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説教日:2010年1月3日 |
このことはまた、創世記1章2節以下の記事の視点が「地」に置かれ、関心も「地」に注がれていることと深く関わっていると考えられます。イザヤ書45章18節に記されていますように、神さまはこの「地」を「人の住みか」にお造りになりました。しかし、創世記1章2節に、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されていますように、神さまが最初に造り出された「地」の状態は、とても「人の住みか」とは言えないものでした。しかし、そこには、 神の霊は水の上を動いていた。 と言われていますように、「神の霊」のご臨在、御霊による神さまのご臨在がありました。ですから、この「地」は何よりもまず、造り主である神さまご自身のご臨在の場であったのです。神さまはご自身のご臨在の場を「人の住みか」に形造ってくださいました。 それは、もちろん、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになる人を、ご自身のご臨在の御前に住まうものとしてくださるためでした。そして、そこでご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。その造り主である神さまとの愛の交わりが神のかたちに造られた人のいのちの本質です。 神のかたちに造られた人は初めから造り主である神さまを知っているものとして造られています。そして、神のかたちの本質的な特性は愛です。人は造られたその時から、造り主である神さまとの愛の交わりに生きるようになりました。それは、生まれたばかりの赤ちゃんが、生まれてすぐに、お母さんやお父さんとのつながりに生きるようになるのと同じです。創世記2章7節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されています。この記事は、人がまず最初に出会ったのは、御霊によってこの「地」にご臨在して、創造の御業を遂行された神さまであることを示しています。 ここでは、「神である主」(ヤハウェ・エローヒーム)という御名が用いられています。これは、固有名詞としての神さまの御名である「ヤハウェ」と属名である「エローヒーム」の組み合わせです。私に当てはめれば「清水武夫」が固有名詞としての名であり、「人間」が属名です。 「ヤハウェ」は出エジプト記3章に記されています、神さまがモーセに啓示してくださった「わたしは、『わたしはある。』という者である。」という御名が短縮され3人称化されて生み出されたものであると考えられます。これは、存在を強調する御名で、神さまが永遠にまたご自身で存在しておられる方であられること、さらに、お造りになったすべてのものの存在の根拠であり支えであられることを示していると考えられます。そして、これが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とともに啓示されていることから、特に、神さまが契約の神であられることを表していると考えられます。 「エローヒーム」は創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事に用いられている御名です。もちろん、この御名は聖書の至る所で用いられています。 また、「ヤハウェ・エローヒーム」という順序から、「ヤハウェはエローヒームである」という意味合いがあると考えられます。新改訳の「神である主」という訳は、このことを反映しています。これを、創世記2章に記されている記事に当てはめますと、ご自身の契約に基づいてこの「地」にご臨在してくださり、人と親しく向き合って、人の鼻に「いのちの息」を吹き込んでくださったヤハウェ、また、人をご自身の御前に住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださっておられるヤハウェは、天地創造の御業を遂行されたエローヒームである、ということを意味していることになります。この世界のすべてのものの創造者であられる神さまが、無限に身を低くしてこの「地」にご臨在してくださって、この「地」の「ちり」から形造られた人と親しく向き合ってくださり、「その鼻にいのちの息を吹き込まれ」、人が最初に出会った方となってくださったのです。このすべては、神さまの主権的で、それゆえに一方的な愛から出たことです。 このことに、創造の御業において、この「地」をご自身のご臨在の場として聖別され、さらに、これを「人の住みか」に形造ってくださった神さまのお喜びを感じ取らないではいられません。また、そのお喜びがどのようなものであるかを感じ取ります。今日もまた、この神さまのお喜びについて、もう少しお話ししたいと思います。 ヨハネの手紙第一・1章1節ー4節には、 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 と記されています。 ここにはヨハネの手紙第一の序論に当たることが記されています。ヨハネがこの手紙を記した目的は、私たちがお互いに交わりをもつようになるためであることが明らかにされています。その上で、 私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 と記されています。ですから、ここでは、私たちと父なる神さまおよび御子イエス・キリストとの愛の交わりが中心にあって、私たちお互いの愛が広められ深められていくことが示されています。 このこととの関連で、このヨハネの手紙第一においては、御子イエス・キリストと父なる神さまの私たちに対する愛が強調されていること、そして、それが私たちお互いの間の愛を生み出すものであると教えられていることが思い起こされます。3章16節には、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と記されています。また、4章7節ー11節には、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 と記されています。 このように、ヨハネは、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストのこの上ない愛に包まれて、お互いに愛し合うものであることを私たちに伝えています。この手紙には反キリストや誤った教えに警戒すべきことも記されています。それも、突き詰めていきますと、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対する愛を見失わせてしまうようになるものであるので、ひいては、私たちお互いの間の愛を損なってしまうものであるので、それに対して警戒するように教えられているのです。 ヨハネの手紙第一はこのような意味のある手紙ですが、先ほど引用しましたこの手紙の序論に当たる1章1節ー4節の最後の4節において、ヨハネは、 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。 と述べています。父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりのうちにあって、お互いの間の交わりを深めることによって「私たちの喜びが全きものとなる」と言われています。 私たちは愛の交わりにおいて、愛する者の存在そのものを喜びます。そして、その交わりが深くなればなるほど、その喜びは深くなります。ですから、「私たちの喜びが全きものとなる」ことと、私たちの愛がまったきものとなることは比例しています。また、まことの愛はこのような喜びを生み出します。 このことを考えますと、ひとつのことに思い至ります。この手紙において、私たちが互いに愛し合うべきことが本格的に記されているのは3章からです。先ほどお話ししましたように、その前の1章と2章に記されていることは、このことのための備えのような意味をもっています。そのように、私たちが愛のうちを生きるようにという戒めを記すに当たって、ヨハネは、3章1節、2節において、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 と記しています。 私たちはすでに「神の子ども」としていただいています。そのために、父なる神さまの計り知れない愛を与えていただいています。ですから、私たちは今も父なる神さまの計り知れない愛に包んでいただいています。しかし、ここでは、今私たちが父なる神さまの愛によって「神の子ども」とされているこの状態がずっと続くのではないことが示されています。 すでにいろいろな機会にお話ししましたが、2節で、私たちがやがて「キリストに似た者となる」と言われているのは、創造の御業において人が神のかたちに造られたときの状態に戻るということではありません。神のかたちに造られた人が、創世記1章28節に記されている、一般に「文化命令」と呼ばれる、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、最後まで神さまのみこころに従っていたなら、その報いとして与えられていたであろう、さらに豊かな栄光のある状態になるということです。 イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられますが、父なる神さまのみこころに従って、私たちご自身の民のための贖い主となってくださるために、人となってこの世に来てくださいました。イエス・キリストがお取りになった人の性質は、創造の御業において人が神のかたちに造られたときの人の性質です。いまだ罪によって汚染されてはいないときの人の性質です。それによって、初めて、私たちの身代わりとなって私たちの罪に対する刑罰をお受けになることがおできになります。 そのようにして来てくださった御子イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、その報いとして、さらに豊かな栄光を獲得され、死者の中からよみがえられました。そして、その豊かな栄光にふさわしい所である父なる神さまの栄光のご臨在の場である「天」に上られ、父なる神さまの右の座に着座されました。そして、そこから御霊を注いでくださり、御霊によって私たちを治めてくださっています。そのお働きの中心にあるのは、ご自身が成し遂げてくださった贖いの御業を、御霊によって、私たちに当てはめ、私たちを罪からきよめ、私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生かしてくださっていることです。これが、ヨハネが、 私たちは、今すでに神の子どもです。 とあかししていることの根底にあることです。 ヨハネは、この御霊による栄光のキリストのお働きには完成の時があるということをあかししています。それが、 しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。 と言われていることです。これは、私たちにとっては、福音のみことばにおいて与えられた神さまの約束です。 注目すべきことは、これに続いて、 なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されていることです。 この部分の理解の仕方については意見が分かれていますが、かなりややこしいことになりますので、その議論は省きまして、結論的なことをお話しします。この、 なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 ということばは、私たちが「キリストに似た者となること」の理由を示しています。私たちが「キリストのありのままの姿を見る」ことによって、私たちは「キリストに似た者となる」ということです。私たちが「キリストのありのままの姿を見る」ことは、「神を見ること、ウィシオ・デイ、Visio Dei」として神学の世界でも話題になってきたことに当たります。 私の理解では、ここでヨハネが述べていることの根底には、出エジプト記32章ー34章に記されているシナイにおけるモーセの経験があります。イスラエルの民が主の栄光のご臨在のあるシナイ山の麓で、金の子牛を造って、これを契約の神である主、ヤハウェであるとして礼拝したときのことです。その時、主の栄光のご臨在に接したモーセの「顔のはだが光を放つ」ようにななりました(34章29節、30節、35節)。しかし、モーセは主の栄光のご臨在に直接的に触れたのではありません。33章21節ー23節に、 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」 と記されているとおりです。いろいろな機会にお話ししましたが、ここで「うしろ」と訳されていることばは「背中」を表わすことばではありません。これは、夕日が沈んだ後の「夕焼け」のようなものに当たります。このモーセの経験は、私たちイエス・キリストの血による新しい契約の時代に生きている主の民が、主の栄光のご臨在に触れることの「地上的なひな型」です。それで、その時は、ただモーセの「顔のはだが光を放つ」ようになっただけでした。私たち新しい契約の下にある主の民は、内側から栄光のキリストに似た者に造り変えられていくようになっています。しかも、モーセの場合には、それは一時的なことで、やがてそれは消え去っていきました。モーセは主の栄光が消えていく様をイスラエルの民に見せないために、その顔におおいをかけていました。 パウロはこの出来事を引いてコリント人への手紙第二・3章18節において、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と述べています。 ここで、私たちが「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と言われているときの「主」とは、栄光のキリストのことです。また、 鏡のように主の栄光を反映させながら と訳されている部分は、おそらく、 鏡の中にあるように主の栄光を見ながら と訳したほうがいいと思われます[Murray Harris, NIGTC, p. 344]。どちらも可能ですが、背景となっているモーセの経験や、その他の新約聖書の教えの光からこのように訳したほうがいいと思われます。いずれにしましても、ここではモーセが古い契約の「地上的なひな型」として経験したことが、御子イエス・キリストの血による新しい契約の下にある私たちの間に実現しているということが示されています。 ヨハネの手紙第一・3章2節においては、このことが、終わりの日に栄光のキリストが再臨されるときに、私たちの間に完全に実現し、私たちは栄光のキリストに似た者となると言われています。そして、その理由が、 なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と言われています。 このこととの関連で思い出されるのは、パウロが愛について記しているコリント人への手紙第一・13章12節に記されている、 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 というみことばです。これだけを読みますと何のことか分からないかもしれませんが、これは愛について記されている中でのみことばです。 大切なことは、ヨハネの手紙第一・3章2節で言われている「キリストのありのままの姿を見る」と言われていることは、栄光のキリストを遠くから見るようになるという意味ではなく、親しい交わりのうちに御顔を仰ぐようになるということです。栄光のキリストのご臨在の御許に近づけられて、親しい交わりのうちにイエス・キリストを知るようになるということです。ですから、これは、ヨハネがこの手紙の冒頭において、 私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 と述べていることの完成を意味しています。 ヨハネは私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に包まれて、互いに愛し合うべきことを述べていくことに先だって、終わりの日に私たちが栄光のキリストと直接的に相まみえるようになること、そして、その時にこそ私たちが完全な意味で栄光のキリストに似た者となり、 私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 と言われている私たちの交わりがまったきものとなることを明らかにしています。そうしますと、その時にこそ、ヨハネが、 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。 と述べている、この手紙を記した目的が完全な意味で実現することになります。 これらのことに、私たちは愛は限りなく深められていくものである、ということを見ます。パウロは、先ほど触れましたコリント人への手紙第一・13章の8節で、 愛は決して絶えることがありません。 と述べています。また、13節では、 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 と述べています。「愛は決して絶えることが」なく「いつまでも残るもの」です。しかも、それは、限りなく深められていくのです。というのは、神さまが御子イエス・キリストにある限りない愛をもって私たちを愛してくださっているからです。この父なる神さまの限りない愛は、私たちにとっては常に新鮮に私たちを満たしてくださいます。そして、この父なる神さまの限りない愛によって、私たちのお互いの愛が支えられます。 このことからも、私たちがこの数週間考えてきたことを確かめることができます。このように、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって限りない愛をもって私たち愛してくださっているのであれば、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストとの交わりのうちに生きることによって、ヨハネが言うように「私たちの喜びが全きものとなる」だけでなく、父なる神さまと御子イエス・キリストにも喜びが帰せられるようになるということです。 私たちは、もしかすると、神さまとの交わりは私たちの義務であって、神さまはただ私たちの祈りや礼拝をご覧になっておられるだけであるというようなイメージをもってしまうかもしれません。神さまとの交わりは、確かに、私たち神さまによって造られたものの義務です。しかし、義務的に果たされる義務ではありません。 私たちは罪を宿しているものですので、私たちの愛は冷えてしまうことがあります。交わりも新鮮なものではなくなってしまうことがあります。そのような私たちの現実を神さまにまで当てはめてしまいやすいのです。あるいは、私たちが罪を犯してしまったときなどに、父なる神さまの御許に近づいてはいけないのではないかと感じてしまうかもしれません。 しかし、どのようなときにも、私たちが御子イエス・キリストにあって父なる神さまの愛を受け止め、父なる神さまを愛して御許に近づくときに、父なる神さまのうちは私たちに対する愛に基づく喜びがあります。もちろん、罪を犯したときには、その罪を悲しみ、悔い改めて、御子イエス・キリストにあって父なる神さまに近づくのです。そのとき、父なる神さまは私たちをお喜びになります。それは父なる神さまの愛がまことの愛であることに基づくことです。愛は喜びを生み出すものです。 このように、神さまと私たちの交わりは、それを神さまがご自身の喜びとしてくださっているという意味において、神さまのみこころであり、それゆえに私たちの義務です。それは、私たちにとって喜びをともなう義務であり、ヨハネがあかししているように、私たちの喜びがまったきものとなるためのものです。 それで、私たちはこのことを深く心に留めて、どのようなときにも、御子イエス・キリストの大祭司としてのお働きに信頼し、大胆にまた確信と喜びをもって、父なる神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまを礼拝し、神さまに祈り、讃美をささげたいと思います。 |
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