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説教日:2010年3月7日 |
創世記1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。このみことばにあかしされていますように、この世界のすべてのものは、神さまによって造られました。神さまがご自身のみこころにしたがってこの世界のすべてのものをお造りになりましたので、この世界のすべてのものはよいものとして造られています。それが「善い」ということは、造り主である神さまのみこころにかなっているということです。 詩篇19篇1節には、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されています。また、部分的な引用になりますが、ローマ人への手紙1章20節には、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と記されています。 これらのみことばがあかししているのは、神さまがお造りになったものは、造り主である神さまの聖なる属性を映し出しているということです。神さまがお造りになったすべてのものが「善い」ものであるということは、それが神さまの属性を映し出しているからです。もちろん、すべてのものが同じように神さまの属性を映し出しているわけではありません。造り主である神さまがお与えになったそれぞれのものの特質にしたがって、あるものは他のものより豊かに神さまの属性を映し出しています。 いずれにしましても、「善」という神さまの属性をとってみても、神さまご自身が「善」そのものであられるのであって、神さまの上に「善」という概念があって、神さまを規定しているのではありません。また、造り主である神さまご自身が、造られたものの「善さ」の土台であり、源であるのです。 神さまは生きておられる人格的な方です。それで、神さまの聖なる属性はすべて人格的な特質をもっています。そして、神さまの本質的な特性は愛です。それで、「善」は神さまの属性の一つであるといっても、愛を本質的な特性とする神さまの人格を離れた「善」があるのではありません。その意味で、神さまの聖なる属性を最も豊かに映し出すのは、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人です。 少し前にお話ししたことですが、私たちは生まれてからずっと、心が神さまから離れてしまっており、神さまとは無関係に生きてきました。もちろん、私たちは神さまとまったく無関係に存在していたのではありません。実際には、神さまによって造られたものとして、神さまの御手のお支えによって生かされていたのですが、そのことを決して認めることはありませんでした。先ほど引用しましたローマ人への手紙1章20節は、18節ー21節に、 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 と記されていることの一部で、そのような私たちの生き方の現実を明らかにするものです。 そのような私たちは、神さまと関係づけることなく、物事の善し悪しを判断してきました。それで、何となく、神さまとは無関係に善いことがあるかのような受け止め方をしてしまっていました。しかし、それは人にとって本来の受け止め方ではありません。最初に造られた状態にあったアダムは神さまのみこころを離れて何かがよいという判断はしなかったはずです。神さまとは無関係に善いことがあるかのような受け止め方は、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまい、心が造り主である神さまから離れてしまったために生じてしまったものです。 いずれにしましても、この世界には造り主である神さまと無関係に「善い」ものはありえません。この世界のすべてのものは、神さまがご自身のみこころにしたがってお造りになったので、そして、それゆえに、愛を本質的な特性とする神さまの聖なる属性を映し出しているので、「善い」ものであるのです。 主の祈りにおいて取り上げられている「悪」もそうですが、どのような「悪」であっても、それが「悪い」ということは、造り主である神さまのみこころにかなっていないことを意味しています。言い換えますと、「悪」とは神さまが創造の御業によってお造りになった善いものを、腐敗させ、損なってしまうことを意味しています。そして、そのように腐敗させられ、損なわれた状態にあることが「悪い」ことです。 神さまが善いものとしてお造りになったものを腐敗させ、損なってしまうことの根本的な原因は、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して犯した罪です。 創世記1章26節ー28節には、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 ここには、造り主である神さまが人をご自身のかたちにお造りになり、ご自身がお造りになったものを治める使命、すなわち歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されています。 人は愛を本質的な特性とする神さまのかたちに造られています。それで、人は愛を本質的な特性とする人格的な存在です。人は自由な意志をもっていて、自らのあり方をその自由な意志によって選び取っています。人はその自由な意志によって神のかたちの本質的な特性である愛を現すときに真の意味で自由であることができます。つまり、人は愛を本質的な特性とする神さまの属性を映し出すことにおいて自由であることができるのです。 それでは、どこでその愛を現すかと言いますと、それが、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 と記されている、造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいてです。 生めよ。ふえよ。地を満たせ。 という神さまの祝福のことばは、単に生物学的に人の数が増えることを意味しているのではありません。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人が、造り主である神さまの本質的な特性である愛を映し出して、互いに愛し合うことによって、愛を特質とする共同体を形成していくことを意味しています。そして、 地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 ということは、自分たちの愛を神さまがお造りになったすべてのものに注いでいくことを意味しています。 これが、人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまのみこころです。そして、すでに繰り返しお話ししてきましたが、創世記1章1節ー2節3節に記されている創造の御業の記事において「よし」とされていることの中心には、この造り主である神さまのみこころがあります。 ところが、実際には、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。そのために、この世界に虚無が入り込んできました。罪を犯したアダムに対する神さまのさばきのことばを記している創世記3章17節ー19節には、 また、アダムに仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。」 と記されています。 ここには、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、死の力に捕らえられてしまったことが記されています。 また、それが自動的なことではなく、人の罪に対する神さまのさばきによることであるということも示されています。これは、大切なことです。それが人の罪に対する神さまのさばきによることであるなら、その罪が贖われることがあるなら、人はそのさばきから救われることもあるからです。そして、実際に、神さまはこの人に対するさばきの宣言に先だって、ご自身の民の罪のために贖い主を約束してくださっています。それが同じ3章の15節に、つまり、このアダムに対するさばきのことばに先だって記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という一般に「最初の福音」と呼ばれているみことばです。これが「最初の福音」と呼ばれる理由についてはすでにいろいろな機会にお話ししていますので、省略いたします。 アダムに対するさばきの宣言では、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯してしまったことの結果が、その罪を犯した人だけでなく、「土地」にも及んでいることが示されています。しかも、それは罪を犯した人と深くかかわっていることも示されています。それは、先ほど引用しました、創世記1章28節に記されている歴史と文化を造る使命によって、神のかたちに造られた人と、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものが一つに結び合わされているからです。 神のかたちに造られた人と神さまがお造りになったこの世界のすべてのものが一つに結び合わされていることは、詩篇8篇5節、6節に、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されています。 神のかたちに造られた人が、歴史と文化を造る使命を遂行する中で、造り主である神さまの本質的な特性である愛を現していくことによって、神さまの栄光が豊かに現されるようになります。それは、今お話ししていることばで言いますと、人格的な神さまの聖なる属性がより豊かにこの世界に映し出されるようになるということです。神のかたちに造られた人が造り出す歴史と文化は、本来、愛を本質的な特性とする神さまの聖なる属性がより豊かに映し出されるようになる歴史であり、文化であるのです。それは、造り主である神さまのみこころにかなったことであり、神さまがお喜びになることであるという意味において、より「善い」状態が生み出されるということです。 しかし、神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、このすべてが、造り主である神さまのみこころに反する状態になってしまいました。何よりも、神のかたちに造られた人が罪の自己中心性によって、その愛を腐敗させてしまいました。造り主である神さまを神とすることはなく、自らが考え出した、自分にとって都合の良い「神」を神として拝み頼むようになってしまいました。これによって、神のかたちに造られた人との一体のうちに置かれている全被造物が虚無に服するようになってしまいました。ローマ人への手紙8章19節ー22節に、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と記されているとおりです。 ここには、 被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている ということが示されています。この場合の「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」ということは、被造物同士がお互いに一致してうめき、産みの苦しみをしているということであると考えられます。というのは、続く23節で、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と言われていて、私たち主の民のことが区別されて述べられているからです。 このように、被造物全体が「ともにうめきともに産みの苦しみをしている」のは、「被造物が虚無に服した」ことによっています。しかし、このうめきは、「産みの苦しみ」であると言われています。新しい状態に至ることを待ち望む望みの中のうめきであり、苦しみであるのです。それは、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 というみことばが示す望みです。 この、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され というみことばにおいて「被造物自体」と訳されていることばは、「被造物」ということばに、強調の代名詞がついているもので、「被造物」が強調されています。 実際、神学の学びをしていても、自分たち主の民が、イエス・キリストの復活の栄光にあずかって、栄光あるものとされるということは取り上げられることがあっても、被造物が神の子どもたちとの結びつきにおいて栄光を受けるということは、ほとんど聞くことがありません。私はこのことを皆さんの耳にタコができるほど繰り返しお話ししてきましたので、皆さんは、このようなことが盛んに言われていると思われるかもしれません。しかし、実際には、そのようなことはありません。この「被造物自体も」という言い方は、そのような、現実を踏まえているような思いがいたします。「何と被造物も」という感じでしょうか。 いずれにしましても、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され というみことばは、被造物がいま「滅びの束縛」のうちにあることを示しています。それは、これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによっています。 本来ですと、神のかたちに造られた人が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を、神さまのみこころにしたがって遂行していたなら、この被造物世界は愛を本質的な特性とする造り主である神さまの人格的な属性をより豊かに映し出す世界となっていったはずです。それは、最初に造り出された状態よりも豊かないのちにあふれた世界になっていったということを意味しています。しかし、実際には、被造物が「滅びの束縛」のうちにあると言われています。それは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまって、その罪に対するさばきとしてののろいの下にあることを映し出しているのです。いわば、この被造物世界全体が、神のかたちに造られた人に向かって、罪の事実をあかししているのです。 しかし、それがすべてであるのではありません。ここでは、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と言われて、それが永遠に続く状態ではないことが示されています。また、20節では「被造物が虚無に服した」と言われていることも、それが神さまのお造りになった被造物の本来の姿ではないことを意味しています。 ここで、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と言われているときの、「神の子どもたちの栄光の自由」ということばをめぐっては議論が分かれています。具体的には、この場合の「栄光」が、新改訳の訳で言いますが、その前(ギリシャ語ではその後)の「神の子どもたち」に結びつくのか、その後の「自由」に結びつくのか、ということが問題となります。 新国際訳(NIV)など近年の翻訳では、この「栄光」が「自由」を修飾しているとしています。その場合には、「栄光ある自由」(NIV・glorious freedom)という意味になります。しかし、この個所全体では「栄光」そのものが強調されています。また、この部分を導入する18節に、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 と記されていることから分かりますように、その「栄光」は神の子どもたちの「栄光」のことです。それで、ここでは新改訳のように「神の子どもたちの栄光」というようにつながっていると考えられます。つまり、被造物は「神の子どもたちの栄光」にあずかって自由とされるということです。いずれにしましても、ここでは、被造物が「自由の中に入れられ」るのは、「神の子どもたち」との結びつきによっていることが示されています。 その意味で、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後に、神さまが「最初の福音」において、「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を約束してくださり、実際に、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださったことが大きな意味をもっています。 この部分は、先ほど引用しました、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 ということばで導入されています。ですから、ここでは、私たちの救いの完成のこと、私たちが栄光のキリストに似たものとなることが述べられています。しかしそれは今お話ししましたように、被造物全体が虚無に服しているとともに、望みのうちにうめいていることと深くつながっていることが示されています。そして、22節、23節では、 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されています。 このことは、パウロが造り主である神さまの全被造物にかかわるみこころを中心として、私たちの救いの完成のことを考えていることを如実に示しています。 この意味においても、私たちは主の祈りにおいて、 私たちを悪からお救いください。 と祈るときに、この「悪」を自分中心に理解して終わってはならないことを、改めて心に銘記したいと思います。その「悪」は全被造物が今に至るまでうめき続けなければならないでいることにも現れているものです。神さまのみこころにおいては、私たちがこの「悪」からまったく解放されることと、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 というみことばの約束が実現することは切り離すことができません。 |
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