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説教日:2009年10月11日 |
これまでお話ししたことによって、私たちがこの世で会う試みについて大切なことが明らかになりました。それは、私たちがキリストとともに苦しむことができるのは、それに先だって、イエス・キリストが私たちとともに苦しんでくださっているからであるということです。 この場合、「先だって」というのは、今から2千年前にイエス・キリストが私たちと同じ人の性質を取って来てくださって地上の生涯を歩まれたときに、十字架にかかって死んでくださったことを頂点として、ご自身の民である私たちのために、また、私たちとともに苦しんでくださったことが根本にあります。そして、そのことに基づいて、今日も、イエス・キリストが私たちとともに苦しんでくださっています。 イエス・キリストは、ご自身が、私たちと同じところに立って、この罪の世にあるがために降りかかってくるさまざまな苦しみを経験されました。ヘブル人への手紙4章15節に、 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されているとおりです。 そればかりではありません。イエス・キリストは、その生涯の最後には、十字架におかかりになり、私たちの身代わりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださいました。 イエス・キリストが私たちと一つとなってくださったということは、ここまで徹底しているのです。これは、人間の限界を越えています。人間にできることは、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』の主人公のモデルである長野政雄さんのように、ほかの人のいのちを救うために自分のいのちを投げ出して肉体的に死ぬということまでです。しかし、イエス・キリストは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださって死んでくださいました。その死は人間としての死ですので、肉体的な死でもあります。この肉体的な死も、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを受けての死です。けれども、それだけではありません。イエス・キリストが味わわれたのは、その肉体的な死をも越えた、地獄の刑罰に相当する底知れない死の苦しみです。それは、本来、私たちが、そして、それゆえに、この私が味わうべきものですが、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが私たちひとりひとりに代わって味わってくださったのです。 人間には、このようなことはできません。それは、二つの理由によっています。 第一の理由は、すべての人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているからです。そのために、すべての人は自分自身の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けなければなりません。とても、ほかの人に代わって、そのさばきを受けることはできません。 第二の理由は、少し複雑なことです。すでにいろいろな機会にお話ししたことですが、改めてお話しします。 まずお話ししたいのは、私たちが犯す罪には対人的な面と対神的な面があるということです。私たちは人との関係において罪を犯すだけでなく、神さまとの関係において罪を犯すのです。 私たちが人との関係において罪を犯すということについては、改めて説明するまでもなく、明らかなことと思われます。ただ、この人との関係において罪を犯すということについても、二つのことに注意する必要があります。 一つは、私たちが人との関係において犯す罪は、ただ人に危害を加えることだけを指しているのではないということです。外に現れてくる行動によって、身体的あるいは精神的に、さらには損害など物理的に、人に危害を加えるということだけでなく、罪はすでに、私たちの心の中で始まっているという面があります。マタイの福音書5章27節、28節には、 「姦淫してはならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。神さまは私たちの心のすべてをご存知であられます。私たちの心のうちに芽生えている罪も神さまの御前においては罪であることには変わりがありません。「殺してはならない」ということについても、心の中でその人に対する憎しみを燃やしたり、その人をさげすむことに、すでにその罪の芽が出ています。このことは、主を信じて罪を赦されている私たちにはよく分かることです。 もう一つのことは、私たちが人との関係において犯す罪には、ほかの人に対して犯す罪だけでなく、私たち自身に対する罪も含まれているということです。不摂生などによってからだを損なうことも、憎しみや情欲などによって心を汚すことも、自分自身に対する罪です。 ここで、特に注意したいのは、ほかの人に対して犯す罪も、自分自身に対して犯す罪も、神のかたちとしての尊厳性を損なうことであるということです。創世記9章5節、6節には、 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちに お造りになったから。 という、神さまのみことばが記されています。 ここで、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 と言われているときの「人によって」と訳されていることばには、あまり一般的ではありませんが、「人のために」ということを表している可能性もあります。つまり、血を流された人のためにということです。その場合には、 人の血を流す者は、 その人のために、血を流される。 ということになります。 いずれにしましても、ここでは、 神は人を神のかたちに お造りになったから ということで、神さまご自身が神のかたちとしての尊厳性を守っておられることを示しています。 このように、私たちが、自分自身に対する罪を含めて、人に対して犯す罪は、神のかたちの尊厳性を損なうものです。そして、その意味で、神さまとの関係において犯される罪としての意味をもっています。 神さまとの関係において罪を犯すと言いますと、神さまの御名を汚し、神さまを冒涜することや、神さまを神としてあがめず、礼拝しないことなどを思いつきます。それも、神さまに対する罪ですが、そのようなことに限られているのではありません。今お話ししましたように、私たちが、自分自身に対する罪を含めて、人に対して犯す罪は、すべて、人を神のかたちにお造りになった神さまに対する罪としての意味をもっています。 そればかりではありません。これとは別の罪もあります。人は神のかたちに造られていて、あらゆる点で神さまによって支えられています。それで、神さまとの関係を離れてなすことは一つもありません。私たちが呼吸する、このひと呼吸も造り主である神さまの支えの中で起こっていますし、私たちの心臓の鼓動の一つ一つが神さまの支えによって保たれています。さらには、私たちが住んでいるこの世界のすべてのものが神さまによって造られたものであり、神さまの御手によって支えられています。日が昇り、雨が降り、草木が育って実を結ぶこと、それらが私たちの食べ物となること、また、人間のあらゆる活動が、造り主である神さまに支えられています。使徒の働き17章24節ー28節に、 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。 と記されているとおりです。 これらのことは、人間以外の生き物にも当てはまります。けれども、生き物たちはこの事実をわきまえることができません。しかし、神のかたちに造られた人は、これらのことをわきまえることができるもの、これらのことをわきまえて、感謝と讃美をもって神さまに栄光を帰する使命をもつものとして造られています。ですから、これらのことにおいて、造り主である神さまを認めず、神としてあがめることをしないことも、神さまに対する罪であり、神さまの聖なる御怒りの下にあります。ローマ人への手紙1章18節ー21節に、 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 と記されているとおりです。 少し長い説明になってしまいましたが、このように、神のかたちに造られた人が犯している罪にはいろいろな罪がありますが、そのすべてが、造り主である神さまに対する罪としての意味をもっています。そうであるとしますと、人が犯すすべての罪は、神のかたちに造られた人が、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまに逆らい、神として認めることも、あがめることもしない罪であるということになります。そのような罪、つまり、私たちが犯す罪のひとつひとつは、私たちの想像を越えたことですが、無限の重みをもっています。それで、私たちが犯した一つの罪を贖うためにも、無限の償いが必要です。あらゆる点で有限な存在である人間には、そのような償いをすることはできません。 それで、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちと一つとなられて、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださるために、人の性質を取って来てくださったのです。そして、私たちの身代わりとなって、十字架の上で、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべて受けてくださったのです。 ここで「それで、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちと一つとなられて・・・云々」と言いましたが、これは、決して、当然なされるべきことだという意味ではありません。父なる神さまと御子イエス・キリストの側に、このようなことをしてくださらなければならない義務も、必要もありませんでした。このすべては、私たちに対する父なる神さまと御子イエス・キリストの愛から出たことです。ヨハネの手紙第一・3章16節には、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 と記されています。また、4章9節、10節には、 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。 このように、神さまはただ私たちに対する愛によって、御子イエス・キリストをとおして、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして、まったくの恵みによって、それを私たちに与えてくださいました。私たちはこのことをあかしする福音のみことばにしたがって、このことを信じ、その信仰によって、この恵みを受け取ったのです。 振り返って考えてみますと、私たちがこの世で経験するさまざまな痛みや苦しみや悲しみは、神のかたちに造られた人、すなわち、私たち自身が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落したために生じたことです。私たちは、ともすると、人間が「死ぬこと」が人間の罪の結果であるということに目が奪われがちです。それはそのとおりですが、そればかりではなく、私たちがこの世で経験するさまざまな痛みや苦しみや悲しみも、人の罪の結果生じたものです。 私たちがこのことにあまり注意を払わないことには、いろいろな理由があることでしょう。たとえば、肉体的な死がだれにでも必ずやってきて、しかも、取り返しがつかないものであるのに対して、私たちがこの世で経験するさまざまな痛みや苦しみや悲しみは、すべての人に一律にやってくるものではありません。また、多くの場合、一時的なことであり、回復の余地があります。それで、それほど危機感をもって受け止められないのかもしれません。 さらには、私たちは多くの場合、それらの痛みや苦しみや悲しみを「不当なもの」、「理不尽なもの」と感じます。ほかの人はそうなっていないのに、どうして私だけがという思いがするのです。そうしますと、自分には問題がないのに、痛みや苦しみや悲しみがやって来たと感じます。このような感じ方がすべて間違っているわけではありません。しかし、微妙なことですが、これには落とし穴があります。 そのことをみことばに照らして見てみましょう。ノアの時代のことを記している創世記6章5節、6節には、 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 と記されており、11節、12節には、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 5章に記されている系図によりますと、ノアはアダムの十代目の子孫です。この系図には省略の可能性がありますが、この5章と6章の記事が示していることから、一つのことが見えてきます。それは、神さまが歴史の中で一度だけ、人間の罪がその本性をむき出しにすることを許された、許可されたということです。すると、アダムからノアに至る期間において、人は一気に罪の升目を満たしてしまい、神さまの聖なる御怒りによる最終的なさばきを招くに至ってしまったのです。 そのさばきは、その時代の人々をさばいただけでなく、そこに至るまでの歴史において積み上げられてきたものも、また、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人との一体に置かれていた生き物たちをも滅ぼす、最終的なさばきでした。もちろん、このさばきも、古い契約の下における地上的なひな型です。 ノアの時代の後は、今日に至るまで、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人の罪がその本性をむき出しにしてしまうことをが抑えられています。そればかりか、一般恩恵に基づく御霊のお働きには、より積極的なお働きもあります。広く「市民的な善」として知られていますが、一般的な意味での善を追い求め、さまざまな文化的な活動をするように、御霊が啓発のお働きをしてくださっているのです。これは、創世記9章9節ー11節に記されていますが、神さまがノアとノアとともにいた生き物たちと結んでくださった契約によっています。 しかし、もし、私たちの時代に、神さまが一般恩恵に基づく御霊のお働きを備えてくださらないで、人間の罪がそのまま罪としての本性を現すままにされたなら、私たちの時代が、洪水前のノアの時代のようになっていたはずです。私たち自身が罪の自己中心性に縛られて、神のかたちとしての尊厳性を極限まで腐敗させ、暴虐の限りを尽くして人を傷つけていたはずです。そこには、もはや、愛のかけらもなく、憎しみのみが渦巻いていて、痛みや苦しみや悲しみは当たり前のこととなってしまっており、逆に、その理不尽さに対する感覚もなくなっていたはずです。 これは、まことに恐ろしい姿ですが、人間の罪がもたらすものは、本当は、このようなものなのです。ただ、今は、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、人間がこのような状態にならないように保たれているために、これが現実になっていないというのが、みことばが示しているところです。 いずれにしましても、私たちがこの世で経験するさまざまな痛みや苦しみや悲しみは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落したために生じたことです。それには、罪に対する刑罰としての意味があります。その意味では、これらの痛みや苦しみや悲しみは、人間の罪がもたらした不毛なもので、私たちを死へと導くだけのものであると言うことができます。実際に、この世では、痛みや苦しみや悲しみを味わっている人について「罰が当たった」と見なされます。また、神さまの恵みにあずかって救われて神の子どもとなった人々にも、それに近い感じ方が残っています。それには、それなりの理由があります。 けれども、イエス・キリストにあっては、これが、まったく新しい意味をもつようになりました。私たちがこの世でさまざまな痛みや苦しみや悲しみを経験するとき、たとえ、それが私たち自身の罪が生み出したものであったとしても、またそれゆえに、私たち自身はそれが自業自得であると感ずるほかはないとしても、その時、永遠の神の御子イエス・キリストが私たちとともにいてくださって、私たちの痛みや苦しみや悲しみを、ご自身の痛みや苦しみや悲しみとしてくださっています。それで、私たちはその痛みや苦しみや悲しみの中で、私たちと一つとなってくださった御子イエス・キリストと出会うことになるのです。御子イエス・キリストがその痛みや苦しみや悲しみをとおしてご自身を、私たちに現してくださるのです。それで、私たちはこれらの痛みや苦しみや悲しみの中で、自らの罪を悟るとともに、そのために贖いを成し遂げてくださった父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちに対する愛を悟るようになりました。 もしこの世にいっさいの痛みや苦しみや悲しみがなかったとしたら、さらに、人が肉体的に死ぬこともなかったとしたら、私たちは自らの罪に気がつくことはなかったでしょう。しかし、私たちは、この世に痛みや苦しみや悲しみがあるから、また、肉体的な死があるから、自らの罪に気がついたのではありません。痛みや苦しみや悲しみを味わっていても、また、死の現実におののいていても、自らの罪に気がつかない人はいくらでもいます。無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、ご自身を空しくして人の性質を取って来てくださって、私たちの痛みや苦しみや悲しみをご自身の痛みとし、苦しみとし、悲しみとしてくださったので、さらには、その先にある死と滅びをご自身が私たちに代わって受けてくださったので、そこまで、徹底的に私たちと一つとなってくださったので、私たちはイエス・キリストに出会い、その贖いの恵みにあずかって新しく生まれたので、自らの罪を悟ることができたのです。 コリント人への手紙第二・7章10節には、 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。 と記されています。「神のみこころに添った」は意訳で、直訳では「神にしたがった」という感じです。これはその前後の文脈の中で語られたものですが、一般的なこととして適用されることを述べています。 私たちはこの世で経験する痛みや苦しみや悲しみをとおして御子イエス・キリストに出会うことができただけではありません。イエス・キリストにあって、ともに痛みや苦しみや悲しみを分かち合う、神の子どもたちに出会うことができるようになりました。 先に引用しましたヘブル人への手紙4章15節には、 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されていました。これは、私たちがこの世で経験する痛みや苦しみや悲しみをとおして、私たちがあわれみ深い大祭司に近づくことができることを示しています。これを覚えながら、コリント人への手紙第二・1章3節ー6節を見てみましょう。そこには、 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。 と記されています。これは、私たちがこの世で経験する痛みや苦しみや悲しみをとおしてお互いに出会うことを示しています。 |
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