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説教日:2009年10月25日 |
このこととのかかわりで、すでにお話ししたことで、改めて確認しておきたいことがあります。それは、神さまがどのようなお方であるかということは、ただ御子イエス・キリストをとおして知ることができるということです。私たちは自らのうちに罪の性質を宿しているために、神さまについて歪んだイメージをもちやすいものです。それは、御子イエス・キリストを知ることをとおして絶えず修正されなければならないものです。 テモテへの手紙第一・6章15節後半と16節には、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されています。ここには、被造物である人が直接的に神さまを見ることも知ることができないことが示されています。そして、このことを踏まえて、ヨハネの福音書1章18節には、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されています。 いまだかつて神を見た者はいない。 というみことばは、無限、永遠、不変の栄光の神さまの存在そのものを直接的に見ることができる「者はいない」ということを意味しています。 もちろん、みことばは、神のかたちに造られた人は神さまを知ることができるものに造られているし、実際に神さまを知っているということを教えています。しかし、それは神さまがご自身を、私たちに分かるように啓示してくださったかぎりにおいて、神さまを知ることができるということを意味しています。そして、ここでは、そのように、神さまを私たちに啓示してくださった方が「父のふところにおられるひとり子の神」であると言われているのです。 言うまでもなく、ここで「父のふところにおられるひとり子の神」と言われている方は、御子イエス・キリストのことです。 ここで、 父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた と言われているときの「説き明かされた」と訳されたことば(エクセーゲオマイ)は、その名詞形(エクセーゲーシス)が、英語のexegesis「釈義」ということばの語源となっているということで知られています。そして、このことから、「イエス・キリストは父なる神さまの『釈義』である」と言われることがあります。「言い得て妙」であると思います。この「説き明かされた」と訳されたことばは、「説明する」、「解釈する」、「描写する」、「物語る」、「報告する」というようなことを意味しています。それで、新改訳の「説き明かされた」ということは、このことばの意味合いを伝えています。人がだれも直接的に見ることができない神さまを、「父のふところにおられるひとり子の神」が、人に分かるように「説き明かされた」ということです。 この「父のふところにおられるひとり子の神」は、「神」であられますから、無限、永遠、不変の栄光の主です。そして、「父のふところにおられる」というみことばは、「ひとり子の神」すなわち御子イエス・キリストが父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということを意味しています。ここで「父のふところにおられる」と言われているときの「おられる」ということば(オーン)は現在分詞で表されていて、常にまた継続していることを示しています。これを「父のふところにおられるひとり子の神」ということばの中で見ますと、それが永遠に変わることがない愛の交わりであることを示していることが分かります。 このように、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる「ひとり子の神」すなわち御子イエス・キリストが、神さまを私たちに啓示してくださいました。より詳しく言いますと、「ひとり子の神」が、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、人間的に言いますと、無限にその身を低くされて、神さまを私たちに啓示してくださったということです。 神さまの自己啓示にはいろいろなものがありますが、すべて御子によるお働きによっています。旧約聖書に記されている預言者たちをとおしての啓示も、御子が御霊によって預言者たちに啓示を与えてくださったものであると考えられます。 そればかりではありません。最終的には、御子イエス・キリストご自身が父なる神さまを啓示される方となられました。それが、ヨハネの福音書1章14節において、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 とあかしされている、永遠の「ことば」であられる御子が人の性質を取って来てくださったことです。実際、ヨハネの福音書14章9節には、 わたしを見た者は、父を見たのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 また、コロサイ人への手紙2章9節には、 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 と記されています。これは、苦心の訳ですが、人となって来られた御子イエス・キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が・・・宿っています」ということを伝えています。 このような説明をするとかえって分かりにくくなってしまうかもしれませんが、ことばの説明をしておきましょう。ここで、「神のご性質」と訳されていることば(セオテース)は神さま(セオス)に当てはめられる抽象名詞で「神性」を表しています。「神さまの本質的な性質」、「神さまをして神たらせている性質」のことです。そして、「満ち満ちた」と訳されたことば(パン・ト・プレーローマ)は、直訳すれば「すべての充満」です。「満ちていること」が「すべて」によってさらに強調されています。また、「形をとって」と訳されていることば(ソーマティコース)は、「からだ」(ソーマ)に関係があることばです。このことばは、これが人の性質を取って来てくださったイエス・キリストのことであることを示しています。また、それが幻想ではなく現実であることをも示しています。 このようなことを踏まえて、新改訳は、 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 と訳しています。イエス・キリストは、ご自身がこのような方であられるので、ご自身について、 わたしを見た者は、父を見たのです。 と教えられたのです。ですから、イエス・キリストご自身とその御業が父なる神さまをこの上なく豊かに啓示しています。 ヨハネの福音書1章18節に記されている、 父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた というみことばは、「父のふところにおられるひとり子の神」と父なる神さまとの永遠の愛の交わりがあることを示していました。「父のふところにおられるひとり子の神」と父なる神さまとの永遠の愛の交わりのことは、これに先立って、同じヨハネの福音書1章の1節、2節にも示されています。 そこには、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 と記されています。 これについても、すでに繰り返しお話ししたことですので、結論的なことだけをお話しします。ここに出てくる「ことば」は、先ほど引用しました14節で、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 とあかしされていますように、御子イエス・キリストのことです。 初めに、ことばがあった。 というみことばは、天地創造の御業の「初めに」、「ことば」はすでに存在していた、しかも継続的に存在していたということが示されています。「あった」と訳されている動詞は未完了形で、過去における継続を示しています。時間はこの世界の時間であり、この世界が造られたときから時間も始まっています。しかし、この「ことば」は天地創造の御業が始まったときに、したがって、時間が始まったときにすでに継続的に存在しておられました。これは「ことば」が永遠の存在であられることを示しています。 実際、1節の最後には、 ことばは神であった。 と言われていて、「ことば」が神であられることが示されています。さらに、3節において、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されているとおり、「ことば」は天地創造の御業を遂行された方です。 その「ことば」について、1節では、 ことばは神とともにあった。 とあかしされています。この「神とともにあった」ということばの「・・・とともに」ということば(前置詞・プロス)は「・・・の方へ」という意味合いをもっており、「ことば」が父なる神さまと向き合っておられること、つまり、「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにいますことを示唆しています。そして、このことは2節においても、 この方は、初めに神とともにおられた。 と繰り返されていて、とても大切なことであることが示されています。ここでは「初めに」ということばが加えられて、「ことば」と父なる神さまの愛の交わりが時間を越えた永遠の交わりであることが示されています。ただし、この1節、2節に記されていることだけで、父なる神さまと「ことば」との間に愛の交わりがあったと断定することはできません。しかし、先ほどお話ししました、18節の「父のふところにおられるひとり子の神」ということばが、そのことを確証しています。 そして、このことは、3節において、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と言われていることへとつながっています。つまり、ここでは、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにおられる方が、天地創造の御業を遂行されたということが示されています。天地創造の御業は父なる神さまとの愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって遂行されたということです。それは、また、天地創造の御業は神さまがご自身の愛を、外に向けて表現されたものであるということを意味しています。 18節の、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 というみことばにおいても、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる「ひとり子の神」が、神さまを私たちに啓示してくださったと言われています。この場合も、先ほどの、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにおられる「ことば」なる方が、天地創造の御業を遂行されたと言われていることと同じような意味があると考えられます。 永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられる「ひとり子の神」が、その父なる神さまがどのような方であるかを「説き明かされた」というのです。このことから、この「ひとり子の神」が神さまを説き明かされるときにも、そこに父なる神さまの愛が豊かに映し出されていることが予想されます。そして、実際に、十字架の死を頂点とするイエス・キリストの地上の生涯において、父なる神さまの愛が豊かに映し出されています。ヨハネの手紙第一・4章9節、10節に、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されているとおりです。 このように、私たちは、ただ御子イエス・キリストをとおして神さまがどのようなお方であるかを知ることができます。このことは、これまでお話ししてきましたことと深くかかわっています。イエス・キリストは、地上の生涯を通して、ご自身の民の苦しみや痛みや悲しみを、ご自身のこととして負ってくださり、ご自身が苦しみ、痛み、悲しんでくださいました。そのことは、まさに、神さまがどのようなお方であられるかを私たちに啓示しています。 ヨハネの福音書12章27節、28節には、 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」 と記されています。 これもすでにお話ししたことですので、要点だけをお話ししますが、 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。 というイエス・キリストのことばは、差し迫ってきている十字架の死を前にしてのイエス・キリストの苦悩を示しています。そして、 いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。 ということばは、祈りのことばでもありますが、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死なれることへの決意の表明でもあります。ですから、 父よ。御名の栄光を現わしてください。 という祈りのことばは、イエス・キリストの十字架の死をとおして父なる神さまの栄光が現されるということを踏まえての祈りです。そして、それに対して、父なる神さまがお応えになって、 わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。 と言われたことも、イエス・キリストの十字架の死をとおして父なる神さまの栄光が現されるということを踏まえています。 この場合、 わたしは栄光をすでに現わした というみことばは、永遠の神の御子、無限、永遠、不変の栄光の主が、私たちの罪を贖ってくださるために人の性質を取って来てくださったこと、そして、実際に、その御業を始められたことをとおして、父なる神さまの栄光が現されたことを意味しています。 これについては、イエス・キリストの奇跡的な御業が、神さまの栄光が現されたことの中心であるという見方があります。しかし、これには注意が必要です。すでに繰り返しお話ししてきましたが、奇蹟ということがイエス・キリストの奇跡的な御業の華々しさのことを指しているとしたら、ここでのイエス・キリストと父なる神さまのやりとりの主旨を見失っていると言うほかはありません。どういうことかと言いますと、 またもう一度栄光を現わそう。 という父なる神さまのみことばは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子が、私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれることをとおして、父なる神さまがご自身の栄光を現されることを示しています。そして、 わたしは栄光をすでに現わした と言われているときの「栄光」も本質的にこれと同じ栄光であるはずです。それは奇蹟の華々しさとは違っています。 イエス・キリストの奇跡的な御業の中心は、たとえそれが人を仰天させる圧倒的な力であったとしても、単なる力の現れにあるのではありません。すでに繰り返しお話ししてきましたが、その中心は、御子イエス・キリストがご自身の御許にやって来た人々の痛みや苦しみや悲しみをご自身のこととして負ってくださり、ご自身が痛み、苦しみ、悲しまれたことにありました。これこそが、主ご自身が預言者イザヤをとおして、預言してくださっていたことです。また、マタイが地上におけるイエス・キリストの奇跡的な御業の根本にあるとあかししていることです。マタイの福音書8章16節、17節には、 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 と記されています。 イエス・キリストはご自身の御許にやって来た人々の痛みや苦しみや悲しみをご自身のこととして負ってくださり、ご自身が痛み、苦しみ、悲しまれたことによって、人の罪がもたらした悲惨さを身をもって味わわれました。そうであるからこそ、その根本原因である罪を贖わなくてはならないという思いをよりいっそう強くされたのだと考えられます。そして実際に、私たちの罪の罪責を負って十字架におかかりになり、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってお受けになったのだと考えられます。 そうであれば、 いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。 というイエス・キリストのみことばの背景には、このときに至るまでのイエス・キリストの御業において、人々の痛みや苦しみや悲しみをご自身のこととされたことの裏打ちがあると考えられます。 もちろん、その根本には、御子イエス・キリストが十字架にかかって私たちご自身の民の罪の贖いをしてくださることが父なる神さまの永遠からのみこころであるという事実があります。イエス・キリストはその父なる神さまのみこころにしたがっておられます。 しかし、忘れてはならないのは、父なる神さまの永遠からのみこころは、およそ起こり来るすべてのことが含まれていて、それには、イエス・キリストがご自身の御許に来た人々の痛みや苦しみや悲しみをご自身のこととして負われたことも含まれているということです。そして、実際に、そのこと、イエス・キリストがご自身の御許に来た人々の痛みや苦しみや悲しみをご自身のこととして負われたことは、イエス・キリストのお働きにとって決定的に重要なことでした。 いずれにしましても、私たちはただイエス・キリストをとおして父なる神さまがどのような方であられるかを知ることができます。イエス・キリストご自身と、十字架の死を頂点とする地上の生涯の全体が、神さまがどのような方であられるかを映し出しています。 このことは過去のこととして終わってしまったのではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまでの完全な従順への報いとして栄光を受けてよみがえられました。そして、天に上り、父なる神さまの右の座に着座しておられます。その栄光のキリストをとおして、父なる神さまの栄光が豊かに現されています。大切なことは、その栄光のキリストによって現されている父なる神さまの栄光は、イエス・キリストが十字架の死を頂点とする地上の生涯において現された父なる神さまの栄光と本質的に同じ栄光であるということです。私たちはともすると、十字架の死をとおして現された栄光と、父なる神さまの右の座に着されたイエス・キリストをとおして現されている栄光は違うのではないかと考えがちです。けれども、もしそうであれば、イエス・キリストが地上の生涯、特に十字架の死を通して現された父なる神さまの栄光は、「別物」であったということになってしまいます。 このように、イエス・キリストが地上の生涯において、御許にやって来た人々の痛みと苦しみと悲しみをご自身のこととして負われて、ご自身が痛まれ、苦しまれ、悲しまれたことに父なる神さまの栄光が現されています。そして、その栄光は十字架の死において最も豊かに現されました。さらに、栄光のキリストは、今も、それと本質的に同じ父なる神さまの栄光を現しておられます。ヘブル人への手紙4章15節、16節において、 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 とあかしされている栄光のキリストのお働きをとおして、変わることなく父なる神さまの栄光が映し出されています。 |
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