(第213回)


説教日:2009年11月22日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りの前半の主題である、私たちがこの世で経験するさまざまな「試み」についてお話ししてきました。そして、最後のこととして「キリストとともに苦しむこと」についてお話ししています。私たちがイエス・キリストとともに苦しむことができるのは、それに先だって、イエス・キリストが私たちのために苦しんでくださっているからです。


 先週と先々週は、このことをより大きな視野から理解するために、創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業において、神さまがご自身のお造りになったものをご覧になって、それを「よし」とされたことについてお話ししました。
 すでにお話ししたことに補足を加えながら、お話を進めていきます。
 神さまがご自身のお造りになったものを「よし」とご覧になったのは、それがうまくできたかどうかを調べるためのことではありません。知恵と力において無限の神さまには失敗ということがありませんので、その出来不出来を調べる必要はありません。このことに関しましては、後ほどもう一つのことをお話しします。
 神さまがお造りになったものをご覧になったのは、そこに存在するようになったものを、神さまがご自身の喜びとされたということを意味しています。
 また、これにはもう一つの面があります。
 この創造の御業の記事は、1章1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばで始まっています。これは、独立した文で、創造の御業の記事全体の「見出し」に当たります。この「天と地」ということばは、この宇宙のすべてのもの、しかも、秩序立てられている宇宙のすべてのものを意味しています。それで、1節は、神さまがこの宇宙のすべてのものを、その一つ一つのものばかりでなく、一つ一つのもののかかわりと全体的な調和も含めて、すべてのものをお造りになったことを宣言しています。
 これに続く2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。これは、この2節から、創造の御業の記事の視点が「」に移されていることを示しています。もちろん、神さまの創造の御業は宇宙全体にわたって展開していますが、創造の御業の記事の関心は、もっぱらこの「」に注がれています。もちろん、天体のことにも触れられていますが、それも「」とのかかわりがあることを、しかも「」からの視点から記しています。
 このように、創造の御業の記事の関心が「」にあり、「」からの視点で記されていることには、いくつかの意味があります。
 一つは、これを、「」にある私たちの視点から記しているということを意味しています。あたかもそこに私たちが存在して、創造の御業を観察しているかのように記されているのです。それによって、私たちが自分たちの住んでいるこの世界がどのようにして存在するようになったのかを理解することができるためです。
 もう一つのことは、先週お話ししましたがイザヤ書45章18節には、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てられた方、
 これを形のないものに創造せず、
 人の住みかに、これを形造られた方、
 まことに、この主がこう仰せられる。

と記されています。創世記1章2節以下に記されていることは、2節において、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と言われている状態にあった「」を、神さまが「人の住みか」にお造りになったということです。
 そして、2節の終わりに、

 神の霊は水の上を動いていた。

と言われていますように、その最初の状態の「」には、すでに御霊による神さまのご臨在がありました。この「」は「人の住みか」である以前に、また、「人の住みか」である以上に、神さまご自身がご臨在される所であるのです。言い換えますと、神さまはご自身がご臨在される所を「人の住みか」として整えてくださっているのです。その意味で、人は神さまのご臨在の御前に住まうべきものとして造られています。
 そして、神さまはそのご臨在の御許から、3節に記されている、

 光よ。あれ。

というみことばから始まる、一連の「創造のみことば」をもって、創造の御業を進めていかれます。
 このように言いますと、ある種の疑問が出てくるかもしれません。それは、この、

 光よ。あれ。

という「創造のみことば」が、この「」にご臨在される神さまのご臨在の御許から発せられたのであれば、この「」以外のものに対する創造の御業はどうなっているのかというような疑問です。
 これについては、神さまのご臨在がどのようなものであるかを理解する必要があります。存在において無限、永遠、不変の神さまは、この造られた宇宙を無限に越えておられます。それと同時に、神さまはこの宇宙のどこにでもおられます。しかも、宇宙のどこにでも、人格的な方としておられます。存在において無限の神さまには、物質的なものの本質的な特質である広がりというものはありません。ですから、神さまが宇宙全体に広がるような形で、どこにでもおられるということではありません。神さまがどこにでもおられるということを神さまの「遍在」と呼びます。神さまのご臨在は、この神さまの遍在とかかわっていますが、その特別な意味をもったあり方を示しています。
 神さまはご自身のご意思をもっておられます。それで、特に、ご自身が心に留め、お心を注いでくださるものがあります。神さまがそのようなものとともにいてくださることが「ご臨在」です。
 それは、本来、ご自身の愛といつくしみを注いでくださるためのご臨在です。しかし、神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまってからは、ご自身の民のために救いの御業を遂行されるために、また、罪人たちに対する聖なる御怒りによるさばきを進行されるためにご臨在されることもあるようになりました。
 永遠の神の御子であられるイエス・キリストが人となって来られたことも、また、終わりの日に栄光のキリストが再臨されることも、このご臨在として理解することができます。また、そのように大きなスケールにおけることだけでなく、私たち一人一人とともにいてくださり、愛と恵みといつくしみを示してくださることも、イエス・キリストにある神さまのご臨在です。
 ですから、創造の御業において、神さまがこの「」にご臨在されたからといって、この宇宙の他の所に神さまのご臨在がなくなってしまったということではありません。神さまがこの「」以外の所にどのようにお心を注ぎ、どのようなな意味でご臨在されたのかは示されていませんが、神さまが同時に宇宙のどこにでもご臨在されて、創造の御業を遂行されたことは確かです。
 このように、神さまは創造の御業の遂行において、特別な意味で、この「」にお心を注いでくださり、この「」にご臨在されました。そして、この「」を何よりもご自身のご臨在の場としてふさわしく整えてくださり、同時に、「人の住みか」として整えてくださったのです。
 先週お話ししましたように、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったのは、このような神さまのみこころのとのかかわりにおいてのことでもありました。

 先週は、創造の御業の記事にしたがって、神さまが何を「よし」とご覧になったかを具体的に見てみました。そこにはいくつかの疑問がありますが、二つだけを取り上げておきます。
 一つは、すでに触れていますが、神さまが人を神のかたちにお造りになったことに関する記事の中には、神さまが神のかたちに造られた人を「よし」とご覧になったということが記されていないということです。このことについては、後ほど取り上げます。
 その前に、もう一つのことにも触れておきましょう。それは、神さまがお造りになったものを、最初に「よし」とご覧になったのは、3節、4節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。

と記されていますように、この「」に「」があるようになったことです。

 すると光ができた。

は新改訳の第3版で、

 すると光があった。

と修正されていますように、このときに「」が造られたということを意味してはいません。あくまでも、「」に「」があるようになったということです。最初に造られた太陽から発せられた「」が「」に届くようになったということであると考えられます。
 この後、創造の御業の第2日の御業が遂行されています。6節ー8節には、

ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。

と記されています。
 これは今日で言う、「大気圏」の創造に当たることで、とても重要なことです。しかし、ここでは、神さまがそれを「よし」とご覧になったということは記されていません。このことも、神さまはご自身のお造りになったものがうまくできたかどうかを調べてはおられないということを示しています。もし神さまがお造りになったものの出来栄えを調べておられるのであれば、第2日の御業もご覧になったはずです。
 このようにして、第2日の御業は終わります。問題は、どうして神さまは第2日の御業を「よし」とご覧にならなかったかということです。このことを念頭において、お話を続けます。
 神さまがお造りになったものを、2度目に「よし」とご覧になったのは第3日のことです。9節ー13節には、

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。こうして夕があり、朝があった。第三日。

と記されています。
 ここでは、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったということが、2回繰り返されています。まず、地殻変動によってと考えられますが、水を一所に集められて「かわいた所」が現れるようにしてくださいました。そして、

かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた

後に、

 神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 ちなみに、創造の御業の記事の中には「名をつける」ことは、3回出てきます。「3」も完全数です。具体的には、第1日に、「昼と名づけ」、「やみを夜と名づけ」られたこと。第2日に、「大空を天と名づけ」られたこと。そして、この第3日に、

かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた

ことです。これらは、神さまのご臨在の場にして「人の住みか」としてのこの「」、この世界の最も基本的な環境となっているものです。
 聖書では、「名」はそのものの本質的な特徴やその存在の意味や役割などを表しています。また、名をつけることは、名をつけたものが、名をつけられたものに対して権威を振るうことを意味しています。創造の御業においては、名をおつけになった神さまが、名をつけられた「」と「やみ」、「大空」、「かわいた所」と「水の集まった所」に、それぞれ「」と「」、「」、また「」と「」としての意味と役割をお与えになるとともに、それらを真実に支えてくださることを意味しています。
 このように、神さまは、ただ水が一所に集められて「かわいた所」が現れただけでなく、それらに「」と「」としての意味を与えられてから、それを「よし」とご覧になりました。
 この第3日の御業は、最初、「」を覆っていた「大いなる水」が、第2日に「大空の下にある水と、大空の上にある水」に分けられたことを受けて、その「大空の下にある水」を一所に集めたものです。このことから、神さまは「かわいた所」が出現しただけでなく、そこを「」としての意味をもつものとしてくださって初めて、それを「よし」とご覧になったことが分かります。これは、第2日と第3日の御業をとおして、「人の住みか」としてのこの「」があるようになるまでは、神さまはお造りになったものを「よし」とご覧にならなかったということを意味しています。
 このときには、「水の集まった所」も「」と名づけられています。これは、後に水に住む生き物たちの住み処となります。同時に、神のかたちに造られた人の活動の舞台としての意味ももっています。
 この「」と「」のうち、神さまのお心が特に、「」に注がれていることは、この同じ日に、「」が、

植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた

ことを、神さまが「よし」とご覧になったことに現れています。
 先週お話ししましたように、ここでは「」のことが繰り返し述べられて強調されています。これは「」を蒔いて実を刈り取る、神のかたちに造られた人の生存と活動に備えるものです。
 これらのことも、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことには、この「」がご自身のご臨在の場であるとともに「人の住みか」として整えられていくことが踏まえられていることを示しています。

 そうしますと、問題は、やはり、神さまが人を神のかたちにお造りになったことに関する記事の中に、神さまが神のかたちに造られた人を「よし」とご覧になったということが記されていないということです。
 先週お話ししましたように、生き物たちについては、魚など水に生息する生き物たちや、鳥など翼をもって空中を飛ぶ生き物たちが造られたときに、それを「よし」とご覧になっただけでなく、野の獣や家畜やはうものなど「」に住む生き物たちが造られたときにも、それを「よし」とご覧になっておられます。しかし、1章25節でこの「」に住む生き物たちを「よし」とご覧になったことが記された後には、31節に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されています。
 また、これも先週お話ししましたが、「創造した」ということば(バーラー)は、1章1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばに用いられています。その後は、いのちあるものが最初に造り出されたことを記している21節において、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

と記されている中に用いられています。これは、「いのちあるもの」の創造によって、神さまの創造の御業が新しい段階を迎えたことを示しています。
 しかし、野の獣や家畜やはうものなど「」に住む生き物たちが造られたことを記している中では、このことば(バーラー)は用いられてはいません。野の獣や家畜やはうものなどは、「いのちあるもの」としてひとまとめにくくられているのです。それなのに、神さまは野の獣や家畜やはうものなど「」に住む生き物たちが造られたときには、それを「よし」とご覧になったと記されています。
 そして、「創造した」ということば(バーラー)は、人が神のかたちに造られたことを記している27節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

というように、3回繰り返し用いられています。これは、人が神のかたちに創造されたことをもって神さまの創造の御業が頂点に達したことを示すものです。しかし、神さまはこれを「よし」とご覧になってはおられません。
 このことは、これまでお話ししてきたことからしますと、理解しがたいことです。

 先ほど引用しました、31節には、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

と記されています。この「お造りになったすべてのもの」は、文字通り、この宇宙のすべてのものです。続く2章1節に、

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

と記されていることも、このことを示しています。その意味では、この神さまが「お造りになったすべてのもの」は、1章1節において、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されているときの「天と地」に当たるものです。そして、この、

 初めに、神が天と地を創造した。

ということばは、宇宙全体を見渡すような視点から記されています。それで、この1章31節で、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されていることを読みますと、1節と同じように、宇宙全体を見渡すような視点から記されているように思われます。
 しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、最初にお話ししましたように、この創造の御業の記事においては、1章2節において、視点が神さまご自身のご臨在の場にして「人の住みか」として整えられていく「」に移されているということです。ですから、この31節で、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されていることも、神さまご自身のご臨在の場にして「人の住みか」として整えられてきた「」からの視点でとらえられており、「」とのかかわりでとらえられています。
 このことを踏まえて見ますと、26節ー28節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていること、すなわち、人が神のかたちに造られ、これに歴史と文化を造る使命が委ねられたことが、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

ということの中心に位置づけられていることが見えてきます。
 人が神のかたちに造られず、これに歴史と文化を造る使命が委ねられないままであれば、その他のこと、すなわち、この広大な宇宙がどんなにうまくでき上がったとしても、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されることはなかったということです。
 これは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人の存在には、神さまが「お造りになったすべてのもの」、すなわち、この宇宙全体にかかわるような意味があるということを示しています。
 もちろん、神さまは神のかたちに造られた人それぞれに、特別なお心を注いでくださっています。マタイの福音書6章30節には、

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 このような、神さまの豊かなご配慮があることは確かなことです。しかし、創造の御業の記事は、その神さまの豊かなご配慮が、その他の生き物たちのように、ただ食べることや着ることに関することで終わらないことを示しています。私たちは自らの罪のために、すべてのことを自分中心に捉えてしまう傾向をもっています。聖書のみことばはそのような私たちの現実を踏まえて記されています。そして、神さまが創造の御業において、神のかたちに造られた人に、ご自身が「お造りになったすべてのもの」にかかわるような、私たちの想像を越えた意味をお与えになり、栄光をお与えになったことに注目するように促しているのです。
 このことは、後に、特に詩篇8篇3節ー6節に、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることに明確に示されるようになります。  このような、神のかたちに造られた人の存在に神さまが「お造りになったすべてのもの」にかかわるような意味と栄光があることが、いわば「種」のような形ではありますが、すでに、創造の御業の記事の中に示されていると考えられます。
 いずれにしましても、神さまは、神のかたちに造られた人に、ご自身が「お造りになったすべてのもの」にかかわるような意味と栄光をお与えになって、そのこととのかかわりで「お造りになったすべてのもの」をご覧になって、

 見よ。それは非常によかった。

と言われている喜びを感じられたのであると考えられます。
 このことに関しましては、さらに、続けてお話しいたします。

 


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