(第229回)


説教日:2010年3月21日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 主の祈りの最後の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りの後半においては、

 私たちを悪からお救いください。

と祈ります。くりかえしお話ししていますように、この後半の祈りにも「私たちを」ということばがあります。この祈りが取り上げている「」は、私たちそれぞれが直面している個人的な問題にかかわる悪を含んでいますが、この時代をともにしている神の子どもたちすべてにかかわる悪を指していると考えられます。
 私たちそれぞれが直面している個人的な問題にかかわる「」を考えることと、この時代をともにしている主の契約の民全体にかかわる「」を考えることは深く結び合っています。私たちそれぞれは、それぞれの置かれた状況の違いによって、それぞれが異なった問題を抱えています。そうではあっても、その奥には、個々の事情による違いを越えた共通の問題があります。私たちがこの世で経験する「」には、共通の原因があるのです。それは、人類が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまの御前に堕落してしまっているということです。この私たち自身の罪こそが、この祈りが取り上げている「」の究極的な原因です。
 注意したいことは、これは、この祈りが取り上げている「」の「究極的な」原因ということであって、直接的な原因のことではないということです。私たちそれぞれが直面しているさまざまな問題や苦しみは、それぞれが置かれた状況によって異なっています。それは、私たちそれぞれが直面しているさまざまな問題や苦しみの直接的な原因が異なっているということを意味しています。「究極的な」原因は、それらの違いの奥にある根本的な原因のことです。そして、それが私たち人間の罪にあるということです。この区別をわきまえておきませんと、苦しみが大きい人ほど罪が深いというような論理が展開されてしまいます。それはみことばが教えていることではありません。
 この点につきましては、日を改めてお話しすることにします。今日は、主の祈りが取り上げている「」の究極的な原因は私たち自身の罪であるということを、もう少し考えてみたいと思います。


 先々週のお話の中で引用しましたが、創世記3章17節ー19節には、

 また、アダムに仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」

と記されています。
 これは、神である主が、ご自身に対して罪を犯した最初の人アダムに語られたさばきのことばです。
 主は、まず、

 あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と言われました。これは2章16節、17節に、

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

と記されていることを受けています。そして、主は最初の人アダムがご自身の戒めに背いて罪を犯したことを指摘しておられます。この、

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

という戒めの意味については、すでに、詳しくお話ししました。結論的には、それは、アダムとエバに、造り主である神さまが主であられ、自分たちは主のしもべであることを思い起こさせてくださるための「恵みの手段」でした。
 今お話ししていることとの関係で注目したいことは、その少し前の8節、9節に、

神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

と記されていることです。ここでは、神である主は人のために「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」と「いのちの木」と「善悪の知識の木」を生えさせてくださったと言われていますが、それはエデンの園の「土地から」であったと言われています。9節の「神である主は、その土地から」という新改訳の訳からも分かりますが、ヘブル語でも、「その土地から」ということが、それらの木のことよりも先に記されていて強調されています。
 このことが、神である主のアダムに対するさばきのことばにおいて、

 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

と言われていることにつながっています。それで、この後には、

 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。

というように、「土地」がのろわれてしまったために、人は、

 苦しんで食を得なければならない。

ことが示されています。造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、ただ生存することだけのために労苦を味わわなければならなくなりました。

 この神である主のさばきのことばでは、人と「土地」との深い結びつきが踏まえられています。それは、主が続いて語られたことばに示されています。神である主は続いて、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

というさばきのことばを述べておられます。
 このさばきのことばは、2章7節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されていることを背景としています。
 ここでは神である主が「」を「土地のちり」で形造られたと言われていていて、「」と「土地」の深いつながりが示されています。また、ヘブル語では「」は「アーダーム」で「土地」は「アダーマー」です。この二つのことばが語源的につながっていると言うことはできませんが、ここには「アーダーム」と「アダーマー」という音声によることば遊びがあります。これによっても「」と「土地」の深いつながりが示されています。つまり、主が「」を「土地のちり」で形造られたという事実による結びつきとともに、そのことを伝えることばの表現の仕方によっても、その結びつきが示されているのです。
 3章19節に記されている、

 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。

という主のさばきのことばの「」と訳されたことばは「アダーマー」ですので「土地」のことです。また、少し後の23節には、

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

と記されていますが、この場合も「」と訳されたことばは「アダーマー」で「土地」のことです。これらのみことばも、やはり、「」と「土地」の深いつながりを示しています。

 主はそのさばきのことばの最後に、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

と宣言しておられます。これも、先ほど引用しました2章7節において、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

というように、神である主が「」を「土地のちり」で形造られたと言われていることを受けています。ここで「ちり」と訳されていることば(アーファール)は、「かわいた細かい粒子」を表しています。
 主が「かわいた細かい粒子」で人を形造られたということは、必ずしも、最初に泥人形のようなものをお造りになったというように理解しなくていいと思われます。神さまがお造りになった地にあるさまざまな成分をお用いになって人をお造りになったということであると理解することもできます。
 2章19節には、女性の創造とのかかわりで、神である主が生き物たちをお造りになったことが記されています。そこには、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

と記されています。
 ここで、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られた

と言われているときの「」と訳されたことばも「アダーマー」で「土地」のことです。ですから、人と生き物たちはともに神である主によって「土地」から形造られたことによってつながっています。そうではあっても、生き物たちの場合にはただ「土地から」形造られたと言われていますが、人の場合には「土地のちり」(直訳「土地のからちり」)で形造られたと言われています。その点では、神のかたちに造られた人と生き物たちが区別されている可能性があります。神のかたちに造られた人の方が、より精巧なものとして造られていることを示している可能性があるのです。

 もちろん、神のかたちに造られた人と生き物たちの区別は、2章7節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

と記されていますように、神である主が人と顔と顔とを合わせるように向き合ってくださって、人の「鼻にいのちの息を吹き込まれた」ことにより明確に示されています。このことから始まる、神である主との親しい愛の交わりが、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。
 生き物たちはこの世界を越える存在、すなわち、この世界と自分たちをお造りになった神さまを知りません。それで、造り主である神さまを神として愛しあがめて礼拝することはありません。
 神である主との親しい愛の交わりが、神のかたちに造られた人のいのちの本質ですから、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったときに、人は主との愛の交わりを失ってしまいました。それによって、人は死の力に捕らえられてしまいました。
 先ほど引用しました主の戒めでは、

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。

と言われていました。最初の人アダムもその妻エバも、その木から取って食べた「その時」(直訳「その日」)に死んではいないように見えます。しかし、ふたりは「その時」に神である主との愛の交わりを絶たれ、主のご臨在の御許から追放されてしまいました。その意味で、神のかたちに造られた人にとってのいのちを失ってしまいました。
 このことが、神である主がアダムに語られた、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

というさばきのことばに反映しています。
 そのようにして、罪によって神である主との愛の交わりを絶たれてしまったままの人は、その状態で生きているとしても、それはいわば、木から切り離されてしまった枝が、その後もしばらくの間は生きているように見えることにたとえられます。

 この点に関してさらに注意したいことがあります。2章7節の、

 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、

というみことばは、陶器師が陶芸品を造ることを思わせるものです。陶芸品は土くれから造られます。そうであるからと言って、陶芸品は土くれではありません。陶芸品には芸術作品としての価値があります。誰も優れた陶芸品を見て、ただの土くれだとは言いません。まして、造り主である神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人は、それが「土地のちり」から造られたからといって、土くれでも「ちり」でもありません。神のかたちに造られた人には神のかたちとしての栄光と尊厳性があります。それは、神である主の栄光のご臨在の御前に立って、主を礼拝することを中心とした、主との愛の交わりに生きるものとしての栄光と尊厳性です。

 しかし、その神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人は、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

と宣言されるものになってしまったのです。
 ですから、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

ということは、神のかたちに造られた人にとって自然なことではなく、それは人の罪に対する、神である主のさばきによって、主との愛の交わりを絶たれてしまったために生じてしまったことです。
 ということは、もし、その罪が贖われることがあるなら、その人は、

 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

というさばきの宣言が示しているいのちを失って死に服している状態からも救い出される、ということを意味しています。その意味で、神さまはこのアダムへのさばきに先だって、すでに繰り返しお話ししていますので引用はいたしませんが、3章15節に記されている「最初の福音」を示してくださっていることには重大な意味があります。
 これもすでにお話ししたことですので結論だけを言いますと、アダムもエバも、神である主が与えてくださった「最初の福音」を信じましたので、その福音のみことばに基づいて、神である主との愛の交わりを回復されていたと考えられます。それで、二人の子どもであるカインもアベルも、神である主の御許に供え物を携えてきて、主を礼拝したのです。ふたりは自分たちの両親に倣い、また、両親から教えられて、神である主を礼拝するようになったと考えられます。ただし、カインは「最初の福音」に示されている神である主の恵みを信じていなかったことが明らかになりました。
 アダムとエバたちが主との愛の交わりを回復していただいていたということは、彼らが再びエデンの園に入ったということではありません。3章24節に、

こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

と記されている、ケルビムによって神である主のご臨在が表示されている所、すなわち、エデンの園の東にあったいのちの木への道の入口の所で主を礼拝したと考えられます。ちなみに、後に建設された幕屋や神殿の入口も東にありました。
 また、幕屋や神殿の聖所は主の栄光のご臨在がそこにあることを表示するとともに、そのご臨在を守っている生き物であるケルビムを織り出した垂れ幕によって仕切られていました。これによって、罪ある人間は主の栄光のご臨在に御前に立つことはできないし、もしそのようなことがあれば、主の聖さを冒すものとして滅ぼされてしまうということを示していました。幕屋や神殿の聖所は神のかたちに造られた人が主に罪を犯して堕落した後の、主と人との関係を表示しています。もちろん、それとともに、いけにえの血によって罪が贖われるなら、再び主の栄光のご臨在の御前に立つことができることも表示して今ました。

 このように、神である主のアダムに対するさばきのことばでは、人と「土地」との結びつきが踏まえられています。それは、節の途中から途中までの引用になりますが、

 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、

という神である主のさばきのことばに表れていますように、人が「土地」を耕すことに深くかかわっています。
 ちなみに、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、

と言われているときの「顔に汗を流して」と訳された部分は、文字通りには「あなたの鼻の汗のうちに」というような言い方で、人が「土地」を耕すときに鼻から汗が滴り落ちる様を思わせます。
 この、人が「土地」を耕すことに深くかかわっているということには、もう一つの背景があります。それは、2章5節に、

地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

と言われていることです。
 ここには、より包括的にこの地を表す「」(ハー・アレツ)と野性の生き物たちが生息する「」(サーデー)と耕作地である「土地」(アダーマー)が出てきます。そして、ここでは「」(アーダーム)が「土地」(アダーマー)を耕すことが当然のこととして踏まえられています。
 このこと、すなわち、「」が「土地」を耕すことは、さらに、1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることを背景としていると考えられます。そして、「」が「土地」を耕すことは、造り主である神さまが委ねてくださいました、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を果たすことの具体的な現れであると考えられます。

地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

ということは、何気なく読みますと、それらのものの上に立って力づくで支配することを意味するように思われます。しかし、それは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に、罪の自己中心性によって縛られ、歪められてしまっている人間の理解です。本来は、造り主である神さまがお造りになったものを、神さまのみこころにしたがって生かし、より豊かなものとするために仕えていくことを意味しています。ですから、

 地を従えよ。

という使命を果たすことは、具体的には「土地」を耕すこととして実現しています。造り主である神さまが「」に与えてくださっているさまざまな可能性を開発して、そこにさらに豊かな作物が実るようにするのです。それが、自分たち人間だけでなく、

 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

というみことばとともに委ねられた生き物たちのいのちを育むことになったはずです。
 実際、2章15節には、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されています。神のかたちに造られた人は、神である主がご臨在されるエデンの園において、その「土地」を耕し、主のご臨在の御許から溢れ出る祝福によって、豊かな実りを享受することになったと考えられます。まだ人が造り主である神さまに対して罪を犯していなかった時には、「土地」はのろわれていませんでした。それで、植物はどんどん育ったと考えられます。そうであれば「土地」を耕す必要はなかったように思われます。しかし、植物には意志がありませんから、そのままではどんどん育ってしまい、いわばエデンの園であっても、ジャングル状態になってしまいます。それは植物にとってもよい状態ではありません。神のかたちに造られた人がそこを耕すことによって、それぞれの植物の特性にしたがって整理をし、よりよい状態に育つようにすることができたはずです。
 先ほど引用したみことばにありますように、後に人は生き物たちに名をつけるようになります。聖書では、また、聖書が記された古代オリエントの文化においては、名をつけることは、その名をつけられたものに対して権威を発揮することを意味しています。そのようにして、人は、

 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という造り主である神さまから委ねられた使命を果たすようになったのですが、具体的には、自らがエデンの園の「土地」を耕して得られた豊かな収穫をもって、生き物たちを養い育てたのであると考えられます。
 しかし、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人の造る歴史と文化が人の罪の自己中心性によって歪められてしまいました。

 このように、人は自らの罪によって、神のかたちとしての栄光と尊厳性を失ってしまいました。造り主である神さまを礼拝することを中心とした、神さまとの愛の交わりを失い、死の力に服してしまいました。また、人の造る歴史と文化は、人の罪の自己中心性によって歪められ、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。

という主のさばきのことばのとおり、人が死の力に捕らえられていることを表すものとなってしまいました。
 この私たち人間の罪こそが、主の祈りの第6の祈りが取り上げている「」の究極的な原因です。
 私たちがこのこと、すなわち、この祈りが取り上げている「」の究極的な原因が私たち自身の罪であることを自覚しているかいないかによって、この祈りを祈るときに、根本的に違う祈りを祈ることになってしまいます。もし私たちがこのことをわきまえることがないまま、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るとしますと、私たちは自分たちがその「」の被害者でしかないということになります。問題は私たちの外にあるのであって、私たちのうちにはないということになってしまいます。
 しかし、この祈りが取り上げている「」の究極的な原因が私たち自身の罪であることを心に銘記することによって、私たちは光を見出します。それは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪を完全に贖ってくださっているということです。
 私たちの主イエス・キリストは、ご自身が成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、そして、私たちをその贖いの恵みにあずからせてくださり、私たちを罪からきよめてくださって、私たちを「」から救い出してくださいます。それは目の前の問題が解決するということを含みますが、目の前の問題が解決するということで終わるなら、一時的な解決でしかありません。イエス・キリストは私たちを一時的に「」から救ってくださるというより、いわば、「」の根源にまでさかのぼって、そこから救い出してくださるのです。もちろん、それが完全に実現するのは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて私たちの救いを完成してくださることによっています。
 そして、その主が、この第6の祈りに先だって、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈るようにと導いてくださっておられます。
 この第5の祈りにおいて、私たちの信仰の眼は私たちの罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、私たちを復活のいのちによって生かしてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった主イエス・キリストに向けられます。私たちは、その主の贖いの恵みに包んでいただいていることを信じて、さらに、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください

と祈るのです。

 


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