると教えています。しかし、その夫と妻の関係さえも、夫と妻のそれぞれが造り主である神さまとの関係にあることを基礎、基盤にして、その上に成り立つと教えています。すべての人間関係の基盤は造り主である神さまとの関係であるというのが、神のかたちに造られた人の本来のあり方です。 そのように、神のかたちに造られた人にとって造り主である神さまとの交わりは根本的に大切なものです。そして、人は他から教えられなくても、初めから神さまを知っているものとして造られています。つまり、神のかたちであることのいちばん深いところに、神さまに向かう性質が植え付けられているのです。それで、人が神さまを求めることは、人の最も深く、根本的な性質なのです。 ただ、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、造り主である神さまを神とすることはなくなってしまいました。そうではあっても、本来、人は神さまを求めるものとして造られていますので、造り主である神さまの代わりに、自分たちが考える「神」を造ってまで、自分たちのいちばん奥深い所にある神さまに向かう性質が生み出す、神さまを求める衝動を満たそうとしています。そのようにして生み出されたものが、人の考えに基づき、人の手が作り出した「偶像」です。 魚は卵からかえっても親を探し求めるというようなことはありません。群れをなしているとしても、その中に親を探すということはありません。その意味で、魚は親というものを知りません。これは、どれが自分の親か知らないということではなく、それより深い意味で、そもそも親というものを知らないということです。これに対して、動物たちは生まれた時から親との関係で生きるようになります。その意味で、親というものを知っています。 また、人も生まれるとすぐに親との関係で生きるようになります。その意味で、人も親というものを知っています。かりに生まれたばかりの赤ちゃんが何らかのことで、親と引き離されてしまったとしても、親に代わる存在が親のように接しますと、その人を親と思って接します。それは、人は親というものを知っているものとして生まれてくるからです。 この点では、動物と人に違いはないように見えます。しかし、動物は本能的に親と接しますが、人は本能を越えて人格的に親と交流します。この点で、人は動物とは根本的に違います。そればかりではありません。動物は造り主である神さまを知りません。動物には「神の観念」がないのです。これに対して、神のかたちに造られた人は造り主である神さまを知っています。その心の深いところに「神の観念」が植え付けられているのです。それで、人は神さまとの人格的な交わりに生きるものです。 このように、造り主である神さまが神のかたちに造られた人の心の奥深くに「神の観念」を植え付けてくださったので、人の心は神さまに向き、人は教えられなくても神さまとの関係に生きるものです。 そうではあっても、この「神の観念」は神さまのすべてを示しているものではありません。ちょうど、生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんのすべてを知っているものとして生まれてくるのではないのと同じです。生まれてきた赤ちゃんは、その後、お母さんとの交わりをとおしていろいろなことを経験して、お母さんの人となりに触れていきます。それによって、お母さんがどのような人なのかを現実的にまた体験的に、すなわち、生きた形で知るようになります。 最初に造られた人、すなわち、罪を犯して堕落する前のアダムも、造られた瞬間から神である主に向き合い、主との愛の交わりのうちに生きるようになりましたが、初めから神である主のすべてを知っていたわけではありません。神さまとの交わりをとおして、神さまのことをより深く、現実的に知るようになったと考えられます。 そればかりでなく、神のかたちに造られた人は、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことをとおして、神さまのことをより広く豊かに知るようになったと考えられます。神さまがお造りになったものは、じつに多様でありつつ、すべてのものがまったき調和の中に存在しています。人はこの造られた世界のすべてのものに触れながら、それをお造りになった神さまの知恵と力がどれほどのものであるか、愛といつくしみがどれほど豊かなものであるかを、具体的、また現実的に汲み取ることができたと考えられます。人は、それによって、ますます神さまを造り主として知り、愛し、あがめるように導かれていったと考えられます。 これが、神さまが神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったのは、人のためであったということの意味するところです。 そのことは、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも、神さまがお造りになったこの世界の壮大さや、その複雑さや調和のみごとさや美しさに触れて、驚嘆し、たましいを揺さぶられる思いの中で、自分たちを越える存在の息吹を感じるという形で残っています。ただし、先ほどの言いましたように、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、それでも、造り主である神さまを神とすることはありません。繰り返し引用してきましたが、ローマ人への手紙1章20節ー23節に、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されているとおりです。 このように、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、人が造り主である神さまをより深く豊かに知るために必要なものであるのです。 ですから、神さまが人を神のかたちにお造りになったのは、人をご自身との愛にある交わりに生きるものとしてくださるためのことでした。そして、神さまが神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったのも、人をご自身との愛にある交わりに生きるものとしてくださるためのことでした。 このことを考えますと、神さまが存在においてほんの小さなものでしかない人に、ご自身がお造りになった「すべてのもの」を委ねてくださったということの意味の一端が了解されます。神さまが神のかたちに造られた人にご自身がお造りになった「すべてのもの」を委ねてくださったということは、詩篇8篇3節ー6節に、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されています。 まことに小さな存在である人にとって、この宇宙は壮大すぎます。人の手の届いたところといえば、現在でも、せいぜい、衛生である月に到達したという程度でしょう。その先の世界を見ることができますが、手は届きません。そのような人に、神さまはご自身がお造りになったこの世界の「すべてのもの」をお委ねになったということはどういうことでしょうか。 この問題は、逆に、この歴史と文化を造る使命が、基本的に、どのようなものであるかを示しています。 造られたものにとって最も大切なことは、それが神さまの御手の作品であるということです。そして、神さまがその一つ一つの存在をお喜びくださっているということです。歴史と文化を造る使命は、基本的に、このことにかかわっています。この世界のすべてのものが神さまの御手の作品であることをわきまえ、その造られたもの一つ一つのすばらしさと、その全体としての調和などに表されている神さまの知恵と力、愛といつくしみを発見しながら、造り主である神さまを最も身近なお方として知り、神さまを礼拝し、神さまにいっさいの栄光を帰することが歴史と文化を造る使命の中心にあるのです。 この意味では、人は宇宙の果てにあると言われている天体にもかかわることができます。それらを造り主である神さまの御手の作品として告白しつつ、それらをお造りになり、今も御手によって支えておられる神さまご自身を礼拝していくのです。神さまが創造の御業において、ご自身がお造りになったものをお喜びになったように、神のかたちに造られた人も、その存在に、時に驚嘆し、感動し、神さまの御手の作品としてそれを喜ぶことができます。 もちろん、これまで繰り返しお話ししてきましたように、神さまが人の身近においてくださった生き物たちに対しては、神のかたちの本質的な特性である愛やいつくしみをもって接して、そのいのちを育み育ててくださる神さまのみこころにしたがって、そのお世話をしていくことも歴史と文化を造る使命を果たすことになります。また、そのために地を耕したりすることも歴史と文化を造る使命を果たすことになります。これらのことも、神さまの御手の作品であるこの地やそこに生息するさまざまな生き物たちに触れながら、そのすべてをお造りになり、今も真実に支えてくださっている神さまの知恵と力や、愛といつくしみに触れていくことになります。 このように、神さまは、ご自身がお造りになったこの世界を神のかたちに造られた人に委ねてくださいました。それで、造られたすべてのものが神のかたちに造られた人との一体にあるものとされています。いわば、神のかたちに造られた人は神さまがお造りになったものの「かしら」として立てられているのです。先ほど引用しました詩篇8篇6節の、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばに沿って言いますと、神さまは神のかたちに造られた人を「万物」の「かしら」としてお立てになり、「万物」を人との一体にあるものとされました。 それで、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、「万物」も人との一体において、その影響を受けて、のろいの下に置かれてしまったのです。すでに繰り返し引用しましたが、罪を犯して、御前に堕落してしまった最初の人に語られた神さまのさばきの宣言を記している創世記3章17節に、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 と記されていることは、このことを映し出しています。 人の罪の結果であるのろいが、神のかたちに造られた人との一体に置かれた「万物」に及んでいることは、ローマ人への手紙8章19節ー22節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と記されていることから、汲み取ることができます。 ここでは、「被造物全体」すなわち「万物」のことが取り上げられています。そして、「被造物が虚無に服した」と言われています。それは神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったためのことです。そのことは、「虚無に服した」被造物が、 切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる と言われていることや、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と言われていることから分かります。これは、被造物が「滅びの束縛から解放され」るのは「神の子どもたち」との関わりにおいてであるという意味です。このことは、「被造物が虚無に服した」のも、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人との関わりにおいてのことであるいうことを意味しています。 これが、神さまがよいものとしてお造りになったこの世界に「悪」が生じてしまったことの経緯です。すべては、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことから始まっています。そして、これは、ご自身がお造りになったものをお喜びになった神さまのみこころを悲しませるものです。 ところが、神さまは、ご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていた私たちのために、なんと、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。 御子イエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、すべて受けてくださいました。これによって、私たちの罪をすべて、また、完全に贖ってくださり、私たちを罪の結果である死と滅びから救い出してくださいました。そればかりではありません。イエス・キリストは栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。そして、私たちをご自身の復活にもあずからせてくださって、ご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。そして、私たちを義と認めてくださり、神の子どもとしての身分を与えてくださいました。 これが、被造物が切実な思いでその出現を待ち望んでいると言われている「神の子どもたち」です。 ですから、ここでは、被造物は御子イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖っていただき、その復活にあずかって新しく生まれて、神の子どもとしていただいている私たちとの一体において「滅びの束縛から解放され」ると言われています。それは、神さまが、「虚無に服し」「滅びの束縛」の下にある「被造物全体」を、この贖いの御業に基づいて、再び回復してくださるということを意味しています。また、それによって、すべてのものが神さまの御目によしとされる状態になるということ、すべてのものを神さまがご自身の喜びとされるようになるということを意味しています。 私たちが主の祈りの第6の祈りで、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と祈るときには、このような、被造物全体の回復に関わる神さまのみことばの約束をも視野に入れて、その実現を祈り求めるものであるということを心に深く刻みたいと思います。それは、私たちばかりでなく、全被造物が最終的に「悪」から解放されるようになることです。 |
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