(第207回)


説教日:2009年9月20日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 先主日は、所沢聖書教会で奉仕させていただきましたので、主の祈りについてのお話はお休みしましたが、今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りの前半には「試み」のことが出てきます。それで、これまで、私たちがこの世にあるがために経験する「試み」について、いくつかのことをお話ししてきました。そして、最後に、それらのお話を踏まえて「キリストとともに苦しむこと」についてお話ししています。そして、そのために、まず、イエス・キリストが私たちとともに苦しみ、ともに痛んでくださっているということについてお話ししてきました。今日も、そのことをさらにお話ししたいと思います。

         * * *
 これまでお話ししてきたことを念頭において、イエス・キリストが十字架につけられたときのことを記しているルカの福音書23章32節ー43節を見てみましょう。そこには、

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

と記されています。
 32節、33節には、

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

と記されています。このことは、イエス・キリストが逮捕される少し前に、弟子たちをその時に備えさせるために語られた教えの中にあるみことばを思い起こさせます。22章37節には、

あなたがたに言いますが、「彼は罪人たちの中に数えられた。」と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。

と記されています。ここでイエス・キリストが引用しておられるのは、これまで繰り返し取り上げてきましたが、イザヤ書52節13節ー53節12節に記されている、主のしもべの「第四の歌」の最後にある53章12節のみことばの一部です。その12節には、

 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

と記されています。
 もちろん、主のしもべの成就であるイエス・キリストが「そむいた人たちとともに数えられた」ということは、イエス・キリストが私たち主の民すべてと一つとなってくださったことを示しています。ただ、聖書の中では、イエス・キリストに関する預言のことばが典型的あるいは象徴的な形で実現していることを示すことがあります。イエス・キリストがふたりの犯罪人とともに十字架につけられたこともそのような例であると考えられます。これによって、「彼は罪人たちの中に数えられた。」という預言のことばが、成就していることがあかしされています。
 ルカの福音書23章では、これに続いて、34節に、

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

と記されています。(注)

(注) この個所がもともとルカが記したものであるかどうか意見が分かれています。それは、ギリシャ語の写本の中にこの部分を欠くものがあるからです。写本の示すところからは、どちらとも言い難いのですが、その他のいくつかの考察から、もともとルカが記したものであ可能性が高いと考えられます。この点に関しては、MarshallやBockの注解書が参考になります。

 ここに記されていることは、先ほど引用しましたイザヤ書53章12節の最後に、

 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

と記されていることを思い起こさせます。
 すでにお話ししましたように、この場合の、

 そむいた人たちのためにとりなしをする。

ということは、ただ単にとりなしの祈りをするということだけではなく、主と「そむいた人たち」との間に立って、「そむいた人たち」を主との本来の関係に導き入れてくださることを意味しています。そのことの中に、とりなしの祈りも位置づけられます。


 この後、34節後半ー38節には、

彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

と記されています。ここには、そこに居合わせた人々がイエス・キリストをあざけったことが記されています。その人々は意識してはいませんが、それは詩篇22篇に記されているみことばを成就することでした。これは、ここで起こっていることのすべてが主の御手のうちにあって導かれていることを意味しています。

 彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

ということは、詩篇22篇18節の、

 彼らは私の着物を互いに分け合い、
 私の一つの着物を、くじ引きにします。

というみことばの成就です。また、その後に記されているユダヤ人の指導者たちや兵士たちがイエス・キリストをあざけったことは、詩篇22篇7節に、

 私を見る者はみな、私をあざけります。
 彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

と記されているみことばの成就です。民衆に関しては、

 民衆はそばに立ってながめていた。

と記されているだけです。けれども、これは、先ほどの詩篇22篇7節に、

 私を見る者はみな、私をあざけります。

と記されているときの「私を見る者」を思い起こさせます。実際、マタイの福音書27章39節、40節には、

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

と記されています。民衆もイエス・キリストをののしっていたのです。
 また、兵士たちが「酸いぶどう酒を差し出し」たことは、詩篇69篇21節に、

 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、
 私が渇いたときには酢を飲ませました。

と記されていることを思い起こさせます。
 このように、イエス・キリストは十字架につけられたことの苦しみの中で、あらゆる人々からあざけりを受けました。しかもそれは、ご自身が心にかけて祈っておられる人々からのあざけりです。
 38節には、

「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

と記されています。これは、ローマ帝国の側としては、イエス・キリストを政治的な犯罪者として十字架につけて処刑したということを示しています。しかし、ユダヤ人にとっては、これはイエス・キリストが来たるべき「ダビデの子」すなわちメシヤであると主張したことを意味しています。それが、

もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。

というようなあざけりを生み出しているのです。ユダヤ人が期待していたのは、武力など物理的な力によってローマ帝国を打ち破って、ユダヤ人を中心とした世界を建設するメシヤでした。ところがイエス・キリストは、ローマの兵士の手によって十字架につけられて殺されようとしています。ユダヤ人にとっては、これこそが、イエス・キリストがにせメシヤであることの現れでした。
 もちろん、神の御子であられるイエス・キリストは、いつでも十字架からおりることができました。けれども、十字架からおりてしまえば、ご自身の民の罪の贖いは成し遂げられず、私たちも自らの罪の刑罰を受けて滅びるほかはありませんでした。そのために、イエス・キリストは十字架にとどまられました。

 このことに続いて、39節ー42節には、

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

と記されています。
 ここには、イエス・キリストとともに十字架につけられた犯罪人のひとりはイエス・キリストをののしり、もうひとりはそれをたしなめ、自らの罪を認めたばかりか、イエス・キリストをメシヤとして告白したことが記されています。
 これに対して、マタイの福音書27章44節には、

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

と記されています。このことは、初めのうちは、ふたりの犯罪人がともにイエス・キリストをののしっていたことを意味しています。その時には、ふたりの犯罪人もイエス・キリストがにせメシヤであると思っていたわけです。
 しかし、十字架につけられたイエス・キリストの最も近くにいて、イエス・キリストに触れていたふたりのうちのひとりが、十字架につけられたイエス・キリストこそがまことのメシヤであることを悟ったのです。

われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。

ということばは、自らの罪が十字架による処刑に値することを認めるものです。
 この人は、

 だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。

と言っています。それにしても、この判断はいったい何に基づいているのでしょうか。この人は、少し前まで、イエス・キリストのことを偽メシヤであるとののしっていました。そのような人が、どうして、このように言うことができたのでしょうか。
 この「悪いこと」と訳されたことば「アトポス」は「場所」を意味する「トポス」に否定の「ア」がついたものです。それで、「場違いな」とか「不適切な」ということを表し、さらにそのような意味合いの「悪い」ということを表しています。
 このこととこの人の置かれた状況から推測しますと、この人は、にせメシヤの廉で十字架につけられて、あらゆる人々からあざけられののしられいるイエス・キリストが決してののしり返さないこと、悪意の嵐に悪意をもって返さないことに気がついたのだと思われます。それも、自分も人々といっしょになってイエス・キリストをののしっていて、はっとして、気がつくようになったということでしょう。そして、思い返せば、イエス・キリストが自分を十字架につけている人たちのために祈っておられたことなどにも思い至ったということでしょう。
 これに続く「イエスさま。」という呼びかけは、親しみのこもった呼びかけです。そして、この人は、

あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。

と願い求めています。

 あなたの御国の位にお着きになるときには

ということばは、この人が、今、自分とともに十字架にかかって苦しんでおられるイエス・キリストが、やがて栄光をお受けになることを信じていることを示しています。このことは、この人がユダヤ人であり、十字架につけられたイエス・キリストをメシヤとして信じたのですから、ありえないことではありません。ユダヤ人は終わりの日にメシヤの栄光の来臨があることを信じていました。

 私を思い出してください。

ということばには、私たちが考えるより積極的な意味があります。これは、栄光の主が思い出してくださることを願い求めるものです。それは、主がご自身の契約を思い出してくださることに相当します。出エジプト記2章24節には、エジプトの奴隷として苦役に服しているイスラエルの民のことについて、

神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されています。この「思い起こされた」と訳されているヘブル語のことばのギリシャ語訳である7十人訳の訳語が、この人が、

 私を思い出してください。

といったときの「思い出してください」ということばです。ユダヤ人であるこの人の場合には、実質的に、契約の主であられる方に、

 私を思い出してください。

と願っているわけです。

 問題は、この人が言う、

 あなたの御国の位にお着きになるとき

がいつのことであるかということです。この場合も、この人がユダヤ人であったことを考えますと、この人は終わりの日のことを考えていたはずです。しかし、イエス・キリストは、

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

と言われました。

 まことに、あなたに告げます。

ということばは、これがとても大切なことであることを意味しています。また、「パラダイス」は、前にお話ししたことがありますが、コリント人への手紙第二・12章2節ー4節に記されているパウロのことばから、神さまの栄光のご臨在のある「第三の天」、すなわち、最も高い天のことであることが分かります。
 ここで、イエス・キリストはこの人に向かって、

あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

と言われました。この人は、それは終わりの日のことと思っていたでしょうが、イエス・キリストは、それは「きょう」のことだと言われました。
 しかし、ここでも疑問が生じます。イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたのは、「きょう」ではなく、イエス・キリストが死なれてから3日目のことではなかったでしょうか。また、使徒の働き1章3節に、

イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

と記されているように、イエス・キリストは苦しみを受けて40日たってから「パラダイス」に上られたのではなかったでしょうか。
 もちろん、実際にはこのような経過をたどっています。けれども、十字架につけられているための想像を絶する苦しみの中から、イエス・キリストに対する信仰を告白しているこの人に、詳しい説明をする余裕はありません。イエス・キリストもその激しい苦痛のうちにありました。十字架刑の苦しみには、息ができなくなることもありました。息をするたびに伸びをしなければなりませんので、くぎ付けられた手足に激痛が走ったのです。
 また、そのような極限状態でなくても、使徒の働き1章に記されていることから分かりますが、弟子たちでさえ、聖霊が注がれる前には、イエス・キリストの来臨の時や場合のことをよく理解できませんでした。その前には、イエス・キリストのメシヤとしてのお働きについても、誤解していました。
 ではイエス・キリストは偽りをもって慰めを言われたのでしょうか、決して、そのようなことはありません。

あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

というイエス・キリストの教えには豊かな意味が凝縮されて詰まっています。その中心にあるのは「わたしとともに」ということばです。この人は「きょう」、すなわち、イエス・キリストに対する信仰を告白したその時から、イエス・キリストと一つに結ばれたのです。そして、そのようにイエス・キリストと一つに結ばれたということは、イエス・キリストとともに「パラダイス」にあるべきものとなっているということです。イエス・キリストと一つに結ばれたことにかかわる祝福のすべてが、いわばワンパックとなって、この人のものとなっているのです。それが「きょう」すでにこの人の現実となっています。このことによって、この人は、確かに、3日の後のイエス・キリストのよみがえりにあずかり、40日後にイエス・キリストが「パラダイス」に上られることにあずかることになります。
 ちなみに、ルカの福音書には、このような意味の詰まった「きょう」が何回か用いられていることが指摘されています。

 私が尊敬しているある先生は、この十字架の上でイエス・キリストを信じた人のことを「最初のクリスチャン」と呼んでおられました。しかし、これには誤解があります。この人より前に、御霊によって心を開かれてイエス・キリストをメシヤとして信じた人々がおります。その例は、キリスト告白をしたペテロです。その人々が、イエス・キリストにつまずいたとしても、それで、イエス・キリストの民、すなわちクリスチャンでなくなったわけではありません。そうではあっても、この人は、「十字架につけられたイエス・キリスト」がメシヤであることを信じた最初の人でした。
 しかも、この人は、自らのことを十字架刑によって処刑されるに値する罪を犯したものと認めるほかない状態にありましたし、実際に、十字架の上で苦しみつつ死のうとしていました。もはや自分の功績を立てることはできない状態にありました。そのような状態にある人が、十字架につけられて苦しんでいるイエス・キリストをメシヤであると信じて、その方から、

まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。

という確かなことばを受けたのです。救いはただ神さまの恵みによるということ、人が救われるのは、ただ、十字架にかかったイエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰によるという福音の神髄を、これほど鮮明に映し出した人はいません。
 この人をこのように導いてくださったのは、イエス・キリストです。確かに、イエス・キリストは私たち主の民すべての罪を贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださいました。しかし、それは私たち主の民を十把一からげにしてのことではありません。永遠にして全知全能の神の御子であられるイエス・キリストは、私たちひとりひとりを覚えてくださることがおできになります。そして、実際に、私たちひとりひとりのために、十字架にかかって死んでくださったのです。
 その意味では、このルカの福音書に記されていることは、イエス・キリストがこの人のために、この人にご自身がどなたであるかを現してくださるために十字架にかかってくださったということを伝えている記事でもあるのです。これは、イエス・キリストが十字架につけられたら、たまたま、横にその人がいたということではありません。永遠の神の御子であられるイエス・キリストご自身が、すべてをご計画し、それを実現してくださったのです。先ほど、このとき起こっていることが詩篇22篇の成就であるということをお話ししました。それは、主がすべてのことを導いてくださっていることを意味していました。
 このように、イエス・キリストは、この人と苦しみをともにするために、この人と同じように十字架にくぎ付けされ、同じように苦しみの叫びを上げ、同じようにうめかれました。このことを通して、この人は、心が開かれたとき、イエス・キリストが自分と同じところにいてくださることを実感できたのです。それで、自分が確かにイエス・キリストと一つとされていることを信じることができたのです。先ほど触れました、「イエスさま。」という親しい呼びかけは、このことから生まれてきたと考えられます。
 私たちは、イエス・キリストがこの人にこれほどまでに心をかけ、この人のことを覚えてくださったことを見て、イエス・キリストが確かに私たちとともに、また、この私とともにいてくださることを信じることができます。これが、イエス・キリストを永遠にして全知全能の神の御子と信じる信仰の特徴です。
 もちろん、イエス・キリストは、この人とともに苦しむ以上の苦しみを受けられました。それは、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる地獄のさばきに相当する苦しみです。それによって、この人も私たちも、罪を贖っていただき、罪の結果である死と滅びから救い出されました。
 けれども、この人がそのことを信じることができたのも、まず、イエス・キリストがこの人とともに十字架にかかってまで、この人と一つになってくださって、ご自身が約束のメシヤであることを示してくださったからです。そのようにイエス・キリストがこの人とともに十字架にかかってくださらなかったなら、この人はイエス・キリストと出会い、イエス・キリストをメシヤとして信じることができませんでした。このことを逆に言いますと、イエス・キリストはこの人にご自身を表してくださるために、十字架にかかってくださったということです。これが、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった目的のすべてではありませんが、このことも、確かに、イエス・キリストのみこころのうちにあったことでした。
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