(第222回)


説教日:2010年1月31日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。先週は、この祈りの後半の、

 悪からお救いください。

という祈りに出てくる、新改訳で「」と訳されていることばにかかわる問題をお話ししました。このことばは「」とも「悪い者」とも訳すことができます。それで、これをどように理解すべきかが問題となっています。最近の注解書の多くは、これを「悪い者」と理解しています。その場合には、これはサタン、悪魔を意味していることになります。先週は、これを「悪い者」ではなく「」と理解したほうがいいということをお話ししました。つまり、この祈りは、

 悪い者からお救いください。

というように、神さまが私たちをサタンの手から救い出してくださるようにと祈るものであるというより、

 悪からお救いください。

というように、神さまが私たちをサタンの働きも含めて、より広い意味での「」から救い出してくださることを祈るものであるということです。


 問題は、この「」をどのように理解するかということです。
 先々週は、順序は逆になってしまいましたが、この理解を踏まえて、私たちが主の祈りの第6の祈りで、

 悪からお救いください。

と祈るときの「」を、自分を中心として理解して終わらないようにすべきことをお話ししました。「」は自分にとってよくないことであるという現実はありますが、それですべてであるとしてしまうことなく、造り主である神さまのみこころとの関係で理解するということでした。
 どういうことかと言いますと、すでにお話ししたことの復習ですが、創世記1章1節ー2章3節に記されています天地創造の御業の記事には、創造の御業を遂行しておられる神さまが、しばしば、その御手を休めるようにして、ご自身がお造りになったものを「よし」とご覧になったことが記されています。私たちは、その場合の「よし」ということがどのようなことであるか考えてきました。
 もちろん、それは、神さまが造り出されたものがよいものであるということを意味しています。というより、そのことは当然のこととして踏まえられています。神さまは知恵と力において無限、永遠、不変の方です。その神さまがお造りになったものは、完全に神さまのみこころに沿った、よいものです。しかも、神さまはご自身がお造りになったものを完全に知っておられます。ですから、ご自身が意図されたとおりのよいものができたことは初めから知っておられます。その神さまが、御手を休めるようにして、ご自身がお造りになったものを「よし」とご覧になりました。それで、このことには、それがご自身が意図されたとおりのよいものができたかどうかを見直すこととは違う意味があると考えられます。このことから、また、「よし」と訳されていることば(トーブ)の意味の広さから、それは、神さまがご自身が造り出されたものの存在そのものを喜んでくださったということを意味していると考えました。

 ここで大切なことは、何かが「よい」ということは、最終的には、すべてのものの造り主である神さまのみこころにかなっているということを意味しているということです。神さまがすべてのものの造り主であられますから、神さまのみこころを離れた「よい」ものはありえません。また、この世界のすべてのものは、神さまがご自身のみこころにしたがってお造りになったものであるという点において、よいものであるのです。
 このこととのかかわりで、それではこの世界に悪があることをどのように考えたらいいかということが問題になります。それについては、後ほどお話しします。その前に、神さまがご自身のみこころにしたがってお造りになったものは、よいものであるということとのかかわりで、さらに考えられることをお話しします。とはいえ、これはすでにお話ししたことの復習です。
 神さまがご自身のみこころにしたがってお造りになったものは、よいものであるということは、この世界のすべてのものに当てはまることです。なぜなら、この世界のすべてのものは神さまがご自身のみこころにしたがってお造りになったものだからです。
 これとともに、創造の御業を遂行された神さまのみこころには、より特殊なみこころがありました。すでに繰り返しお話ししてきましたように、1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事では、創造の御業の記事全体の見出しに当たる1章1節で、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。このみことばは、神さまが、この世界のすべてのものをお造りになったということを宣言しています。今日のことばで言いますと、138億光年の彼方に広がっている大宇宙のすべてのものを、また、見えるものだけでなく御使いなど見えないものも、神さまがお造りになったということを宣言しています。
 このことを明らかにした後に、創造の御業の記事の視点と関心は「」に移されています。そして、引用はしませんが、イザヤ書45章18節のみことばに示されていますように、「」は「人の住みか」に造られています。神さまは6日にわたる創造の御業において、この「」を「人の住みか」に形造ってくださいました。
 けれども、神さまが最初に造り出された「」は、1章2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されている状態にありました。この時の「」はまったく「人の住みか」とは言えない状態にありました。しかし、そこには、

 神の霊は水の上を動いていた。

とあかしされていますように、御霊による神さまのご臨在がありました。これによって、この「」は何よりもまず、神さまがご臨在される場であるということが示されています。そして、神さまは、ご自身がご臨在される場として聖別されているこの「」を「人の住みか」に形造ってくださったのです。このようにして、神さまは後に神のかたちに造られるようになる人を、初めから、ご自身のご臨在の御前に生きるものとしてくださいました。
 神さまはこのようなみこころにしたがって、私たちが住んでいるこの「」を形造られました。そして、このみこころとのかかわりで、お造りになったものを「よし」とご覧になりました。それで、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったとき、神さまは、神のかたちに造られた人をご自身の御前に住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださるみこころに照らして、それを「よし」とご覧になったのだと考えられます。そこに、ご自身の本質的な特性である愛を神のかたちに造られた人にお注ぎになることが実現するようになることへのお喜びがあったと考えられます。

 このように、この世界に存在するものは、神さまがご自身のみこころにしたがってお造りになったものなので、よいものです。逆に言いますと、造り主である神さまのみこころを離れては、よいものはありえません。
 ところが、人間は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったものです。そのために、造り主である神さまを神として認めることはありません。それで、何かをよいと判断するときにも、それを造り主である神さまのみこころを中心として判断することもありません。
 けれども、造り主である神さまのみこころと無関係によいものがあると感じることは、人間自身のうちにある罪が生み出す、一種の錯覚です。そして、自らのうちにある罪が自分と造り主である神さまの間を隔ててしまっているかぎり、それが錯覚であり、幻想であることに気がつくことができません。それが、かつての私たちの現実でした。
 しかし、御子イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を完全に贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、その復活のいのちによって新しく生まれたことによって、私たちはすべてのことのいちばん奥にある事実に気がつくようになりました。それは、言うまでもなく、神さまが、ご自身のみこころにしたがって、この世界のすべてのものをお造りになったということであり、神さまがお造りになったものはよいものであるということです。
 そのこととのかかわりで問題になるのは、この世界に悪が存在するということをどのように考えるべきかということです。そのことを考えるために、まず、これまでお話ししたことを踏まえてのことですが、一つのことをお話しします。
 いろいろな機会にお話ししましたが、もし、この世界のすべてのものが神さまのみこころにしたがって造られたのではないとしたら、どうなるでしょうか。そうしますと、造り主である神さまはいらっしゃらないということになります。ただ物質的な世界があるというだけのことになります。そして、この物質的な世界の究極的な単位は、いま分かっているところでは(とはいえ、私の知識は少し古いものですが)、クオークやレプトンなどの素粒子ですので、この世界はそのような粒子のかかわり合いの中から偶然に発生したものであるし、そのかかわり合いによって偶然にこのような世界になって、今日に至っているということになります。
 そこには、こうならなければならなかった理由はなく、たまたま、このようになったということが究極的なことであるということになります。言い換えますと、この世界のすべてのものの最終的な事実は、無機的な粒子のかかわり合いであるということです。そこには、愛やいつくしみ、聖さや義、善や真実さというような人格的な特性はありません。私たち人間も、そのような無機的な粒子のかかわり合いの中から、たまたま、発生してきたものであるということになります。存在してもしなくてもよかったものですが、何らかのことで発生してきて、存在しているものであるということになります。
 もし、この世界と、私たち人間の究極的な事実がこのような無機的なものであるとしたら、そもそも、この世界と私たちの存在の意味を考えること自体が空しいことになります。「いや、それでも人間は、その孤独の中で意味を問い続けるのである。それが人間の尊厳性である。」と言われるでしょう。しかし、それはこの世界と自分の究極的な事実が無機的なものであり、そもそも意味というものとは関係がないということを見据えたものではありません。そのような中で、意味を発見したと思っても、それは、はかない幻想のようなものであり、最後には、すべてが空しさにのみ込まれていくという現実があるということになります。
 それは、伝道者の書1章2節に、

 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。

と記されていることの、さらに突き詰められた、究極の現実です。伝道者の書では、続く4節ー11節において、

一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。

と記されています。
 これは、伝道者の書の序論のような意味をもっていて、この世界の現実を記しています。伝道者の書では、さまざまな人間の活動が取り上げられています。しかも、伝道者の書では、それをいったん造り主である神さまとは切り離されたものとして見るという手法が取られています。そのようにして、さまざまな人間の活動があり、その都度、泣き笑いがあるのですが、それも結局は、単なる繰り返しであって、その場限りのことであり、それを越えた目的はなく、すべては過ぎ去って終わるだけであるということになってしまうということを明らかにしています。
 しかし、これがこの世界の究極的な真実ではありません。伝道者の書も、最終的にはこれがこの世界の究極的な真実ではないということを明らかにしようとしています。愛といつくしみに満ちた造り主のみこころが、このすべてを根底から支えています。この世界のすべてのものは、神さまがその愛といつくしみのみこころにしたがってお造りになったものであり、そのみこころにしたがって支え、導いておられるものであるという、福音のみことばがあかししている事実こそが、すべてのものに意味を与え、目的を与えています。
 このことは、神さまがお造りになったすべてのものに当てはまることです。その意味では、この世界のすべてのものは、造られたものとして存在しているかぎりにおいて、よいものであると言うことができます。

 しかし、それでは、この世界に悪があることはどのように考えたらいいのでしょうか。実際、私たちの主イエス・キリストも、

 悪からお救いください。

と祈るようにと教えておられます。
 このことを考える際に、踏まえておかなければならないのは、これまでお話ししてきましたように、すべてのものは、神さまがご自身のみこころにしたがってお造りになったものであるので、よいものであるということです。*

*このことは、神学的・弁証学的なことばで言いますと、「形而上的なこと」です。そして、すべてのものは神さまによって造られたものであり、神さまとの関係において存在していという意味での、造られたものと造り主である神さまとの関係を「形而上的関係」と呼びます。

 そのようによいものとして造られたものの中で、特に、神のかたちに造られた人は、自由な意志をもつ人格的な存在です。それで、人は、自らの自由な意志で、自分のあり方を選び取ることができます。また、造り主である神さまの本質的な特性は愛です。それと同じように、神のかたちに造られた人の本質的な特性は愛です。人は初めから造り主である神さまを知っているものとして造られています。そして、その本質的な特性である愛は初めから造り主である神さまに対して向けられており、人は神さまとの愛の交わりに生きるものです。*

*このことは、神学的・弁証学的なことばで言いますと、単なる「形而上的なこと」ではなく、「形而上的・心理的なこと」です。(「心理的なこと」ということによって、神のかたちに造られた人の人格的な面が示されています。)そして、この意味での、神のかたちに造られた人と造り主である神さまの関係を「形而上的・心理的関係」と呼びます。

 お気づきのように、神さまがこの「」を何よりもまずご自身のご臨在の場として聖別してくださり、それを「人の住みか」に形造られたことと、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになり、初めからご自身を知っているものとしてお造りになったことは、切り離せないこととしてつながっています。
 これにはもう一つの面があります。人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られているために自由な意志をもち、その自由な意志によって自らのあり方を選び取ることができます。そのように人格的なものとして造られた人は、造り主である神さまに対して倫理的な責任を負っています。それは、基本的に、愛をもって神さまに応答する責任です。*

*このことは、神学的・弁証学的なことばで言いますと「認識論的・倫理的なこと」です。また、この意味での、造り主である神さまと神のかたちに造られた人の関係は「認識論的・倫理的関係」と呼びます。

 言うまでもなく、神のかたちに造られた人や御使い以外の人格的な存在でないものには、このような倫理的な責任はありません。

 このようなことが最も根本的なこととしてあって、その上で、人格的な存在である人や御使いの自由な意志から出た罪による堕落が考えられます。この世界の「悪」は、このような、人格的な存在として造られている人や御使いの自由な意志から出た罪による堕落が原因となって生み出されています。これを、創造の御業とのかかわりで見ますと、神さまは人格的な存在をよいものとしてお造りになりました。しかし、罪や、その結果であるさまざまな悪は、神さまがお造りになったものではありません。
 罪は、愛を本質的な特性とする人格的なものに造られている人や御使いが、その自由な意志によって造り主である神さまに愛の応答する代わりに、神さまに逆らうようになり、自らが神であるかのように振る舞うようになったことにあります。また、この世界にあるさまざまな悪は、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによってもたらされた「のろい」として生じたものです。そのことは、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯してしまった後に、神である主がアダムに語られたさばきのことばに示されています。創世記3章17節ー19節には、

 また、アダムに仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたはちりだから、
 ちりに帰らなければならない。」

と記されています。
 ここには、神のかたちに造られた人の罪の結果が、罪を犯した人だけでなく、歴史と文化を造る使命によって人と結び合わされている「土地」にも及んでいることが示されています。さらに、このことが、ローマ人への手紙8章20節では「被造物が虚無に服した」と言われています。

 今日はこれ以上このことに立ち入ることはできませんが、これまでお話ししたこととのかかわりで、一つのことに触れておきます。それは、善と悪の二元論、つまり、善と悪はともに究極の原理であるということは成り立たないということです。言い換えますと、神さまと悪魔が善と悪を体現する究極的な存在として、並立して存在しているのではないということです。
 私たちの判断でも、私たちはあるものを「善い」と判断するときに、悪と比較して「悪くはないから善い」と判断しているのではありません。その善いものの善さに心を打たれたり引きつけられたりして、それを善いと判断します。ところが、悪いものの場合には、それが本来は善いものであるはずなのに、あるいは善いものであるべきなのに、善くないということで、悪いと判断しています。ですから、善はそれ自体で善です。別に、悪と対比しなくても、善であることは分かります。しかし、悪は善があることを前提にしています。私たちも何らかの形で善と比較して、あるいは善に照らして、善くないということで初めて、悪であると判断します。もし初めから悪いものしかない世界があるとしたら(それが「悪いものである」という判断は、その世界の外にある、私たちがしています)、その世界の中では、それが悪いという判断もできないことでしょう。しかし、この世界に善いものしかないとしても、それが善いという判断をすることができます。
 これは、神さまがこの世界のすべてのものをご自身のみこころにしたがってお造りになり、その意味で、よいものとしてお造りになったことによっていると考えられます。そして、神のかたちに造られた人の心には、神さまの律法が書き記されていて、人は善の判断ができるもの、また、派生的に悪の判断ができるものとして造られていることによっていると考えられます。
 このように、この神さまがお造りになった世界にある悪は、もともとは神さまがよいものとしてお造りになったものが、変質してしまったものです。そして、その根本的な原因は、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことにあります。
 その神のかたちに造られた人の罪は、広い意味では悪ですが、特に、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られて自由な意志をもっている人、それゆえに、造り主である神さまに対して倫理的な責任を負っている人の、人格的な腐敗、意志を中心とした心の腐敗です。*

*その意味で、罪は認識論的・倫理的なものです。(「人の罪は形而上的・心理的なものである」ということは、神さまが人を罪あるものとしてお造りになったということを意味してしまいます。もちろん、罪は形而上的・心理的なものではありません。)

 私たちが主の祈りの第6の祈りにおいて、

 悪からお救いください。

と祈るときの「」は、私たち自身の罪も含めて、この世界にあるあらゆる種類の悪を意味していると考えられます。そして、そのように祈る私たちは、神さまがご自身のみこころにしたがってこの世界をよいものとしてお造りになったのに、私たち人間の罪のためにそれがさまざまに変質し、腐敗してしまっているということに思いを向けます。ただに自分たちが苦しく、悲しいというだけでなく、神さまが喜びをもってお造りになったこの世界を変質させてしまった人の罪の重さを感じ取ることになります。それは、私たちと無関係のことではありません。
 そうしますと、

 悪からお救いください。

という、私たちの祈りは、終わりの日に神さまがすべてのものを、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、回復させてくださり、さらには、より栄光あるものとして完成に至らせてくださることを望み見る祈りでもあることが分かります。

 


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