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説教日:2010年2月21日 |
神さまは、ご自身のみこころにしたがって、この世界のすべてのものをお造りになりました。それで、神さまがお造りになったものは、神さまのみこころにかなっているという意味で、すべてよいものです。 その神さまのみこころには、創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事に記されていることですが、中心があります。それは、人をご自身のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に住まい、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださることです。神さまはこのことを実現してくださるために、創造の御業において、この地にご臨在され、地をご自身のご臨在の場として聖別されました。そして、ご自身のご臨在の場であるこの地を「人の住みか」として形造られました。神さまがお造りになったものは、このような神さまのみこころに沿ったものであり、その意味でよいものでした。それで、神さまはご自身がお造りになったこの世界をお喜びになり、特に、神のかたちに造られた人の存在をお喜びになられました。 私たちにとっての「善いこと」は、この創造の御業における神さまのみこころから出ていますし、このみこころに基づいています。このみこころを離れて、あるいは、このみこころと無関係に、何かが「善い」ということはありません。 このように、この世界はただわけもなく、意味もなく存在しているのではありません。無限、永遠、不変の愛を本質的な特性とする神さまがこの世界のすべてをお造りになりました。それで、この世界は造り主である神さまの愛といつくしみを映し出している善い世界です。造り主である神さまの愛といつくしみにあふれている善い世界です。そして、そのようにして現されている造り主である神さまの愛といつくしみを受け止める存在が、神のかたちに造られた人です。神のかたちに造られた人にとって「善いこと」とは、この造り主である神さまの愛といつくしみの現れに他なりません。そして、神のかたちに造られた人にとって「善いわざ」とは、この神さまの愛といつくしみを受け止めて、愛をもって神さまと隣人に応答することにあります。 それで、造り主である神さまがご自身のかたちにお造りになった人の心に記してくださった律法は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という第一の戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という第二の戒めに集約され、まとめられます。 私たちが主の祈りの第6の祈りで、 私たちを悪からお救いください。 と祈るときの「悪」は、このような愛といつくしみに満ちた神さまのみこころに反することを意味しています。突き詰めていきますと、人をご自身のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に住まい、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださった神さまのみこころに反することです。神さまとの愛の交わりを損ない、神さまの愛といつくしみを見失わせ、ひいては、神さまご自身を見失わせるもののことです。そのようなものとは、私たちの罪に他なりません。 先週は、創世記3章に記されている記事に基づいて、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった経緯についてお話ししました。 天地創造の御業において、神さまはこの地をご自身のご臨在の場として聖別されましたが、特別な意味において、エデンの園にご臨在され、そこに、神のかたちに造られた人を置いてくださいました。そこで、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださいました。創世記2章8節、9節には、 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。 と記されています。 契約の神である主がエデンの園に生えさせてくださった「いのちの木」は、神である主が神のかたちに造られた人のために備えてくださった見えない神さまのご臨在がそこにあることを表示するとともに、でした。それにあずかる人に主との愛にあるいのちの交わりを表示し、保証していました。ある方々は、最初の人アダムはいのちの木から取って食べなかったと考えておられます。しかし、私は最初の人はいのちの木から取って食べて、目に見えない神である主とのいのちの交わりの現実性に触れていたと考えています。このことについては、いくつかの問題を取り上げなければなりませんが、今は触れる余裕がありません。 また、先週お話ししましたように、「善悪の知識の木」も神である主が人のために備えてくださった恵みの手段でした。その木から取って食べてはならないという主の戒めは、神さまが契約の主であられ、人は神さまのしもべであることを、覚えさせてくださるために与えられたものです。 その木から取って食べないことによって、何かが生み出されることはありません。それによって、誰かが益を受けることもありません。ですから、人がその木から取って食べない理由はただ一つしかありません。それは、その木から取って食べないことが主である神さまの戒めであり、人は神さまのしもべであるということです。人は神さまを主として愛し敬うので、その戒めに従い、その木から取って食べないのです。このようにして、善悪の知識の木から取って食べてはならないという戒めは、神さまが主であられ、自分が主のしもべであることを現実的な形で思い起こさせてくださるものです。 このように、この善悪の知識の木に関する戒めは、神である主の戒めの核心にあることを現実的に示しています。その意味で、この善悪の知識の木に関する戒めは、神さまが神のかたちに造られた人の心に記してくださった神さまの律法の核心にあることを示しています。神のかたちに造られた人は造り主である神さまを主として愛し敬うことを根本的な動機とし目的として生きるものであるということです。そして、そのこと、すなわち、契約の神である主との愛にある交わりに、神のかたちに造られた人のいのちの本質があります。 そればかりではなく、「善悪の知識の木」という名が表わしている「善悪を知ること」は「神のようになること」を意味していると考えられます。しかも、それは人がその木から取って食べることによって「神のようになる」ということではありません。善悪の知識の木も木でしかなく、それには、人を「神のように」する力はありません。その木に関する戒めを守ることによって、つまり、神さまを主として愛し敬うことによって、神さまのみこころに従いとおすことによって、そのことへの報いとして、神さまがより豊かな栄光に満ちたいのちである永遠のいのちを与えてくださるのです。 誤解があってはいけませんのでお話ししますが。これは、善悪の知識の木から取って食べさえしなければいいという意味ではありません。先ほどお話ししましたように、善悪の知識の木に関する戒めは、主の戒めの核心にあること、すなわち、人は神さを主として愛し敬うので、神さまの戒めに従うものであるということを現実的に示しています。神さまのみこころに従いとおすということは、神のかたちに造られた人の心にしるされている「愛の律法」に示されている主の戒めに従いとおすということです。 このことを考えますと、いのちの木と善悪の知識の木はともに、神さまとの愛にあるいのちの交わりを別の面から表示し、保証する恵みの手段でした。いのちの木は、見えない神さまとの交わりがそこで現実となっていることを見える形で表示していました。そして、善悪の知識の木は、その交わりがそのままの形で続くのではなく、人はより栄光ある形での神さまとの愛にある交わりの中に入るようになるべきものであることを表示していたのです。 黙示録22章に記されている新しい天と新しい地に関する記述では、いのちの木が出てきます。しかも、一本ではなく多くの木として出てきます。これは神さまとの愛にあるいのちの交わりがより栄光に満ちた豊かなものとなっていることを表わしています。それは、善悪の知識の木が約束として表わしていたことが実現していることを意味しています。新しい天と新しい地では善悪の知識の木が約束として示していることが実現していますので、その描写には善悪の知識の木は出てきません。 神さまが恵みの手段としていのちの木と善悪の知識の木を備えてくださったこともまた、人をご自身のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に住まい、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださった神さまのみこころに沿ったことでした。 そればかりか、このことは、エペソ人への手紙1章4節、5節に、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されている、永遠の聖定における神さまのみこころに沿っています。「善悪の知識の木」という名が示している「神のようになる」ということは、神さまが私たちを「ご自分の子にしようと」定められたことに符合しています。 先週お話ししたことの復習になりますが、最初の女性であるエバはこの善悪の知識の木に関する神さまの戒めの意味を誤解していました。そのことは、彼女のうちにあったのですが、現れてはいませんでした。それが、彼女が「蛇」の背後にあって働いていたサタンの誘惑にあったときに明らかになりました。創世記3章2節、3節には、「蛇」の問いかけに対する、 私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と仰せになりました。 というエバの答えが記されています。この答えはエバの理解を映し出しています。 あなたがたが死ぬといけないからだ。 ということばは、エバが善悪の知識の木そのものに人に働きかけて人を殺す力があるので、神さまはその木から取って食べてはいけないと戒めてくださったと考えていたことを示しています。また、 それに触れてもいけない。 ということばには、「そんな危険な木には触れないでおこう」というエバの思いが投影されています。 神さまが恵みの手段を備えてくださったのは、人にその必要があったからです。ですから、人には、いつも善悪の知識の木のところに行って、神さまが主であられ、自分はそのしもべであることを、絶えず思い起こす必要がありました。そして、主を神として愛し敬い、その戒めに従う歩みを整える必要がありました。しかし、 それに触れてもいけない。 というエバのことばは、彼女がそのことから遠ざかっていたのではないかということを思わせます。エバは善悪の知識の木を危険な木として、それから遠ざかっていたということです。 そのことは、また、エバのことばにも反映していると思われます。エバは善悪の知識の木のことを「この木」と言わないで「園の中央にある木」と言っています。ですから、「蛇」は善悪の知識の木を前にしてエバを誘惑したのではありません。創世記の記事がこのことを伝えていることには、象徴的な意味があるのではないかと思わされます。 6節には、 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。 と記されています。それで、彼女は善悪の知識の木のところで誘惑を受けたような気がするのですが、そういうことではありません。6節に記されているのは、エバが誘惑を受けた場所から園の中央に行って、改めて見てみると、 その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましい と見えたということです。そのように行動を起こしたエバは、すでに、4節、5節に記されている、 あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。 というサタンのことばを受け入れてしまっています。神さまは人に「神のように」なってほしくないので、善悪の知識の木から取って食べてはならないと戒められたのだという、まったくの偽りが吹き込まれてしまっています。神さまは人に意地悪をしているということです。これによって、彼女は神さまの愛を見失い、神さまが主であられることを忘れてしまっています。 そのようにして、エバは主の戒めにそむいて罪を犯してしまいました。 先ほど引用したのは6節の前半ですが、後半には、 それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 と記されています。アダムが誘惑されたときにはもう「蛇」は退いてしまっています。サタンからすれば「蛇」は用済みとなりました。そして、エバがその役割を負っています。彼女が罪によってサタンと一つになってしまっていたことの現れです。 「最初の福音」と呼ばれる15節には、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という「蛇」の背後にあるサタンへのさばきのことばが記されています。罪によってサタンと一つになってしまっているエバは自分の力でその結びつきを断ち切ることはできません。主が、彼女とサタンの間に「敵意」を置いてくださって、その結びつきを断ち切ってくださるというのです。このことは契約の神である主の贖いの御業によって実現しています。 このようにして、神のかたちに造られた人は造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それは、人が神さまに背を向け、神さまの愛を見失い、神さまご自身を見失ってしまったことを意味しています。罪を犯した人が神さまに背を向けてしまっただけではありません。人はその罪に対するさばきを受けて、神さまとの愛の交わりを断ち切られ、神のかたちに造られた人としてのいのちを失ってしました。 契約の神である主に対して罪を犯したアダムに対する主のさばきのことばを記している17節ー19節には、 また、アダムに仰せられた。 「あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。」 と記されています。 ここには、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことの結果が、その罪を犯した人だけでなく、「土地」にも及んでいることが示されています。このことは、すでにいろいろな機会にお話ししていますが、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったこととかかわっています。神さまが神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことは、1章27節、28節に、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。 という神さまの祝福のことばは、神さまが地を神のかたちに造られた人にお委ねになる形で、人と一つに結び合わされたことを示しています。 先ほどお話ししましたように、神さまは創造の御業においてこの地にご臨在され、地をご自身のご臨在の場として聖別されました。そして、ご自身のご臨在の場であるこの地を「人の住みか」として形造られました。それは、人をご自身のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に住まい、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるという、神さまのみこころの中心にあることを実現してくださるためでした。 そのように、神さまのご臨在の場として聖別され、「人の住みか」として形造られたこの地には、造り主である神さまの愛といつくしみにあふれています。神さまはこの地を光によって照らしてくださいました。この地は明るく暖かい世界です。ここには、神さまが芽生えさせられた植物が生い育ち、人や生き物たちのいのちを育んでいます。そのようにして現されている造り主である神さまの愛といつくしみを受け止める存在が、神のかたちに造られた人です。それで、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、そのようにして現されている造り主である神さまの愛といつくしみを受け止める使命です。そして、愛をもって神さまを礼拝することによって応答することを中心とした使命です。 先ほど、神のかたちに造られた人にとって「善いわざ」とはこの地に現れている神さまの愛といつくしみを受け止めて、愛をもって神さまと隣人に応答することにあるということをお話ししました。その意味で、「善いわざ」とは歴史と文化を造る使命を果たす中でなされることです。 このように、この地は神さまがご臨在される場として聖別され、実際に神さまがご臨在しておられたので、神さまの愛といつくしみのしるしがあふれていました。そして、神さまがこの地にご臨在される目的は、神のかたちに造られた人がご自身との愛の交わりに生きるようになることにありました。この地は、神のかたちに造られた人が神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることを支えるために、神さまの愛といつくしみのしるしに満ちあふれていたのです。その神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったのです。それで、神である主は、ご自身に罪を犯して御前に堕落してしまった人に対するさばきの宣言において、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 と宣言されました。神のかたちに造られた人が神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることを支えるために、神さまの愛といつくしみのしるしに満ちあふれていた地に、人の罪ののろいが及んだのです。 さらに、人が神である主のご臨在の御許から退けられてしまったために、主のご臨在の御許から溢れ出る豊かさをも失ってしまいました。それで、そのような生涯のことが、 あなたは、一生、 苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、 いばらとあざみを生えさせ、 あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、 ついに、あなたは土に帰る。 あなたはそこから取られたのだから。 あなたはちりだから、 ちりに帰らなければならない。 と宣言されています。 これが罪から来る報酬として人が受け取った死の現実です。人の罪は、神さまが人をご自身のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に住まい、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださったみこころをまったく無にするものです。 このように、神のかたちに造られた人が犯した罪は、創造の御業において現された神さまのみこころを無にしてしまいました。その意味で、これは「悪」であるのです。主の祈りの第6の祈りで、 私たちを悪からお救いください。 と祈るときの「悪」には、この意味での「悪」も含まれています。 私たちは御子イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いにあずかって、罪を赦され、死と滅びから救い出されています。そして、イエス・キリストがその十字架の死に至るまでの完全な従順に対する報いとして栄光を受けてよみがえってくださったことにもあずかっています。それで、私たちはイエス・キリストと一つに結び合わされて、その復活のいのちによって生かされています。そして、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、神の子どもの身分を与えられて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。 それで、私たちはこの時も、神さまのご臨在の御許に近づいて、聖なる恐れと愛をもって神さまを礼拝しています。それによって、神さまに喜びをおささげし、神の子どもの幸いを噛みしめます。 しかし、それと同時に、私たちのうちにはなおも罪の性質が残っていますし、私たちのからだはなおも朽ちてゆくものです。そのために、私たちはうめいています。そればかりでなく、私たちを取り巻くこの世は、自らの罪を認めず、造り主である神さまに背を向けて滅びへの道を突き進んでいます。そのようにして、造り主である神さまのみこころを痛め続けています。私たちはその現実の中で、うめきを深くします。自分のことだけでうめくのではありません。この世の現実が造り主である神さまのみこころを踏みにじり、神さまを悲しませているということの現実に痛みつつうめくのです。 そうではあっても、私たちはうめいて終わるのではありません。私たちの主は、私たちのこのような現実をご存知であられて、 私たちを悪からお救いください。 と祈るようにと教えてくださっています。これによって、主は、私たちを希望のうちに生きるものとしてくださっています。ローマ人への手紙8章23節には、 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。 と記されています。 |
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