(第212回)


説教日:2009年11月15日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


  先週は所沢聖書教会での最後の学び会にうかがったために、主の祈りの説教はお休みしました。今日は、主の祈りのお話に戻り、第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りの前半に出てきます、私たちがこの世で経験するさまざまな「試み」について、いくつかのことをお話ししました。そして、それまでのお話を踏まえて「キリストとともに苦しむこと」についてお話ししています。私たちがイエス・キリストとともに苦しむことができるのは、それに先だって、イエス・キリストが私たちのために苦しんでくださり、私たちとともに苦しんでくださっているからです。


 前回は、「キリストとともに苦しむこと」を、より大きく広い視点から考えるために、神さまが天地創造の御業の中で、ご自身がお造りになったものを「よし」とご覧になったことの意味についてお話ししました。お話が一週空いてしまいましたので、少し長めに復習しながら、お話を進めていきます。
 創造の御業の記事の中では、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことは、7回出てきます。そのうちの5回は、単純に、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われています。そして、最初と最後には、ご覧になったものが何であったかが述べられています。
 神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことには、二つのことがかかわっています。一つは、神さまがお造りになったものを「ご覧になった」ということです。もう一つは、それが「よかった」ということです。
 まず、神さまが「ご覧になった」ということについてですが、これは、神さまがご自身がお造りになったものに、お心を注いでくださり、人格的にかかわってくださることを意味していると考えられます。前回は、このことを「理神論」と呼ばれる考え方との対比でお話ししました。
 ヘブル人への手紙1章2節後半と3節前半には、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されています。
 ここでは、まず、神さまが「御子によって世界を造られました」と言われています。父なる神さまが天地創造の御業にかかわるご計画をお立てになりました。そのご計画にしたがって創造の御業を遂行されたのは御子です。このヘブル人への手紙1章3節では、その御子、天地創造の御業を遂行された御子が、

その力あるみことばによって万物を保っておられます。

とあかしされています。ですから、神さまは御子によって、ご自身がお造りになったこの世界にかかわってくださっているのです。実際、この世界が今日に至るまで存続しているのは、神さまが御子によってこの世界を支え、導いてくださっているからです。
 さらに復習ですが、聖書の中には、神さまが何かをご覧になったと記されている個所があります。存在と知恵と知識において無限、永遠、不変の神さまは、すべてのものを永遠にまた、完全に知っておられます。神さまがご存知ないことは一つもありません。ですから、神さまが何かが分からないのでご覧になるということはありえません。その神さまが何かをご覧になったと記されていることには、特別な意味があります。
 結論的なことだけを言いますが、そのことに触れている聖書のみことばを見てみますと、神さまが何かをご覧になったと言われているときには、神さまがそのご覧になったものを評価されることや、さらに、積極的にそれにかかわられることを示しています。ですから、神さまはご自身がお造りになったものに深い関心を寄せておられ、それと深くかかわってくださっています。それは、神さまが生きておられる人格的な方であるからです。このことが、神さまの創造の御業の遂行においても現れていて、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われていると考えられます。

 前回は、神さまが創造の御業において、お造りなったものを「よし」とご覧になったと言われているときの「よし」ということがどのようなことであるかについてもお話ししました。
 神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったということは、一見すると、ご自身のお造りになったものがうまくできているかどうかを確かめるためにご覧になったというような気がします。
 しかし、それは人間には当てはまっても、神さまには当てはまらないと思われます。そもそも、無限の知恵と力に満ちておられる神さまには失敗ということはありえません。神さまはご自身がどのようなものをお造りになるか永遠の聖定において定めておられています、そして、創造の御業においては、ご自身が定められたとおりに、この世界をお造りになられました。ですから、神さまには、どのような世界ができたのか、あるいは、ご自身がお考えになったとおりの世界ができたのかどうかを確かめる必要はありませんでした。
 また、そうであれば、神さまがお造りになった一つ一つのものが、神さまの御手の作品としての「よさ」をもっています。造られた一つ一つのものが固有の特質を与えられています。だからといって、個々のものがばらばらになってしまうのではなく、造られたもののすべてが、全体として、完全な調和のうちに存在しています。神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったときの「よし」ということには、このようなことが含まれていることは確かです。
 しかし、それは、神さまが初めからご存知のことです。それで、神さまはそのことを確かめるために、お造りなったものをご覧になったのではないと考えられます。
 それで、最初にお話ししましたことが意味をもってきます。そもそも、神さまがお造りなったものをご覧になったのは、神さまが、ご自身のお造りになったものに、心を注いでくださり、人格的にかかわってくださることを意味しています。このことが、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われているときの「よし」ということの意味に深くかかわっているのです。この「よし」ということば(トーブ)にはいろいろな意味があります。一般的な意味での「よい」ということだけでなく、倫理的に「善い」とか、「価値がある」とか、「正確である」とか、「美しい」とか、さらには、「喜ばしい」というような意味もあります。
 このことから、神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったと言われているときの「よし」ということばは、神さまの喜びを表していると考えられます。神さまが、ご自身の創造の御業をとおしてそこにあるようになったこの世界とその中の一つ一つの存在を喜んでくださり、いつくしんでくださっていることを表していると考えられます。注意したいことは、それは、神さまがお造りになったすべてのものが、神さまの御手の作品としての「よさ」をもっていることを踏まえているということです。

 以上、前回お話ししたことの復習ですが、これから、この神さまの喜びには、もう一つの面があるということをお話ししたいと思います。
 先ほど触れましたように、創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事においては、神さまがご自身のお造りになったものをご覧になったことは、7回記されています。具体的にそれを見てみましょう。
 まず、その前提となっていることに触れておきたいと思います。それは、2節に、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されていることです。
 この前の1節に、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されているのは、この創造の御業の記事全体についての「見出し」に当たることばです。これは、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになったことを宣言しています。この場合の「天と地」ということばは、慣用表現で、この世界のすべてのもの、しかも、秩序立てられていて、まったき調和のうちにある世界のすべてのものを表しています。また、「初めに」ということばは、この世界には「初め」があること、つまり、この世界は歴史的な世界であることを示しています。
 このように、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになったことを宣言した後、2節において、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。これは、神さまが遂行しておられる創造の御業が、「」からの視点からとらえられていることを示しています。1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

ということばは、宇宙全体を見渡すような視野において記されています。けれども、2節では、その視点が「」に映されています。そして、この後の記事は、すべて、この「」からの視点で見られたことを記しています。
 イザヤ書45章18節には、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てられた方、
 これを形のないものに創造せず、
 人の住みかに、これを形造られた方、
 まことに、この主がこう仰せられる。

と記されています。
 ここでは、契約の神である主、ヤハウェが「」を、

 形のないものに創造せず、
 人の住みかに、これを形造られた

と言われています。この「形のないものに」と訳されていることば(トーフー)は、創世記1章2節において、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と言われているときの「形がなく」と同じことばです。このようなことから、創世記1章2節以下において、神さまの創造の御業が「」からの視点で記されているのは、神さまのこの「」を、

人の住みかに、これを形造られた

ことによっていると考えられます。
 しかし、神さまが最初に造り出された「」の状態は、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と言われているような状態でした。これは、この「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示しています。しかし、それに続いて、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。この「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあったときに、すでに、そこに神さまが御霊によってご臨在されておられたというのです。
 これは、この「」が「人の住みか」である以前に、また、「」が「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される所であることを意味しています。神さまがご臨在される場所を「神殿」と呼びますが、神さまはこの「」を神殿としての意味をもっているところとしてお造りになったのです。そして、神さまはご自身がご臨在されるこの「」を「人の住みか」として形造ってくださいました。それは、言うまでもなく、神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御前に住まわせてくださるためのことでした。
 神の御住まいこそが、私たち主の民の住まうべきところであるということは、みことばが一貫してあかししているところです。そして、それはイエス・キリストにあって、私たちの間に実現し、終わりの日に完成することが示されています。
 このことに、私たちは、神のかたちに造られた人に対する神さまのこの上ない愛を感じとることができます。そして、このことを考えますと、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったこと、そして、それが神さまの喜びを表しているということの、さらなる意味が見えてきます。それは、造り主である神さまが、神のかたちに造られた人を愛してくださっておられることから湧き出てくる喜びでもあったのです。
 聖書によく用いられている表象にしたがって考えてみましょう。聖書においては、神さまの人との関係は、しばしば夫の妻の関係になぞらえられています。そうしますと、これは、やがて妻を迎えるために、自分たちの家を建てている夫の喜びのようなものに当たります。

 このことを踏まえて、神さまがお造りになったものを「よし」とご覧になったことを記している個所を見てみましょう。まず、3節、4節には、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。

と記されています。
 先ほどお話ししましたように、「」が、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と言われているような状態にあって、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったときに、すでに、そこに神さまが御霊によってご臨在されておられました。

 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。

というのは、その御霊によってご臨在しておられる神さまが、そのご臨在の御許から、

 光よ。あれ。

というみことばを発せられたということです。
 このように、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と言われているような状態にある「」を「人の住みか」に形造られた神さまは、まず、この「」に「」があるようにされました。このことを受けて、

 神はその光をよしと見られた。

と記されています。
 これまでお話ししてきたこととのかかわりで見ますと、これは、神さまが「人の住みか」として形造られるようになるこの「」に「」があるようになったことを「よしと見られた」ということを示していることになります。さらには、ご自身のご臨在の場として聖別されている「」に「」があるようになったことを「よしと見られた」ということを示しています。
 神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったことの2番目の記録は、9節、10節に、

神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。これは、神さまがこの「」を覆っていた「大いなる水」分けて、「」を出現させてくださったことを記しています。神のかたちに造られた人はこの「」に住むようになります。その点からも、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われていることがうなずけます。
 ただし、ここでは、「」が出現したことだけでなく、「水の集まった所」が「」としての意味をもつようになったことも、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われていることに含まれていると考えられます。これは、後ほど取り上げます、4番目の記録ともかかわってきますし、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命ともかかわってきます。
 3番目の記録は、11節、12節に、

神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 ここでは神さまが植物を「」からはえさせられたことが記されています。この記事においては、「」のことが、その都度繰り返し語られています。これは、28節ー30節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

と記されていることとかかわっています。
 神さまが神のかたちに造られた人と人に委ねられた生き物たちのために食べるものを備えてくださったということです。神のかたちに造られた人の食物に触れるときには「」のことに触れています。人は「」を蒔き、その実を刈り取るからです。しかし、生き物たちの食物については「」のことは出てきません。生き物たちは蒔くことも刈り入れることもしないからです。いずれにしましても、神さまは、そのような意味をもった、植物がそこにあるようになったことを、「よし」とご覧になったのです。
 4番目は、16節ー18節に、

それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 これは神さまの天地創造の御業の第4日の御業におけることです。詳しい議論は省きますが、これはこのときに天体が造られたということではありません。第1日目の御業において、神さまは「」に「」があるようにされました。その「」は神さまがお造りになった太陽から来ていると考えられます。それで、太陽はすでに天地創造の第1日に造られていたと考えられます。
 この16節ー18節は、創造の御業の記事においては「補足説明」です。そして、天体を神として拝んでいたその当時の文化の中にあって、天体が神さまによって造られたものであることを示しています。
 第4日の御業そのものについては、14節、15節に、

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。

と記されています。これは、「人の住みか」として形造られるようになるこの「」との関係において天体が果たす役割が確立するようにしてくださったものです。必ずしも、この日に天体が造られたということを意味してはいません。
 これによって、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられるようになる人が、昼と夜との区別、季節の区別、日を数え、年を数えることができるようになります。これは、神のかたちに造られた人が、歴史と文化を造る使命、特に、歴史を造る使命を果たすうえで決定的に大切な備えであるのです。そして、このこととのかかわりで、神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったと言われているのであると考えられます。
 ここまでは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が住まう「住みか」の広い意味での「環境設定」です。

 神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったことの5番目の記録は、21節に、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 これは、神さまがいのちあるものを最初に造り出されたことを記すものです。いのちあるものは、いのちそのものであられる神さまを、より特別な形であかしするものです。このことを反映して、21節には「創造された」ということば(バーラー)が出てきます。このことばは、1節において、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されているときに用いられていますが、その後は、ここで初めて出てきます。これは、いのちあるものが造り出されたことによって、神さまの創造の御業が新しい段階を迎えたことを示しています。
 ちなみに、この後、このことばは、27節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されている中で、3回繰り返し用いられています。神さまの創造の御業が神のかたちに造られた人の創造によって決定的な段階を迎えたことを示しています。
 そして、神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったことの6番目の記録は、25節に、

神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。
 これは、いのちあるものを創造された御業の延長線上にある御業を記しています。「野の獣」や「家畜」や「地のすべてのはうもの」は、神のかたちに造られた人と同じように「」に住まうものです。その点で、海に生息する生き物や、「」ばかりでなく、空をも飛び回る生き物たちと区別されます。「」に住まう生き物は、物理的に、神のかたちに造られた人により近い存在です。
 このように、神さまがお造りになったいのちあるものについては、すべてをひとまとめにしないで、二つのグループのそれぞれについて、

 神は見て、それをよしとされた。

と言われています。これには、それが、神のかたちに造られた人に委ねられた生き物たちであることがかかわっているということが考えられます。
 しかし、問題は、前回もお話ししましたように、神さまが人を神のかたちにお造りになったことに関する記事の中には、神さまが神のかたちに造られた人をよしとご覧になったということが記されていないということです。最後の7番目の記録は、前回詳しく取り上げましたが、31節に、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

と記されていることです。
 このことは、これまでお話ししてきました、神さまはご自身がご臨在されるこの「」を「人の住みか」として形造ってくださったということ、そして、そのこととのかかわりで、お造りになったものを「よし」とご覧になったと言われているということからすると、理解しがたいことと思われます。しかし、このことにも意味があると思われます。これについては、改めてお話しいたします。

 


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