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説教日:2010年1月24日 |
主の祈りの第六の祈りの後半の、 悪からお救いください。 という祈りで用いられていることばの問題として論じられているのは、新改訳で「悪」と訳されていることば(ポネールー ポネーロスあるいはポネーロンの属格)をどのように訳すべきかかということです。これには二つの可能性があります。一つは、新改訳、新米国標準訳(NASB)、改定標準訳(RSV)などのように「悪」と訳すことです。もう一つは、新共同訳、新国際訳(NIV)、新英訳(NEB)などのように「悪い者」と訳すことです。 これは、このことばが男性形であるか中性形であるかによっています。男性形であれば「悪い者」と訳すことになりますが、中性形であれば「悪」と訳すことになります。ところが、ここでは、このことば(ポネールー)は属格です。属格では男性形と中性形が同じです。それで、これをことばそのものの形から、どちらであるか判断することはできません。 ちなみに、このことは、イエス・キリストのとりなしの祈りを記しているヨハネの福音書17章15節に記されている、 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。 という祈りに出てくる、新改訳が「悪い者」と訳していることばにも当てはまります。ですから、これも新改訳欄外にありますように、「悪」である可能性もあります。 主の祈りの方に戻りますが、ひと昔前に読んだ本には、この場合には、このことば(ポネールー)に冠詞(ギリシャ語の冠詞はすべて定冠詞です)がついているから「悪い者」であるという説明がありました。その頃はギリシャ語をまったく知りませんでしたので、その説明をそのまま受け入れておりました。 確かに、このことば(ポネールー)は形容詞で「悪い」を意味しています。それに冠詞(トゥー)がつけられて(実体化しており)、より具体的なものを指すようになっています。しかし、その説明は正しくありません。冠詞がついていても中性形である事例は、新約聖書のなかにもいくつかあります。たとえば、ローマ人への手紙12章9節には、 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。 と記されています。ここで、 悪を憎み、 と言われているときの「悪」と訳されていることば(ポネーロン 対格)には冠詞(ト)がついていますが、中性形です(対格では男性形と中性形の区別があります)。冠詞がついていることを生かせば「悪いこと」になります。主の祈りの第六の祈りでも、もしそれが中性形であれば「悪いこと」という意味合いになります。 それで、主の祈りの第六の祈りの、 悪からお救いください。 という祈りに出てくる「悪」と訳されていることば(ポネールー)をどのように理解すべきかは、文法の上からは決定することができません。 手元にあるものだけにしか当たることはできませんが、最近のいくつかの注解書を見ますと、これを男性形として「悪い者」と理解するものが多くなっています。しかも、これはD・A・カーソンや、デイヴィースとアリソン、R・T・フランス、F・D・ブルーナーなど、きわめて優れた注解者たちの主張です。さらには、最近の優れた文法書として名高いウォーレスの文法書の中でも、これは「悪い者」であると、二個所で述べられています。その場合には、この「悪い者」はサタンのことであるということになります。ブルーナーは、派生的に、悪い人間をも視野に入れています。 これとは別の理解をしているのは、私の手元にあるものでは、レオン・モリスだけです。(モリスがこの立場を採る理由としてあげている4つのことのうちの一つには明らかな錯誤があります。) これを男性形として「悪い者」とする立場にこれだけの優れた学者がそろえば、それだけで、この理解を受け入れなければならないと感じます。しかし、私は、無謀に見えますが、この理解に疑問をもっています。 すでにこれを「悪い者」と理解することが確定している観がありますので、それとは違う理解をもっている私の結論的なことだけをお話しすることではすませられないと思います。それで、私がこれを「悪い者」と理解することに疑問をもっている理由をお話ししたいと思います。 これを「悪い者」と理解する立場から、その理由として挙げられていることで、取り上げるべきと思われるものは三つほどあります。 第一に、マタイの福音書においては「悪い者」という言い方でサタンを表すことがあるということです。 しかし、そのことが明確に言えるのは、マタイの福音書の中では二つの個所だけです。しかも、それはイエス・キリストが語られた天の御国のたとえの中においてです。 ちなみに、この主の祈りの第六の祈りにおいては、「悪」あるいは「悪い者」は単数形です。マタイの福音書の中には複数形の「悪い者」がいくつか出てきますが、言うまでもなく、それは人を指しています。それで、問題となるのは単数形の「悪」あるいは「悪い者」です。 天の御国のたとえの中の「種まきのたとえ」を記している13章19節には、 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 と記されています。ここに出てくる「悪い者」(ホ・ポネーロス 主格、ホは冠詞)は男性形です(主格では男性形と中性形の区別が分かります)。 また、「毒麦のたとえ」を記している13章38節、39節には、 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。 と記されています。これは、たとえに対するイエス・キリストの説明のことばです。この場合、38節に出てくる「悪い者」は(属格ですので、その形からは男性形か中性形か区別はできませんが)、39節で、 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、 と言われていることから「悪魔」を指していることが分かります。 この点(男性形か中性形か)がはっきりしない個所としては、5章37節があります。そこには、 だから、あなたがたは、「はい。」は「はい。」、「いいえ。」は「いいえ。」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 と記されています。ここで「悪いこと」と訳されている部分は文字通りには「悪から出ています」あるいは「悪い者から出ています」です(属格のために男性形か中性形かの区別ができません)。これは34節に、 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。 と記されているイエス・キリストの教えを受けています。それで、 だから、あなたがたは、「はい。」は「はい。」、「いいえ。」は「いいえ。」とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 という教えは、私たち神さまの恵みによって御国の民としていただいている者にとっては、「はい。」と言ったら「はい。」なのであって、それ以外ではない。それで、それが本当であるということを示すために誓う必要はない、ということです。このような場合に、誓わなければならないというのは、お互いの間に、偽りがあるのではないかという不信感があるからです。その意味で、これは、私たちが真実であるということにかかわる教えです。 この場合に、「それ以上のこと」が「悪い者から出ています」というのであれば、それは、ヨハネの福音書8章44節に記されているイエス・キリストの教えの中で、悪魔のことが「偽り者であり、また偽りの父である」と言われているようなことを想定していると考えられます。その一方で、「それ以上のこと」が「悪から出ています」と理解する立場からは、私たちの偽りは自らの罪から出たことであり、悪魔のせいにしてはならないと主張されることでしょう。どちらにも言い分があって、判断が難しいところです。 また、「悪い者」(単数)がサタンを指していない例もあります。同じ5章の39節には、 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 というイエス・キリストの教えが記されています。この場合の「悪い者」はサタンのことではなく、それに続いて述べられている「右の頬を打つような者」が例となるような人のことであると考えられます。また、 悪い者に手向かってはいけません。 と言われているときの「悪い者」がサタンであれば、サタンに手向かってはならないと教えられていることになります。しかし、ヤコブの手紙4章7節には、 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 と記されていて、悪魔には立ち向かうように教えられています。 このように、マタイの福音書において「悪い者」が明確にサタンを指して用いられているという事例は、天の御国のたとえ話の中の二つだけです。しかも、今お話ししていることにとってとても大切なことですが、注意して見ますと、そこには、それがサタンのことを指しているということを示すものがあります。 その一つの事例が出てくる「種まきのたとえ」のたとえそのものを記している13章4節には、 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 と記されています。ここで、 鳥が来て食べてしまった。 ということは、旧約聖書の中ではしばしば「のろわしいこと」を意味することに使われています(創世記15章11節、40章17節、19節、申命記28章26節)。とはいえ、このたとえ話を聞いた弟子たちは、蒔いた種を鳥が食べてしまうことはよくあることとして聞いていて、のろわしいことが語られているとは思わなかったことでしょう。それで、このことからは何とも言えません。 しかし、19節に記されている、このたとえについて説明する、イエス・キリストの、 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。 という教えを聞きますと、ここで語られている事柄の重大さから、「悪い者」とはサタンのことであるということに気がつくようになっています。 もう一つの「毒麦のたとえ」においては、13章25節に、 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 と記されていますように、たとえ話そのものに「敵」が出てきてヒントがあるだけでなく、先ほどお話ししましたように、イエス・キリストご自身が「悪い者」のことを「悪魔」であると説明しておられます。 このように、これらの事例では、そのたとえ話そのものの中に何となくサタンを思わせるものがあって、その説明の中で「悪い者」と言われるとサタンのことであると気がつくようになっています。 ところが、主の祈りの第六の祈りの後半の、 悪[悪い者]からお救いください。 という祈りそのものの中には、それがサタンを意味していることに気づかせるものがありません。その点で、天の御国のたとえの中に出てくる二つの用例と異なっています。 このこととの関連で注目すべきことがあります。それは、その当時の人々の日常語であったアラム語やヘブル語には、サタンを「悪い者」と表す用例がなかったということです。(アラム語やヘブル語には、サタンを「悪い者」と表す用例がなかったということは、モリスが、D・ヒルが指摘していることとして紹介し、モリスにとっては決定的なことであると述べています。) ですから、マタイの福音書において、これら二つの「悪い者」がサタンを表している事例があるということに基づいて、 悪[悪い者]からお救いください。 という祈りのように「悪い者」を表しえる事例が、直ちに「悪い者」を意味している可能性が高いということにはなりません。 第二に、新改訳が、 悪からお救いください。 と訳しているときの「悪から」の「・・から」という前置詞の問題です。ここで「お救いください」と訳されている動詞は「リュオマイ」です。この動詞につながって「・・から」ということを表す前置詞は二つあります。そして、そのうちの一つ(エク)は、すべて、「もの」や「こと」から救い出すことを表すときに用いられ、もう一つ(アポ)はほとんどの場合「人」(人格的な存在)から救い出すことを表すときに用いられています。そして、この新改訳が、 悪からお救いください。 と訳しているときの「悪から」の「・・から」という前置詞は、後に挙げました、ほとんどの場合「人」(人格的な存在)から救い出すことを表すときに用いられる前置詞(アポ)が用いられています。それで、ここでは、 悪い者からお救いください。 と祈るものである可能性が高いと主張されています。 私は新約聖書の事例しか調べることができませんでしたが、「お救いください」と訳されている動詞(リュオマイ)と、ほとんどの場合「人」(人格的な存在)から救い出すことを表すときに用いられる前置詞(アポ)との組み合わせは、すべての事例を挙げているとしている、アボット・スミスのレキシコンとモールトン&ゲーデンのコンコーダンスによりますと、ここのほかには、ローマ人への手紙15章31節、テサロニケ人への手紙第二・3章2節、テモテへの手紙第二・4章18節の三つあります。この場合、一個所、欄外の読みを除いていますが、それは、ルカの福音書11章4節にある主の祈りに、マタイの福音書に記されているのと同じように、 悪[悪い者]からお救いください。 がある写本があるために、それが欄外に記されているのです。それで、これは除外していいと思います。 その三つのうち、ローマ人への手紙15章31節とテサロニケ人への手紙第二・3章2節では、人から救い出されたことが記されています。テサロニケ人への手紙第二・3章2節の新改訳は、 ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように となっていますが、「手」ということばは原文にはありません。それで、これは、文字通りには、 ひねくれた悪人どもから救い出されますように です。 しかし、テモテへの手紙第二・4章18節には、 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。 と記されています。もちろん、これは事柄としては、パウロに対して悪いことをくわだてる人々からの救出を述べているのですが、「すべての悪のわざ」自体は人(人格)ではありません。 このことから、「お救いください」と訳されている動詞(リュオマイ)と、ほとんどの場合「人」(人格的な存在)から救い出すことを表すときに用いられる前置詞(アポ)との組み合わせに基づいて、主の祈りの第六の祈りの後半は、 悪い者からお救いください。 と祈るものである可能性が高いと主張できても、断定することはできません。 そればかりか、今引用しましたテモテへの手紙第二・4章18節で、パウロは、いわば、例外的な組み合わせの方を用いて記していることになります。つまり、わざわざ、「お救いください」と訳されている動詞(リュオマイ)と、ほとんどの場合「人」(人格的な存在)から救い出すことを表すときに用いられる前置詞(アポ)との組み合わせの方を用いて、 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。 と記しているのです。異邦人への使徒であることを自覚していたパウロがギリシャ語での主の祈りをよく知っており、実際に祈っていたであろうことを考えますと、主の祈りの用法がここに現れた可能性もあります。 いずれにしましても、このパウロの告白は、主が教えてくださった、 悪からお救いください。 という祈りに、主がお応えくださっていることの現れである可能性があります。 第三に、この祈りの前半では、 私たちを試みに会わせないで(ください) と祈ります。このように祈るように教えてくださったイエス・キリストは、すでにその公生涯の初めに、荒野においてサタンの「試み」に会われて、その現実性と厳しさを実感しておられたということがあります。 しかも、そのことを記している4章1節ー3節には、 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 と記されています。ここでは、悪魔のことが「試みる者」と言われています。このことから、主の祈りの第六の祈りの前半で、 私たちを試みに会わせないで(ください) と祈った後に、 悪[悪い者]からお救いください。 と祈るときには、単なる「悪」ではなく「悪い者」すなわち悪魔を思い起こすというのです。 この理解は、主の祈りの第六の祈りの前半の、 私たちを試みに会わせないで(ください) という祈りでは「試み」はサタンから来るものであるという理解の上に成り立っています。けれども、これまでお話ししてきましたように、「試み」をそのように狭い意味で理解することには無理があります。 しかし、これだけではありません。この祈りの前半の、 私たちを試みに会わせないで(ください) という祈りとかかわらせないで、後半の祈りは、 悪い者からお救いください。 と祈るものであるという主張もあります。それは、先ほど触れましたように、イエス・キリストはすでにサタンの試みに会って、その現実性と厳しさを実感しておられた、ということだけから主張されることです。 これにも疑問が残ります。確かに、イエス・キリストはサタンの誘惑の現実性と激しさを経験されて知っておられます。しかし、イエス・キリストにとってそれだけが厳しい現実だったのでしょうか。すでに前半の、 私たちを試みに会わせないで(ください) という祈りについてお話しした中で繰り返しお話ししましたが、イエス・キリストにとって、御許にやって来た、さまざまな病やわずらいを負っている人々と一つになられて、その人々の痛みや苦しみや悲しみをご自身のこととして負われたことも、この上なく厳しい現実であったのではないでしょうか。神の御子としての敏感性を働かせて真にその人々と一つになられたイエス・キリストにとって、その痛みや苦しみや悲しみはご自身のものでした。 しかも、そのことをお話ししたときに取り上げましたイザヤ書52章13節ー53節12節に記されている「主のしもべの第4の歌」に預言されていることとのかかわりでは、このことの方がイエス・キリストの公生涯のお働きに深くかかわっていたのではないでしょうか。もちろん、イエス・キリストの御許にやって来た人々の中には悪霊につかれた人々もいました。その意味では、サタンとのかかわりがないわけではありませんが、それがすべてではありませんでした。 このこととの関連で考えておきたいことは、マタイの福音書の記述の順序では、イエス・キリストが公生涯の中で実際に御許にやって来た人々の病をおいやしになり、悪霊を追い出されたことは、「山上の説教」の後に記されています。その前には、イエス・キリストが荒野でサタンの試みに会われたことが記されています。そうしますと、イエス・キリストはすでにサタンの試みに会って、その現実性と厳しさを実感しておられたという主張に正当性があるように思われます。 しかし、マタイの福音書は時間的な順序を追って記してはいません。実際には、ルカの福音書の記録から分かりますように、イエス・キリストは「山上の説教」を語られたときには、すでに、多くの病める人々や悪霊につかれた人々に接して、人々を病や悪霊から解放しておられます。 このことを考えますと、イエス・キリストはすでにサタンの試みに会って、その現実性や厳しさを実感しておられたということから、主の祈りの第六の祈りの後半の祈りは、 悪い者からお救いください。 と祈るものであると主張することには無理があります。 これらのことから、私は、これらの理由によって主の祈りの第六の祈りの後半の祈りは、 悪い者からお救いください。 と祈るものであると主張することはできないのではないかと考えています。 むしろ、三つの理由によって、主の祈りの第六の祈りの後半は、 悪からお救いください。 と祈るものであると理解したほうがいいと思われます。その理由のうちの二つはすでにお話ししたことですので、まとめるだけにします。 第一は、アラム語やヘブル語には、サタンを「悪い者」と表す用例がなかったので、「悪い者」をサタンであると理解するためには、あの天の御国のたとえ話における二つの事例のように、それを指し示すものが必要となるけれど、主の祈り自体にはそのようなものがないということです。まして、主の祈りでは、そもそも、それが「悪」を意味しているのか「悪い者」を意味しているのかはっきりしていません。そのようなときに、直ちに、これは「悪い者」で、サタンを意味しているとすることには無理があります。 第二は、イエス・キリストご自身の「主のしもべ」としてのお働きが、私たちがこの罪の世にあるがために経験するさまざまな痛みと苦しみと悲しみと深くかかわっているということです。その中には、サタンの働きによる苦しみも含まれていますが、それがすべてではありません。 第三に、もしこの祈りが、 悪い者からお救いください。 と祈るものであるとしますと、それはサタンの働きからの救出を求めるだけのことになってしまいます。そうしますと、私たちが最も身近に感じて苦しむ、私たち自身のうちになおも残っている罪の性質のために、実際に、罪を犯してしまうということは取り上げられないことになってしまいます。 もちろん、その前の第五の祈りにおいて、犯してしまった罪の赦しを願うようになっています。しかし、さらに、そこから進んで、罪を犯してしまうこと自体から救い出していただくことも、私たち主の民にとって切実な願いです。 パウロもローマ人への手紙7章15節ー25節において、この問題を一般化しないで、自分自身のこととして記しています。そして、その結びの部分に当たる24節で、 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 と述べています。ここで、 だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 と言われているときの「救い出してくれる」は、主の祈りの第六の祈りで、 悪からお救いください。 と祈るときの「お救いください」と同じ動詞(リュオマイ)です。 パウロは、その後の25節で、 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。 と述べた後、続く8章1節、2節で、 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 と記しています。罪の現実を述べるときには自分のこととして述べていますが、そのことからの解放について述べるときには、「あなた」のこととして述べています。 主ご自身がこのような恵みの備えをしてくださっているのであれば、主が私たちにそれを祈り求めることを願っておられることも確かであると考えられます。その意味で、主の祈りの第六の祈りの後半では、 悪からお救いください。 と祈ると理解したほうがいいと思われます。 そうであれば、私たちも、ここに記されているイエス・キリストにある恵みの確かさを信じて、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と祈ることができます。 |
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