今日も、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
という主の祈りの第六の祈りについてのお話を続けます。 これまで、この祈りで取り上げられている、私たちがこの世で経験するさまざまな「試み」について、いろいろなことをお話ししてきました。そして、最後のこととして、「キリストとともに苦しむ」ということについて、いろいろなことをお話ししています。このことにおいて最も大切なことは、私たちがこの世で経験するさまざまな試みによって苦しむときに、イエス・キリストが、私たちとともに苦しみ痛んでくださっているということです。 これまで、このことをより大きな視野から理解するために、創世記一章一節ー二章三節に記されている天地創造の御業において、神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったことに注目してきました。今日は、これまでお話ししたこととの関連で、この祈りの後半に出てくる「悪」について理解するための道筋を見つけたいと思います。
神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことは、ご自身がお造りになったものがそこにあるようになったことをお喜びになったということを意味していると考えられます。 それも、創造の御業の記事の本体である一章二節以下の記事の視点と関心が、今私たちの住んでいるこの地に置かれているということとかかわっています。創造の御業の記事は、この地に住む者の目線で見られた神さまの創造の御業を記しています。これは造り主である神さまの啓示です。これによって、神さまは、創造の御業において神のかたちに造られ、一般に「文化命令」と呼ばれる歴史と文化を造る使命を委ねられている人、つまり私たちが自分自身の存在の意味と、自分たちの住んでいるこの世界の意味を理解するための光を与えてくださっています。 引用はしませんが、イザヤ書四五章一八節に記されていますように、この地は「人の住みか」に形造られています。けれども、それは一瞬にして形造られたのではなく、六日にわたる創造の御業をとおして形造られました。もちろん、神さまは一瞬のうちに完成した世界をお造りになることがおできになります。しかし、神さまはこの世界を六日にわたる御業をとおしてお造りになり、この地も六日にわたる御業によって「人の住みか」にお造りになりました。 神さまは六日にわたる御業によってこの地を「人の住みか」にお造りになるに当たって、まず、創世記一章二節に、
地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
と記されている状態の「地」を造り出されました。このときの「地」はまだとても「人の住みか」とは言えない状態にありますし、自らの力によって何かを生み出すことができるような状態ではありませんでした。「地」がそのような状態にあったとき、そこにはすでに「神の霊」がご臨在しておられました。この「地」は「人の住みか」に形造られるに先だって、神さまがご臨在される場として聖別されていました。このように、神さまは初めからこの「地」にご臨在され、そのご臨在の御許から発せられる一連の創造のみことばによって、この「地」を「人の住みか」に形造ってゆかれました。
このように、天地創造の御業の記事は、この「地」が初めから神さまがご臨在される場として聖別されており、実際に神さまがそこにご臨在され、これを「人の住みか」に形造ってくださったことを示しています。このことは、神のかたちに造られた人が初めから、造り主である神さまのご臨在の御前に住まい、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものであることに符合しています。
そして、すでに繰り返しお話ししてきましたように、創造の御業において神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことは、この「地」がご自身のご臨在の場にふさわしく形造られていくことと、「人の住みか」として形造られていくことに、神さまが喜びを感じられたことであると考えられます。それは、最終的には、神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御前に住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださることをもって頂点に至る喜びであると考えられます。
このこととの関連で注目すべきは、天地創造の御業の第七日の意味です。創世記二章一節ー三節には、
こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
と記されています。
詳しいことに立ち入ることができませんが、ここで特に問題とされているのは、二節の、
それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。
と訳されていることばです。ヘブル語の原文には、
なさっていたわざの完成を告げられた。
の「告げられた」ということばはありません。これは「完成した」という動詞
の強調の形(ピエル語幹)で表されています。そして、この強調の形は、基本
的に動作を表すのですが、宣言することを表す場合もあります。それで、新改
訳はこれを、
なさっていたわざの完成を告げられた。
と訳しています。これは第三版においても採用されています。なぜそのように訳しているかと言いますと、これを、
それで神は、第七日目に、なさっていたわざを完成された。
と訳しますと、神さまが第七日においても何らかの創造の御業を遂行されたことを伝えてしまうという問題があることによっています。そのようなことを避けるために、最後の部分を、
なさっていたわざの完成を告げられた。
と訳しているのです。
ちなみに七十人訳は「第七日目」を「第六日目」としています。ですから、
この問題は古くから意識されていたようです。もともと「第六日目」であったものをより問題のある「第七日目」に変えてしまうということは考えにくいので、これは、同じ問題意識から出た変更であると考えられます。
これには、別の理解もあります。それは、手元にあるいくつかの注解書が採っている理解で、直訳の「完成された」を、過去のあるときから見てさらに過去のことを表す「大完了」の意味にとって、
それで神は、第七日目までに、なさっていたわざを完成しておられた。
とするものです。
私は、このような考え方が見当たらないので不安なところがありますが、今のところ、文字通りに、
それで神は、第七日目に、なさっていたわざを完成された。と訳したほうがいいと考えています。
ただし、これは「第七日目」にさらに何か新しいものを造り出されたということではありません。一章三一節においては、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われていますし、二章一節では、
こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。と言われています。ですから、「すべてのもの」、今日のことばで言う大宇宙はすでに出来上がっており、完成しています。しかし、二節で言われているのは、
なさっていたわざを完成された。
ということで、「なさっていたわざ」のことです。それによって「造り出されたもの」ではなく、「わざ」のことが取り上げられています。そして、実際に、創造の御業の第六日で神さまのお働きは終わったのではありません。神さまは「第七日目」に「なさっていたすべてのわざを休まれ」、「第七日目」を祝福し、聖別しておられます。詳しい説明は省きますが、神さまが祝福してくださったことも、聖別してくださったことも、より深くご自身とかかわらせてくださっていることを意味しています。私は、このことをもって、神さまはこれまでな
さってきた創造の御業を「完成された」のだと考えています。
創造の御業は、ただ、そこに存在するものを造り出されたということで終わってはいません。これまで繰り返しお話ししてきました、神さまがお喜びと感動をもって創造の御業を遂行してこられたことを思い起こす必要があります。神さまは創造の御業の中で、しばし、その御手を休めるようにして、お造りになったものにお心を注いで、それをご覧になってくださり、それをお喜びくださっていました。そのようにして、ご自身がお造りになったものに深くかかわってこられました。そのことも、創造の御業の中に含まれています。そのことは、一章三一節で、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われていることで頂点に達していますが、それで終わっていないというのが、二章一節ー三節があかしするところです。神さまはお造りになったすべてのものを祝福して聖別されることによって、さらにご自身と深くかかわるものとしてくださいました。これによって、創造の「御業」は完成したと言うことができます。
このように見ますと、神さまが創造の御業を遂行される中で、しばし、その御手を休めるようにして、お造りになったものにお心を注いでくださり、それをお喜びくださっていたことは、一章三一節で、
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
と言われていることで終わっているのではなく、神さまのお喜びはさらに、創造の御業の「第七日目」により深く豊かなものとなっていくことが予想されます。そして、この点につきましては、実際に、みことばがそのようなことを示しているということを、すでに、いろいろな面からお話ししてきました。
実際、安息日は喜びと深くかかわっています。イザヤ書五八章一三節、一四節には、
もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、
わたしの聖日に自分の好むことをせず、
安息日を「喜びの日」と呼び、
主の聖日を「はえある日」と呼び、
これを尊んで旅をせず、
自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、
そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。
と記されています。これは、私たち主の民の喜びのことを述べていますが、当然、それは主との愛にある交わりにおける喜びですので、主にもお喜びがあると考えられます。
このように、神さまは天地創造の御業の「第七日目」に、それまでお造りになったすべてのものを祝福して聖別してくださったことによって、天地創造の御業を完成されたと考えられます。
しかし、このことには考えておかなければならない問題があります。それは、実際に神さまが祝福して聖別されたと記されているのは、「お造りになったすべてのもの」ではなく、「第七日目」であるということです。
このこととの関連で注目したいのは、この天地創造の御業の「第七日目」が終わっていないということです。この「第七日目」の記事においては、その前の六日について記されている、
こうして夕があり、朝があった。
第何日
ということばがありません。これに関してはもう少し議論が必要ですが、結論的なことだけをお話しします。この天地創造の御業の「第七日目」は、神さまがお造りになったこの世界の歴史となっています。言い換えますと、神のかたちに造られた人が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たして、歴史を造るための時、「時間的な舞台」となっているのです。
神さまがこの世界を六日にわたる御業をとおしてお造りになったことは、創造の御業が歴史的な御業であること、ひいては、創造の御業によって造り出されたこの世界が歴史的な世界であることを意味しています。神さまは天地創造の御業の第六日に完成した時点で存在していたこの世界のすべてのものを祝福し、聖別してくださったのではなく、この世界が歴史的な世界として展開していく、その歴史の全体を祝福し、聖別してくださったのです。それは、とりもなおさず、神のかたちに造られた人が造り主である神さまから委ねられた歴史
と文化を造る使命を果たして造る歴史全体を祝福し、聖別してくださっているということです。
この世界が歴史的な世界であるということは、ただ単にこの世界が時間の経過する世界であるということで終わるものではありません。この世界に目的があり、その時間的な経過とともに、その目的に向かって進んで行く世界であるということを意味しています。この世界には意味があり、その意味が時間的に深められ、ついに目的に至る世界であることによって、歴史的な世界と言うことができます。神さまは、そのような意味をもっているこの世界の歴史全体を祝福し、聖別してくださっています。
もちろん、その世界の目的はこの世界をお造りになった神さまご自身の栄光、神さまの恵みとまことに満ちた栄光が現されるようになることです。そして、この世界の歴史的な目的は、神さまの恵みとまことに満ちた栄光がより豊かに表わされるようになることです。神さまの本質的な特性は愛です。ですから、その愛に基づく恵みとまことに満ちた栄光が現されることがこの世界の存在の目的であると同時に、この世界の歴史の目的であるのです。
このことは、神さまがお造りになったこの世界、特に、神のかたちに造られた人にとって大きな意味をもっています。私たちはこの世界に住んでいますので、この世界が意味ある世界であり、まったき調和のとれた美しい世界であることを知っています。それは単調なものではなく、実に多様なものが相互にかかわり合いながら、生み出している調和です。特に、この私たちが住んでいる、創造の御業の記事が「地」と呼んでいる世界は、多様なもののかかわりの中で豊かな実を結ぶ世界であることを知っています。そして、光に満ちており、いのちにあふれた世界であることを知っています。
創造の御業の記事は、それをさらにどのように理解すべきかを私たちに示しています。言うまでもなく、それは、神さまがこのように豊かな世界をお造りになったということです。そればかりでなく、この世界がこのように多様なものに満ちあふれていながら、まったき調和のとれた美しい世界であることは、また、それが実に多様な実を結ぶ世界であるということは、さらには、光に満ちていて、いのちにあふれた世界であるということは、造り主である神さまご自身の聖なる属性を映し出しているということです。神さまの愛といつくしみ
に基づく恵みとまことに満ちたご栄光を映し出しているということです。
このことは、先ほど言いましたように、創造の御業の記事が「地」と呼んでいる、私たちが住んでいる世界が何よりもまず、造り主である神さまがご臨在される場として聖別されているということとかかわっています。この世界が神さまがご臨在される場として聖別されており、実際に、ここに神さまがご臨在しておられるので、この世界は神さまの聖なる属性を映し出しているのです。詩篇六五篇九節ー一三節には、
あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
これを大いに豊かにされます。
神の川は水で満ちています。
あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
彼らの穀物を作ってくださいます。
地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、
夕立で地を柔らかにし、
その生長を祝福されます。
あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、
あなたの通られた跡には
あぶらがしたたっています。
荒野の牧場はしたたり、
もろもろの丘も喜びをまとっています。
牧草地は羊の群れを着、
もろもろの谷は穀物をおおいとしています。
まことに喜び叫び、歌っています。
と記されています。
あなたは、地を訪れ、
ということや、
あなたの通られた跡には
ということは、主のご臨在を示しています。
ここに記されていることは、神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が造り主である神さまに罪を犯して堕落した後のことです。人と
の一体に置かれた「地」が人の罪の結果であるのろいを受けた後のことです。人の罪による堕落の前においては、どれほど豊かに神さまのご臨在の祝福が満ちあふれていたことでしょうか。
三位一体の神さまご自身が、御父、御子、御霊の三位にいまし、それぞれまったき神であられます。同時に、一つの本質、一つの実体にいまし、唯一の神であられます。神さまご自身が、多様性と統一性の完全な調和のうちにおられます。それが、この世界の多様性、すなわち、ただ数において多くのものがあるだけでなく、それぞれに特有な性質をもった多様なものがあるということと、統一性、すなわち、私たちには無数とも思える多様なものがあるのに、まったき調和の中にあるということの根源です。これは統一性と多様性の完全な調和という、三位一体の神さまの存在のあり方を反映している、被造物世界の存在のあり方の根本原理です。
より具体的なこととしましては、この世界の光は物理的な光ですが、ヨハネの手紙第一・一章五節に、
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
とあかしされています、まことの光であられる造り主である神さまご自身を映し出すものです。そして、この世界にいのちが満ちているのは、造り主である神さまが生きておられる神であられることを映し出すものです。その生き物たちのいのちの営みをとおして、また、そのいのちを育む植物たちが成長し実を結ぶことをとおして、神さまの愛といつくしみがあかしされています。
それらの中にあって、神のかたちに造られた人は、愛といつくしみを中心とした造り主である神さまの人格的な特性を映し出す人格的な存在として造られています。神のかたちに造られた人のうちには造り主である神さまへのわきまえが与えられており、造られた後、あるいは生まれた後から学ばなくても、神さまを知っており、初めから造り主である神さまに向かい、神さま礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとして造られています。また、同じく神のかたちに造られた隣人との愛の交わりのうちに生きるものとして造られています。それで、神のかたちに造られた人の心には、マタ
イの福音書二二章三七節ー三九節に記されています、
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
という第一の戒めと、
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
という第二の戒めに集約される「愛の律法」が記されています。
ですから、神のかたちに造られた人は、他から教えられなくても、神さまが自分たちと自分たちが住んでいるこの世界の造り主であることを知っていますし、この世界のすべてのものが造り主である神さまの愛といつくしみに満ちた栄光を現していることを知っていたのです。
このことは、今日でも変わってはいません。人が神のかたちに造られていることと、それゆえに造り主である神さまに対するわきまえが与えられていることは変わっていません。ただ、人は造り主である神さまに罪を犯して、御前に堕落してしまっていますので、造り主である神さまを神として認めないのです。ローマ人への手紙一章二一節に、
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
と記されているとおりです。ここに、
彼らは、神を知っていながら、
と記されていますように、すべての人は造り主である神さまを知っています。しかし、その神さまを神として認めないのです。それで、これは人の意志の問題です。そうであるので、これは罪であるのです。
このように、造り主である神さまは、人を初めから神さまに対するわきまえをもつもの、そして、神さまに向かい、神さまを愛し、造り主として礼拝するものとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。
そして、繰り返しになりますが、神さまはこのように神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられた人がその使命を果たすために備えられた時である、天地創造の御業の「第七日目」をも祝福し、聖別してくださいました。
最後に、これらすべてのことを、
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
という主の祈りの第六の祈りにかかわらせて、一つのことをお話ししておきたいと思います。
それは、この祈りの後半に出てくる「悪」をどのように考えるかということです。
この祈りに出てくることばそのものにつきましては、改めてお話しします。今日は、これまでお話ししてきたこととのかかわりで考えられることだけをお話しします。
私たちはともすると「悪」というと、自分にとってよくないもののことだと考えがちです。もちろん、「悪」は私たちにとってよくないものです。しかし、「悪」をそのように自分中心に理解して終わってはなりません。これには、これまでお話ししてきましたような、神さまがこの世界と神のかたちに造られた人を、ご自身の愛といつくしみに満ちた栄光を映し出すものとしてお造りくださったということがかかわっています。
「悪」は、これまでお話ししてきましたような神さまの創造の御業を根底から腐敗させ、損なう「もの」、あるいは腐敗させ、損なう「こと」です。それも、ただ神さまがお造りになったものを腐敗させ、損なうというだけではありません。神さまが天地創造の御業の「第七日目」に祝福して、聖別してくださった、この歴史的な世界の歴史、特に、神のかたちに造られた人が造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たして造り出す、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化を根底から腐敗させ、損なうものであるのです。その意味で「悪」は、創造の御業において存在するようになったものをお喜びになり、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たす中で、神さまとの愛の交わりを深めていくことをお喜びくださる造り主である神さまに悲しみをもたらすものです。
ここでは、主の祈りの第六の祈りに出てくる「悪」をこのような、神さまの創造の御業にかかわる広い視野から理解すべきことを踏まえておきたいと思います。
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