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説教日:2009年12月27日 |
さらに、それは、創世記1章2節以下の記事の視点が「地」に置かれ、関心も「地」に注がれていることと深く関わっていると考えられます。イザヤ書45章18節にありますように、神さまはこの「地」を「人の住みか」にお造りになりました。しかし、創世記1章2節に、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と記されていますように、神さまは最初にとても「人の住みか」とは言えない状態にある「地」を造り出されました。もちろん、これは神さまがこのような状態の「地」しか造り出せなかったということではありません。私たち人間であれば、限界のために、ある程度の作業をして、後はまた明日ということになります。しかし、神さまは全能の主ですので、一瞬のうちに、完成した「地」ばかりでなく、完成した大宇宙を造り出すことがおできになります。それで、神さまが最初にこのような状態の「地」を造り出されたことは神さまのみこころによることであり、それには意味があると考えられます。 これには、いろいろな意味があると思われます。今お話ししていることと関連することだけをまとめておきしょう。 まず考えられることは、神さまの創造の御業には順序と発展があるということです。最初により基礎的なものが造り出され、次にその基礎的なものの上に存在するものが造り出されています。ですから、後に造られたものは、その前に造られたものの存在を前提としており、それに依存したり、支えられたりして存在しています。また、後に造られたものは、神さまがどのような方であるかをより豊かに現す存在です。 たとえば、創造の御業の第3日に、種をもって実を結ぶ植物が造り出されています。それは神さまが2節に記されている「大いなる水」を大空の上にある水と下にある水の二つに分けて、今日のことばで言う大気圏を整えてくださり、さらに、下の水を一所に集めて海としてくださるとともに、かわいた地を出現させてくださったことを踏まえています。 また、これらの環境が整えられてから、神さまが生きておられる方であることをより豊かに現す「いのちのあるもの」が造られています。第5日に、水にすむ生き物と翼をもって飛ぶものが造られ、さらに、第6日に、動物たち、そして、最後に神さまが生きた人格的な方であることを最も豊かに現す、神のかたちに造られた人が造られています。 このように、最初に造られたものはより基礎的なもので、その後に造られるものを支えるはずです。しかし、神さまが最初に造り出された「地」は、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 と言われている状態にあり、とても、すべてのものを支える状態にはありませんでした。その状態にあって、唯一、積極的なことは、 神の霊は水の上を動いていた。 ということでした。つまり、この後に造り出されるすべてのものを最終的に支えているのは、「地」そのものではなく、そこにご臨在しておられた「神の霊」、御霊によってご臨在しておられる神ご自身であるのです。世間一般で「母なる大地」と呼ばれているこの「地」も含めて、すべてのものを最終的に支え、導いているのは、この「地」にご臨在しておられる神さまの御霊です。この「地」が「母なる大地」と呼ばれるほどの豊かさに満ちているのは、御霊によってご臨在しておられる神さまが、これを「人の住みか」として整えてくださっているからです。 このことは、これまで繰り返しお話ししてきましたように、この「地」は基本的には神さまが御霊によってご臨在される所であるということを意味しています。この「地」は最終的には「人の住みか」として整えられていきますが、それに先だって、またそれ以上に、この「地」は造り主である神さまがご臨在される「神殿」としての意味をもっているのです。そして、このようにして、この「地」にご臨在される御霊が、この「地」をご自身がご臨在される所にふさわしく、また「人の住みか」にふさわしくなるように、すべてのものを整えていかれました。 また、そのように、より後に造られたものは、その前に造られたものがあることを前提としていて、それらに支えられています。その意味では神のかたちに造られた人は最後に造られましたから、最も多くのものの存在を前提としており、最も多くのものに支えられていると言うことができます。 神のかたちに造られた人は1章28節に、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されていますように、歴史と文化を造る使命を委ねられています。それは、神さまがお造りになったすべてのものを、神さまのみこころに従って支配し、治める使命です。 神のかたちに造られた人は、この使命を遂行する中で、自分たちに委ねられたすべてのものを最終的に支えておられるのは造り主である神さまであることを、現実的に知るようになります。また、自分たちは最も多くのものの存在を前提として、それらに支えられて生きているということを自覚するようになります。そのことを自覚しつつ、自分たちを含めて、すべてのものを最終的に支えておられる造り主である神さまに思いを向け、すべてのことにおいて神さまを信頼し、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きるものとして召されています。これが歴史と文化を造る使命の中心にあることです。 その意味でも、この「地」が、基本的に、神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっているということ、つまり、この「地」が造り主である神さまを礼拝する所であるということがとても大切なことです。 創造の御業において、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったのは、このように、この「地」をご自身がご臨在される所にふさわしく、また「人の住みか」にふさわしく整えてゆかれることを念頭において、その御業の進展を喜んでおられるということを意味していたと思われます。 このようなことから、創造の御業における神さまのお喜びの中心は、神のかたちに造られた人がご自身のご臨在の御前に近づいて、礼拝をささげることを中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生きるようになることにあるということが分かります。それはまた、造り主である神さまのお喜びは、神のかたちに造られた人に対する愛に基づいており、その愛から出ているということです。私たち神のかたちに造られた人間でも、愛する者がそこにいること、そしてその愛する者との交わりが喜びとなります。 創造の御業の記事では、そのことが実現した後のこと、人が神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命が委ねられるようになった後のことが、1章31節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。 前回は、この神さまのお喜びは創造の御業において終わってしまっているのではなく、創造の御業から始まる歴史の中で、より深く豊かになっていくべきものであったということをお話ししました。そして、そのことを、神さまが人を神のかたちにお造りになったこととの関わりでお話ししました。そのことを別の面からもう少しお話ししたいと思います。 人は神のかたちに造られており、神のかたちとしての栄光を与えられているので、神さまの栄光のご臨在の御許に近づくことができ、神さまとの愛の交わりのうちに生きることができます。 神さまは聖書のみことばをとおして、神のかたちに造られた人が創造の御業において与えられた神のかたちとしての栄光をさらに豊かにもつものとなるように計画しておられることを明らかにしてくださっています。そのことについては、前回お話ししました。それは、神さまが神のかたちに造られた人を、最初に造られたときの状態におけるより、もっとご自身の栄光のご臨在に近づけてくださり、もっと深く親しい愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるためのことでした。それは、私たちの無上の祝福と幸いを意味していますが、同時に、神さまの喜びがより深くなることをも意味していると考えられます。私たちの場合でも、愛する者との交わりが深くなればなるほど、喜びも深く豊かになります。 このこととの関連で、ヘブル人への手紙2章5節ー12節を見てみましょう。そこには、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と記されています。 いろいろなことが示されていますが、今お話ししていることと関わることだけに触れておきます。 5節では「私たちがいま話している後の世」と言われていますが、この「後の世」の「世」と訳されたことば(オイクーメネー)は人などが「住んでいる世界」を表し、「後の」ということば(メルーサ)は「来たるべき」ということを意味しています。これは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって贖いの御業を成し遂げてくださった後、栄光を受けて死者の中からよみがえり、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことによって始まっている「新しい時代」、「来たるべき時代」のことです。 イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたということは、そこでゆっくりお休みになるということではありません。イエス・キリストがご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、すべてのものを支配することを開始されたことを意味しています。それは、力尽くの支配ではなく、あくまでも、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づく支配です。そして、その支配が及ぶ所がここで言われている「後の世」です。これは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて「新しい天と新しい地」を再創造されることによって完全に実現し、完成します。 6節ー8節前半では、 人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。 という、詩篇8篇5節、6節のみことばが[7十人訳にしたがって]引用されています。ここでは最初の創造の御業において、人が神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられていることが語られています。 このこと、すなわち、人が神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられていることは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、無に帰してしまったように見えます。実際、神のかたちとしての栄光は損なわれてしまっています。しかし、詩篇8篇5節、6節は、人間が罪を犯して堕落してしまったことによっても、人が神のかたちに造られているという事実は変わっていないし、歴史と文化を造る使命が取り消されてはいないということを示しています。 そして、このヘブル人への手紙2章5節ー10節では、それが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって回復されるばかりか、神の子どもたちが、栄光のキリストの復活にあずかって、最初の創造の御業によって与えられた神のかたちとしての栄光にまさる栄光を受けるようになることが示されています。 このような見通しの下で、注目したいのは、7節で、 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 と言われていることです。これは創造の御業において神のかたちに造られた人に与えられた栄光は、御使いたちの栄光より「低いもの」であったことを意味しています。しかし、それは「しばらくの間」*のことであって、ずっとそうであるわけではないことが示されています。 *この「しばらくの間」と訳されたことば(ブラクゥ・ティ)は、9節にも出てきます。新改訳欄外には、別訳として「いくらか」という訳があります。 BAGとして知られているレキシコンとExegetical Dictionary of the NewTestament(『新約聖書釈義辞典』)は、七十人訳では「いくらか」の意味であることを認めつつ、この7節と9節に関しては、「しばらくの間」を採用しています。また、Abbot-Smithのレキシコンは、両方の意味を取り上げています。 聖書の翻訳でも、どちらを本文に取り上げるかにばらつきがあります。 注解書では、F. F. Bruce (NICNT)は、七十人訳では「いくらか」の意味であるとしつつ、この7節と9節においては「しばらくの間」かもしれないと注記しています。 Lane (WBC)とEllingworth (NIGTC)は、9節に出てくる、イエス・キリストに関する記述について論じて、「しばらくの間」に軍配を上げています。 これがどちらの意味であっても、今お話ししていることの主旨は変わりません。 けれども実際には、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯したことによって、神のかたちとしての栄光も損なわれてしまいました。 この二つのこと、すなわち、人が神のかたちに造られたことと、罪によって神のかたちとしての栄光を損なってしまったことを踏まえたうえで、9節では、 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。 と言われています。 ヘブル人への手紙の中では、ここで初めて「イエス」という名前が出てきます。これまでは「御子」と言われてきました。この「イエス」という名前によって、御子が人となって来てくださったことが示されています。そして、イエス・キリストも「御使いよりも、しばらくの間、低くされた」と言われています。御子が人となられたので、詩篇8篇5節、6節に記されていることが御子イエス・キリストにも当てはめられるようになったのです。 9節では、これに続いて、 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。 と言われています。これは、イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って十字架におかかりになり、私たちの罪を贖ってくださったことと、その完全な従順に対する報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたことを指しています。 9節ではさらに、 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。 と言われています。イエス・キリストの十字架の死の苦しみは、私たちが神さまの恵みによって、それにあずかって罪を贖っていただくためのものであったということです。 そればかりではありません。10節では、 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と言われています。ここで「彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた」と言われていることは、イエス・キリストが十字架の死の苦しみを味わわれた後に、「栄光と誉れの冠をお受けに」なったことを指しています。そして、ここでは、そのことも、「多くの子たちを栄光に導く」ため、すなわち、私たち神の子どもたちを「栄光に導く」ためであったということが示されています。 この場合の「栄光」は、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 と言われている、創造の御業において神のかたちに造られた人に与えられた栄光のことではありません。神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、完全に神さまのみこころに従っていたなら、その従順に対する報いとして与えられていたであろうより豊かな栄光のことです。 御子イエス・キリストはその十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その従順に対する報いとして、このより豊かな栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられ、天において父なる神さまの右の座に着座されました。神さまは私たちに対する一方的な愛と恵みによって、私たちをイエス・キリストの十字架の死ばかりでなく、イエス・キリストの栄光にもあずからせてくださるのです。 そのことは、すでに私たちの現実になっています。エペソ人への手紙2章4節ー6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されているとおりです。ここに記されていることは、私たちがすでにヘブル人への手紙2章5節の「後の世」に属するものとなっていることを意味しています。 創造の御業において人が神のかたちに造られたことは、 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 と言われていることに当たります。その栄光は、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落したことによって損なわれてしまいました。しかし、神さまは一方的な愛と恵みによって、私たちをイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずからせてくださいました。そればかりでなく、イエス・キリストの復活にもあずからせてくださって、私たちを最初の神のかたちの栄光より、さらに豊かな栄光にあずからせてくださっています。 このような栄光は御使いたちには与えられていません。御使いたちは最初神のかたちに造られた人より栄光あるものに造られましたが、ずっとその栄光のままでいます。しかし、神のかたちに造られた人は、それより豊かな栄光をもつものとなるべき者として造られています。そして、神さまは御子イエス・キリストによって、このことを私たちの間に実現してくださいました。このような栄光にあずかっている私たちは「神の子ども」としての身分を受けていますし、それにともなう特権にもあずかっています。そのことは、ローマ人への手紙8章14節、15節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と記されています。御使いたちには、このような特権は与えられていません。それで、御使いたちは神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることはありません。 このように、神さまはご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、神のかたちとしての栄光を失ってしまっていた私たちを、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださいました。それによって、私たちを創造の御業において与えられた神のかたちとしての栄光よりさらに豊かな栄光をもつものとしてくださいました。そして、これによって、私たちを「神の子ども」としてくださり、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることができるほどにご自身に近いものとしてくださいました。 私たちは最初に造られた状態の人より、もっと神さまの栄光のご臨在に近づけていただいており、もっと深く親しい愛の交わりのうちに生きるものとしていただいています。繰り返しになりますが、これは、私たちの無上の祝福と幸いを意味していますが、それ以上に、神さまの喜びがより深くなることをも意味しています。 大胆なことですが、私たちが、御子イエス・キリストの御名によって、父なる神さまを「アバ、父。」と呼び、父なる神さまを礼拝し、父なる神さまに祈り、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるときに、父なる神さまのうちに喜びがあることを信じて歩みたいと思います。 |
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