(第226回)


説教日:2010年2月28日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 主の祈りの最後の祈りである第6の祈りは、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りです。この祈りの後半では、

 悪からお救いください。

と祈ります。原文のギリシャ語では、これには「私たちを」ということばがあります。それで、この祈りでは、

 私たちを悪からお救いください。

と祈ることになります。これは、主の祈りが、父なる神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかける神の子どもたちの祈りであることに沿っています。
 ですから、この祈りに出てくる「」は、ただ単に自分にとって悪いことではありません。それも含みますが、ともに心を合わせてこの祈りを祈る神の子どもたちすべてにかかわる「」を意味しています。しかも、この神の子どもたちとは、今この時に一堂に会して、ともに父なる神さまを礼拝している私たち、この地にある神の家族たちだけでなく、この時代をともにして、私たちの大祭司である御イエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝している神の子どもたちを含んでいます。それで、この祈りにおいて取り上げている「」は、このような広い意味での神の子どもたちのすべてにかかわる「」です。


 このことを逆に言いますと、イエス・キリストが、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と祈るようにと教えてくださったのは、私たちが目を覚まして、お互いのためにとりなし祈るとともに、さらに、時代をともにするすべての聖徒たちに心を注いで、とりなし祈り続けることを求めておられることを意味しています。
 イエス・キリストは、私たちにすべての聖徒のためにとりなし、祈ることを求めておられるだけではありません。イエス・キリストご自身が、私たちのためにとりなしていてくださっています。ローマ人への手紙8章33節、34節に、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されているとおりです。私たちはこのイエス・キリストを主としていますので、私たちもすべての聖徒たちのために目を覚まして、とりなし、祈るのです。
 このローマ人への手紙8章33節、34節は、修辞疑問の形で記されています。これをどのように区切るかについて意見が分かれています。ある人々は、ここには長い一つの疑問があるだけであると理解しています。しかし、結論的には、新改訳のように、二つの疑問があると理解していいと思われます。
 ここでは、私たちを罪に定めようとして訴える者がいることが踏まえられています。そして、そのような告発に対して、イエス・キリストはご自身が成し遂げられた罪の贖いの御業に基づいて、私たちのためにとりなしてくださると言われています。
 今日は、少し脇道に逸れてしまう感じになりますが、この、私たちを罪に定めようとして告発する者にかかわることをお話ししたいと思います。

 ここで、

 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。

と言われているときの「だれですか」(ティス)も

 罪に定めようとするのはだれですか。

と言われているときの「だれですか」(ティス)も単数です。これは一つの存在すなわちサタンを指しているというのではなく、集合名詞的に、より一般的な意味で告発する者を指していると考えられます。
 もちろん、私たちを告発する者の筆頭に挙げられるのはサタンです。黙示録12章9節、10節には、

こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

と記されています。ここでは、サタンのことが「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。
 もし、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るときの「」が「悪い者」を意味しているとしましたら、この祈りは、この「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」からの救いのを祈り求めることになります。私たちはこの「」をより広い意味に理解してきましたが、それにはサタンの働きも含まれています。
 その他、私たちを告発するのは、人である場合もあります。ルカの福音書6章37節には、

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

というイエス・キリストの教えが記されています。この教えについては、今月の月報『はこぶね』においても取り上げていただいています。
 この、

 さばいてはいけません。

という戒めが問題としているのは、兄弟あるいは姉妹のあら探しをして、何らかの罪や欠点を見つけると、それをもって兄弟あるいは姉妹を見下したり、さげすんだりすることです。あるいは、それによって自分がその兄弟あるいは姉妹より優れたものであるかのように錯覚することです。さらに悪いことは、それをうわさ話のようにして他人に言いふらして、その兄弟あるいは姉妹の神の子どもとしての名誉を傷つけ、神のかたちとしての尊厳性を傷つけることです。これは「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」に倣うことです。
 このようなことは、神さまを礼拝することと相容れないことです。ヤコブの手紙3章9節、10節には、

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

と記されています。

 私たちは終わりの日のことを見据えて生きています。そのような神の子どもたちの生き方のことを記しているペテロの手紙第一・4章7節、8節には、

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

と記されています。私たちが本当に愛し合っているなら、その愛は兄弟あるいは姉妹の罪を覆うことに現れてきます。これは、消極的には、ガラテヤ人への手紙5章15節に、

もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

と記されているような事態になることを避けることを意味しています。より積極的には、自分が赦せばすむことを赦すことに現れてきます。
 もちろん、自分が赦せばすむというものではない罪もあります。それは、マタイの福音書18章15節ー17節に記されているイエス・キリストの教えに示されている罪です。そこには、

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

と記されています。ここで取り上げられているのは、15節で、

 もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

と言われており、18節で、

それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

と記されているように、その罪を悔い改めないなら、その人が滅びに至ってしまうような罪のことを問題としています。その場合には、その人を愛して、その人が父なる神さまに対して罪を悔い改めて、主イエス・キリストの贖いの御業を信じて父なる神さまの御許に立ち返ることを求める必要があるのです。
 その場合でも、まずは「ふたりだけのところで」始めるようにと言われています。それは、罪を犯している兄弟あるいは姉妹の神の子どもとしての名誉を守るためです。
 このイエス・キリストの教えが罪を犯している兄弟あるいは姉妹の回復を目的としていることは、この教えのすぐ前の、12節ー14節に、

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

と記されていることから分かります。ですから、

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。

というイエス・キリストの教えにしたがって兄弟あるいは姉妹のところに行く人は、「迷った一匹を捜しに出かけ」る羊飼いにたとえられるのです。これに対して、そのような羊飼いはイエス・キリストご自身であると言われるかもしれません。確かに、イエス・キリストはそのような方です。その場合でも、その人はこのイエス・キリストの教えに表れているみこころを行うためにイエス・キリストから遣わされているのです。
 これは、兄弟あるいは姉妹を愛することであって、兄弟あるいは姉妹をさばくこと、罪に定めて告発することとはまったく違います。

 先ほどのペテロの手紙第一・4章7節、8節に記されている教えで注目したいのは、8節で、

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

と言われていることに先だって、

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

と言われている、ということです。ここで「心を整えなさい」と訳されていることば(ソーフロネオー)は正常な精神状態にあることを表しています。そして、「身を慎みなさい」と訳されていることば(ネーフォー)は酒に酔ったような状態にならないで正気でいることや自己自制をすることを表しています。この二つのことばは同義語で、ほぼ同じようなことを表しています。それで、これは「二詞一意」に当たるもので、同義語を重ねて正常な精神状態でいることを強調していると考えられます。このことが強調されているのには理由があります。

 万物の終わりが近づきました。

という状況になったときに、そして、それを思わせるような出来事が起こったときに、人の心は揺らされます。不安に駆られて何も手に付かなくなるかもしれません。あるいは、その不安を払拭しようとして、何かに憑かれたようになってしまったり、熱狂的になることもしばしばです。そのようなときに、神の子どもたちはいたずらに動揺しないで、正常な精神状態でいることが大切なのです。
 それは、神の子どもとしての正常な精神状態でいることで、すべてのことを福音のみことばの光の下で理解し受け止めることを意味しています。そうしますと、終わりの日が近づいてきていることは、神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださっている救済の御業に関するご計画が着実に成し遂げられていること、そしてその完成の日がやって来ていることが理解できます。わけも分からないことが起こっているのではないのです。すべては、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みのご計画のうちにあります。

 また、ここでは、ただ正常な精神状態にあるようにと戒められているだけではありません。それには目的があることが示されています。それが、

 祈りのために

ということです。わけが分からないことが起こっているために気が動転して不安に駆られ、いたずらに動き回ったり、逆に、熱狂的になったりしないで、福音のみことばに示されている約束を信じて、また、約束してくださった方を信じて、祈ることがこの戒めの目的となっています。これは、そのような終末的な状況において、

 天にいます私たちの父よ。
 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように
    地でも行なわれますように。

と祈ることに他なりません。
 そして、それに続いて、

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

と戒められています。この、

 互いに熱心に愛し合いなさい。

という部分は、直訳調で訳せば、

 互いに対する熱心な愛をもちつつ

となります。これは現在分詞で表されていますが、分詞が命令を表すことがありますので、命令として訳されています。これを独立した命令法によってではなく分詞で表しているのは、これがその前の7節で、

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

と言われていることにつながっていることを示すためであると考えられます。
 終わりの日を思わせるさまざまな出来事が起こったときに、動揺し、不安に駆られてしまうあまり、兄弟姉妹たちへの愛や思いやりを失ってしまうことがありえます。なんらかのことで危機的な状況になったときに、そのようなことがありえます。実際に、先の戦争中に子供時代を過ごしたある牧師の方がその著書の中で記していたことを思い起こします。その方のお父さんも牧師でしたが、信仰のために投獄されてしまったそうです。あるときに、お母さんから頼まれて、食べ物を分けていただくために、教会の役員で農家をしていた方の家に行ったそうです。しかし、そのような(投獄された者の)家に分けてあげる食べ物はないと追い返されたそうです。
 終わりの日に関するイエス・キリストの教えを記しているマタイの福音書24章10節ー12節には、

また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

と記されています。そうであるからこそ、みことばの上に立って、主の救いの御業の完成の日を待ち望みつつ祈ることが大切なのです。そのことは、「互いに対する熱心な愛をもち」続けることの中で現実になります。このように、福音のみことばの上に立って「互いに熱心に愛し合」うことなしに、

 天にいます私たちの父よ。
 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように
    地でも行なわれますように。

と祈ることは、空しいことです。「互いに熱心に愛し合」うことは、私たちに対する主のみこころの中心にあります。その愛がないところで、御名があがめられることはありませんし、みこころが行われていると言うことはできません。
 以上は、人が兄弟あるいは姉妹を告発することです。

 ローマ人への手紙8章33節、34節に記されている、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

という教えに戻りますが、この教えでは、さまざまな告発があることがあることが踏まえられています。その中にもう一つ、私たち自身のうちから沸き上がってくる自らに対する「告発」の思いも含まれるでしょう。
 そのような告発については、ヨハネの手紙第一・3章20節に記されています。18節ー20節を見てみますと、そこには、

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

と記されています。20節で、

 たとい自分の心が責めてもです。

と言われているときの「たとい」と訳されていることば(ホティ・エアン)をどのように理解するかについては意見が分かれるところです。新改訳のように「たとい」として、

たとい自分の心が責めても、(神の御前に心を安らかにされるのです。)

理解する以外に、「・・・するときはいつも」という意味に取って、

私たちの心が責めるときはいつでも、(神の御前に心を安らかにされるのです。)

と理解する人々もいます。また、これを「何事であっても」(ホ・エアンと同じと取って)を意味するとして、

私たちの心がどのようなことについて責めても、(神の御前に心を安らかにされるのです。)

と理解する人々もいます。、
 いずれにしましても、ここでは私たちの心が私たちを責めることが取り上げられています。そして、私たちの心が私たちを責めるときにも、

 神の御前に心を安らかにされるのです。

と言われています。ここで「安らかにされる」と訳されたことば(ペイソー)は受動態ではありません。直訳調に訳しますと、

 神の御前に私たちは私たちの心を安らかにします。

となります。このことば(ペイソー)は基本的に「説得する」ことを意味しています。それで、この場合も、説得して安心させるという感じになります。
 そして、そのように心を安らかにする理由が、

なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

と記されています。これについても理解の仕方がわかれていましたが、最近は一つにまとまっているようです。ここでは、基本的に、神さまの私たちに対する愛の大きさが示されていると考えられます。私たちの心は私たちを責めます。なぜなら、私たちは自らのうちに罪の性質を宿していて、実際に罪を犯すからです。けれども、「何もかもご存じ」の神さまは、そのような私たちのうちなる罪も、それにともなう苦しみと悲しみもすべてご存知でいてくださいます。そればかりでなく、私たちとしては自分自身の罪を告発せざるを得ないのですが、神さまはそのような私たちを愛してくださり、その罪をすべてまた完全に贖ってあまりある贖いを備えてくださっているのです。それが、

なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

というみことばの意味するところです。
 このみことばはその前の部分と切り離すことができません。18節から見ますと、

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。

と記されています。私たちが「自分が真理に属するものであることを知る」のは、私たちが「行ないと真実をもって」愛し合うことの中においてです。それは、私たちが善い行いをしたから確信が持てるということではありません。そうではなく、私たちが互いに愛し合うことは、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストの愛によって生かされていることの現れであるからです。
 そのことは、この18節以下の教えに先だつ16節、17節に記されている教えからもわかります。そこには、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

と記されています。この教えは、イエス・キリストによって示された神さまの愛が私たちの内にとどまっているなら、私たちは「行ないと真実をもって」愛し合うようになるということを、当然のこととして踏まえています。

 私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包んでいただいて初めて、祈ることができます。私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包んでいただいていることは、私たちが互いに愛し合うことに現れてきます。ですから、私たちは互いに愛し合うことの中で初めて、主の祈りを初めとするイエス・キリストの御名による祈りを真の意味で祈ることができます。
 そして、そのように互いに愛し合うことの中で、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と祈るとき、この祈りは、必然的に、兄弟姉妹たちのためのとりなしの祈りとなっていきます。
 同時に、私たちは主の祈りの精神に沿って兄弟姉妹たちのためにとりなし祈ることによって、兄弟姉妹たちへの愛を表すことになります。ここには、互いに愛し合うことの中で互いのためにとりなし祈ることによって、お互いへの愛がより豊かになっていくという、ある種の循環があります。これは、先ほど触れましたガラテヤ人への手紙5章15節に記されていました「互いにかみ合ったり、食い合ったり」することによってお互いを破滅させてしまうに至るという悪循環と正反対のものです。
 私たちは、さらに、同じ時代に生きていながら、いまだまみえていない聖徒たちのために、目を覚まして、とりなし祈ることにおいて、私たちの愛を広げていくことになります。

 


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