(第216回)


説教日:2009年12月13日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、私たちがこの世で経験するさまざまな「試み」についてお話ししてきました。その最後のこととして、「キリストとともに苦しむ」ということについてお話ししています。
 このことにおいて最も大切なこととして、私たちがこの世で経験するさまざまな試みによって苦しむときに、イエス・キリストが、私たちとともに苦しんでくださっているということをお話ししました。
 この数週間は、このことをより大きな視野から理解するために、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業において、神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったことについてお話ししました。今日はそのことをさらに補足するお話をしたいと思います。
 すべてのことを完全に知っておられる神さまが、わざわざ何かをご覧になるということには、特別な意味があります。それは、神さまがそれにお心を注いでくださり、それに、人格的にかかわってくださっていることを意味しています。そして、それを「よし」とされたということは、ご自身の創造の御業によってそこに存在するようになったものを、ご自身の喜びとされたということであると考えられます。
 創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事においては、このことは、特に、その記事の視点と関心がこの「」に置かれていることとかかわっています。
 1章1節では、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われていて、この世界のすべてのものは神さまがお造りになったものであることを宣言しています。
 そして、これに続く2節からは、創造の御業の記事の視点と関心は「」に移されています。イザヤ書45章18節に記されているみことばが示していますように、神さまはこの「」を「人の住みか」にお造りになりました。しかし、創世記1章2節には、神さまが最初に造り出された「」のことが、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。これは、「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを意味しています。そして、

 神の霊は水の上を動いていた。

と言われていますように、ご自身が御霊によってそこにご臨在されたのです。これによって、この「」は「人の住みか」である前に、また、「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される所であることが示されています。
 これは、神さまがこの「」を独占するためのことではありません。神さまはご自身がご臨在される所であるこの「」を「人の住みか」としてくださることによって、人をご自身のご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛の交わりのうちに生かしてくださるのです。
 繰り返しのたとえになりますが、聖書においては、契約の神である主とその民の関係は夫と妻の関係にたとえられています。ですから、これは花婿が花嫁を迎えるために自分たちの住まいを建てていることにたとえることができます。神さまは、神のかたちに造られた人がご自身との愛の交わりのうちに生きるようになることをお考えになって、この「」が整えられていくことをご自身の喜びとされたのであると考えられます。


 このような創造の御業における神さまの喜びは、創造の御業において終るものではありませんでした。この「」をご自身のご臨在される所として、また「人の住みか」として整えてくださるときの喜びは、実際に、神のかたちに造られた人がご自身のご臨在の御許において、ご自身との愛の交わりのうちに生きるようになったときにより豊かなものとなったはずです。
 先ほどの花婿と花嫁の関係にたとえますと、花婿が自分たちの住むべき家を建てているときにも、それとしての喜びがあることでしょう。しかし、それは、実際に、二人がそこに住むようになって初めて、まっとうされる喜びです。
 このようなたとえを用いますと、私たちは、いや、二人が一緒になる前のわくわくしている状態の方が喜びが大きいのではないかとか、実際に、一緒に住むようになるとお互いの欠点が見えてきて、いさかいが起こったり、やがて、倦怠期がやって来るのではないかというようなことを考えてしまうかもしれません。しかし、それは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために生じた感じ方です。
 神さまは愛において無限、永遠、不変のお方です。ですから、被造物として、あらゆる点において有限な存在である人間が、時間的な意味で永遠に神さまとの愛の交わりのうちに生きることによって、神さまの愛に触れ続けても、神さまの愛の限界が見えてくるというようなことは決してありません。神さまの愛は常に新鮮であり、永遠に神のかたちに造られた人を深い喜びのうちに生かしてくれるものであり続けます。このような、永遠に新鮮な愛にある神さまとの交わりが聖書に言われている「永遠のいのち」です。
 とはいえ、このことは、最初に神のかたちに造られた状態のアダムとその妻エバに当てはまることでした。しかし、私たちはただ被造物としての限界の中にあるだけではありません。私たちは造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった者の子孫です。今は、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪を贖っていただいていますし、イエス・キリストの復活にあずかって、新しく生まれています。けれども、私たちのうちにはなおも罪の性質が残っています。そのために、私たちの愛はなおも自己中心的に歪んでしまっています。しかも、その愛もまことに貧しいものでしかありません。その上、私たちはどうしても、自分たちの貧しい愛を基にして神さまの愛を考えてしまいます。というより、それ以外に、私たちが神さまの愛を理解する道がありません。
 いったい、そのような私たちが神さまの愛を理解し、受け止めることができるのでしょうか。どうしても無理のような気がします。しかし、実際に、私たちは、今の私たちの限界の中にあってのことではありますが、イエス・キリストをとおして示されている神さまの愛を理解し、受け止めています。もちろん、それはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによることです。
 ローマ人への手紙5章8節には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と記されています。「私たちがまだ罪人であったとき」、私たちが造り主である神さまを神として礼拝することがなかったばかりか、神さまに敵対して歩んでいたときに、私たちのために御子をお遣わしになり、その十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださったことに、神さまの私たちに対する愛がこの上なく鮮明に表されました。
 以前このみことばを引用したときにもお話ししましたが、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

と言われているときの「明らかにしておられます」は現在時制で表されています。つまり、イエス・キリストの十字架の死によって表された神さまの愛は、今から2千年前にイエス・キリストが十字架にかかって、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださった御業の完成とともに終わってしまったのではなく、今も変わることなく、私たちに注がれているということです。そして、今、私たちがこの愛を受け止めることができるようにしてくださっているのは御霊です。

 私たちはこのようにして、御霊によって理解し、受け止めさせていただいた神さまの私たちに対する愛を基にして、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に注いでくださった愛がどのようなものであったかを推察しています。
 私たちには、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に注いでくださった愛と、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して私たちに注がれている愛が違う愛のように感じられるかもしれません。しかし、神さまの愛に変化があるわけではありません。
 この神さまの私たちに対する愛は、さらに永遠の聖定において私たちに示してくださっている愛にまでさかのぼります。エペソ人への手紙1章3節ー5節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。神さまが私たちをイエス・キリストにあってお選びくださり、「御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」のは、神さまの一方的な愛によることです。この愛は「世界の基の置かれる前から」の愛、永遠からの私たちに対する愛です。
 神さまはこの愛を私たちの間に実現してくださるために、創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださいました。また、そのような豊かな祝福を受けた人が、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった後には、ご自身の御子を贖い主として立ててくださり、御子の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。これも、永遠からの神さまの愛を、人類の罪による堕落という深刻な問題が生じたにもかかわらず、私たちの間に実現してくださるためのことでした。
 このことを理解しますと、創造の御業において神のかたちに造られた人に注がれた神さまの愛と、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業において私たちに注がれている神さまの愛には一貫性があることが分かります。それで、今、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死をとおして示された神さまの愛を基にして、創造の御業において神のかたちに造られた人に示された神さまの愛を推測することが、必ずしも見当違いのことではないことも分かります。
 私たちは神さまが私たちの罪の贖いのために御子をもお遣わしになったことに、神さまの私たちに対する愛がこの上なく深く豊かに現されたことを汲み取っています。しかし、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人にどれほどの愛を注いでくださったかについては、それほど注意を払ってこなかったのではないでしょうか。
 神さまの愛というと、御子イエス・キリストによって贖いの御業を成し遂げてくださったことに現されている神さまの愛しか思い出せないとしますと、私たちはなお見るべきものを見ていないと言わなければなりません。確かに、私たちは御子イエス・キリストによって贖いの御業を成し遂げてくださったことをとおして初めて神さまの愛を知るようになりました。しかし、そのことは、さらに、創造の御業において神さまが神のかたちに造られた人に示してくださった愛を理解する助けとなることなのです。
 神さまは創造の御業において、この広大な大宇宙の中でも、この「」をご自身が特別な意味でご臨在される所として聖別されました。そして、この「」を「人の住みか」として整えてくださいました。このこと自体が、すでに、神さまの私たちに対する愛の現れであったのです。そして、人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことによって、その愛を人に注いでくださいました。これによって、神さまは神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御許において、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださったのです。私たちはそこに神さまの喜びがあふれていたことを汲み取ってきました。
 私たちはウェストミンスター小教理問答の問1において、

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

と告白しています。そして、「永遠に神を喜ぶこと」と「神の栄光をあらわす」ことは一つのことの裏表であって、互いに切り離すことはできないと理解しています。私たちが真の意味で神さまを喜ぶことができるのは、私たちが神さまの栄光を現しているときですし、神さまご自身を喜ぶことなくして、神さまの栄光を現すことはできないということです。具体的には、このことは私たちが神さまのご臨在の御許において、神さまとの愛の交わりに生きることの中で実現します。私たちはその愛の交わりの中で神さまを神さまとして礼拝し、讃美し、神さまを喜びます。そのようにして、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光のご臨在がそこにあることがあかしされるようになります。いずれにしましても、私たちの存在の目的は永遠に神さまを喜ぶことにあります。しかし、このことにおいても、それに先だって、またそれ以上に、神さまが私たちの存在をお喜びくださっているのです。

 このこととの関連で、もう一つのことに注目したいと思います。それは、神さまが私たちをさらに栄光あるものとしてくださるということです。神さまは創造の御業において、人を神のかたちの栄光と尊厳性を担うものとしてお造りになりました。それは罪による堕落後の時代を生きている私たちの想像を越えた、まことに豊かな栄光であったはずです。しかし、神さまは人をそれに優る栄光に満ちたものとしてくださるみこころを示してくださったのです。
 神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになりました。この世界全体が神さまのみこころによる目的のある世界として造られています。そして、歴史とともに豊かな実が結ばれる祝福された世界として造られています。それは、いろいろな面から考えることができますが、ここでは、これまでお話ししてきたこととのかかわりで考えてみましょう。
 神さまは人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。このことは神さまの契約に基づいてなされたことです。神さまが人を神のかたちにお造りになったとき、人は神さまとの契約関係にあるものとして造られていました。赤ちゃんは両親との親子関係の中に生まれてきますが、神のかたちに造られた人は、造り主である神さまとの契約関係の中に造り出されたのです。親子関係が赤ちゃんと両親の交わりの基盤であるように、契約関係が神さまと神のかたちに造られた人との交わりの基盤となっています。神さまはこの契約に基づいてこの「」にご臨在してくださり、この契約に基づいて、神のかたちに造られた人をご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださいました。
 愛の交わりが契約に基づいているということはおかしいと感じられるかもしれません。「契約関係」というと、私たちは利害がかかわる取引のことを思い出してしまいますので、愛が契約関係の中で育まれるということに違和感を感じてしまうのです。しかし、神さまが神のかたちに造られた人に与えてくださった契約には、利害はかかわっていません。神さまはあらゆる点で満ちておられる方ですので、誰か取引をする必要はありません。神さまと神のかたちに造られた人の関係を理解するための鍵である夫と妻の関係も、結婚における誓約に基づいた関係であり、法的に承認されることにおいて成り立つ関係です。これは利害がからんだ取引関係とは違う契約関係です。そして、このような法的な基盤の上で、愛が育まれるのです。神さまの契約は、神さまがご自身の愛を私たちに注いでくださることにかかわっています。そして、その点で真実であられることを契約によって保証してくださっているのです。
 このような意味で、神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、ご自身との契約関係にあるものとしてくださいました。この契約を、一般に「わざの契約」と呼びます。私たちはこれを「創造の契約」と呼んできました。この契約のうちに示された神さまのみこころの中心には、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、神さまのみこころに従いとおすなら、そのことへの報いとして、より栄光ある状態に入れてくださるという約束がありました。
 このように言いますと、これは「取引」ではないかという思いがするかもしれません。しかし、神さまは神のかたちに造られた人の従順を必要としておられて、人と取引をしておられるのではありません。また、神のかたちに造られた人が神さまに従うからといって、人に栄光をお与えにならなければならないわけではありません。御使いたちも完全に神さまに従っていますが、御使いたちがさらに豊かな栄光を受けることはありません。神さまは、その一方的な愛によって、神のかたちに造られた人に、その従順に報いる形で栄光をお与えになるようにしてくださり、それをご自身の契約において約束してくださったのです。
 イエス・キリストが十字架の死に至るまで神さまのみこころに従いとおされたことによって、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたのは、この「創造の契約」の約束に基づいています。
 イエス・キリストの十字架の死には消極的な意味と積極的な意味があります。消極的な意味は、それによって私たちの罪を贖ってくださるということです。これは、いわば、借金を返すことに当たるもので、その意味では消極的な意味であるということになります。イエス・キリストの十字架の積極的な意味は、それがイエス・キリストの地上の生涯を通して父なる神さまのみこころに従いとおされたことの頂点に当たるということです。イエス・キリストはこの完全な従順に対する報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださいました。その栄光は、天地創造の御業において人が神のかたちに造られたときの栄光ではなく、人が神さまのみこころに完全に従っていたなら、その報いとして与えられていたであろうより豊かな栄光です。それは、私たちのためのことであり、私たちをご自身の復活にあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださったのです。
 このようにして、私たちはイエス・キリストとともに十字架につけられて死んでおり、イエス・キリストとともによみがえって新しいいのちに生きています。

 今、私たちは、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれているだけではありません。御霊のお働きによって、ますますイエス・キリストの栄光のかたちに似たものに造り変えられています。コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。
 そして、終わりの日に再臨される栄光のキリストによって、私たちは完全な意味で栄光のキリストに似たものとされます。ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。
 このすべての祝福の根底には、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしてくださって、そのことへの報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったということがあります。
 この完全な従順に対して神さまが報いてくださるということは、「創造の契約」において神さまが約束してくださったことです。ですから、もし最初の人アダムが神さまのみこころに完全にしたがっていたなら、そのことに対する報いとしてより豊かな栄光を受けていたはずです。
 このことに、創造の御業において神さまが人を神のかたちにお造りになったときのみこころが現されています。それは、神のかたちに造られた人が最初に造られた神のかたちとしての栄光と尊厳性において、神さまのご臨在の御前に立って、神さまとの愛の交わりに生きるという祝福をさらに豊かなものとしてくださるということです。神のかたちに造られた人をその完全な従順に対する報いとして豊かな栄光に満ちたものとしてくださるということです。それによって、神のかたちに造られた人をさらにご自身の栄光のご臨在の御許に近づけてくださり、さらに豊かな愛の交わりに生きるものとしてくださるためのことでした。これによって、神さまの愛といつくしみに満ちた栄光がさらに豊かに現されるようになったはずです。
 このことを、神さまの喜びという点から見てみますと、神さまが神のかたちに造られた人により豊かな栄光を与えてくださり、人をさらにご自身の御許近くに引き寄せてくださることによって、さらに豊かな愛の交わりを実現してくださることは、神さまの喜びがさらに深く豊かになるということを意味しています。
 神さまはこのような意味でも、この世界を歴史的な世界としてお造りになられました。それによって、ご自身の喜びがまったきものとなるためでもありました。
 神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことは、このような神さまのみこころを踏みにじってしまうことでもあったのです。それによって、神のかたちに造られた人自身にさばきとそれによる悲惨を招いただけではありません。神のかたちに造られた人が造り出す歴史とともに深く豊かになっていくはずの神さまの喜びを、痛みと悲しみに変えてしまったのです。
 しかし、それでも、神さまは私たちへの愛を変えてしまわれることがありませんでした。御子イエス・キリストによって私たちの罪を贖ってくださったばかりか、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かしてくださって、ご自身の栄光のご臨在に御前に立つもの、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださいました。そして、御霊によって、私たちを栄光のキリストのかたちに似た者に造り変えてくださっています。
 それはまた、神さまがご自身のより深く豊かな喜びを実現してくださっていることでもあります。今は、そのことの完成への途上にあります。それは終わりの日に再臨される栄光のキリストによって完成します。それによって、私たちの喜びがまったきものとなるとともに、神さまの喜びがまったきものとなると信じます。

 


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