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説教日:2009年11月1日 |
創世記1章31節には、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。これは天地創造の第6日の終わりに、神さまが「お造りになったすべてのものをご覧になった」ことを記しています。天地創造の御業は6つの日にわたってなされましたから、これは神さまがすべてのものをお造りになった後に、そのすべてをご覧になったこと、そして、それが「非常によかった」ということを示しています。 このことには二つのことがかかわっています。一つは、神さまがお造りになったものをご覧になったということです。もう一つは、それが「非常によかった」ということです。大切なことは、この二つのことは一つのことの裏表であって、切り離すことができないということです。 まず、神さまがお造りになったものをご覧になったということについて考えてみましょう。どうして、神さまはお造りになったものをご覧になったのでしょうか。 私はそれは神さまがお造りになったものの出来栄えを確かめるためにご覧になったのだと思っていました。ちょうど、職人が自分の造ったものの出来栄えを確かめるために、制作作業の途中で手を休めて、作品を眺め、その最後にも、作品の全体の出来栄えを確かめるのと同じだと思っておりました。あるいは、工場であれば、その製造の過程で検査があり、最後に、製品としての検査をすることに当たると思っておりました。 けれども、いまから30年ほど前に祈祷会で創世記の学びを初めて、1章3節、4節に、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。 と記されている個所にきて、神さまが、ご自身のお造りになったものをご覧になったことを改めて考え直しました。 創造の御業の記事では、神さまがお造りになったものをご覧になったことは、4節、10節、12節、18節、21節、25節、そして、31節というように、7回記されています。ご存知のように、7は完全数です。そのうち、最初の4節と最後の31節には、神さまがご覧になったものが何であるかがわざわざ記されています。4節では、 神はその光をよしと見られた。 と記されています。また、31節には、先ほど引用しましたように、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と記されています。それ以外では、ただ、 神は見て、それをよしとされた。 と記されているだけです。もちろん、その場合にも、神さまがそれに先だってお造りになったものをご覧になったことには変わりがありません。 4節と31節で、神さまがご覧になったものが何であるかがわざわざ記されていることには、それぞれ意味があると考えられますが、ここではそれに触れる時間的な余裕がありません。 ある人々は、神さまはこの世界をまったき調和のある世界としてお造りになって、後は、この世界が自らの法則にしたがって進むに任せておられると主張しています。これは「理神論」と呼ばれる立場です。もし私たちがこの世界のすべてのものは神さまによって造られたということを信じていても、実際には、この世界を律しているのはこの世界の法則であると思っているなら、それは理神論的な考え方です。 ヘブル人への手紙1章3節には、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と記されています。 もちろん、この世界にはさまざまな法や法則があります。ちなみに、日本語では「法」と「法則」が区別されていますが、ヘブル語やギリシャ語、また英語などでは同じ言葉で表されます。しかし、この世界にさまざまな法則があるからといって、それで神さまが、御子のお働きによって、お造りになったものを真実に保持してくださっていることが否定されるわけではありません。どういうことかと言いますと、神さまが、御子によって、お造りになったものに固有の性質をお与えになり、真実に、それを保ってくださっているので、私たち人間は、それを法則として理解することができるのです。その意味では、この世界に法則があることと、神さまがこの世界を、御子による摂理のお働きをもって保持しておられることは相矛盾することではありません。いずれにしましても、みことばは、神さまが天地創造の御業を遂行された後にも、この造られた世界に深くかかわっていてくださることをあかししています。 また、聖書の中には、神さまがわざわざご覧になったと記されている個所がいくつもあります。いちいち引用する時間的余裕がありませんが、創世記6章5節、12節、7章1節、11章5節、18章21節、出エジプト記3章7節、9節、4章31節、12章13節、32章9節、サムエル記第1・16章7節、列王記第2・20章5節、詩篇10篇14節、35篇22節、139篇16節、24節、箴言24章18節、イザヤ書37章17節、59章6節などです。存在と知恵と知識において無限、永遠、不変の神さまは、すべてのものを永遠にまた、完全に知っておられます。ですから、わざわざ神さまがご覧になったと記されていることには、特別な意味があります。いま上げました個所を見てみますと、神さまが人やものや状態などをご覧になったと言われているときには、神さまがそのご覧になったものを評価されることや、さらに、積極的にそれにかかわられることを示しています。 このように、神さまはご自身がお造りになったこの世界と深くかかわってくださっています。そのことは、すでに、神さまの創造の御業の遂行のなかにも現れています。 先ほどお話ししましたように、創世記1章に記されている創造の御業の記事の中で、神さまがお造りになったものをご覧になったことが7回記されていることもその現れです。また、3節に、 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。 と記されていますように、神さまは語りかけられることによって創造の御業を遂行しておられます。それは、神さまの創造の御業の遂行において一貫しています。このことも、創造の御業が人格的な働きかけによって遂行されたことを示しています。 神さまは創造の御業の遂行において、常に、ご自身がお造りになるこの世界に人格的にかかわっておられます。神さまがお造りになったものをご覧になったことも、そのような人格的な働きかけによることです。そして、このことが、神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったことの意味を理解する鍵です。 神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったと言われているときの「よし」ということがどのようなことであるかについては、いろいろな見方があります。ここでは結論的なことだけをお話ししたいと思います。 神さまはご自身がどのような世界をお造りになるかを永遠から定めておられました。また、神さまは知恵と力において無限です。神さまに失敗はありません。ご自身が永遠に定めておられるとおりに創造の御業がなされました。この世界のなかにまったき調和があり、物事がうまく動いているというだけでなく、造られた一つ一つのものが、神さまの御手の作品としてのよさをもっており、それが十分に発揮されています。しかし、それは、神さまが初めからご存知のことです。それで、神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったことは、創造の御業の結果どのようなものができたか、その出来栄えを確かめることとは違うと考えられます。 神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったと言われているときの「よし」ということば(トーブ)にはいろいろな意味があります。日本語でも「よい」ということばにはいろいろな意味がありますが、そのような広い意味を考えるとよいかと思います。一般的な意味での「よい」ということだけでなく、倫理的に「善い」とか、「価値がある」とか、「正確である」とか、「美しい」とか、さらには、「喜ばしい」というような意味もあります。 このことから、神さまがお造りなったものを「よし」とご覧になったと言われているときの「よし」ということには、先ほどお話ししましたような、この世界とその中の一つ一つのものが神さまの御手の作品としてのよさをもっていることが根本にあると考えられます。しかし、そのことは始めから分かっていたことですので、それを神さまが確かめられたというようには考えられません。それで、ここでは、そのことの上に立って、さらにそれ以上のことが示されていると考えられます。それは、神さまが、ご自身の御業によってそこにあるようになったこの世界とその中の一つ一つの存在を喜んでくださり、いつくしんでくださっていることの現れであると考えられます。造り主である神さまの喜びといつくしみが、造られたこの世界のすべてのものを覆っていたということです。それは、今日に至るまで変わることはありません。 特に、創世記1章31節において、 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 と言われているときには、創造の御業の完成を受けて、「非常によかった」とそれが一段と強調されています。神さまがお造りになったこの世界が本当によい世界であるとともに、それをお造りになった神さまのうちに深い喜びがあったことがうかがわれます。 このようなことを念頭において、創世記1章20節、21節を見てみましょう。そこには、 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。 と記されています。 ここには、創造の御業において最初に「いのちあるもの」が創造された第4日の御業が記されています。その御業によって、いのちあるものが造り出されたことが記された後、 神は見て、それをよしとされた。 と記されています。神さまのうちに深い喜びがあったのです。そして、続く22節には、 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」 と記されています。創造の御業の記事の中では、神さまの祝福はここで初めてなされています。それで、神さまの祝福はいのちあるものへの祝福として、いのちの豊かさをもたらすものであると考えられます。そして、それが、神さまがそのいのちあるものの存在そのものを喜んでくださる喜びとともになされたことがうかがわれます。 これと関連するみことばをいくつか見てみましょう。 ヨブ38章4節ー7節には、 わたしが地の基を定めたとき、 あなたはどこにいたのか。 あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。 あなたは知っているか。 だれがその大きさを定め、 だれが測りなわをその上に張ったかを。 その台座は何の上にはめ込まれたか。 その隅の石はだれが据えたか。 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、 神の子たちはみな喜び叫んだ。 と記されています。 これは、ヨブと友人たちの対話が終わった後、主がヨブに対して語りかけられた最初のみことばの一部です。主はヨブにご自身が創造の御業を遂行され方であることを示しておられます。このみことばの最後に、 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、 神の子たちはみな喜び叫んだ。 と記されています。 ここに出てくる「明けの星々」と「神の子たち」がどのような存在であるかについてはいろいろな意見があります。それを特定化することはできないとしても、それが、神さまのご臨在の御前において仕えている天的な存在であると考えられます。もちろん、それらの存在も神さまがお造りになったものです。 神さまの創造の御業は、そのような天的な存在にとっては喜びと讃美に値するものでした。それ以上に、神さまがお造りになったこの世界は、造り主である神さまご自身にとっても、その存在を喜びとされるものであったのです。天的な存在はその神さまの喜びを映す形で、自らの喜びとし、それを讃美として表していたと考えられます。神さまが喜んでおられないことを、天的な存在が喜んでいるということは考えられないことです。 これは神さまの創造の御業におけることですが、贖いの御業においても同様なことが見られます。ルカの福音書15章7節には、 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。また、同じ章の10節には、 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。 と記されています。 ここに記されているのは、百匹の羊を飼っている羊飼いが、迷い出た1匹の羊を探しに行って、それを見つけ出したことと、十枚の銀貨を持っている女性が、なくした1枚を徹底的に探してそれを見つけ出したことをたとえとしたイエス・キリストの教えです。羊飼いが迷い出た羊を探し出したことや、女性が銀貨を探し出したことは、神さまが御前から失われた罪人を見出してくださることを示しています。ですから、天における喜びは基本的には神さまの喜びです。それが御使いたちにも分かち合われて、御使いたちの喜びともなっていると考えられます。これと同じことが、創造の御業においても起こっていたのだと考えられます。 これは天におけることですが、地でも同じことが起こるようになっています。神のかたちに造られた人は、神さまが天地創造の御業と摂理の御業のことをわきまえることができるものとして造られています。神さまがこの世界のすべてのものをいつくしみをもってお造りになり、真実な御手によってこれをお支えになり、導いておられることをわきまえることができるものとして造られているのです。そして、この地にあって、自覚的に、感謝と讃美と喜びをもって神さまに応答するものとして造られていますし、そのような使命を委ねられています。言うまでもなく、その中心には、造り主である神さまに対する礼拝があります。 創世記1章27節、28節には、 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 この、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という命令は、一般に「文化命令」として知られています。しかし、これは単なる文化の形成というより、それを歴史的に受け継いで行く歴史形成の命令です。それで、私は、ここだけで通用するものですが、「歴史と文化を造る使命」と呼んできました。これは、形としては命令ですが、これを導入する、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。 というみことばが示しているとおり、造り主である神さまの祝福のことばです。先ほど、最初にいのちあるものが造られたときの神さまの祝福のことをお話ししました。それが、神さまがいのちあるものの存在を喜んでくださることの中でなされたことを見ました。神のかたちに造られた人への祝福も、そのような神さまの喜びがかかわっていたと考えられます。 「文化命令」とか「歴史と文化を造る使命」といいますと、事業を展開することが中心のような気がいたします。しかし、歴史と文化を造る使命の中心は、創造の御業における神さまの喜びを受け止め、それに感謝と讃美をもって応答することです。その応答の中心に、神さまへの礼拝があります。 これらのことを考えますと、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことが、造り主である神さまにとってどのような意味をもっていたかを察することができます。 もし、理神論者が言うように、神さまがこの世界をお造りになった後は、この世界が自らの法則にしたがって進むに任せておられるのであれば、神さまはいわばこの世界の「傍観者」であるでしょう。すべてのことを、冷徹に観察しておられ、多少残念に思われることがあっても、ご自身が損失や痛手を被ることはないというようなことになるでしょう。 しかし、実際には、神さまはそのような方ではありません。創世記6章5節ー7節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」 と記されています。 ここには、ノアの時代に人の罪による堕落と腐敗が極まってしまったことが記されています。ここに記されていることにはいくつかの問題がありますが、いまお話ししていることにかかわる二つのことだけを取り上げます。 一つは、6節に出てくる「心を痛められた」ということばです。この場合の「痛める」ということば(アーツァブ)は、悲しみと怒りと苦悩の入り交じった人間の激しい感情を表すのに用いられます。それに、さらに「その心に」ということば(エル・リッボー)が加えられて強調されています。 この場合、これが主の悲しみを表しているのか怒りを表しているのか意見が分かれています。結論的には、このことばの用例やこの記事の前後関係から、これは、主が「悲しまれた」ということを表していると考えられます。しかも、それは、このことば(アーツァブ)が示している激しい感情においてのことであるのです。主は心を突き刺されるような悲しみをもって悲しまれたということです。 もう一つのことですが、この記事においても、 主は・・・ご覧になった。 と記されています。ヘブル語ではこの「主はご覧になった」が最初に出てきます。これは、先ほどお話ししました、神さまが創造の御業において、ご自身がお造りになったものをご覧になられたことと呼応しています。創造の御業においては、神さまはすべてをご覧になって「よし」とされ、深い喜びを表されましたが、ここでは、非常に激しい思いをもって、心から悲しまれました。 主は最後に、 わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。 と言われました。この「残念に思う」と訳されたことば(ナーハム)は、その前の6節で「悔やみ」と訳されているのと同じことばです。いずれにしましても、 わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。 という主のことばは、まさに創造の御業における神さまの喜びとの対比を示しています。 しかし、その一方で、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことに対する神さまの深い悲しみを覚えますと、先ほど引用しました、 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。 というみことばの示すことが、よりいっそう私たちの心に迫ってきます。 神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことに対する造り主である神さまの深い悲しみが、イエス・キリストが私たちとともに苦しみや痛みや悲しみをともにしてくださっていることにつながっているということを思わされます。このことについては、改めてお話しします。 |
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