(第215回)


説教日:2009年12月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、私たちがこの世で経験するさまざまな「試み」についてお話ししてきました。そして、私たちがその試みによって苦しむときに、すでに、私たちのために試みを受けて苦しまれた、イエス・キリストが私たちとともに苦しんでくださっているということをお話ししました。
 さらに、このことをより大きな視野から理解するために、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業において、神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったことについてお話ししました。
 神さまは存在においても、知恵と力においても無限、永遠、不変の方です。それで、神さまは永遠にすべてのものを完全に知っておられますし、神さまにできないことはありません。天地創造の御業においても、神さまに失敗はありえません。このようなことから、神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったのは、それがうまくできているかを確かめられたのではないと考えられます。
 すべてをご存知である神さまが、わざわざ何かをご覧になったということは、神さまがそれにお心を注いでくださり、それに、人格的にかかわってくださっていることを意味しています。そして、それを「よし」とされたということは、ご自身の創造の御業によってそこに存在するようになったものを、ご自身の喜びとされたということであると考えられます。
 創造の御業の記事においては、このことは、特に、その記事の視点がこの「」に置かれていることとかかわっています。
 神さまの創造の御業は宇宙全体にわたって展開しています。そのことは、1章1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばに示されています。「天と地」ということばはヘブル語の慣用句で、存在する「すべてのもの」を意味しています。これは今日のことばで言えば「宇宙」に当たります。1節では、そのすべては神さまがお造りになったものであることを示しています。
 しかし、2節からは、創造の御業の記事の視点は「」に移されています。2節以下に記されていることの関心は、もっぱらこの「」に注がれています。14節ー19節には、天体のことが記されていますが、それも、「」とのかかわりにおける天体の役割のことが、しかも「」にあるものの視点から記されています。
 このように、創造の御業の記事は「」にその視点を据えて、「」に関心を寄せています。そのことは、とりもなおさず、造り主である神さまがこの「」に心を注いで創造の御業を遂行しておられることを意味しています。神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったのは、このこととかかわっています。
 イザヤ書45章18節には、神さまが「」を「人の住みか」にお造りになったと記されています。
 神さまが最初に造り出されたときの「」は、創世記1章2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されている状態にありました。これは、「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示しています。けれども、「」がそのような状態にあったときに、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。そこには、御霊による神さまのご臨在があったのです。これによって、この「」は神さまがご臨在される所であることが示されています。「」は「人の住みか」である前に、また、「人の住みか」である以上に、神さまご自身がご臨在される所であるのです。


 神さまがご臨在される所ということとのかかわりでは、イザヤ書66章1節が思い起こされます。そこには、

 天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 わたしのために、あなたがたの建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。

という主のみことばが記されています。
 ここで主は、

 天はわたしの王座、地はわたしの足台。

と言っておられます。ここにも「」と「」の組み合わせがあります。これは、先ほどの創世記1章1節と同じように、この造られた世界の「すべてのもの」、今日のことばで言えば宇宙全体を指しています。また、ここには「王座」と「足台」の組み合わせがあります。これは、そこに主が王として座しておられることを意味しています。これらのことは、この造られた世界全体が、造り主である神さまがご臨在される所であるということを意味しています。言い換えますと、宇宙全体が造り主である神さまのご臨在される「神殿」としての意味をもっているということです。
 ですから、実際にはそのようなことはできないのですが、かりに私たちが138億光年の彼方に広がっていると言われている大宇宙の果てに行ったとしても、そこで、私たちは造り主である神さまを礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりにあずかることができます。今日のように観測機器が発達していなかった古代の詩人は、これと同じことを、詩篇139篇8節ー10節において、

 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
 私がよみに床を設けても、
 そこにあなたはおられます。
 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕えます。

と告白しています。
 このように、この造られた世界の全体が、造り主である神さまがご臨在される所です。その中でも、この「」は、特別な意味で、神さまがご臨在される所です。それは、神さまがこの「」を、神のかたちに造られた「人の住みか」としてくださっているからです。神さまはこの「」にご臨在されて、神のかたちに造られた人に愛といつくしみの御顔を向けてくださいます。神のかたちに造られた人をご自身との愛にあるいのちの交わりにあずからせてくださいます。
 この「」は、このような愛といつくしみに満ちた栄光の主のご臨在がある所として、造られています。それで、この「」には愛といつくしみに満ちた栄光の主のご臨在から溢れ出る祝福が満ちています。そのことが、特に、さまざまな種類のいのちあるものの存在と、それを支える豊かな実りにあふれている世界として現れています。
 このことを考えますと、創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事においては、この「」に視点が据えられ、この「」に関心が注がれていることの意味が見えてきます。この138億光年の彼方に広がっている大宇宙が造り主である神さまのご臨在される神殿としての意味をもっています。しかし、神さまが愛といつくしみに満ちた栄光をもって特別な意味でご臨在される所は、「人の住みか」として造られているこの「」です。
 これを地上的なひな型である建物としての神殿にたとえますと、この世界全体、すなわち大宇宙全体が「神殿」にたとえられます。その中で、「人の住みか」として造られているこの「」は、特別な意味で神さまのご臨在のある「聖所」に当たります。そして、エデンの園が「至聖所」に当たります。創造の御業の記事は、このような意味をもっているこの「」に視点を据え、この「」に関心を注いでいるのです。
 このような意味をもっている創造の御業の中で、神さまはご自身がお造りになったものを「よし」とご覧になりました。それで、神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったのは、この「」にご自身がご臨在され、そこにご自身が神のかたちにお造りになる人を住まわせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるようにしてくださることに照らして、出来上がったもの「よし」とし、喜んでくださったと考えられます。

 このような、創造の御業における、造り主である神さまのお喜びは、ご自身が神のかたちに造られた人に愛といつくしみを注いでくださることにおいて、最も豊かに現されることになります。詩篇8篇3節ー6節には、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。
 物理的な存在の大きさという点では、人はこの大宇宙に比ぶべくもありません。大宇宙に比べれば、点にも満たないものです。しかし、神さまは人を神のかたちにお造りになり、

 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

人は神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられています。このことのゆえに、人は神さまの栄光のご臨在の御前に立って、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができます。
 そして、そのように、神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられている人は、それにふさわしい使命を委ねられています。それが、ここでは、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と告白されています。これは、創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命のことを述べています。
 人が神のかたちに造られ、これに歴史と文化を造る使命が委ねられたことは、創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここに記されていることからは、人が治めるように委ねられているのは、この「」と「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物」だけであるように思われます。このことには、これとしての意味があります。というのは、物理的に、人がその力を及ぼすことができるのは、この「」とそれを取り巻く世界に限られているからです。
 しかし、神のかたちに造られた人には、そのような、物理的な存在の小ささを越えた賜物が与えられています。それは、神のかたちに造られた人には造り主である神さまに対するわきまえが与えられており、人は神さまを知っているものとして造られているということです。神のかたちに造られた人はただ神さまを知っているだけではありません。神のかたちとしての栄光と尊厳性を担うものとして、神さまのご臨在の御前に出でて、神さまを礼拝することを中心とした、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものであるのです。
 いくら宇宙が138億光年の彼方に広がっている壮大なものであるとしても、宇宙は人格的な特性をもっていませんから、造り主である神さまを知りませんし、神さまを礼拝することもありません。もし、神のかたちに造られた人が存在しなかったら、この物質的な特性をもっている世界には、造り主である神さまの愛といつくしみを受け止め、それに愛をもって応答する存在はいなくなります。もちろん、御使いも神さまを礼拝しますが、御使いには物質的な特性はありません。この大宇宙は物事が見事な調和のうちにあって、経過していくだけのものであったでしょう。もちろん、それでも神さまの栄光はそれなりに現されるのですが、その栄光を受け止めて、神さまを讚え、礼拝する存在が、この物理的な世界にはいなくなります。そればかりでなく、神さまの栄光が愛といつくしみに満ちた栄光であることは、それほど豊かに、また鮮明に現されることはなくなります。
 この宇宙全体が、神さまの御手の作品として、神さまの栄光を現しています。この点からも、神さまが愛といつくしみに満ちた栄光をもってご臨在される所であり、神のかたちに造られた「人の住みか」であるこの「」は、宇宙の中心としての意味をもっています。そして、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命には、宇宙全体にかかわるような意味があります。
 このことは、これまでお話ししましたように、創造の御業の記事の中では、1章26節ー30節に、人が神のかたちに造られ、これに歴史と文化を造る使命が委ねられたことこと、そして、人が歴史と文化を造る使命を果たしていくうえで必要なものが備えられたことが記された後に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されていることに表されています。

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と言われていることの中心に、人が神のかたちに造られ、これに歴史と文化を造る使命が委ねられたことことと、人が歴史と文化を造る使命を果たしていくうえで必要なものが備えられたことがあるのです。
 神さまは、人を神のかたちの栄光と尊厳性を担うものとしてお造りになって、ご自身のご臨在の御前において、礼拝を中心として、愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださったこととのかかわりで、また、そのように造られた人に、ご自身が「お造りになったすべてのもの」にかかわるような意味と栄光をお与えになったこととのかかわりで、「お造りになったすべてのもの」をご覧になって、

 見よ。それは非常によかった。

とあかしされている喜びを感じられたと考えられます。

 このような、創造の御業における神さまのお喜びは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、損なわれてしまいました。そのことの典型的な現れは、繰り返し取り上げています、ノアの時代のことでした。創世記6章5節、6節には、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

と記されています。ここでは、創造の御業における神さまのお喜びは失われたばかりか、神さまのうちには痛みと悲しみがあることが示されています。
 このことを受けて、続く7節には、

そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されています。このようにして、神さまは聖なる御怒りによるさばきを執行されることを決意されました。
 先週お話ししましたように、エレミヤ書45章1節ー4節に記されている、神さまがバルクに語られたみことばは、神さまが深い痛みとともにさばきを執行されることを示しています。詳しい説明は省きますが、4節に記されている、

見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。

という主のみことばは、主が深い痛みと悲しみをもってさばきを執行されることを示しています。同じことは、先ほど引用しました創世記6章7節に記されている主のみことばにも表れています。主は、

 わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。

というように、「地の面から消し去ろう」としておられるのは「わたしが創造した人」であると言っておられます。
 エレミヤ書では、これに先立って、31章20節に、

 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
 それとも、喜びの子なのだろうか。
 わたしは彼のことを語るたびに、
 いつも必ず彼のことを思い出す。
 それゆえ、わたしのはらわたは
 彼のためにわななき、
 わたしは彼をあわれまずにはいられない。
    主の御告げ。  

と記されています。
 この場合の「エフライム」はイスラエルの民を代表的に表しています。これにつきましては、いくつかのことを論じなければならないのですが、それは省略いたします。
 イスラエルの民は主がアブラハムに与えられた契約に基づき、神さまの救いを諸国の民にあかしするために選ばれました。また、そのために、エジプトの奴隷の身分から、主の一方的な恵みによって贖い出されるという経験をしました。主の贖いの御業は、主の一方的な愛とあわれみと恵みによるということを、身をもって経験することになったのです。イスラエルの民はそのような主の恵みによる贖いの御業をあかしするために、選ばれ召されたという意味で「選民」です。
 けれども、そのイスラエルの民は、その歴史の初めから神さまに対して不信を募らせ、神さまに逆らい、罪を犯し続けました。しかし、それはイスラエルの民だけのことではありません。すべての人が神さまの御前に罪あるものであり、神さまに対して罪を犯し続けています。それで、すべての人が神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けなければならないのです。イスラエルの民は、このような人類の現実を身をもってあかししています。実際に、北王国イスラエルは神さまのさばきを受け、アッシリヤによって滅ぼされました。また、南王国ユダもエレミヤの時代に、神さまのさばきを受け、バビロンによって滅ぼされてしまいました。
 エレミヤは、南王国ユダがもはや主のさばきを避けることができない状態にあることと、さばきの時が迫って来ていることを預言しています。そして、主のさばきの器として用いられているバビロンの王に降伏するように告げています。しかし、実際には、ユダの民はエジプトの力を借りて、これを回避しようとしました。そして、そのかいもなく、バビロンによって滅ぼされ、ユダの民は捕囚になってしまいます。

 エレミヤがユダの民に向かって、主のさばきに服して、バビロンに降伏して生きるようにと預言したのは、エレミヤがはるか先を見据えていたからです。そのエレミヤの視線を支えていたのが、そのような罪を犯し続けるイスラエルの民をも、主が顧みてくださり、その一方的な愛とあわれみと恵みによって救ってくださるというみことばの約束です。その約束のみことばの代表的な一つが、31章全体にわたって記されています。その中に、先ほどの、

 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
 それとも、喜びの子なのだろうか。
 わたしは彼のことを語るたびに、
 いつも必ず彼のことを思い出す。
 それゆえ、わたしのはらわたは
 彼のためにわななき、
 わたしは彼をあわれまずにはいられない。
    主の御告げ。  

というみことばがあります。
 この、

 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
 それとも、喜びの子なのだろうか。

というみことばは、いわゆる修辞疑問で、「そうだ」という答えが含まれています。これは主のイスラエルの民に対する父のような愛を表しています。
 これに続く、

 わたしは彼のことを語るたびに、
 いつも必ず彼のことを思い出す。

というみことばは、この新改訳の訳ですと、意味がよく分かりません。というのは、私たちが誰かのことを語るときには、いつもその人のことを思い出しているのであって、その人のことを考えないで、その人のことを語ることはできないからです。ですから、

 わたしは彼のことを語るたびに、
 いつも必ず彼のことを思い出す。

ということであれば、当然なされることを述べていることになってしまいます。
 それで、この「彼のことを語るたびに」と訳されている部分は「彼に対立して語るたびに」と訳した方がいいと思われます。[新改訳で「彼のことを」と訳されているときの前置詞「ベ」には「敵対的な関係にあること」を表す用法があります。]また、「いつも必ず」の「いつも」は「なおも」と訳したほうがいいと思われます。これは、もはやさばきは避けられないと言うほどにイスラエルの民の罪を糾弾しておられる主が、「なおも」、イスラエルの民のことを、「必ず」思い出してくださるということを示しています。
 主が思い出してくださる(ザーカル)ことは、主がご自身の契約に真実であられることによっています。イスラエルの民をご自身の契約の民として「覚えてくださる」ということです。この「思い出す」ということは、新しい契約の礼典である主の晩餐の制定において、イエス・キリストが、

 わたしを覚えて、これを行ないなさい。

と言われたときの「覚える」ことに当たります(ルカの福音書22章19節、コリント人への手紙第一・11章24節、25節)。このイエス・キリストのみことばは、私たちが主のことを覚えることを示していますが、この場合も、私たちが主を覚えるのに先だって、また、私たちが主を覚える以上に、主が私たちを覚えてくださっています。

 それゆえ、わたしのはらわたは
 彼のためにわななき、

という訳は文字通りの訳です。この主のみことばは、擬人化された表現で、主のうちにある深い苦悩を表しています。もちろん、これはイスラエルの民をご自身の子として深く愛しておられるためのことです。その愛する子が罪を犯し続けて、ついにさばきを避けることができないまでになってしまっていることへの、深い苦しみです。
 これが、先ほどの、主がバルクに語られた、

見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。

というみことばの根底にある痛みであり悲しみです。
 そして、これを受けて、

 わたしは彼をあわれまずにはいられない。

と言われています。この「あわれむ」ということば(ラーハム)の名詞は、女性の「子宮」を表します。それで、この「あわれむ」ということばは、はらわたが揺さぶられるような強いあわれみを示しています。そればかりではなく、

 あわれまずにはいられない

と訳されている部分は、先ほどの、

 いつも必ず彼のことを思い出す。

と訳されている部分と同じ形で(「あわれむ」ということばの不定詞と定動詞を重ねて)強調しています。ですから、これは、

  必ずあわれむ

と訳すことができます。
 主は、ご自身に対して罪を犯し続けて、滅亡への道をかたくなに歩み続け、実際に、さばきを受けるようになるイスラエルの民を、ご自身の契約に基づいて、必ず思い出してくださり、深くあわれんでくださるというのです。
 エレミヤは、このような、主の約束のみことばに支えられて、その時には、もはや避けられなくなっている主のさばきの執行を越えて、さらにその先に約束されている、主の一方的な愛とあわれみと恵みによる回復を望み見ていたのです。このエレミヤが望み見ていたものは、やがて、主イエス・キリストによって成就し、いま、私たちの現実となっています。

 


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