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説教日:2009年8月23日 |
マタイの福音書8章16節、17節には、 夕方になると、人々は悪霊につかれたものを大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 と記されています。 マタイは、イエス・キリストが人々から悪霊を追い出し、人々の病をいやされたことを記している最初の記事において、イエス・キリストのお働きが預言者イザヤの預言の成就であるいうことを示しています。それは、これによって、イエス・キリストのお働きの全体がイザヤの預言の成就であるいうことを示すものです。 マタイはイザヤ書53章4節の、 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 というみことばを引用しています。これは、イザヤ書52章13節ー53章12節に記されている主のしもべの「第四の歌」の一部です。 この主のしもべの「第四の歌」は、最初の節である52章13節において、主のしもべが栄光を受けることを記しており、最後の節である53章12節において、主のしもべが霊的な戦いにおいて勝利することを記しています。それで、主のしもべの「第四の歌」は全体的には主のしもべの栄光のことを語っていると考えられます。しかし、この最初と最後の節以外は、主のしもべが、主の民の罪と咎に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けて下さって、主の民を贖ってくださることを預言として記しています。 マタイは、イエス・キリストのお働きは、 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 というイザヤの預言の成就であるということを伝えています。これによって、イエス・キリストは、ご自分の御許にやって来たひとりひとりの人の病と痛み、悪霊に縛られることの悲惨さ、それらがもたらしているさまざまな苦しみと悩み、叫びと涙をご自身のこととして感じ取られたということを示しています。イエス・キリストはそのすべてをご自身の痛みとされ、悲しみとされたということです。 すでにお話ししたことですが、改めて注目したいのは、主のしもべの「第四の歌」の最後の節である53章12節です。そこには、 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 と記されています。 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 と訳されている部分に関しては、二通りの理解の仕方があります。結論的には、新改訳の訳が示す理解の方がいいと思われます。* *注釈 もう一つは、 それゆえ、わたしは、多くの人々の間にあって[=多くの人々とともに]彼に分け与え、 彼は強者たちとともに分捕り物をわかちとる。 というものです。文法の上ではどちらも可能です。後の方の訳の「多くの人々の間にあって」の「の間にあって」(前置詞「ベ」)は、動詞と目的語をつなぐ役割を果たすことがあります。Koehler and Baumgartnerの―20を参照してください。その場合には、新改訳のようになります。これと同じ言い方はヨブ記39章17節後半に見られます。 「多くの人々」ということばは12節のこの後にも出てきますし、11節にも出てきます。これについては次に取り上げますが、それとのつながりで考えますと、新改訳の理解の方が妥当であると考えられます。 [注釈終わり] ここでは、 わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 と言われています。これは、主のしもべが「多くの人々」をご自身の民として受け取ることを示しています。この「多くの人々」(ラビーム)は、11節で、 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を彼がになう。 と言われており、12節の後の部分でも、 彼は多くの人の罪を負い、 と言われている、「多くの人」(ラビーム)のことです。主のしもべは、ご自身が「多くの人の罪を負い」、「彼らの咎を・・・になう」ことによって、その「多くの人」をご自身のものとして受け取るというのです。ですから、「多くの人々」は、主のしもべがご自身の苦難をとおして贖った人々です。実際に、このことの成就として、イエス・キリストは私たちの「罪を負い」、「咎を・・・にな」ってくださって、私たちをご自身の民としてくださいました。 これに続いて、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 と言われています。この場合には、主のしもべは「強者たち」を「分捕り物」して分かち取ると言われています。この「分捕り物」は戦いによって得た戦利品です。ですから、ここでは、戦いがあったことが踏まえられています。もちろん、それは物質的な武力による戦いではなく、契約の神である主との関係にかかわる、霊的な戦いです。暗やみの力は、人々を主に背かせて、さばきとしての死と滅びへと追いやろうとし、主のしもべは、人々を主とのいのちの交わりへと回復しようとしています。主のしもべは「多くの人の罪を負い」、「彼らの咎を・・・になう」ことによって、人々を主との交わりのうちに回復し、その霊的な戦いに勝利しているのです。そのことは、続いて、 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 と言われていることから分かります。 前にお話ししましたように、ヘブル語ではこの「・・・したからである」ということばは、この四つのことを表す文の最初に置かれています。それで、それがどこまでかかるかが問題となります。結論的に言いますと、この四つのことすべてが理由を表していると考えられます。 このうち、最初の三つは過去のことを表す完了時制で表されています。この完了時制は「預言的完了時制」と呼ばれるものです。過去のことは変えることができないものとしての確かさをもっています。主が預言者たちをとおして語ってくださったことは、将来のことであっても、すでに起こったことと同じくらい確かなことです。それで「預言的完了時制」が用いられているのです。 最後に未完了時制が用いられているのは、最初の三つの「自分のいのちを死に明け渡」すこと、「そむいた人たちとともに数えられ」ること、「多くの人の罪を負」うことは、主のしもべの働きにおいて、一度にすべて成し遂げられてしまうことであるのに対して、最後の「とりなしをする」ことは継続してなされることによっていると考えられます。 これら四つのことが理由を表しているとしますと、この部分は、 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられ、 多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをするからである。 となります。これら四つのことは、主のしもべが霊的な戦いに勝利される理由を、預言として示しています。主のしもべは、主に「そむいた人たちともに数えられ」、すなわち、「そむいた人たち」と一つとなられ、彼らの罪を負って、ご自身の「いのちを死に明け渡し」、彼らのためにとりなしをされ、彼らを主との交わりのうちに回復されるから、霊的な戦いに勝利されるのです。 主のしもべが、 そむいた人たちのためにとりなしをする と言われているときの「とりなしをする」ことは、ここでは、「そむいた人たちのために」祈ってくださるというだけのことではありません。もちろん、とりなしの祈りをしてくださることも含むのですが、それ以上のことです。これは、主に「そむいた人たち」と主の間に入って、「そむいた人たち」を主に結び合わせてくださるということ、主との交わりのうちに回復してくださることを意味しています。主はご自身にそむいて罪を犯している者たちを、聖なる御怒りの下に置いておられます。「そむいた人たち」が主に背を向けて、主から離れているだけでなく、主が「そむいた人たち」を退けておられるのです。主のしもべは、その原因となっている「そむいた人たち」の罪を負って、ご自身の「いのちを死に明け渡し」て、主の聖なる御怒りを受けてくださいました。これによって、彼らを主の聖なる御怒りの下から贖い出してくださいました。このことによって、主に「そむいた人たち」は主のしもべに分け与えられたものとなりました。そのようにして、主のしもべのものとなった人たちは、主のしもべとの一体において、主の御前に近づくことができるようになったのです。 このことは、イエス・キリストにおいて成就しています。ヘブル人への手紙9章24節には、 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストが「天そのもの」に入られたと言われています。「天」は通常、複数形で表されます。ヘブル人への手紙でもそうですが、この「天そのもの」言われているときの「天」だけは単数形で、神さまがご臨在しておられる「天」を意味しています。これは「第三の天」とも呼ばれる、最も高い天を指しています。これがさらに「そのもの」ということばによって強調されています。イエス・キリストは、実に、最も高い天に入られたのです。 お気づきのこととともいますが、これは、主のしもべの「第四の歌」の初めであるイザヤ書52章13節に、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 と記されていることの成就でもあります。ここでは、「高められ」、「上げられ」、「非常に高くなる」と、高められることを表すことばを三つ重ねて強調しています。この上なく高いところにまで上げられるということで、「天そのもの」にまで、ということに相当します。 イエス・キリストが「天そのもの」に入られたのは、私たちのためです。 そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。 と記されている部分は、目的を表わしていると考えられます。* *注釈 この部分は不定過去時制の不定詞で表されています。これは目的を表していると考えられます。[注釈終わり] そうしますと、24節は、 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。それは、今、私たちのために神の御前に現われてくださるためです。 と訳すことができます。 これに続く25節には、 それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。 と記されています。古い契約の下で造られた地上の幕屋においては、大祭司が年に一度、「大贖罪の日」(ヨーム・キップール)に聖所の奥の至聖所に入りました。その際に、大祭司はいけにえの動物の血を携えていきました。そのことは、年ごとに繰り返されていました。主の民のための贖いはまっとうされていないために、繰り返される必要があったのです。 イエス・キリストはいけにえの動物の血を携えていかれたのではなく、ご自身が十字架の上で流された血を携えて、「天そのもの」に入られました。イエス・キリストは、ご自身をささげてくださって、私たちの贖いをまっとうしてくださいました。10章10節には、 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 と記されており、14節には、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。 と記されています。そして、このことに基づいて、10章19節ー22節には、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 と記されています。 私たちが「全き信仰をもって、真心から神に近づ」くことができるのは、「私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司が」あるからです。そして、私たちが神さまのご臨在の御前に近づく前に、私たちのためにご自身のからだをささげてくださった大祭司が「私たちのために神の御前に現われてくださ」っているからです。 このように、イエス・キリストは、ご自身が十字架の上で流された血を携えて「天そのもの」に入ってくださいました。それは、「今、私たちのために神の御前に現われてくださる」ためのことでした。実際に、イエス・キリストは「今、私たちのために神の御前に現われてくださ」っています。このイエス・キリストのことが、同じヘブル人への手紙4章14節ー16節に、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストのことが「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス」と言われています。「もろもろの天を通られた」ということは、その至ったところが、神さまがご臨在される天であることを意味しています。そこは、先ほど引用しました9章24節に出てきました「天そのもの」のことです。この「もろもろの天を通られた」ということばも、主のしもべの「第四の歌」の初めの、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 というみことばを思い起こさせます。実際に、主のしもべの「第四の歌」に記されていることは、主のしもべが私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身のいのちを死に明け渡してくださるということでした。このことは、この、 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 とあかしされている主のしもべが、祭司としてのお働きを果たされることを意味しています。 すでに繰り返しお話してきましたように、この、 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 ということばは、この主のしもべが、イザヤが、自らの「召命体験」を記している6章1節において、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 とあかししている栄光の主であられることを示しています。この「高くあげられた王座に座しておられる主」は、すべてのもののうえにあって、すべてのものを治めておられる主を意味しています。この場合の「主」ということばは契約の神である主「ヤハウェ」ではなく、主権的な支配者を表す「アドナイ」です。この主が「高くあげられた王座に座しておられる」ということは、この方がすべてのもののうえにあって、すべてのものを治めておられるということを意味しています。主のしもべは、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられて、栄光をお受けになり、そのような王座に着座されるのです。 それに当たることが、ヘブル人への手紙4章14節では、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられる とあかしされています。 このように、ここでは、イエス・キリストが最も高い天、「天そのもの」に入られた栄光の主であられること、すなわち、栄光のキリストの超越性を示しつつ、その栄光のキリストが「私たちの大祭司」であるとあかししています。そして、 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 とあかしを続けています。 最初に復習しました、マタイの福音書8章16節、17節には、イエス・キリストのお働きが、イザヤ書53章4節の、 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 というみことばの成就であるということを伝えていました。そして、イエス・キリストは、ご自分の御許にやって来たひとりひとりの人の病と痛み、悪霊に縛られることの悲惨さ、それらがもたらしているさまざまな苦しみと悩み、叫びと涙をご自身のこととして感じ取られ、ご自身が深く痛み、悲しまれたということをあかししていました。このことともに、ご自身が私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってお受けになるという、私たちが決して想像することのできない苦しみと悲しみを味わわれたのです。 主のしもべの「第四の歌」は、このことにおいてこそ、主のしもべの栄光が最も豊かに現れていることを示しています。 そして、ヘブル人への手紙4章14節ー16節においては、そのように、栄光を受けて「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス」は、そのこの上ない栄光のゆえに、地にある私たちと無縁の存在になってしまったのではないことを力説します。普通であれば、「もろもろの天を通られ」この上なく高く上げられた存在は、地にある私たちとはかけ離れた存在であると思われます。しかしここでは、むしろその逆で、「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ」くことができるのだとあかししています。「もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエス」が、今、神さまの栄光のご臨在の御前に現れてくださっているので、私たちは「大胆に恵みの御座に近づ」くことができるのです。 ここでは、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。 と言われています。私たちはこのような「偉大な大祭司」のお働きに支えられ、その「偉大な大祭司である神の子イエス」に対する「信仰の告白を堅く保」つようにと勧められ、励まされています。この「神の子イエス」ということばは信仰告白にかかわる用語であった可能性があります。このような「信仰の告白」にふさわしいこととは、どのようなことでしょうか。それは、 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 という勧めと励ましに示されています。 |
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