(第230回)


説教日:2010年3月28日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今週は2010年の受難週に当たります。今日はこのことも念頭において、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 今お話しているのは、その後半の、

 私たちを悪からお救いください。

という祈りについてです。
 先週は、この祈りが取り上げている「」の根本原因が私たち人間の罪にあるということを、創世記3章17節ー19節に記されている、

 また、アダムに仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」

というみことばに基づいてお話ししました。これは、造り主である神さまに対して罪を犯した最初の人アダムに対する、神である主のさばきのことばです。
 先週は、このさばきのことばの背景にあることをいくつかお話ししました。そのいくつかある背景のいちばん奥にあることは、神さまが人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになったこの世界のすべてのものを支配し、治める使命である「歴史と文化を造る使命」をお委ねになったということです。
 そのことは、同じ創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 繰り返しになりますが、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の中心は、人が、この世界のすべてのものが造り主である神さまの御手の作品であることをわきまえ、この造られた世界の一つ一つのものに現されている神さまの知恵と力と愛といつくしみを汲み取って、造り主である神さまを礼拝することによって、いっさいの栄光を神さまに帰することにあります。そして、そのことに基づいて、神さまがお造りになったものたちが、さらに神さまから与えられたそれぞれの特性を生かすことができるように、仕えていくことが使命として委ねられています。


 神のかたちに造られた人に、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものを支配し、治める使命が委ねられていると言っても、最終的に、すべてのものを支配し、支えておられるのは、すべてのものの造り主である神さまです。人は自分で自分のいのちを支えることはできませんし、他のものの存在を支えることはおろか、生き物たちのいのちを支えることもできません。
 この世界のすべてのものにとって、最も基本的で、それゆえに、最も大切なことは、自分たちが造り主である神さまによって造られており、今も神さまによって支えられているという事実です。その知恵と力が無限、永遠、不変であるばかりでなく、愛といつくしみが無限、永遠、不変であられる神さまによって造られ、支えられているということです。これがどうして最も大切なことであるかと言いますと、これは、私たちを含めたこの世界のすべてのものが、偶然たまたま存在するようになったものではなく、造り主である神さまの明確な意思によって存在するようになったものであるということを意味しているからです。
 黙示録4章11節には、

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

という、天上における礼拝の讃美が記されています。これは、神さまがこの世界のすべてのものをご自身のみこころにしたがってお造りになったことを告白し、神さまを讚えるものです。
 この世界のすべてのものは、あってもなくてもよかったものではなく、造り主である神さまが、あるべきものとしてお造りになったものです。また、知恵と力において無限、永遠、不変の神さまの御手の作品として、よいものであり、無限、永遠、不変の愛といつくしみの神さまがお造りになったものとして、神さまの愛といつくしみが注がれているものとして造られています。
 しかし、造られたすべてのものが、この造られたものにとって最も基本的で、最も重大なこの事実を知っているわけではありません。造られたものの中でこの事実を知っているのは、御使いと神のかたちに造られた人だけです。ですから、この物質的な世界の中でこの事実を知っているのは神のかたちに造られた人だけです。その他の存在は、それがどのような高等生物と言われる生き物であっても、この事実を知りません。
 このように、神のかたちに造られた人の栄光と尊厳性の中心は、人が造り主である神さまを知っていることにあります。自分を含めて、この世界のすべてのものが神さまによって造られたことを知っているだけでなく、造り主である神さまの愛といつくしみを受け止め、感謝をもって神さまご自身を讚えて礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰する存在であることにあります。この点に、神のかたちとしての栄光と尊厳性の中心があり、この点において、神のかたちに造られた人と他の生き物たちの本質的な区別があります。
 そして、このこと、すなわち、自分を含めて、この世界のすべてのものが神さまによって造られたことを知るとともに、造り主である神さまの愛といつくしみを受け止め、感謝をもって神さまご自身を讚えて礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することにこそ、神のかたちに造られた人にとっての真の知恵があります。自分たちも含めて、この世界のすべてのものにとって最も基本的で、最も大切なことをわきまえることは知恵にとって決定的に大切なことです。
 ところが、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、神さまが、自分を含めて、この世界のすべてのものをお造りになった方であることをわきまえることがなくなってしまいました。まして、造り主である神さまの愛といつくしみを受け止め、感謝をもって神さまご自身を讚えて礼拝し、いっさいの栄光を神さまに帰することはなくなってしまいました。ローマ人への手紙1章21節ー23節に、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されているとおりです。これは、その当時のローマの社会の現実を記していますが、今日においても変わっていません。
 繰り返しになりますが、この世界のすべてのものにとって最も基本的で、それゆえに、最も大切なことは、自分たちが造り主である神さまによって造られており、今も神さまによって支えられているという事実です。そのことをわきまえることこそが、神のかたちに造られた人にとっての知恵の本質です。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、そのわきまえをなくしてしまった人間は、自ら神のかたちの栄光と尊厳性を失ってしまったばかりでなく、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしま」うという、最も愚かなことをしているのです。なぜなら、それは、永遠の滅びに至る道を選び取ることだからです。その意味で、この愚かさが、主の祈りの第6の祈りで取り上げられている「」と深く結びついています。そしてそのような愚かな状態にあることが、神である主によって、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

とさばきを宣言されている人の現実です。

 先ほど引用しましたローマ人への手紙1章21ー23節には、罪の下にある人が、

自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されていました。ここに示されている愚かさは、造り主である神さまを神としないことにあります。
 このこととの関連で、箴言9章10節に記されている、

 主を恐れることは知恵の初め。
 聖なる方を知ることは悟りである。

というみことばの教えを理解することができます。これと同じ教えは、その言い回しが多少違うことがありますが、箴言1章7節、15章33節、詩篇111篇10節、ヨブ記28章28節などにも出てきます。
 この、

 主を恐れることは知恵の初め。

ということと、

 聖なる方を知ることは悟りである。

ということは、ヘブル詩の特徴である並行法によって、同じことを述べていると考えられます。それで、ここで言われている「知恵」と「悟り」は実質的に同じことを意味していると考えられます。ですから、ここでは、知恵の本質がどこにあるかを示しています。
 まず注目したいのは、ここに用いられている神さまの御名のことです。

 主を恐れることは知恵の初め。

と言われているときの「」は、新改訳で太字になっていますが、このことばは契約の神である主、ヤハウェを示しています。無限、永遠、不変の栄光の主であられるのですが、ご自身の契約に基づいて、無限に身を低くされて、ご自身の民の間にご臨在してくださり、神のかたちに造られた人をご自身との愛の交わりのうちに生かしてくださる契約の神である主、ヤハウェです。人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、さらに、契約において、贖い主を約束してくださり、その贖い主を信じる者たちを、信仰によって義と認めてくださり、ご自身のご臨在の御前に立たせてくださって、ご自身との愛にある交わりのうちに生かしてくださる契約の神である主、ヤハウェです。
 今日は、2010年の受難週です。私たちにとっては、この主の契約の約束は御子イエス・キリストにおいて成就しています。無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子は、無限に身を低くされて、罪の性質はありませんでしたが、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。つまり、最初に神のかたちに造られたときの状態の人の性質を取って来てくださったのです。それは、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださるためです。ご自身に罪があるなら、ご自身の罪のさばきを受けなければなりませんので、とても私たちの身代わりとなって私たちの罪へのさばきを受けることはできなくなります。
 実際に、イエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださいました。これによって、父なる神さまは私たちの罪を、私たちの過去の罪だけでなく、これから犯すであろう罪も含めて、すべて完全に贖ってくださいました。父なる神さまと御子イエス・キリストは、この贖いに基づいて、私たちの間にご臨在してくださって、私たちをご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださっています。
 最初の人アダムにある人類の堕落の直後に、神である主は、人に、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

というさばきを宣告されました。しかし私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって、神のかたちとしての栄光と尊厳性を回復していただき、造り主である神さまを神として礼拝し、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりのうちに生きるものとしていただいています。

 この父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりのうちに生きることが、私たちのいのちの本質です。イエス・キリストが、ヨハネの福音書17章3節に記されていますように、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と教えておられるとおりです。
 今お話ししている箴言9章10節のみことばとも関連してきますが、ここで、

唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること

と言われているときの「知ること」とは、ヘブル的な意味での「知ること」を意味しています。つまり、ただ単にそのことについての情報をもっているというだけではなく、親しい人格的な交わりの中で「知ること」を意味しています。その意味では、これは「愛すること」に近いものです。しかも、この「知ること」と訳されたことばは、動詞の現在時制で表されていて、これが常に継続してなされるという意味合いを伝えています。絶えることのない愛の交わりの中で、父なる神さまと御子イエス・キリストとを知るということです。ヨハネの手紙第一・1章3節には、

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

と記されています。この交わりの中で、「御父および御子イエス・キリスト」を愛し、信頼し、従うことが、私たちのいのちの本質です。

 箴言9章10節に戻りますが、このように、

 主を恐れることは知恵の初め。

と言われているときの「」は、無限に身を低くして私たちにご自身を現してくださるお方です。そのために、私たちには、神である主も自分たちとそれほど違わない存在であるかのような思いをもってしまう危険があります。以前お話ししたことがありますが、最初の女性エバが「蛇」をとおして働きかけたサタンの誘惑に会ったときに、善悪の知識の木から実を取って食べれば、神のようになるというサタンの教えを信じてしまった根本原因は、神である主も自分たちとそれほど違わない存在であるかのような思いをもってしまっていたことにあると考えられます。
 ここ箴言9章10節では、これに対応するかのように、続いて、

 聖なる方を知ることは悟りである。

と言われています。
 このみことばは、この方が「聖なる方」であられることを示しています。神さまの聖さは、神さまが、ご自身が造られたものと絶対的に区別されるお方であることを意味しています。その意味では、神さまの絶対的な超越性を示しています。
 実は、この場合の「聖なる方」ということば(ケドーシーム 形容詞カードーシュの複数形)は、一般に「尊厳の複数」とか「主権性の複数」と呼ばれる複数形で表されていて、この方の聖さがさらに強調されています。ゲセニウスの文法書(§204h)では「最も聖なる方」ということばが当てられています。神さまが、ご自身が造られたものと絶対的に区別されるお方であることことが、さらに強調されているのです。
 このように、箴言9章10節では、「」という御名と「最も聖なる方」という御名が組み合わされています。これによって、無限に身を低くされて、ご自身の契約の民の間にご臨在してくださる、契約の神である「」は、私たちとは絶対的に区別される「最も聖なる方」であられることが示されています。
 私たちは神さまの一方的な愛と恵みによって、罪を贖っていただき、御前に義と認めていただいているばかりでなく、神の子どもとしての身分を与えていただいています。それで、父なる神さまに向かって、「アバ、父」と呼びかける特権にもあずかっています。このことが、神さまは「最も聖なる方」であられ、私たちの造り主であり、私たちは神さまによって造られたものであるということを見失わせてしまうことがないように、心したいと思います。このことを心に銘記することが、

 主を恐れることは知恵の初め。

と言われているときの「」を「恐れること」に他なりません。

 この箴言9章10節のみことばには、さらに注目すべきことがあります。今お話ししましたように、

 主を恐れることは知恵の初め。

と言われているときの「」は、無限に身を低くされて、私たちの間にご臨在してくださり、私たちをご自身との愛の交わりにあずからせてくださる契約の神である主、ヤハウェです。私たちが親しくその御名を呼び求め、愛し、信頼し、従っていくことができるお方です。そして、ここでは、その「」を「恐れる」と言われています。それは、「」を主として愛し、信頼し、従っていくことに表れてきます。
 これに対して、

 聖なる方を知ることは悟りである。

と言われているときの「聖なる方」は「最も聖なる方」であられます。通常の「聖なる方」という御名が、その方は私たちとは絶対的に区別されるお方であることを示しています。ここでは、そのことがさらに強調されています。その意味で、いかなる被造物もこの方を直接的に見ることも知ることもできません。テモテへの手紙第一・6章15節後半と16節に、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されているとおりです。
 ここで注目したいのは、箴言9章10節で、その先に記されていることです。ここでは、何と、

 聖なる方を知ることは悟りである。

というように、この「最も聖なる方」を「知ること」と言われているのです。この場合の「知ること」(名詞・ダアト)も、ヘブル的な意味での人格的な交わりの中で知ることを意味しています。
 「最も聖なる方」として、いかなる被造物とも絶対的に区別され、隔絶されておられる方を、どのようにして知ることができるというのでしょうか。やはりこの場合も、この絶対的に聖なる方が、無限に身を低くして、ご自身を私たちに示してくださっておられることが予測されます。
 そして、このことは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が、無限に身を低くして、私たちと同じ人の性質を取って来てくださったことにおいて、私たちの現実となりました。そのことは、ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されています。先ほど引用しましたテモテへの手紙第一・6章15節後半と16節には、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。

と記されていました。しかし、ヨハネの福音書1章18節には、そのことを踏まえたうえで、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。私たちは「最も聖なる方」を直接的に知ることはできません。しかし、その無限の栄光を隠して、私たちの間に宿ってくださった「父のふところにおられるひとり子の神」が、神さまがどのようなお方であるかを、私たちに分かるように啓示してくださったので、私たちはこのお方を知ることができるのです。実際、ヨハネの福音書14章9節に記されていますように、イエス・キリストは、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

と教えておられます。
 神さまがどのようなお方であるかを最も豊かに啓示してくださったのは、ご自身、無限の栄光の主であられるのに、無限に身を低くして、人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださった神の御子イエス・キリストです。私たちは十字架につけられた栄光の主であられるイエス・キリストにあって、真の意味で、神さまの愛と恵みといつくしみを知ります。私たちを死と滅びの道から贖い出し、ご自身の御前において生きるものとしてくださるために、ご自身の御子をもお与えになった神さまの愛と恵みといつくしみを知ります。また、御子イエス・キリストの十字架の死という、無限の栄光の主のいのちの値をもって、私たちの罪を贖ってくださったことをとおして、いかなる罪をも完全に清算されるという神さまの義と聖さを知ります。
 ですから、箴言9章10節に記されている、

 主を恐れることは知恵の初め、
 聖なる方を知ることは悟りである。

というみことばは、御子イエス・キリストにおいて、特に、十字架につけられた御子イエス・キリストにおいて、その最も豊かで祝福に満ちた形で、私たちの現実となっています。ここ箴言9章10節では、真の知恵がどこにあるかを示していますが、コリント人への手紙第一・1章22節ー25節には、

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

と記されています。私たちにとっては「十字架につけられたキリスト」こそが、「神の力、神の知恵なのです」。また、この数節後の30節には、

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

と記されています。
 私たちは主の祈りの第6の祈りにおいて、

 私たちを悪からお救いください。

と祈ります。これは、私たちの罪がもたらす愚かさから救い出され、みことばがあかししている真の知恵の道を歩むように、導いていただくことをも意味しています。その道を歩むことは、「私たちにとって、神の知恵」となってくださったイエス・キリストの御足の跡を踏み行くことでもあります。

 


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