(第206回)


説教日:2009年9月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節ー15節


 先主日は私が夏期休暇をいただきましたので、主の祈りについてのお話はお休みしました。今日も、第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りの前半に出てきます「試み」についていくつかのことをお話ししてきました。そして、最後に、それらのお話を踏まえて「キリストとともに苦しむこと」についてお話ししています。そして、そのために、まず、イエス・キリストが私たちのためにとりなしをしてくださっていることを取り上げてお話ししてきました。イエス・キリストが私たちとともに苦しみ、ともに痛んでくださって、とりなしをしてくださるということです。今日も、そのことをさらにお話ししたいと思います。

         *
 最初に、これまでお話ししたことを復習しながら、さらにお話を進めていきます。
 マタイの福音書8章16節、17節には、

夕方になると、人々は悪霊につかれたものを大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

と記されています。
 マタイの福音書においては、この8章からイエス・キリストが人々の間でお働きになったことが記されています。それで、これは、イエス・キリストが人々から悪霊を追い出し、人々の病をいやされたことを記している最初の記事に当たります。ここでマタイは、イエス・キリストのお働きが、預言者イザヤの、

彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。

という預言の成就であると記しています。これによって、イエス・キリストのお働きの全体が、このイザヤの預言の成就であるいうことを示しています。
 マタイが引用しているのは、イザヤ書53章4節に記されているみことばです。これは、52章13節ー53章12節に記されている、主のしもべの「第四の歌」の一部です。
 この主のしもべの「第四の歌」は、最初の節と最後の節において主のしもべが栄光を受けることを預言として記しています。それで、主のしもべの「第四の歌」は全体的には主のしもべの栄光のことを預言していると考えられます。けれども、この最初と最後の節以外は、主のしもべが、私たち主の民の罪と咎に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて、ご自身のいのちを注ぎ出してくださって、私たちを贖ってくださることを預言として記しています。このことによって、主のしもべの栄光は、ご自身が、私たち主の民のために苦しみを受け、いのちをお捨てになることにおいて最も豊かに現されていることが示されています。


 主のしもべの「第四の歌」では、最初に、

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われています。これによって、主のしもべとなられた方が栄光をお受けになり、この上なく高く上げられることが示されています。そして、主のしもべの「第四の歌」の最後のことばは、その理由を示しています。そこには、

 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

と記されています。すでにお話ししましたように、ここに記されている4つのことすべてが、主のしもべが栄光を受けることの理由を示すものであると考えられます。

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われている方が、主のしもべとして、「そむいた人たちとともに数えられた」ことによって私たちと一つとなってくださり、私たちの「罪を負い」、その「いのちを死に明け渡し」てくださったのです。
 そればかりではありません。最後に、

 そむいた人たちのためにとりなしをする。

と記されています。このみことばだけが(未完了時制で表されていて)継続してなされることを表しています。
 前回お話ししましたように、この場合の「とりなしをする」ということは、「そむいた人たちのために」祈ってくださるということ以上のことです。これは、神さまに「そむいた人たち」と神さまとの間に入って、「そむいた人たち」を神さまとの交わりのうちに回復してくださるということを意味しています。
 主のしもべは「そむいた人たち」の罪を負って、ご自身の「いのちを死に明け渡し」て、神さまの聖なる御怒りを受けてくださいました。これによって、「そむいた人たち」を神さまの聖なる御怒りから贖い出してくださいました。このことによって、神さまに「そむいた人たち」は、主のしもべとの一体において、神さまのご臨在の御前に近づき、神さまとの交わりのうちに生きることができるようになるのです。

 このことが、イエス・キリストにおいて成就し、私たちの現実となっています。イエス・キリストは地上においてお働きになったときにご自身の民のためにとりなしをされただけでなく、栄光を受けて高く上げられた後も、私たちのためにとりなしをしてくださっておられます。父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、今も、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
 ローマ人への手紙8章33節、34節には、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。
 ここでは、「神に選ばれた人々」が決して罪に定められないことが示されています。そして、その根拠が二つ上げられています。
 一つは、「神が義と認めてくださる」ということです。もちろん、これは、ローマ人への手紙において、パウロがここに至るまで論じてきたことに基づいています。それは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義を、神さまが、私たちイエス・キリストを信じる者の義と認めてくださるということによっています。
 私たちが決して罪に定められないことのもう一つの根拠は、

キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる

ということです。
 ここで、イエス・キリストのことが「死んでくださった方、いや、よみがえられた方」と説明されています。この「いや」と訳されたことば(マーロン)は、「それ以上に」ということを意味しています。イエス・キリストは十字架にかかり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りを、私たちに代わって受けて死んでくださいました。これによって、私たちの罪を贖ってくださいました。それで、私たちが罪に定められないことの根拠は、イエス・キリストが死んでくださったことにあります。
 けれども、ここでは、イエス・キリストが死んでくださったこと以上に、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことが強調されています。このことから、さらに、二つのことが考えられます。
 第一に、この「よみがえられた方」は受動態で表されていますので、文字通りには「よみがえらされた方」となります。これによって、父なる神さまがイエス・キリストをよみがえらせてくださったことが示されています。それで、これは、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださったことを父なる神さまが承認してくださり、イエス・キリストに栄光をお与えになって、死者の中からよみがえらせてくださったということを指し示しています。ですからこれは、イエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いが、神さまの御前に完成しているということを意味しています。
 ここでイエス・キリストのよみがえりが強調されていることから考えられる第二のことは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、「キリスト・イエスが、神の右の座に」着いておられることにつながっているということです。そして、その栄光のキリストが「私たちのためにとりなしていてくださるのです」。

 今引用しました、8章33節、34節は、8章31節ー39節の一部です。その全体を見てみましょう。そこには、

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 「あなたのために、私たちは一日中、
 死に定められている。
 私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

と記されています。
 全体的なことを簡単にまとめておきますと、

 では、これらのことからどう言えるでしょう。

と言われているときの「これらのこと」は、一般に、これに先立つ部分だけでなく、ローマ人への手紙において、ここに至るまでパウロが記してきたことすべてを受けていると理解されています。それはそのとおりなのですが、その中でも、特に、このすぐ前の8章1節ー30節に記されていることを受けていると考えることができます。というのは、その8章1節ー30節に記されていることは、ローマ人への手紙において、ここに至るまでパウロが記してきたことすべてを受けていて、その結論に当たることであるからです。そして、この31節ー39節に記されていることは、その結論を踏まえて語られている讃美の形で表された告白であるからです。
 この31節ー39節は、内容の上で二つに分けることができます。
 前半の、31節ー34節においては、今お話ししましたように、私たちは決して罪に定められることはないということを示しています。
 そして、後半の35節ー39節においては、いかなるものも、また、いかなることも、

私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない

ということを示しています。
 これらのことを考え合わせますと、この31節ー39節に記されていることは、終わりの日における最終的なさばきと救いの完成を視野に入れて、それを強調していると言うことができます。

 このことは、特に、これに先立つ部分である8章18節ー30節に記されていることが、18節の、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

という、終わりの日における完成を望み見ることばから始まっており、30節の、

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

という、神の子どもたちの栄光化を示すことばで終わっていることからも考えることができます。
 この18節ー30節に記されていることも、確かに、終わりの日における最終的なさばきと救いの完成のことが視野に入っていて、それが強調されています。同時に、これは、18節で「今の時のいろいろの苦しみは」と語り出されている現実をも踏まえています。私たちが、22節、23節で、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われているような現実にあることを踏まえているのです。
 ここでは、私たちは「御霊の初穂をいただいている」と言われています。この「御霊の初穂」をどのように理解するかについては意見が分かれていますが、これは「御霊」が「初穂」であるということ、すなわち「初穂としての御霊」である[属格は同格を示している]と考えられます。
 そうでないとしても、これが、その前の9節ー16節に記されていることを受けていることは確かなことです。
 前半の9節ー11節には、

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と記されています。
 ここに記されていることの光で言いますと、私たちはすでに「神の御霊」を受けています。「初穂としての御霊をいただいている」のです。そして、この御霊は「キリストの御霊」として私たちのうちに宿っておられます。そして、ここで、

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

と約束されていますので、23節で、

そればかりでなく、御霊の初穂[初穂としての御霊]をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われているのです。
 また、9節ー16節の後半の一部ですが、14節ー16節には、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

と記されています。
 先ほどの23節では、このことの完全な実現を望み見て、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われているのです。私たちは「子にしていただくこと」の完全な実現を待ち望んでいます。
 さらに、38節、39節では、

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

と言われていました。これは、15節で、

 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

と言われていることに関連しています。そして、すでに私たちのうちに実現している父なる神さまとの愛の交わりが、決して断ち切られることがないことを示しています。

 このように、「御霊の初穂[初穂としての御霊]をいただいている私たち」はこのような大きな祝福のうちにありますが、なおもうめいています。その原因には、二つのことがあります。
 一つは、35節において、

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

と言われていることです、私たちがこの罪の世にあるために受けるさまざまな試練がもたらす苦しみがあります。これは、私たちの外からやって来る試練です。ここでは、このような、外からやって来る試練がもたらす苦しみも、「私たちをキリストの愛から引き離す」ことはできないと言われています。もちろん、それは、試練の中で、「キリストの愛」が私たちを取り囲んでくださるからです。また、栄光のキリストご自身が私たちのためにとりなしてくださっておられるからです。
 私たちがうめいていることのもう一つの原因は、34節に、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されていることに示されていることです。すでに、「御霊の初穂をいただいて」神の子どもとしていただいている私たちが、なおも、地上の歩みにおいて罪を犯してしまうのです。そのために、私たちは自ら痛み、苦しみ、うめきます。
 しかし、ここでは、そのような、私たちのために、

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と言われています。
 先ほどお話ししましたように、これは終わりの日の最終的なさばきを視野に入れています。そのさばきの日にも、イエス・キリストは、確かに、神さまの御前において、私たちのためにとりなしをしてくださいます。終わりの日においてさばきを執行される方である栄光のキリストは、また、私たちのためにとりなしをしてくださっておられる方でもあります。

 ヨハネの手紙第一・2章1節、2節には、

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、―― 私たちの罪だけでなく全世界のための、―― なだめの供え物なのです。

と記されています。ここでは、イエス・キリストが私たちのためにとりなしてくださることに当たることが記されています。
 先ほどのローマ人への手紙8章34節に記されている、

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

というみことばでは、終わりの日を見据えることに強調点がありました。これに対して、ここでは、

 もしだれかが罪を犯したなら、

と言われていることから分かりますように、今、イエス・キリストが「御父の御前で弁護してくださる」ことが示されています。
 そのイエス・キリストの弁護の根拠は、言うまでもなく、イエス・キリストが、

私たちの罪のための、―― 私たちの罪だけでなく全世界のための、―― なだめの供え物

であられることにあります。
 私たちは、今、地上にあるがために外からやって来るさまざまな試練に苦しめられます。それ以上に、私たち自身のうちなる罪がもたらす苦悩があります。しかし、私たちには、今この時も、また終わりの日においても、私たちのために父なる神さまの御前にとりなしてくださる栄光のキリストがおられます。私たちの父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、この栄光のキリストのお働きによって守られており、今も、また、とこしえに絶えることはありません。

 


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