(第219回)


説教日:
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。これまで、この祈りの前半の主題である、私たちがこの世で経験するさまざまな「試み」についてお話ししてきました。そして、その最後のこととして、「キリストとともに苦しむ」ということについていろいろなことをお話ししてきました。
 このことにおいて最も大切なこととしてお話ししたのは、私たちがこの世で経験するさまざまな試みによって苦しむときに、イエス・キリストが、私たちとともに苦しみ痛んでくださっているということです。これまで、このことをより大きな視野から理解するために、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業において、神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったことに注目してきました。
 そのことを簡単に振り返っておきましょう。これまで繰り返しお話ししたことですので、結論的なことだけをお話しします。
 神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことは、神さまがお造りになったものを、ご自身の喜びとされたことを意味していると考えられます。
 このことはまた、創世記1章2節以下の記事の視点と関心が「」に置かれていることと深く関わっていると考えられます。
 イザヤ書45章18節に記されていますように、神さまはこの「」を「人の住みか」にお造りになりました。詩篇115篇15節、16節にも、

 あなたがたが主によって祝福されるように。
 主は、天と地を造られた方である。
 天は、主の天である。
 しかし、地は、人の子らに与えられた。

と記されています。
 創造の御業の記事は、この「人の住みか」として造られるようになる「」に関心を寄せ、しかも、後にここに住むようになる「」の視点、「」の目線で創造の御業を記しています。言うまでもなく、それによって、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねるようになる人が、どのように神さまの創造の御業を理解し、さらには、神さまがお造りになったこの世界とそこに住まう自分たちがどのような意味をもっている、というより、意味を与えられている存在であるかを、汲み取ることができるようになるためであると考えられます。
 そのような意味をもっている創造の御業において、神さまが最初に造り出された「」の状態について、1章2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。神さまが最初に造り出された「」は、とても「人の住みか」とは言えないものでした。しかし、そこには、

 神の霊は水の上を動いていた。

と言われていますように、「神の霊」のご臨在がありました。これによって、この「」は何よりもまず、造り主である神さまご自身のご臨在の場として聖別されていることが示されています。
 ですから、2節以下に記されている神さまの創造の御業は、神さまがご自身のご臨在の場を「人の住みか」に形造ってくださった御業です。これは、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになる人を、ご自身のご臨在の御前に住まうもの、そして、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。
 神さまが創造の御業を遂行されながら、しばし手を休めるようにして、お造りになったものを「よし」とご覧になったとき、それはこの「」がご自身のご臨在の場にして「人の住みか」として整えられていくことへの神さまのお喜びがあったと考えられます。そうであるとしますと、このことは、その神さまのお喜びの源は、神のかたちに造られた人に対する愛であったということを意味しています。


 神さまの本質的な特性は愛です。そして、ヨハネの福音書1章1節、2節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されていますように、神さまは永遠の「ことば」として紹介されている御子との無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられます。

 ことばは神とともにあった。

ということは、ここで用いられている「とともに」と訳されている前置詞(プロス)とヨハネの福音書1章の文脈から、「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにあることを示しています。そして、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていますように、「すべてのもの」は、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛のうちにまったく充足しておられる「ことば」なる方によって造られました。ですから、創造の御業は、神さまが「ことば」なる方によって、ご自身の愛を造られた世界に向けて注がれた御業であるのです。そして、その愛を受け止めるのが、創造の御業において神のかたちに造られた人です。
 神のかたちに造られた人の最大の使命は、御子にあって注がれた愛を受け止め、それに愛をもって応答することです。それで、造り主である神さまが神のかたちに造られた人の心に記してくださった律法は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めにまとめられる「愛の律法」であるのです。
 一般に、創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事は、神さまが人を神のかたちにお造りになって、これに「文化命令」と呼ばれる歴史と文化を造る使命をお授けになったことをもって頂点に達しているということが認められています。私たちは、このことを、御子にある父なる神さまの愛とのかかわりにおいて理解しなければなりません。

 イエス・キリストがサマリヤ人の女性に語られたみことばを記しているヨハネの福音書4章23節には、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

と記されています。ここで、

 父はこのような人々を礼拝者として求めておられる

というイエス・キリストのみことばに注目したいと思います。「このような人々」とは、その前のことばで言いますと、「霊とまことによって父を礼拝する」「真の礼拝者たち」のことです。ここでは、父なる神さまが「霊とまことによって父を礼拝する」「真の礼拝者たち」を「求めておられる」と言われています。この「求めておられる」ということば(ゼーテオー)は基本的に「探し求める」ことを表します。しかも、これは現在形で表されていて、父なる神さまが常に探し求めておられることを示しています。
 これと関連して思い出されるのは、これに先立つ、2章13節ー22節に記されているみことばです。そこには、

ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

と記されています。
 これは「宮きよめ」として広く知られていることです。エルサレム神殿は、契約の神である主のご臨在の場を指し示す地上的なひな型としての意味をもっていました。それは主がモーセをとおして示してくださった啓示に基づいて建設され、その啓示のみことばに基づいて礼拝がなされるべきものでしたが、別の思惑から、イエス・キリストが、

 わたしの父の家を商売の家としてはならない。

と糾弾されるようなことがなされてしまっていました。
 ここで、イエス・キリストは主の神殿の本来の姿を回復しようとしておられます。そればかりではなく、エルサレム神殿は地上的なひな型でしかなく、その本体はイエス・キリストの復活のからだであることを明らかにされました。このことは、古い契約の下にあったユダヤ人には理解されることがなく、神殿を汚すことと受け止められたようです。マタイの福音書26章60節、61節に記されていますが、後に、イエス・キリストが十字架に就けられるようになるときに行われたユダヤ当局者による裁判における告発の中に、この時のことが含まれています。
 このことと、先ほどのサマリヤ人の女性に語られたみことばを重ね合わせてみますと、イエス・キリストが、サマリヤ人の女性に、

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。

と言われたことの意味の一端が見えてきます。まことの神殿をお建てになる方がすでに来ておられます。

 今がその時です。

ということは、そのような方としてのイエス・キリストが来れられたことに基づいています。イエス・キリストによって、ご自身の復活のからだというまことの神殿が建てられ、そこにご自身の十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いの備えがあり、そのことをあかしする御霊と真理のみことばに基づく礼拝がなされるようになるのです。
 父なる神さまはそのような「真の礼拝者たち」を探し求めておられます。イエス・キリストは、ご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業によって、その「真の礼拝者たち」を生み出してくださいます。

 振り返ってみますと、本来、神のかたちに造られた人は初めから「真の礼拝者たち」でした。何よりもまず、主がご臨在される場として聖別されたこの世界に住まうべきものとして造られ、主のご臨在の御前において、主を礼拝することを中心とした、主との愛にあるいのちの交わりに生きるものでした。それは、神のかたちに造られた人にとっては最も自然な状態でした。
 そのような人が、契約の神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、造り主である神さまを神とすることはなくなってしまいました。まして、造り主である神さまを神として礼拝することはなくなってしまいました。そればかりか、神さまもご自身の聖なる御怒りをもって、罪に汚れた人をご自身の御前から退けておられます。
 そうではあっても、神のかたちに造られた人がご自身のご臨在の御前に住まい、礼拝を中心として、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きることは、初めからの父なる神さまのみこころでした。その意味では、先ほどの、

 父はこのような人々を礼拝者として求めておられる

というイエス・キリストの教えは、初めからの父なる神さまのみこころであると言うことができます。神のかたちに造られた人がご自身に対して罪を犯して、御前から退けられてしまうようになっても変わることなく、また、今日に至るまでも変わることがない父なる神さまのみこころであるのです。
 私たちは、心から探し求めているものがあると、それを見出すまで落ち着くことができません。そして、それを見出すと、ほっとするだけでなく、大きな喜びがあります。まして、これが、父なる神さまの私たちに対する計り知れない愛から出たことであることを思いますと、探し求めておられる者たちを見出したときの父なる神さまのお喜びの大きさが思われます。
 そのことは、また、心にかけているものが失われたときの父なる神さまの悲しみの大きさをもうかがわせます。人が神さまに対して罪を犯して、御前から堕落してしまったことが、神さまにとってどのようなことであったかを、私たちはある程度しか想像するこができません。
 これらのことから、御子イエス・キリストは、父なる神さまが探し求めておられる「真の礼拝者たち」を父なる神さまのご臨在の御許に導き入れ、礼拝することを中心とした父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださるために、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、まことの神殿を建ててくださったことが分かります。そのことによって、イエス・キリストは父なる神さまに喜びを帰しておられます。

 ルカの福音書15章には、失われたものに関して、イエス・キリストが語られた三つのたとえが記されています。第一のものと第二のものは4節ー10節に、

 あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

と記されています。
 この二つのたとえにおいては、失った人が失われたものを徹底的に探し出す様が示されています。このたとえにおいて失われたものを探し出す男性と女性はイエス・キリストを指していると考えられます。失われたものが見出されたのは、ひとえに、その男性と女性が失われたものに心をかけていて、見つかるまで探したことにあります。そして、それほどまでに失われたものに心をかけていたので、それを見つけ出したときの喜びは大きいことも示されています。そのことは、特に、最初のたとえにおいて、99匹の羊を残して、迷い出た一匹の羊を探しに行くことに如実に示されています。
 私たちもそのようにして、イエス・キリストによって見つけていただいて、私たちの本来の住まいである、父なる神さまのご臨在の御許に導き入れていただきました。

 第三の「失われた息子」のたとえは、「放蕩息子」のたとえとしてよく知られています。これを「失われた息子」のたとえと呼ぶことは、ウォーフィールドがこの個所の説教の中で述べていることです。前の二つのたとえと同じように、失われたものに関するたとえであるというのです。それを読んだときに、なるほどと納得したものでした。よく知られているたとえですので、それがどのようなものであるかを述べる必要ないと思いますが、このたとえでは、また別のことが示されています。それは、弟が父の身代を食いつぶし、これ以上落ちるところはないと思われるほどの状態になってしまったとしても、そして、本人も、もう子として扱っていただくことはできないと心底感じるほどであったとしても、父は悔い改めて帰ってきた息子を、大きな喜びをもって迎え入れてくれるということです。
 私たちが大きな罪を犯して、たとえ自分で自分に絶望するような状態になったとしても、それを悔い改めて帰っていくなら、父なる神さまは大きな喜びをもって受け入れてくださるということを示しています。もちろん、それは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、ご自身のいのちの値をもって、私たちの罪を贖ってくださっていることに基づいています。その御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業も、父なる神さまの私たちに対する愛の現れです。

 ちなみに、これら三つのたとえは、1節、2節において、

さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

と記されていることを受けて、イエス・キリストが語られたものです。三つ目のたとえの最後に出てくる、兄については、25節ー30節に、

ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。「弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。」すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」父は彼に言った。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

と記されています。この兄は「パリサイ人、律法学者たち」の姿勢を映し出しています。
 一見すると、これはイエス・キリストが「パリサイ人、律法学者たち」を糾弾するために語られたかのように見えますが、そういうことではありません。彼らを徹底的にやり込めるために、三つのたとえを重ねられたのではないのです。むしろ、彼らにも、罪人たちが罪を悔い改めて帰ってくることに対する父なる神さまの大きな喜びを分かってもらいたいのです。そして、それを分かち合って神さまとともに喜ぶようになってもらいたいからこそ、これら三つのたとえを重ねておられますし、最後のたとえにおいて、兄の姿を懇切丁寧に描いておられるのです。

 私たちが神さまに対して罪を犯すことは、神さまを悲しませることです。なぜなら、神さまは私たちを愛してくださって、私たちがご自身との愛の交わりに生きることを喜んでくださるからです。けれども、自分の罪の大きさを盾にして、父なる神さまの御許に帰らないことは、一見すると、自分の罪深さを自覚して謙遜であるかのように見えますが、実際には、さらに父なる神さまを悲しませることになります。
 父なる神さまのみこころは、私たちがその罪を悔い改め、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの完全さを信じて、父なる神さまの御許に帰ることです。このイエス・キリストのたとえが示しているように、父なる神さまは、私たちが御許に帰ることをご自身の大きな喜びとしてくださいます。なぜなら、父なる神さまは初めから変わることがない愛をもって私たちを愛してくださっており、私たちを再びご自身のご臨在の御前に住まうものとしてくださるために、ご自身の御子をも私たちの贖い主として立ててくださったからです。私たちがこの愛に応える道は、神さまが備えてくださった御子イエス・キリストを信じて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信頼して、父なる神さまの御許に帰ることです。
 最後に、エゼキエル書33章10節、11節を見てみましょう。そこには、その大きな罪のためにさばきを受けて、捕囚の地にあるイスラエルの民に向けて、主がエゼキエルをとおして語られたみことばが記されています。それは、

人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。「私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。」と。彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。―― 神である主の御告げ。―― わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」

というみことばです。これは、もはや取り返しのつかない状態になってしまったと感じて、絶望している捕囚の民に語られた契約の神である主のみことばです。父なる神さまのみこころは、どのようなときにも一貫していて、変わることがありません。

 


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