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説教日:2009年11月29日 |
すでに、創造の御業の記事にしたがって、神さまが何を「よし」とご覧になったかを具体的に見てみました。これまでは、おもに、この「地」が「人の住みか」として造られているということとのかかわりで見てきました。今日は、これを、「地」が神さまがご臨在される所としての意味をもっているということとのかかわりで見てみましょう。 最初に「よし」とご覧になったのは、3節、4節に、 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見てよしとされた。(第3版) と記されていますように、この「地」に「光」があるようになったことです。 ヨハネの手紙第一・1章5節には、 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。 と記されています。神さまが創造の御業においてこの「地」にあるようにされた「光」は、物理的な光で、神さまがお造りになったものです。これは、何よりも、神さまが光であられることを、物理的なこの世界において、この世界に適合する形で映し出し、あかしするものです。この「光」によって、この「地」にあるものが見えるようになりますし、この「地」が暖められて、後に造り出される植物の生長や生き物たちのいのちが育まれます。 ですから、この「地」に「光」があるようになったことは、この「地」が神さまがご臨在される所であるということに沿っています。 また、このようなことから、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、「光」やこの「地」にある「光」の源である太陽が「神」であるとされるようになってしまいました。造り主である神さまを物理的な次元においてあかしする「光」が「神」とされてしまっているのです。 この後、6節ー8節に記されている、創造の御業の第2日に、「大空」が造られます。そして、この「大空」によって、2節に出てくる、最初に「地」を覆っていた「大いなる水」が、「大空の下にある水と、大空の上にある水」に分けられます。神さまはこの「大空を天と名づけ」られました。 そして、9節ー13節に記されている、創造の御業の第3日には、まず、その「大空の下にある水」が一所に集められて「かわいた所」が現れるようになりました。そして神さまは、 かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられ ました。 このことを受けて、 神は見て、それをよしとされた。 と記されています。神さまは、「大空の下にある水」が一所に集められて「海」となり、これによって現れてきた「かわいた所」が「人の住みか」となる「地」となったことを「よし」とされました。 さらに、同じ第3日の御業において、「地」が、 植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた ことを、神さまが「よし」とご覧にななりました。 すでにお話ししましたように、これは、後に造られるようになる生き物たちや、特に、神のかたちに造られた人の食べ物となるものを神さまが備えてくださったということを示しています。そして、神さまはそのことを「よし」とご覧になったということを意味しています。 同時に、このことは、今日お話ししている、この「地」が神さまがご臨在される所であるということとのかかわりでも考えることができます。それは、このように、神さまがさまざまな種類の実を結ぶ植物を備えてくださっているということは、それが造り主である神さまのご臨在の御許から溢れ出てくる祝福の現れであるということです。言い換えますと、これらの豊かな実を結ぶさまざまな植物たちは、この「地」が神さまがご臨在される所であるということをあかししているのです。 後に、神さまはご自身が特別な意味でご臨在される「エデンの園」をお造りになりました。そこにも豊かな実を結ぶさまざまな木が生えておりました。 次に神さまが「よし」とご覧になったのは、第4日の御業においてです。16節ー18節には、 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。 と記されています。 ここでは、天体が「地」との関係において果たす役割が確立したことが記されています。天体が夜と昼をつかさどるとともに、 しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。 と記されていますように、人間の生活を初めとして、植物の生長やすべての生き物たちの生息の基本的なリズムを支えています。 ご存知のように、古代オリエントの文化においては天体が「神」とされて礼拝されていました。これはほかの文化でも見られます。その根本原因は、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことです。それとともに、神さまが天体にこのような基本的で重要な役割をお与えになっておられることを、いわば逆手にとっていることによっています。 詩篇19篇1節には、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されています。これも、神さまが天体に与えられた基本的で重要な役割とかかわっています。 いずれにしましても、「天」は神さまの栄光とご臨在を示すものとしての意味をもっています。 このこととの関連で注目すべきことがあります。それは、神さまが「大空」を「天」と名づけられたのは創造の御業の第2日のことです。しかし、神さまはその段階では、これを「よし」とご覧にななりませんでした。「天」にある天体が「地」との関係において果たす役割が確立したことをもって初めて、それを「よし」とご覧になったのです。このことは、神さまが「よし」とご覧になったことは、この造られた世界に神さまがご臨在しておられて、その栄光が天体の存在とその役割をとおして映し出されていることにかかわっているということを示しています。 次に、神さまが「よし」とご覧になったのは、生き物たちが造り出されたことです。 21節、22節には、 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 と記されています。また、25節には、 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。 と記されています。 この生き物たちが造られたことも、この「地」が神さまがご臨在される所であるということとのかかわりで考えることができます。それは、神さまがお造りになったさまざまな種類のいのちあるものたちは、造り主にして、いのちそのものであられる神さまのご臨在の御許から溢れ出てくる祝福としてのいのちの豊かさを映し出しているということです。その意味で、これらの生き物たちの存在も、この「地」が神さまがご臨在される所であるということをあかししています。そして、神さまはこのような意味をもった生き物たちにお心を注いでくださり、その存在をお喜びになりました。 これまでに、神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったということが6回記されています。そして、最後の7回目は、6日にわたる創造の御業の最後を記している31節に、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。 と記されています。ですから、神さまが人を神のかたちにお造りになったことに関する記事の中には、神さまが神のかたちに造られた人を「よし」とご覧になったということが記されていません。 先週お話ししましたように、31節に記されている「お造りになったすべてのもの」は、文字通り、この宇宙のすべてのものです。その意味では、この神さまが「お造りになったすべてのもの」は、1節において、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されているときの「天と地」に当たるものです。しかし、大切なことは、この31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されていることは、神さまがご臨在される所にして「人の住みか」として整えられてきた「地」からの視点でとらえられており、「地」とのかかわりでとらえられているということです。 このことを踏まえて見ますと、これに先立つ26節ー30節に、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。 と記されていることが、31節で、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 ということと深く結びついていることが見えてきます。 人が神のかたちに造られ、これに歴史と文化を造る使命が委ねられたことこと、そして、人が歴史と文化を造る使命を果たしていくうえで必要なものが備えられたことがなかったなら、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されることはなかったのです。言い換えますと、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われていることの中心に、人が神のかたちに造られ、これに歴史と文化を造る使命が委ねられたことことと、人が歴史と文化を造る使命を果たしていくうえで必要なものが備えられたことがあるということです。 このことは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人の存在には、神さまが「お造りになったすべてのもの」、すなわち、この宇宙全体にかかわるような意味があるということを示しています。そして、神さまは、神のかたちに造られた人に、ご自身が「お造りになったすべてのもの」にかかわるような意味と栄光をお与えになって、そのこととのかかわりで「お造りになったすべてのもの」をご覧になって、 見よ。それは非常によかった。 とあかしされている喜びを感じられたと考えられます。 このことを、今日これまでお話ししてきましたこととのかかわりで見ますと、神さまはこの「地」をご自身がご臨在される所として形造られ、これを「人の住みか」としてくださいました。神さまが「お造りになったすべてのもの」が、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人に、この世界が神さまのご臨在される所であること、そして、神さまはこの「地」を「人の住みか」に形造ってくださり、ここに特別な意味でご臨在してくださっていることをあかししています。それは、ひとえに、神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御許に住まわせてくださるためであり、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださるためのことです。 この「地」が特別な意味で神さまがご臨在される所であり、実際に、神さまがここにご臨在しておられるので、ここには、さまざまな種類の植物が豊かな実を結び、さまざまな種類の生き物たちが海や地を満たすほどになって、いのちの営みを続けていくことができるのです。また、この「地」が特別な意味で神さまがご臨在される所であり、実際に、神さまがここにご臨在しておられるので、神のかたちに造られた人は、ここで、造り主である神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができるのです。 また、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命の本質は、神さまがお造りになった世界をとおして現されている神さまの愛といつくしみに満ちたご臨在の栄光の現れを、さまざまな分野において見出し、神さまを礼拝することにおいて、いっさいの栄光を帰することにあります。 言うまでもなく、これらのことは、神さまが創造の御業によって造り出されたときの、この世界の状態です。神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して、罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、このような豊かな祝福は失われてしまいました。 そのことが、特に顕著に現れるようになったのは、ノアの時代のことでした。創世記6章5節、6節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 と記されています。 このみことばについてはすでに詳しくお話ししましたが、これも、知恵と知識において無限の神さま、したがって、すべてのことを完全に知っておられる神さまがわざわざ「ご覧になった」ことを記しています。その点では、創造の御業において神さまがお造りになったものをご覧になったことと同じです。 けれども、創造の御業においては、神さまはお造りになったものを「よし」とご覧になりました。そこに神さまのお喜びがありました。しかし、ここでは、 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 と記されていますように、神さまのお心の痛みが満ちています。 このことを受けて、続く7節には、 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。これはノアの時代に執行された、神さまの聖なる御怒りによるさばきに触れるものです。主がそのさばきの執行を決意されたことを記しています。これを、これに先立って記されている5節、6節に神さまのお心の深い痛みが示されていることとのつながりで見ますと、神さまが聖なる御怒りによるさばきを執行されたことにはやはり、深い痛みがともなっていたということを汲み取ることができます。 このこととのかかわりで思い起こされるのは、エレミヤ書45章に記されている、主がバルクに対して語られたみことばです。1節ー5節には、 ネリヤの子バルクが、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときに、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。「バルクよ。イスラエルの神、主は、あなたについてこう仰せられる。あなたは言った。『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』あなたが主にこう言うので、主はこう仰せられる。『見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。 と記されています。 バルクは主がエレミヤをとおして語られた預言のみことばを筆記しました。それは主が聖なる御怒りをもってユダをおさばきになることを預言するみことばでした。そのみことばを記したバルクのうちには深い痛みと悲しみがありました。これはバルクが自らに降りかかってくるさばきへの懸念を示しているという考え方もあります。それは、5節において、 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。 という主のことばが記されていることに基づいています。しかし、そうであるとしますと、その前の、 見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。 という主のことばが理解できなくなってしまいます。それで、この場合、バルクは自分が属する民、自分の同胞に降りかかってくるさばきの厳しさを汲み取って、それを嘆いていると考えられます。 それはバルクだけのことではありません。エレミヤ書9章1節、2節には、 ああ、私の頭が水であったなら、 私の目が涙の泉であったなら、 私は昼も夜も、 私の娘、私の民の殺された者のために 泣こうものを。 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、 私の民を見捨てて、 彼らから離れることができようものを。 というエレミヤの嘆きのことばが記されています。これも、自分の同胞に降りかかってくるさばきを思っての嘆きです。 これは、私たちの心を探るようなことです。主の聖なる御怒りによるさばきを平然とあかしすることがあるとしたら、それは果たして主のみことばをあかししていると言えるだろうかという問いを突きつけます。 主はバルクに、 見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。 とお応えになりました。このみことばは、主はご自身がお心を注いでお建てになったものを、ご自身の御手でこわし、ご自身が愛といつくしみをもってお植えになったものを、ご自身の御手をもって引き抜かなくてはならないということを示しています。聖なる御怒りをもってユダをおさばきになる主のうちには、バルクが感じている痛みや悲しみをはるかに越えた痛みと悲しみがあるということです。 エレミヤとバルクは主の御怒りによるさばきを預言していますが、彼らはそのさばきを執行するという、この上なく辛く苦しい立場にはありません。主はその預言のみことばを彼らにお与えになっただけでなく、そこに預言されている聖なる御怒りによるさばきをご自身が執行されます。そのことにともなう、主の痛みや悲しみは私たち人間の想像をはるかに越えています。 エレミヤとバルクの痛みと悲しみは、この私たちの想像を越えた主ご自身の痛みと悲しみを映し出すものです。それは、エレミヤとバルクが、主の恵みによって主と一つに結ばれているからです。 このようなことが、今日、私たちが「キリストとともに苦しむ」ということにつながっていると考えられます。 |
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