(第228回)


説教日:2010年3月14日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


  主の祈りの第6の祈りであり、最後の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、この祈りの後半の、

 悪からお救いください。

という祈りについてです。この祈りで取り上げている「」は、私たちそれぞれが直面している個人的な問題としての悪も含んでいますが、それで終わるものではありません。この祈りは、文字通りには、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るものであり、これが取り上げている「」は、時代をともにしている神の子どもたち、主の契約の民すべてにかかわる悪を指していると考えられます。
 もちろん、私たちは被造物としての限界のうちにありますから、私たちには、より身近に覚えることができる方々と、そうでない方々があります。そのことは当然のこととして踏まえておかなければなりません。ですから、私たちは目に見える形でともに集って、心を合わせ、息を合わせるようにして、ともに主を礼拝している兄弟姉妹たちをより現実的に覚えて主の祈りを祈ります。
 そのように主にある歩みをともにしている兄弟姉妹たちを愛することを離れて、より広く、時代をともにしている主の民に心を注ぐことはできません。私たちは自分たちが互いに愛し合うことによって、主の民がどこにあっても互いに愛し合うものであることと、実際に、愛し合っていることを信じることができます。そのようにして、イエス・キリストにある愛の交わりがこの時代をともにする神の子どもたちの間に広がっていることを信じることができます。私たちはそのことを信じつつ、いまだまみえていない主の民に心を注いで、その方々のためにとりなし祈ることができるのです。
 福音のみことばは、父なる神さまがご自身の御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださり、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちを罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださり、御子の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださって、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださったことを伝えるものです。この福音は私たちそれぞれが信じて受け入れたものです。しかし、福音は個人的なもので終わらず、この世界に遣わされている主の民すべてにかかわっています。


 このことを考えるためにマタイの福音書28章18節ー20節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。
 ここには、栄光のキリストが一般に「大宣教命令」と呼ばれている使命を弟子たちに与えてくださったことが記されています。この「大宣教命令」という呼び方の問題や、この使命そのものについては、すでに、いろいろな機会にお話ししたことがありますが、ここでは、これまでお話ししたこととは少し違うことをお話しします。
 このイエス・キリストのみことばは、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

という言明あるいは宣言で始まっています。言うまでもなく、イエス・キリストに「いっさいの権威」をお与えになったのは父なる神さまです。そして、これに続いて、弟子たちに授けられた使命が記されています。それには「それゆえ」(ウーン)という接続詞があります。つまり、イエス・キリストは、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言明されたことに基づいて、弟子たちにこの使命を授けられたのです。
 この使命においては「あらゆる国の人々」が視野の中に入っています。もし、ここでイエス・キリストが言われる「いっさいの権威」が血肉の力に基づくこの世の権威のことであるとしますと、ここでイエス・キリストが弟子たちに委ねられた使命は、力づくで「あらゆる国の人々」を従わせるものというようなことになってしまいます。イエス・キリストの弟子たちが世界制覇をすることを正当化するための使命であるというようなことになってしまいます。実際に、主の民の歴史、教会の歴史においては、そのように誤解されたのではないかと思われるようなことも起こりました。このようなことを念頭において、お話を進めていきたいと思います。

 この記事はマタイの福音書の最後に記されていますが、同じマタイの福音書の最初の書き出しと呼応しています。1章1節には、

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

と記されています。このみことばは、マタイの福音書が「アブラハムの子孫」であるイスラエルの民に焦点を当てるとともに、特に、「ダビデの子孫」としての王の王位継承に関心を寄せていることを示しています。
 これが「アブラハムの子孫」に焦点を当てていると言いましても、イスラエルの民だけに関心を寄せているというわけではありません。というのは、ここで「アブラハムの子孫」のことが取り上げられているのは、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことに関連しているからです。また、後ほど触れますが、「ダビデの子孫」のことが取り上げられているのは、神さまがダビデに契約を与えてくださったことにかかわっているからです。神さまがアブラハムに与えてくださった契約は、創世記12章1節ー3節に、

その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」

と記されている、契約の神である主がアブラハムに与えてくださった召命のみことばに示されている祝福と約束から出発しています。この祝福と約束には、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

というみことばに示されていますように、「地上のすべての民族」がその視野に入っています。
 そして、主がアブラハムに与えてくださった契約を記している17章3節後半ー8節には、

神は彼に告げて仰せられた。
 「わたしは、この、わたしの契約を
 あなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
 あなたの名は、
 もう、アブラムと呼んではならない。
 あなたの名はアブラハムとなる。
 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

と記されています。
 この契約においても、

 わたしが、あなたを多くの国民の
 父とするからである。

と記されていますように、「多くの国民」が視野に入っています。さらに、ここでは、

 あなたから、王たちが出て来よう。

と言われていますように、アブラハムの子孫に「王たち」がいることも約束されています。これが「ダビデの子孫」につながっていきます。
 そして、主がアブラハムにお与えになった最後の祝福と約束はアブラハムがその約束の子イサクを主にささげたときに与えられました。それを記している22章17節、18節には、

わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

と記されています。
 この祝福と約束においても「地のすべての国々」が視野に入っています。しかも、ここではその「地のすべての国々」がアブラハムの子孫によって祝福を受けるようになると言われています。
 このように、神である主がアブラハムに与えてくださった契約はイスラエルの民だけでなく、地上のすべての民を視野に入れたものであり、地上のすべての民の祝福にかかわる契約でした。

          * * *
 マタイがその福音書を、

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

という見出しをもって書き始めているときの「ダビデの子孫」とはダビデ契約においてダビデに約束された永遠の王座に着座する「ダビデの子」にかかわっています。
 ダビデに契約が与えられたことを記しているサムエル記第二・7章12節ー16節には、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。

という、主の約束のことばが記されています。
 ここには主がダビデの子が着座する王国の王座をとこしえに堅く立ててくださることが約束されています。しかし、マタイの福音書1章に記されているイエス・キリストの系図は、その最後の17節に記されている、

それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

ということばをもって結ばれています。ここではこの系図が三つの部分に区分されていることが示されています。それぞれが「十四代」にそろえられるためにはいくつかの人物が省略されています。この三つの区分の真ん中の部分は「ダビデからバビロン移住まで」です。ダビデから始まるダビデ王朝の王位継承は「バビロン移住」すなわちバビロン捕囚によって途絶えることになりました。これは、ダビデに約束された永遠に確立される王座、永遠の王座は地上のイスラエルにはないことを示しています。また、ダビデの血肉の子孫はダビデに約束された永遠の王座に着座していないことが示されています。
 ダビデの血肉の子孫は、まことのダビデの子の地上的なひな型でした。それは、主がダビデに与えてくださった契約の確かさをあかしするものでした。それがただのことばで終わるのではなく、約束を実現することばであることがあかしされたのです。実際に、ダビデ王朝は紀元前1010年ー587年まで、423年ほど続きました。これは知られている王朝の中で最長のものではないかと論じられています。弱小国の王朝がそのように長く続いたことに、主の契約のことばが単なることばではなく、その約束を実現するものであることがあかしされています。しかし、それも永遠に確立された王座ではありませんでした。

 ダビデ契約にはもう一つの要素があります。それは、サムエル記第二・7章1節、2節に、

王が自分の家に住み、主が周囲の敵から守って、彼に安息を与えられたとき、王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」

と記されていることからうかがわれますが、その時に問題になっていたのは、主の神殿の建設でした。それで、先ほど引用しました主のダビデへの約束のことばでは、12節で、

わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

と言われた後、13節では、

彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

と言われています。ここでは、主がダビデの子の王国の王座をとこしえに確立してくださることと、ダビデの子が主の御名のために神殿を建設することが深く結び合っていることが示されています。
 ご存知のように、地上的なひな型としての地上の神殿を建てたのはダビデの血肉の子であるソロモンでした。そして、主は、

わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

という約束のことばの地上的な実現の形として、ソロモンの王国をイスラエルの歴史の中で最も栄えさせてくださいました。
 ソロモンが建設したのはシオンの丘の上にあるエルサレム神殿でした。その意味で、シオンは主がお住まいになるところであると言われています。詩篇9篇11節には、

 主にほめ歌を歌え、
 シオンに住まうその方に。
 国々の民にみわざを告げ知らせよ。

と記されています。また132篇13節には、

 主はシオンを選び、
 それをご自分の住みかとして望まれた。

と記されています。
 それと同時に、シオンはそこから主が治められる所でもあると言われています。詩篇99篇1節、2節には、

 主は王である。
 国々の民は恐れおののけ。
 主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。
 地よ、震えよ。
 主はシオンにおいて、大いなる方。
 主はすべての国々の民の上に高くいます。

と記されています。シオンにご臨在される主は「すべての国々の民」を治めておられる王であるのです。
 また、詩篇2篇5節ー9節には、

 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、
 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。」
 「わたしは主の定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 『あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。』」

と記されています。
 5節で、

 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、

と言われているときの「彼ら」とは、その前の2節で、

 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

と言われている、主と主が立てられたメシヤに敵対している「地の王たち」のことです。
 6節では、

 しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。

と言われていて、契約の主、ヤハウェが、「主に油をそそがれた者」を王としてシオンに立てられることが示されています。そして、9節で、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と言われていますように、その方が主に敵対する主権者たちをおさばきになることが記されています。ここには、主の祈りの第6の祈りに出てくる「」にかかわる者たちを、主が制し治めることが取り上げられています。ただし、それは血肉の力をより大きな血肉の力によって制し治めることではありません。
 また、7節に記されている、

 あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。

という主のみことばは、先ほど引用しましたサムエル記第二・7章14節の、

わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という主のみことばを反映していて、これがダビデ契約の約束にかかわっていることが示されています。そして、この詩篇2篇のみことばは、そのダビデ契約に約束されているダビデの永遠の王座が地上のすべての国々にかかわっていることを示しています。
 このことはさらに110篇に受け継がれています。その1節、2節には、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは
 わたしの右の座に着いていよ。」
 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。
 「あなたの敵の真中で治めよ。」

と記されています。
 この詩篇の表題は、

 ダビデの賛歌

となっています。また、イエス・キリストご自身が認めておられますように、1節の、

 主は、私の主に仰せられる。

というみことばは、ダビデのことばです。この最初の「」ということばは契約の神である主、ヤハウェを表しています。そして次の「私の主」ということば(アドーニー)は、この方がダビデの主であられることを示しています。しかし、この方はダビデに与えられた契約において約束されている永遠の王座に着座されるダビデの子です。ダビデはこの方を「私の主」と呼んでいます。
 2節の、

 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。

というみことばは、シオンが主の王座のある所であることを示しています。しかし、それは、契約の神である主、ヤハウェの右の座であることが示されています。それこそが、主がダビデ契約において約束してくださったダビデの子が着座する永遠の王座です。
 ですから、シオンにかかわるみことばは、主の神殿はそこに主がご臨在され、主の民がそこで主を礼拝する場であるだけでなく、そこにご臨在される主が王としてすべてのものを治めてくださることをあかししています。

 マタイの福音書28章18節に記されている、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

という栄光のキリストのみことばは、イエス・キリストがダビデ契約に約束されていたまことのダビデの子として、その永遠の王座に着座されたことを言明するものです。これはまた、アブラハム契約とのかかわりで言いますと、「地のすべての国々」が「アブラハムの子孫」によって祝福を受けるという約束を実現してくださるためのことでもあります。イエス・キリストは「地のすべての国々」が祝福を受けるようになるために、十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださいました。イエス・キリストがダビデに約束された永遠の王座に着座されたのは、ご自身が成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、「地のすべての国々」の中に散っているご自身の民を、罪とその結果である死と滅びの中から贖い出してくださり、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるためです。栄光のキリストが、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と言明されるときの「いっさいの権威」とは、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかっていのちを捨て、ご自身の民を新しいいのちに生かすために栄光を受けてよみがえられたことに基づく権威です。その支配は、ご自身が成し遂げられた贖いの御業をご自身の民に当てはめて、ご自身の民を生かしてくださるための支配です。栄光のキリストはこのような権威に基づいて、弟子たちを遣わしてくださいました。
 イエス・キリストは弟子たちに使命を授けてお遣わしになっただけではありません。最後に、

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

と約束してくださいました。
 この「見よ。」ということば(イドゥー)ということばは、ここで栄光のキリストが約束してくださっていることを強調するものです。これは特に、これに続いて強調されている「わたしは」との組み合わせによって、「見よ。わたしが」という強調になっています。栄光のキリストご自身が「世の終わりまで、いつも」ともにいてくださるというのです。
 「いつも」ということは一つのことば(パントテ・26章11節)出も表せますが、ここでは別の言い方がなされています。ここで「いつも」と訳されていることばは、文字通りには「あらゆる日々において」ということで、特にそのすべての期間にわたってそうであるということが(範囲を表す対格によって)示されています。これと「世の終わりまで」ということばの組み合わせによって、栄光のキリストご自身がともにいてくださることが常に変わることがないことが示されています。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と宣言された栄光のキリストが弟子たちとともにいてくださるのは、弟子たちが委ねられた使命を果たすために必要な力を与えてくださるためです。それは、栄光のキリストご自身が弟子たちをとおして御業をなさってくださるということでもあります。繰り返しになりますが、それもご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてのことです。
 この、

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という栄光のキリストの約束は、やはり、マタイの福音書の最初の部分と対応しています。それは、イエス・キリストの誕生の次第を記している記事の頂点に当たる1章22節、23節に記されていることです。そこには、

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と記されています。イエス・キリストは「インマヌエル」という御名の方としてお生まれになりました。そして、神さまが私たちとともにいてくださることを実現してくださるために、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という栄光のキリストの約束は、イエス・キリストにあって、

 神は私たちとともにおられる

ことが、今日に至るまで、私たちの現実となっていること、そして、それは世の終わりまで変わることがない現実であるということを意味しています。
 また、

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という栄光のキリストの約束は、今から2千年前にご自身が弟子たちに授けてくださった使命が、私たちにも受け継がれる形で委ねられていることを意味しています。それで、私たちは主イエス・キリストの戒めに従って互いに愛し合うとともに、その愛の交わりの広がりを信じて、目をすべての聖徒たちに向けます。
 すべての聖徒たちが、栄光のキリストから委ねられた使命を果たすために生きている中で、さまざまな痛みや苦しみを経験しておられます。そのことを、ともにいてくださる栄光のキリストご自身がつぶさに知ってくださって、ご自身のこととして負ってくださっています。
 これまで、マタイの福音書の最初と最後の部分が呼応していることをお話ししてきました。これがマタイの福音書の大きな枠組みですが、すでにこの主の祈りの第6の祈りの前半の祈りとの関連で、マタイの福音書ではイエス・キリストの御業を記している最初の記事において、イエス・キリストがイザヤ書52章13節ー53章12節に預言的に記されている「苦難のしもべ」であられることをお話ししました。ご自身の民の罪を追って苦しみを受け、いのちを絶たれる「苦難のしもべ」は、イザヤが幻の中で見た「高くあげられた王座」(6章1節)に着座しておられる栄光の主であられるということが示されていました。
 私たちはこの栄光の主であられるイエス・キリストから使命を授けられて遣わされています。それで、私たちは、同じように栄光のキリストからこの世界に遣わされて、さまざまな苦しみと痛みの中でその使命のうちに生きているすべての聖徒たちを心に留めて、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と祈ります。

 


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