(第208回)


説教日:2009年10月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 先主日は、ふじみキリスト教会で奉仕させていただきましたので、主の祈りについてのお話はお休みしました。今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りの前半に出てきます「試み」について、いくつかのことをお話ししてきました。そして、最後に、それらのお話を踏まえて「キリストとともに苦しむこと」についてお話ししています。そのために、まず、イエス・キリストが私たちとともに苦しみ、ともに痛んでくださっているということについてお話ししてきました。今日も、これまでお話ししたことを踏まえまして、一つのことをお話ししたいと思います。


 すでにお話ししたことのまとめのようになりますが、この主の祈りの第6の祈りについてのお話の初めの方で取り上げましたヤコブの手紙1章2節ー4節には、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と記されています。このみことばに示されていますように、神さまは、私たちがこの世で経験する「さまざまな試練」をとおして、私たちを「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」となるように、育ててくださいます。
 このことは、神さまが永遠の前から私たちのために定めてくださったご計画とかかわっています。エペソ人への手紙1章4節、5節には、

神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(第三版)

と記されています。
 すでに繰り返しお話ししたことですので、結論的なことだけをお話ししますが、「世界の基の置かれる前から」ということは、「永遠において」ということを意味しています。ここでは、特に、ここに記されていることが、創造の御業から始まる歴史の中で起こったことではないということ、創造の御業に先だってなされたことであるということを示しています。
 この神さまの永遠におけるご計画を「永遠の聖定」と呼びます。神さまは永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定めておられます。このことが、先ほど引用しましたヤコブの手紙1章2節ー4節に記されているみことばに示されていることとかかわっています。神さまが私たちを「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」としてくださることは、神さまが永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定めておられることの現れなのです。

 もちろん、このことには、神さまが御子イエス・キリストにあって、また御子イエス・キリストをとおして遂行された創造の御業と贖いの御業もかかわっています。神さまは、ご自身が永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定められたことを、創造の御業と贖いの御業をとおして実現してくださっているのです。
 神さまは創造の御業において、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになりました。人は神のかたちとしての聖さと栄光と尊厳性を与えられています。このようにして、神さまは神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御前にあって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。これが、神さまが永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定められたことの実現の第一歩です。
 けれども、神のかたちとしての聖さと栄光と尊厳性をもつものとして造られ、神さまのご臨在の御前において、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる特権と祝福を受けていた人は、造り主である神さまと自分の間にある絶対的な区別を見失ってしまいました。神さまとの親しい交わりにあずかっていることによる、神さまとの近さのために、その絶対的な区別をあいまいにしてしまったと考えられます。それで、人はサタンの誘惑のことばにしたがって、神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。人は自らが犯した罪に対するさばきを受けて、神さまの御前に滅び去るべき者となってしまいました。そして、神さまの聖なる御怒りの下に置かれ、御前から退けられてしまいました。これによって、神さまが永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定められたことが挫折してしまったかに見えました。また、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになったことが無に帰してしまったように見えました。
 けれども、神さまの永遠の聖定には、このことに対する備えもあったのです。神さまは、神のかたちに造られた人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったので、急遽、それに対処して救いのご計画を立てられたのではありません。エペソ人への手紙1章4節に、

神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

と記されているときの「御前で聖く、傷のない者」というみことば、特に、「傷のない」ということばは、神のかたちに造られた人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落することを踏まえています。また、5節には、

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

と記されていますが、「イエス・キリストによって」というときの「イエス・キリスト」という御名も、御子が私たちの贖い主として来てくださったことを踏まえています。すでに神さまの永遠の聖定において、御子が私たちの贖い主となってくださり、私たちのために贖いの御業を遂行してくださることは定められているのです。

 実際に、契約の神である主は神のかたちに造られた人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、贖い主を約束してくださいました。「最初の福音」と呼ばれるみことばにおけることです。そして、今から2千年前に、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。
 永遠の神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が、人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。ピリピ人への手紙2章6節ー8節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と記されているとおりです。これによって、私たちの罪はすべて、また、完全に贖われています。
 また、ここで、イエス・キリストは、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた

と言われています。イエス・キリストは、「実に十字架の死にまでも」父なる神さまのみこころに従いとおされて、義を立ててくださいました。そして、その完全な従順に対する報いとして栄光を受けてくださいました。続く9節に、

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されているとおりです。
 御子イエス・キリストはこれらすべてのことを、ご自身のためではなく、私たちご自身の民のために成し遂げてくださいました。イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを私たちに代わって受けてくださったことが、私たちのためであったことは言うまでもありません。そればかりでなく、その完全な従順に対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことも、ご自身のためではなく、私たちのためであったのです。
 ご自身の栄光ということだけを考えるなら、イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の主です。永遠に変わることなく無限の栄光のうちに存在しておられます。この栄光は無限の栄光ですから、これに何かを加えるというようなことはできません。神としての御子イエス・キリストの栄光は、無限の栄光ですから、増えたり減ったりするような量的なものではありません。ですから、御子イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、そのことへの報いとして栄光を受けてくださったということは、ご自身の何らかの欠けや必要を満たすためではなく、私たちのためのことです。

 神さまは私たちをイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業がもたらす祝福のすべてにあずからせてくださいました。それは、神さまが御霊によって私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださったことから始まっています。
 神さまは、御霊によって、イエス・キリストと一つに結び合わせてくださった私たちを、イエス・キリストの復活のいのちによって、新しく生まれさせてくださいました。
 イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれた私たちは、福音のみことばを聞いて理解することができるようになりました。それによって、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主であるということを信じることができるようになりました。同時に、私たちは自分たちが神さまに対して罪を犯したものであり、その罪は、ただ御子イエス・キリストの十字架の死によってだけ、贖われるものであることを認め、罪がそれほど重く深いものであることを知ることができるようになりました。そして、その罪を告白することができるようになりました。
 また、神さまは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義に、私たちをあずからせてくださいました。それで、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神さまの御前に義と認められています。
 これは、イエス・キリストを信じたという「私たちの行ない」が良いので義と認められたということではありません。私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって受け取った「イエス・キリストの義」を、神さまが私たちの義と認めてくださるということです。
 さらに、神さまは、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって受け取った「イエス・キリストの義」に基づいて、私たちをご自身の子としてくださいました。これは、神さまが私たちに子としての身分を与えてくださったということです。より厳密には、神さまが私たちを「養子」として迎え入れてくださったということです。
 ローマ人への手紙8章14節、15節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と記されています。ここに出てきます「子としてくださる御霊」は文字通りには「養子の御霊」です。
 この場合、「子としてくださる御霊」という言い方には、少し注意が必要かと思います。というのは、この言い方ですと、まず御霊が与えられて、その御霊が私たちを子としてくださるというような意味に取れるからです。しかし、ここに記されていることと同じことが、ガラテヤ人への手紙4章6節には、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されています。ここでは、私たちが神さまの子とされていることが先にあります。そのことが理由となって、神さまが、

「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました

と言われています。とはいえ、これは後でお話ししますように、論理的順序であって、時間的な順序ではありません。
 ガラテヤ人への手紙の論述の順序としましても、これに先立つ3章26節に、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

と記されています。ですから、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められました。そのことに基づいて、私たちは神の子としての身分を与えていただきました。さらに、そのことに基づいて、神さまは、

「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

 そうしますと、「子としてくださる御霊」という言い方は間違いなのでしょうか。そういうことではありません。直訳調に「養子の御霊」と訳しても、何のことか分かりませんから、「子としてくださる御霊」と訳すほかはないと思います。ただ、そのことの意味することについて注意する必要があるのです。この場合の、「子としてくださる」ということは、子としての身分を与えてくださること、つまり、養子として迎え入れてくださることではなく、子としての実質を生み出してくださり、子としての身分にともなうさまざまな祝福や特権にあずからせてくださるということを意味しています。
 その特権の中心は、

 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と言われている、御霊による、父なる神さまとの愛にある親しい交わりです。また、コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されていますように、私たちの実質を栄光のキリストのみかたちに似た者に造り変えてくださるのも、この「子としてくださる御霊」です。言い換えますと、私たちのうちに神の子どもとしての実質を造り出してくださるのです。

 このことに関しては、もう一つの疑問がわいてきます。そうしますと、いったい、御霊はいつ私たちに与えられたのでしょうか。
 結論的に言いますと、御霊は、最初に私たちが栄光のキリストと一つに結ばれたときに与えられたと考えられます。先ほど、私たちがイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっていることを、私たちが栄光のキリストと一つに結ばれたことから始めて、順序立ててお話ししました。けれども、これは、時間的な順序というよりは、論理的な順序です。時間的にはすべてが同時に起こっていると考えられます。というのは、そのすべては、いわばワンセットとなっていて、神さまが御霊によって私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださったとき、私たちに与えられているからです。このワンセットとして与えられている祝福は、時間的には、永遠に及ぶ広がりをもっていて、今すでに完全に私たちの間に実現しているもの、今すでに実現しつつあるもの、また、今は原理的に実現しているだけのものがあります。
 その祝福のうち、義と認めてくださったことと子としての身分を与えてくださったことは、法的なことです。これはすでに神さまがなしてくださったことであり、完全に、私たちの現実となっています。また、これは永遠に有効であり、決して、取り消されることはありません。
 けれども、私たちが神の子どもとしての実質をもつということは、御霊によって、私たち自身が内側から造り変えられていくことです。私たちが栄光のキリストのみかたちに似た者に造り変えていただくことであり、神の子どもとして成長していくことです。これは、私たちの地上の生涯を通して継続してなされることです。先ほど引用しました、コリント人への手紙第二・3章18節に記されている、

私たちはみな・・・栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

というみことばも、これがプロセスであることを示しています。特に、「栄光から栄光へと」ということばと、「姿を変えられて行きます」ということばが現在時制で表されていることが、これがプロセスであることを示しています。
 このこと、私たちが栄光のキリストのみかたちに似た者として造り変えられていくことは、私たちの地上の生涯においては完成しません。なぜなら、地上にある私たちのうちにはなおも罪の性質が残っていて、私たちは実際に罪を犯すからです。その完成は、終わりの日に栄光のキリストが再臨され、私たちを栄光のからだに復活させてくださるときのことです。ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。
 このようなわけで、御霊は、私たちがイエス・キリストと一つに結び合わされたときに与えられています。その御霊が、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださったことを私たちに当てはめてくださいます。そして、私たちがイエス・キリストを信じて義と認められたことに基づいて、私たちのうちに子としての実質を生み出してくださり、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるのです。

 このように、

 私たちは、今すでに神の子どもです。

神の子どもとしての身分を与えていただいていますし、御霊によって、父なる神さまとの親しい交わりのうちに生きています。また、私たち自身も「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」。このこととのかかわりで、試練が意味をもっているのです。ヤコブの手紙1章2節ー4節に、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と記されていることは、私たちが御霊のお働きによって、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことが、どのようになされるかについて、大切な一面を示しています。もちろん、私たちが御霊のお働きによって、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くために最も大切なことは、私たちが恵みの手段としてのみことばを理解し、悟り、それを自分自身に当てはめていくことです。そのことの上に立ってのことですが、父なる神さまは、試練の中で御霊を働かせてくださって、私たちを栄光のキリストのみかたちに似た者として造り変えてくださるのです。
 その際に、これまでお話ししてきましたように、栄光のキリストご自身が、試みに会って、痛み、苦しみ、悲しむ私たちとともにいてくださって、私たちの痛み、苦しみ、悲しみをご自身の痛み、苦しみ、悲しみとしてくださいます。それは、福音書にあかしされていますように、イエス・キリストの地上の生涯におけるお働きにおいて見られたことでした。それはまた、今、父なる神さまの右の座に着座されている栄光のキリストにも当てはまります。ヘブル人への手紙2章17節、18節には、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。また、4章15節、16節にも、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。
 御霊は、このあわれみ深い大祭司の御霊として私たちのうちに宿ってくださっています。それで、ローマ人への手紙8章26節、27節には、

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

と記されています。
 昨夜、遠く離れたところにお住まいの方で、試練の中で苦しんでおられる方からお電話がありました。その試練についても具体的にうかがいましたが、その中で、明日は礼拝において奉仕をしなくてはならないのに、苦しくて祈ることもできないということもお話ししてくださいました。確かに、私たちにはそのようなときがあります。けれども、そのようなときにこそ、

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

というみことばにあかしされている御霊のお働きに、私たちは支えられています。
 ここでは、

御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださる

と言われています。この場合の「神のみこころ」は、文字通り、神さまのみこころで、あらゆることに関する神さまのみこころです。しかし、これには中心があると考えられます。これに続く28節ー30節に記されていること、特に、29節に記されています、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

というみことばとの関連で見ますと、私たちが「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられていくことです。
 私たちはこれらの恵みを心からの感謝をもって受け止め、深い慰めを得ます。けれども、それで終わりません。
 実は、このことが「キリストとともに苦しむこと」にかかわっています。私たちは試練の中で苦しみつつ、私たちとともにあって「言いようもない深いうめき」をもってうめいてくださる御霊のお働きによって、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられていきます。それは、あわれみ深い私たちの大祭司の御姿に似た者として、造り変えられるということでもあります。それは、私たち自身が、あわれみ深い大祭司に連なる御国の祭司として整えられていくことを意味しています。
 そうであれば、私たちも、この方との一体において、信仰の家族たちとともにあり、試練の時に、痛み、苦しみ、悲しみをともにし、信仰の家族のためにとりなし続けるものとして召されているのです。このことにおいて、私たちは「キリストとともに苦しむこと」になります。そして、さらに、このことをとおして、神さまは私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださいます。

 


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