(第223回)


説教日:2010年2月7日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 主の祈りの第6の祈りは、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りです。今日も、この祈りの後半の、

 悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りに出てくる、新改訳で「」と訳されていることばは「」とも「悪い者」とも訳すことができます。しかし、先々週お話ししましたように、これはいくつかの理由によって、「悪い者」ではなく「」と理解したほうがいいと思われます。つまり、この祈りにおいては、サタンの働きから救い出されることだけでなく、それも含めて、より広い意味での「」から救い出されることを祈り求めるということになります。
 さらに、これまで、この「」を自分中心に考えて終わってはならないということをお話ししてきました。つまり、この「」を「自分にとってよくないこと」のことであるとして終わってしまってはならないということです。確かに、この「」は私たちが経験する悪のことです。その意味では、それは自分にとってよくないことです。しかし、それがこの祈りにおいて私たちが、

 悪からお救いください。

と祈るときの「」のすべてではありません。


 このことと関連して、今日考えたいことは、すでに主の祈りのそれぞれの祈りについてお話ししたときに注目してきたことです。それは、この祈りでは、

 私たちを悪からお救いください。

と祈るのであって、

 私を悪からお救いください。

と祈るのではないということです。原文のギリシャ語では、この後半の祈りにも「私たちを」ということばがあります。
 この祈りに限らず、主の祈りは、私たちが個人的に祈るとしましても、この時代をともにする主の民に心を向けて祈るものです。最も身近なものとしましては、今ここでともに栄光の主のご臨在の御前に集って、造り主である神さまに礼拝をささげている信仰の家族に心を向けて祈るものです。そこから、さらに、私たちについて言いますと、同じく日本長老教会に属する姉妹教会の兄弟姉妹たち、さらにはこの国にある主の民というように、段階的に視野を広げていって、最後には、この時代をともにする主の民全体に心を向けて祈るものでもあります。
 このような姿勢について考えるために、エペソ人への手紙を見てみましょう。
 6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されています。この祈りにおいては、「すべての」とか「あらゆる」ということを表わすことば(パース)が4回出てきます。新改訳では2回しか出てきませんが、このことばを生かして直訳しますと、

すべての祈りと願いをとおして、あらゆる機会に御霊によって祈りつつ、このために、すべての忍耐とすべての聖徒たちのための願いとをもって、目を覚ましつつ

となります。*

*[注釈]ここには、ギリシャ語と日本語の語順が違うために、うまく訳し出せていないことがあります。後半の「このために」の後の「すべての忍耐」の「すべての」は「忍耐」だけでなく「すべての聖徒たちのための願い」の「願い」にもかかります。ですから、これは「すべての忍耐と願い」で、その「願い」が「すべての聖徒たちのための願い」であるということです。新改訳は「すべての忍耐と願い」がともに「すべての聖徒たちのための」ものであると理解しています。しかし、「すべての聖徒たちのための」は「願い」にだけかかって、「すべての聖徒たちのための願い」であると考えられます。

 ここには「願い」(デエーシス)が、前半と後半に1回ずつ、2回出てきます。この場合、これは単なる願いごとではなく、神さまに「願い求めること」を意味しています。新改訳は、前半では「祈り」と区別するために「願い」と訳していますが、後半では「願い求めること」を生かして、「祈りなさい」と訳しています。
 この直訳が示していますように、これは「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という二つの現在分詞からなるもので、独立した文ではありません。しかし、分詞はしばしば命令としての意味合いをもちますし、特にこの場合には、これに先立つ13節ー17節に出てきます動詞が命令法ですので、新改訳はこれを命令文として訳しています。ただ、この18節の前半は中心の「祈りつつ」という分詞を「祈りなさい」と命令として訳していますが、後半は中心の「目を覚ましつつ」は脇に回ってしまっています。後半を「目を覚ましつつ」を中心に直訳しますと、

このために、すべての忍耐とすべての聖徒たちのための願いとをもって、目を覚ましていなさい。

となります。
 前半と後半をつなぐ「そのためには」ということばが示していますように、この教えの中心は前半の「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって」祈ることにあります。そして、後半のことばは、そのことのためには「目をさまして」いなくてはならないことを示しています。さらには、「目をさまして」いるためには、「忍耐の限りを尽くし」「すべての聖徒のために」神さまに願い続ける必要があることを示しています。

 先ほどお話ししましたように、この18節の教えは、新改訳のように、命令として訳すことができますが、それが命令法によってではなく、二つの分詞で表されていることにも意味があると思われます。英語でもそうですが、分詞はその前の主動詞にかかります。つまり、この18節の教えは、その前の部分とつながっているということです。
 この前の主動詞としていちばん近いのは、17節で、

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

と言われているときの「受け取りなさい」です。言われていることの内容を考えないで文法的なことだけを考えれば、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という二つの分詞は直前の17節の「受け取りなさい」という動詞にかかることになります。しかし、これは言われていることの内容からして無理です。それで、さらにその前の主動詞にかかると考えられます。それは、14節前半で、

 では、しっかりと立ちなさい。

と言われているときの「立ちなさい」です。この場合の「しっかりと」ということばはギリシャ語にはない新改訳の補足ですが、この場合はその意味をよく伝えていると考えられます。
 新改訳では、その後の14節後半ー16節には、

腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

と記されています。ここにも「(真理の帯を)締め」、「(正義の胸当てを)着け」、「(平和の福音の備えを)はきなさい」、「(信仰の大盾を)取りなさい」という、命令のことばが出てきますが、そのすべては分詞で表されていて、14節冒頭の「立ちなさい」にかかっています。また、16節後半の、

それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

と訳されている部分は、関係代名詞で前の部分とつながっている従属節です。それで「消すことができます」の「できます」は動詞ですが、主動詞ではありません。
 このようなことから、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という二つの分詞は、その前の、「(真理の帯を)締め」、「(正義の胸当てを)着け」、「(平和の福音の備えを)はきなさい」、「(信仰の大盾を)取りなさい」と訳されている分詞と同じように、14節冒頭の「立ちなさい」にかかっていると考えられます。
 この14節前半の、

 では、しっかりと立ちなさい。

という戒めは、「では」ということば(「ですから」、「それで」、「そこで」などを意味する接続詞ウーン)があることから分かりますように、その前に述べられていることを受けています。
 それで、その前の10節ー13節を見てみますと、そこには、

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

と記されています。
 このことから分かりますように、10節ー18節には霊的な戦いのことが記されています。文のつながりから言いますと、18節に記されていることは20節までつながっています。それで、10節ー20節に霊的な戦いのことが記されていることになります。*

*[注釈]19節、20節には、
また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
と記されています。ギリシャ語では、19節と20節の「祈ってください」ということばはありません。19節は、「また、私のための」ということばで始まっていますが、これは、その前の18節の「すべての聖徒たちのための願い」の「すべての聖徒たちのための」につながっていて「すべての聖徒たちのためと私のための願い」というようになっています。この後には「・・・できるように」という祈りの内容を表わすことばが19節と20節に出てきます。しかし、主動詞は出てきません。20節前半の、
 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。
と訳されている部分は、19節後半の「福音」を受けている関係代名詞によって導入されている従属節です。

 これらのことから分かりますように、いま私たちは霊的な戦いの状況の中にあることが示されています。12節では、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われています。ですから、この霊的な戦いは「血肉」の力によっては戦うことができません。というより、「血肉」の力を頼みとするなら、それは敗北を意味しています。ですから、霊的な戦いを戦うために、11節では、

 神のすべての武具を身に着けなさい。

と言われていますし、13節でも、

 神のすべての武具をとりなさい。

と言われています。ここでは「神のすべての武具」(ヘー・パノプリア・トゥー・セウー)が繰り返されて、強調されています。霊的な戦いはこの「神のすべての武具」を身に着けることによって初めて戦うことができるものです。
 このことが明らかにされた後、すでにお話ししましたように、14節で、

 では、しっかりと立ちなさい。

と述べてから17節まで、

腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

というように、取るべき「神のすべての武具」が具体的に示されていきます。繰り返しになりますが、14節後半ー16節に、

腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

と記されていることは、14節前半で、

 では、しっかりと立ちなさい。

と言われていることにかかります。これらの武具を取ることによって「しっかりと立ちなさい」ということです。そして、これらの武具は、よく知られていますように、どちらかというと防御のためのものです。
 これに続いて、17節では、

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

と言われています。この、

 救いのかぶとをかぶり、

の「かぶり」と、

また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

の「受け取りなさい」は一つのことば(デコマイ)です。ですからこれは、直訳では、

救いのかぶとと御霊の剣すなわち神のことばを受け取りなさい。

となります。この「救いのかぶと」も防御のための武具です。そして、「御霊の剣」である「神のことば」が唯一の攻撃のための武器です。

 しかし、霊的な戦いの戦い方についての教えはこれで終ってはいません。「神のすべての武具」を取って身に着ければ、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」に対抗して、しっかりと立つことができるわけではないのです。先ほどお話ししましたように、14節の、

 では、しっかりと立ちなさい。

という命令には、さらに、18節の直訳で、

すべての祈りと願いをとおして、あらゆる機会に御霊によって祈りつつ、このために、すべての忍耐とすべての聖徒たちのための願いとをもって、目を覚ましつつ

ということばがかかるようになっていました。そして、この18節のことばは、さらに、19節、20節に、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

と記されていることに続いています。この18節ー20節には、パウロを初めとするすべての聖徒たちのためにとりなし祈りつつ目を覚まして、あらゆる機会に御霊によって祈ることが記されています。
 これらのことから、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」に対抗して、しっかりと立つためには、まず、「神のすべての武具」を取って身に着けなければならないことが分かります。しかし、それで十分なのではなく、さらに、御霊による祈りが必要であることが示されています。そして、御霊によって祈るためには、「忍耐の限りを尽くし」、「すべての聖徒」たちのための願いによって目を覚ましている必要があるのです。

 このように、パウロはエペソ人への手紙の読者たちに、「神のすべての武具」を身に着けるとともに、すべての聖徒たちのためにとりなし祈ることにおいて目を覚ましつつ、御霊によって祈ることによって、しっかりと立って、霊的な戦いを戦うべきことを示しています。そして、特に、自分のために祈ってくれるようにと要請しています。
 そのパウロは、それに先だって、自分がこの手紙の読者たちのために祈っていることを明らかにしています。
 1章15節、16節には、

こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

というパウロのことばが記されています。
 ここで注目したいのは「すべての聖徒に対する愛」ということばです。これに先立つ新改訳で「主イエスに対するあなたがたの信仰」と訳されていることばは、詳しい議論は省きますが(A・T・リンカーンやP・T・オブライエンの主張するように)、「主イエスにあるあなたがたの信仰」と訳したほうがいいと思われます。これによって、この手紙の読者たちが主イエス・キリストにあって働く信仰によって歩んでいるということが示されていると考えられます。そして、このことが、特に、「すべての聖徒に対する愛」として現れてきていると考えられます。この手紙の読者たちは「すべての聖徒に対する愛」に生きていました。それは、当然、「すべての聖徒」のためにとりなし祈ることにも現れてきていたはずです。

 また、3章14節ー19節には、

こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

という、パウロの祈りが記されています。
 ここで注目したいのは、17節後半ー19節前半に記されている、

また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

という祈りです。
 ここでは、この手紙の読者たちが「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」(直訳「愛に根ざし、基礎を置いている」)と言われています。これは、植物が地に根を張ることと、建物が基礎の上に立てられることになぞらえています。読者たちは愛に根を張り、愛を土台として建てられているということです。
 また、これは、「愛に根ざし、愛に基礎を置くようになりますように」という祈りのことばであるという理解(リンカーン)もありますが、新改訳のように、読者たちの現実を示していると理解したほうがいいと思われます。
 問題は「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と言われているのは、何の「広さ、長さ、高さ、深さ」のことかということです。詳しい議論を省いて、結論的なことを言いますと、これは新改訳で、その後に出てきます「人知をはるかに越えたキリストの愛」の「広さ、長さ、高さ、深さ」のことであると考えられます。*

*[注釈]この理解ですと、その間に、
 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
の「知ること」に当たることば(グノーナイ・テ)があることが問題となりますが、それは「人知をはるかに越えたキリストの愛」を実際の生活の中で現実的に知ることを意味するものとして付け加えられていると考えられます。

 パウロは「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」読者たちが、さらに「人知をはるかに越えたキリストの愛」の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つように」なることを祈っています。
 大切なことは、そこで「すべての聖徒とともに」と言われていることです。パウロはこの手紙の読者たちのために祈っているのですが、ただ彼らが「人知をはるかに越えたキリストの愛」の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つように」なることを祈っているのではありません。彼らがそれを「すべての聖徒とともに」もつようになることを祈っているのです。それは、彼らが「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」ために、その思いがすべての聖徒たちに向けられていたことを、パウロが知っていたからにほかなりません。先に引用しました1章15節に、

こういうわけで、私は主イエスにあるあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、

と記されていたとおりです。

 このように、エペソ人への手紙では一貫して、この手紙の読者たちが、主イエス・キリストにある信仰によって生み出される「すべての聖徒」への愛に生きていることが示されています。それは、霊的な戦いという厳しい状況にあっても、変わることがないのです。というより、この手紙では、霊的な戦いの状況においてこそ、さらに、「すべての聖徒」への愛を深くして、絶えずそのためにとりなし祈るべきことが示されています。このことは、私たちが主の祈りの第6の祈りにおいて、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と祈るときに、決して忘れてはならないことです。それで、私たちはここで祈る「」を、ただ自分にとってよくないことと理解して終わってはならないのです。

 


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