(第224回)


説教日:2010年2月14日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。今取り上げているのは、この祈りの後半の、

 悪からお救いください。

という祈りです。
 これまで、この祈りに出てくる「」をどのように理解するかについてお話ししてきました。
 まず、ことばの問題としては、このことばは「」とも「悪い者」とも訳すことができます。それで、これをどちらに訳すかが問題となります。結論的には、これは「悪い者」ではなく「」と訳したほうがいいと思われます。それは、この祈りがサタンの働きから救い出されることだけでなく、それも含めて、より広い意味での「」から救い出されることを祈り求めるものであるということを意味しています。
 このことともに、この「」を自分中心に考えて終わってはならないということもお話ししてきました。この「」を「自分にとってよくないこと」のことであると考えて終わってしまってはならないということです。
 先週は、このことと関連して、この第6の祈りの後半が、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るものであるということに注目しました。新改訳には訳し出されていませんが、後半にも「私たちを」ということばがあります。そして、エペソ人への手紙に記されていることに基づいて、すべての聖徒たちへの愛の具体的な表れとして、すべての聖徒たちのためにとりなし祈ることにおいて目を覚まして、御霊によって祈ることについてお話ししました。
 主の祈りは、父なる神さまに向かって、心を合わせて、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかける神の子どもたちの祈りです。そのことからも、

 私たちを悪からお救いください。

という祈りは、今ここで父なる神さまのご臨在の御前にともに集って父なる神さまを礼拝している中でともに祈る場合だけでなく、週日、それぞれの置かれたところで個人的に祈る場合にも、お互いのことを心に留めて、父なる神さまの御前でとりなし祈ることを中心としていることが分かります。


 今日は、この、

 私たちを悪からお救いください。

という祈りに出てくる「」が主の民全体にかかわる「」であるだけでなく、さらに父なる神さまのみこころに深くかかわっていることをお話ししたいと思います。
 すでにお話ししましたように、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るときの「」が「」であるということは、突き詰めていきますと、それが造り主である神さまのみこころに反していたり、みこころからそれてしまっていることによっています。それは、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになりましたし、この世界のすべてのものは神さまがみこころにしたがってお造りになったものであるのでよいものであるからです。
 そのことは、創世記1章31節に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されていることに表れています。このみことばは、神さまがお造りになったすべてのものが「非常によかった」ということを伝えています。この場合の「よい」ということには豊かな意味があるということはすでにお話ししました。それとともに、このみことばは重要なことを伝えています。それは、そこにあるすべてのものが非常によいということは、造り主である神さまのみこころにかなっているということを意味しているということです。神さまがお造りになったこの世界には、造り主である神さまのみこころと無関係に「よい」とされるものはありえません。

 しかし、私たちはこの世界に生まれてから、さまざまなことで、良し悪しの判断をしてきました。そのことを繰り返すうちに、しらずしらずのうちに、私たちの中に物事の良し悪しの判断基準が形造られました。それはイエス・キリストを信じて救われ、神の子どもとして受け入れられる前のことですので、神さまを中心とした判断基準ではありませんでした。私たちは造り主である神さまとは無関係に「善さ」の基準をもっていたのです。
 とはいえ、その奥には、神さまが創造の御業において、神のかたちにお造りになった人の心にご自身の律法を記してくださったということがあります。もし、神さまが人を神のかたちにお造りになられなかったなら、そしてその心にご自身の律法を記してくださらなかったなら、人は物事の良し悪しの判断をすることはできなかった、というより、物事の良し悪しを判断しないものであったでしょう。
 私たちは神さまとは無関係に「善さ」の基準をもっている状態にありましたが、あるとき福音のみことばを聞いて、私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを贖い主として信じました。それによって神さまの御前に義と認められて、神の子どもとしての身分を与えられました。今は、神さまのご臨在の御前を歩むものとしていただいており、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。
 そうではあっても、私たちの中にはなおも罪の性質が残っています。そのために、私たちのすべてが神さま中心になっているわけではありません。罪からまったくきよめられて、あらゆることを神さまを中心として見て、判断するようになってはいません。私たちがそのことを実感するのは、おもに、私たちがさまざまな憤りやねたみや情欲など自己中心的な思いから始まる道徳的な罪を犯してしまうことによっています。しかし、私たちのうちにある罪がもたらすものはそのような道徳的なことだけではありません。私たちはなおも、私たち自身のうちにある罪が生み出す自己中心性によって歪められた「善さ」の基準、価値判断の基準をもって日常のさまざまなことを判断してしまいます。
 そのような私たちが、神さまがお造りなったものはすべて「よい」ものであるということを聞きますと、どのようなことを考えるでしょうか。私としましては、自分自身のことをかえりみてお話しするほかはありませんが、おそらく、私たちには造り主である神さまと、はっきりと結びついているわけではない、「善の観念」、漠然とした「善さ」のイメージがあって、神さまがお造りになったものは、その「善さ」に完全にかなっている、それで、それはまったくよいものであるというように考えてしまうということでしょう。
 もし、神さまのみこころとは無関係な「善の観念」、「善さ」の基準あるいはイメージがあって、神さまがお造りになったものは、その基準あるいはイメージに完全にかなっているということであれば、神さまの上に「善さ」の基準があることになってしまいます。そして、神さまもその基準によって測られるということになってしまいます。神さまの場合は、「善さ」の基準に完全にかなっているけれども、私たち人間の場合には、その基準に完全にかなっているわけではないというようなことです。
 このような考え方は、神さまがこの世界のすべてのものをご自身のみこころにしたがってお造りになったということ、また、この世界のすべてのものは神さまがそのみこころにしたがってお造りになったものであるので「よい」ものであるということを、実質的に否定するものです。

 すでにお話ししてきたことからお分かりになることと思いますが、この場合、神さまのみこころの上にあるとされる「善の観念」、「善さ」の基準は、人間が考える「善さ」の基準です。つまり、最終的には、人間が神さまをも含めて、すべてのものを判断し判定するということです。
 このような考え方は、哲学の世界では、古くは、古代ギリシャに見られます。その代表的な例は、ソフィストの最大の人物とされるプロタゴラス(前480年頃ー410年頃)の「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、ないものについてはないということの」という考え方です。プロタゴラスの場合には、真理や人間の認識には絶対的で客観的なものはないという、主観主義また相対主義になっています。この、人間中心の考え方は、その後も絶えることなく続いていったばかりか、近代の、カントにおける人間の「理性の自律性」という暗黙のドクマを頂点として、今日まで続いています。
 また、これは、教会の歴史を通して見られる神学的な営みにも、多かれ少なかれ陰を落としてきた考え方です。それは、造り主である神さまと無関係の、いわば「中立のもの」を想定してしまうことに表れてきます。*[注釈]

*[注釈]改革派弁証学は、中世の自然と恩恵の二重構造や、存在の類比の思想構造に、このような「中立のもの」が想定されているということを指摘してきました。

 このような考え方は、哲学や神学のことに限られているのではありません。決して、日常生活と関係がないものではありません。人間が神について判断し判定することは、この世においては、いくらでも見られることです。人々は自分の間尺に合う神仏を選んで、それを拝んだり頼みとしたりしています。もちろん、それは人間がさまざまな事情の中で考え出した偶像であるからです。

 それでは、私たち人間は造り主である神さまや神さまのみこころについて何の判断もしてはならないというのでしょうか。決して、そのようなことはありません。
 このことを考えるためには、私たち人間の本来の状態から始めなければなりません。創世記1章26節ー28節に記されていますように、神さまは創造の御業において、人をご自身のかたちにお造りになり、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られています。
 そればかりではなく、神のかたちに造られた人の心には神さまの律法が記されています。そのことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の状態を記しているローマ人への手紙2章15節に、

彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。

と記されている、みことばに示されています。
 神さまの律法は、神のかたちに造られた人の心に記されている律法でも、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落した後の状況に合わせて与えられたモーセ律法であっても、マタイの福音書22章37節ー39節に記されているイエス・キリストの教えに示されている、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約され、まとめられます。それで、神さまの律法は「愛の律法」なのです。
 創造の御業において神のかたちに造られた人にとっては、この「愛の律法」が「善さ」の基準でした。それは神のかたちに造られた人にとっては自然なことでした。神のかたちに造られた人にとって「よいこと」とは、神さまを愛することと、隣人を愛することにあるのであって、それを離れてはありえないものだったのです。
 神のかたちに造られた人は、自分の心に記されている「愛の律法」を「善さ」の基準としてすべてのことを判断していました。その判断の根底には、契約の神である主が自分の造り主であられ、自分は神さまによって造られたものであるというわきまえがありました。
 ですから、先ほどの問題に戻りますが、神のかたちに造られた人が神さまについて、また、神さまのみこころについてさまざまなことを判断すること自体にはまったく問題がありません。本来、神のかたちに造られた人の「善さ」の基準は、その心に記されている「愛の律法」であり、造り主である神さまを中心としたものであるのです。

 このこととの関連で、そのことが失われてしまった経緯を見てみたいと思います。
 創世記3章1節ー6節には、

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

と記されています。
 ここには、神のかたちに造られた人が「蛇」の背後にあって働いていたサタンによって誘惑されて、神さまに対して罪を犯してしまったことが記されています。実際に誘惑されたのはエバですが、エバも神のかたちに造られた人です。ここに記されていることにはいろいろな問題がかかわっていますが、今お話ししていることにかかわることだけを取り上げます。

 前にお話ししたことがありますが、この「善悪の知識の木」は、神である主が備えてくださった「恵みの手段」であったと考えられます。
 神である主は人に、その木から取って食べてはならないという戒めを与えてくださいました。その木から取って食べないことは、いわば何もしないことですから、そのこと自体はなんの益ももたらしません。そのことによって誰かが助かるわけではありません。つまり、その木から取って食べないこと自体には積極的な意味はないのです。それで、神のかたちに造られた人にとって、この木から取って食べない理由はただ一つ、神さまがこの木から取って食べてはならないと戒められたということだけです。これによって、人は神である主が自分をお造りになった主であり、自分は主のしもべであり、主の戒めに従うべきものであるということを思い起こすことができたのです。そして、主を主として恐れ敬い、愛するので、この木からは取って食べなかったのです。
 神のかたちに造られた人はすべてのことを、自分の意志にしたがって行うことができました。もちろん、その意志を導いていたのは自らの心に記されていた「愛の律法」です。また、自分のすることが豊かな実を結びました。そのようなことが繰り返されると、人は自分が主であるかのような錯覚をもたないとも限りません。そのような危険があったために、神である主は「善悪の知識の木」を備えてくださり、この木から取って食べてはいけないと戒めてくださいました。
 そればかりではありません。「善悪の知識の木」という名前が表している「善悪」は、メリスムスと呼ばれる表現方法で、道徳的な面における「すべてのこと」を意味していると考えられます。メリスムスという表現方法は日本語にもあります。「昼も夜も」といえば「いつも」ということを表しますし、「老いも若きも」といえば「すべての人」を表します。それで、「善悪の知識」つまり「善悪を知ること」は、その意味で、すべてのことを知るということで、「神のようになる」ことを意味していると考えられます。
 しかし、それはその木から取って食べることによっているのではなく、その木についての神である主の戒めが表している、神である主が自分をお造りになった神であられ、自分は主のしもべであるということを自覚し、主を愛して主に従い続けることによって、その従順に対する報いとして、より栄光ある状態になることを約束として示していたのです。実際、十字架の死に至るまで神さまのみこころに従い通されたイエス・キリストは、その従順に対する報いとして栄光をお受けになりました。私たちはイエス・キリストが獲得してくださったその栄光にあずかって「神の子ども」としていただいています。「善悪の知識の木」が表示していた「神のようになる」ということは、イエス・キリストにあって神の子どもとしていただいている私たちにおいて実現しています。
 しかし、エバは神である主が「善悪の知識の木」を備えてくださったことの意味をまったく誤解していました。「蛇」の問いかけに対する彼女の答えは、

私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と仰せになりました。

というものです。

 あなたがたが死ぬといけないからだ。

ということばが示していますように、彼女は、「善悪の知識の木」自体が危険な木で、それから取って食べると死んでしまうので、神さまはそのことを注意してくださったと考えています。彼女が「それに触れてもいけない」ということを付け加えているのは、この木が危ない木であると理解していることの表れです。「そんな危ない木には触れないでおこう」という自分の思いが、神である主の戒めであるかのようになってしまっています。
 「蛇」の背後にいるサタンは、エバがこの木そのものに人に危害を加える力があると理解していることを見抜きました。それで、これにつけ込んで、確かにこの木には人に働き掛ける力があるけれども、それは人を殺すどころか、人を「神のようにする」力である、と諭したのです。
 先ほどお話ししましたように、その木の「善悪の知識の木」という名前は「神のようになる」ということを表示していました。それが「蛇」の論拠として用いられていると考えられます。そして、エバは「蛇」のことばを信じてしまいました。

 神のかたちに造られた人は、サタンの誘惑にあって初めて「悪」にかかわる判断をすることになりました。実際には、その判断を迫られたのはエバでしたが、彼女も神のかたちに造られていて、その心に「愛の律法」が記されていたことには変わりがありません。それで、本来であれば、彼女の判断は、心に記されている律法を判断基準としてなされたはずです。それで、そこでは神である主への愛が問題となったはずです。
 けれども、先ほど引用しました創世記3章1節ー6節に記されているみことばからは、そのような判断がなされたことはまったく汲み取れません。エバは誘惑者のペースにすっかりはまってしまっています。その原因は、先ほどお話ししましたように、「善悪の知識の木」についての彼女の理解の不備にあります。それで、「蛇」とのやりとりで問題になっているのは、その木から取って食べると死ぬのか、それとも、「神のようになる」のかという、その木の効果・効用の問題であって、心に記されている「愛の律法」が示している、主への愛のことはまったく見失われてしまっています。

 そればかりではありません。サタンは、

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

と言いました。神さまは、人が自分たちのようになってほしくないので、その木から取って食べてはならないと戒めたのだと言い含めたのです。
 これによって、サタンは大変なことを人の心に吹き込んでいます。それは、神さまは人とほとんど変わらない存在であるという理解です。人と神さまの違いは、せいぜい、この木から取って食べれば埋まる程度のものであるということです。サタンの言うことを受け入れるときに、このような理解が彼女の中に入ってきてしまいます。というより、エバがこのようなサタンのことばに耳を傾けているとき、すでに、そのことは始まっています。
 それでは、エバはどうして、このようなことを伝えるサタンのことばに耳を傾けてしまったのでしょうか。それは、根本的には、「善悪の知識の木」についての彼女の理解の不備によっています。しかし、それだけではありません。ここでサタンは自分が彼女の味方であるかのように装っているからです。神さまは「善悪の知識の木」から取って食べてはいけないと言って、人に意地悪をしているが、自分(サタン)は人の味方であるというのです。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

というサタンのことばに耳を傾けているエバは、神さまが自分たちに意地悪をしており、「蛇」は自分たちの味方であるいう思いを植え付けられています。
 そのようなエバの中からは、その心に記されている「愛の律法」が指し示す、神である主に対する愛と恐れや敬いは消えてなくなってしまっています。
 このようにして、エバは「蛇」の背後にあって働いているサタンの誘惑にあったとき、自らの心に記されている「愛の律法」から離れてしまっていました。サタンの思惑に支配されてしまって、真の意味での自由を失ってしまいました。それは、彼女が「善悪の知識の木」にかかわる真理を見失ってしまっていたからです。ヨハネの福音書8章32節に記されているように、イエス・キリストは、

 真理はあなたがたを自由にします。

と教えておられます。しかし、エバはその真理を見失ってしまっていました。
 そのような中で、エバは「善悪の知識の木」から取って食べることが自分の益になると判断しました。6節には、

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。

と記されています。問題は、完全に、「善悪の知識の木」から取って食べることの効果・効用のことに移ってしまっています。

 このことは私たちにとっても教訓となります。私たちが主の祈りの第6の祈りにおいて

 私たちを悪からお救いください。

と祈るときにの「」も、それは私にとって益であるかどうかという基準で判断されてしまい、神さまのみこころとは無関係のものになってしまう可能性があります。私たちはこのことを心に留め、「愛の律法」に示されていることにしたがって判断したいと思います。そして、神さまの愛と兄弟姉妹の愛を見失わせ、私たちを神さまへの愛と兄弟姉妹への愛から引き離してしまうものこそが「」であるということを心に銘記したいと思います。

 


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