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説教日:2009年8月16日 |
2009年8月16日 マタイの福音書6章5節ー15節
今日も、主の祈りの第6の祈りである、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 という祈りについてのお話を続けます。 これまで、私たちが直面する試みについていくつかのことをお話ししてきました。それらのお話を踏まえて、さらに一つのことをお話ししたいと思います。これまで、そのための準備となるお話をしてきました。 そのために、まず取り上げたのは、マタイの福音書8章16節、17節に記されている、 夕方になると、人々は悪霊につかれたものを大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 というみことばです。 これは、マタイの福音書において、イエス・キリストが、多くの人々から悪霊を追い出され、人々の病をいやされたことを記している最初の記事です。これを記したとき、マタイは、イエス・キリストのお働きが預言者イザヤの預言の成就であるいうことを、私たちに伝えています。それは、この時のお働きだけでなく、イエス・キリストのお働きの全体がイザヤの預言の成就であるいうことを伝えるものです。 このことを伝えるためにマタイは、 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 というイザヤ書53章4節のみことばを引用しています。その前と後も含めて53章3節ー5節を見てみましょう。そこには、 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 と記されています。 これは、52章13節ー53章12節に記されている主のしもべの「第4の歌」の一部です。ここに引用したことばからも分かりますが、この主のしもべの「第4の歌」においては、主のしもべが、私たち主の民の罪と咎に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けて下さって、私たちを贖ってくださることが預言として記されています。 ところが、すでにお話ししたことですので詳しい説明は省きますが、この主のしもべの「第4の歌」は、全体としては、主のしもべの栄光のことを預言的に示しています。このことは、主の栄光は私たちご自身の民を罪と罪の結果である死から贖い出してくださるために、ご自身が私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する刑罰を受けてくださることにおいて、最も豊かに現されているということを意味しています。その意味において、主の栄光は恵みに満ちた栄光です。 マタイは、イエス・キリストのお働きが、 彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。 というみことばの成就であると述べることによって、イエス・キリストのお働きの本質を明らかにしています。イエス・キリストは、神の御子としての洞察力によって、ご自分の御許にやって来たひとりひとりの病と痛み、悪霊に縛られることの悲惨さ、それらがもたらしているさまざまな苦しみと悩み、叫びと涙を、余すところなく感じ取って、それをご自身の痛みとし苦しみとされたということです。 そして、そのように、人々の痛みと苦しみと悲しみをご自身のこととされ、ご自身が深く傷つき痛み悲しまれたので、これらの悲惨の根本原因となっている、私たちのご自身の民の罪を贖わなければならないという思いを、よりいっそう強くされたのだと考えられます。 イエス・キリストがご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちの痛みや苦しみや悲しみが完全に取り除かれるのは、新しい天と新しい地においてです。新しい天と新しい地のことを預言的に記している黙示録21章3節、4節に、 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されているとおりです。 その時までは、私たち主の民はこの世にある間、さまざまな苦しみと痛みと悲しみを経験します。そのことには意味があります。その中心にあることにをひとことで言いますと、「イエス・キリストとともに苦しむ」ということです。これは、いろいろな形で現れてきますが、今日は、その範囲において最も広いことについてお話しします。それ以外のことは、改めてお話しします。 ローマ人への手紙8章14節ー17節には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されています。 14節では、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 と言われています。これは、私たちが「神の御霊に導かれる」ことによって「神の子ども」となるという意味ではなく、「神の子ども」であれば、だれでも「神の御霊に導かれる」ということを意味しています。つまり、これは神さまの一方的な恵みによって、ご自身の子としていただいている私たちの現実を述べたものです。 このことの根本には、神さまが私たちに与えてくださった契約があります。それは、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血による契約です。聖餐式において読まれるみことばの一つですが、マタイの福音書26章28節に記されている、 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 というイエス・キリストのみことばは、この契約のことを述べています。この契約は一般に「恵みの契約」と呼ばれる契約です。いろいろな機会にお話ししていますが、私はこれを「救済の契約」と呼んだほうがよいと考えていますが、これは一般的な呼び名ではありません。 父なる神さまは御子イエス・キリストをこの契約の主、契約のかしらとして立ててくださいました。御子イエス・キリストは父なる神さまのみこころにしたがって、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちの契約のかしらとなってくださいました。そして、私たちの罪を負って十字架におかかりになり、私たちの罪に対する刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。さらに、十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。 このように、御子イエス・キリストは私たちの契約の主、契約のかしらとなってくださり、私たちはイエス・キリストの契約の民としていただいています。そして、契約のかしらであられるイエス・キリストが、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださったのです。そして、このイエス・キリストの血による契約に基づいて、父なる神さまは、私たちをイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださっています。 聖書は、この契約の書です。聖書は旧約と新約から成り立っていますが、旧約の「約」と新約の「約」は、契約の「約」で、この神さまの契約を意味しています。私たちが神さまの契約の書である聖書にしたがって、イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主であると信じているので、父なる神さまはご自身の契約の書である聖書にしたがって、私たちを、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださっているのです。 父なる神さまは、御霊によって、私たちを、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださいます。それがどのような順序でなされるかを簡単にお話しします。この順序はいわば「論理的な順序」で、時間的には同時に起こることもいくつかあります。 まず、父なる神さまは、御霊によって、私たちをイエス・キリストと一つに結び合わせてくださいました。この場合のイエス・キリストは、十字架にかかって死んでくださって私たちの罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、いまは、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストのことです。これは、「キリストとの神秘的結合」と呼ばれます。この「キリストとの神秘的結合」が、すべての救いの恵みの源です。栄光のキリストご自身がすべての救いの恵みの源ですが、その栄光のキリストとの神秘的な結合によって、救いの恵みが私たちにもたらされるのです。 この「キリストとの神秘的結合」は、先ほどの、イエス・キリストの血による契約に基づく、契約のかしらであるイエス・キリストと私たちの関係でもあります。「キリストとの神秘的結合」の法的な基盤が、イエス・キリストの血による契約です。それで、「キリストとの神秘的結合」から溢れ出てくる「すべての救いの恵み」は、契約の祝福でもあります。 そして、この「キリストとの神秘的結合」をさらにさかのぼりますと、エペソ人への手紙1章4節、5節に、 神は私たちを世界の基の置かれる前から彼[キリスト]にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(新改訳第3版[ ]内は補足) と記されている、神さまの永遠の聖定における選びにまで至ります。 神さまは、この永遠の聖定におけるみこころを歴史の中に実現してくださるために、契約を与えてくださったのです。(これには、一般に「わざの契約」と呼ばれる最初の契約のことなど、さらに複雑なことがかかわっていますが、それを取り上げますと、さらに話がそれてしまいますので、それには触れないでおきます。) 神さまは、御霊によって栄光のキリストと一つに結び合わされている私たちを、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。もちろん、これも御霊のお働きによることで「新生」と呼ばれます。 このように、私たちは御霊によって、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれたので、自らの罪を悟り、それを悔い改めて、イエス・キリストを信じることができるようになりましたし、実際に、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じました。これが「悔い改め」と「信仰」です。「悔い改め」と「信仰」は一つのこと、すなわち「改変」の裏表です。 神さまは、イエス・キリストを信じた私たちを義と認めてくださいました。イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義に、私たちをあずからせてくださって、神さまの御前に義と認めてくださったのです。これは「義認」と呼ばれます。そして、父なる神さまは、御前に義と認めてくださった私たちをご自身の子としてくださり、神の家族に受け入れてくださいました。これは「子とすること」と呼ばれます。正確には「養子とすること」です。 これらのこと、すなわち「義認」と「子とすること」は法的なことであり、私たちがイエス・キリストを信じたときに、父なる神さまが私たちに対してなしてくださったことです。また、これらのことは、すべて、父なる神さまが御子イエス・キリストにあってなしてくださったことですので、すでに、百パーセント実現しており、永遠に取り消されることはありません。 これとともに、実質的なこともあります。私たち自身の実質を新しくしてくださることです。その出発点は、すでにお話ししました、神さまが私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださったことです。これによって、私たちはイエス・キリストに似た者とされています。言い換えますと、神の子どもとしての特質をもつ者となっているのです。 先ほどお話ししましたように、私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことによって、自らの罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるようになりました。それによって、神さまの御前に義と認められ、神の子どもとしての身分を与えられています。繰り返しになりますが、これらは法的なことです。 そればかりでなく、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれた私たちは、御霊によって導かれている神の子どもとして、実質的にも成長しています。言い換えますと、ますますイエス・キリストに似た者として成長しているのです。これが「聖化」と呼ばれることです。 聖化はイエス・キリストに似た者として成長することですので、成長のプロセスすなわち、聖化の過程があります。この聖化の過程は私たちの地上の生涯にわたって続きますが、その完成は地上の生涯の間にはありません。それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げておられる贖いの御業に基づいて私たちを栄光のからだによみがえらせてくださるときに完成します。ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。 このように、「私たちは、今すでに神の子どもです」。神の御霊によって導いていただいている神の子どもです。けれども、地上にある間は、さまざまな試練によって苦しまなければなりません。その最も大きな理由は、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章17節に、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されていることです。ここでは、私たちは、 キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている と言われています。実際には、「苦難をともにしているなら」と条件文で表されていますが、これは、「事実、苦難をともにしている」という意味合いを伝えるものです。この、 キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている ということは、主のしもべの「第4の歌」を思い起こさせます。主のしもべの「第4の歌」においては、主のしもべは、ご自身の民のために死の苦しみを味わってくださることをとおして、この上ない栄光をお受けになるということが預言的に示されていました。これによって、主の栄光は恵みに満ちた栄光であることが示されています。 このローマ人への手紙8章17節の、 キリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている というみことばは、私たちもその主のしもべの「第四の歌」に示されているイエス・キリストの栄光にあずかるということを示しています。 そして、そのことが、どういうことであるかが、続く18節ー23節に、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と記されています。 ここに記されていることにつきましては、いろいろな機会にお話ししてきましたので、詳しい説明は省きます。いまお話ししていることとのかかわりで言いますと、イエス・キリストはご自身の民である私たちと一つとなってくださって、苦しみを受けてくださいました。そのことにイエス・キリストの恵みに満ちた栄光が現わされています。そのような栄光にあずかっている私たちは、天地創造の初めに神のかたちに造られた人に委ねられた「被造物全体」と一つになって、その「うめき」をともにしているのです。 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 というみことばは、神のかたちに造られている人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人との一体に置かれた被造物も「虚無に服した」ということを踏まえています。それで、約束の贖い主の贖いの御業によって死と滅びの中から贖い出されて、造り主である神さまとのいのちの交わりのうちに回復される神の子どもたちとの一体にあって、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ると言われているのです。 私たちが地上においてさまざまな試練にあって苦しむことには、このような意味があります。 その苦しみや悲しみは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落し、死と滅びの力に捕らえられてしまっていることを表すしるしでした。しかし、いまや、それは、私たちにとっては、そのような意味をもつものではなくなりました。私たちがこの世で味わうすべての苦しみと悲しみにおいて、栄光のキリストご自身が私たちと一つとなってくださっていることをあかししてくださいます。なぜなら、この方は、 悲しみの人で病を知っていた。 とあかしされており、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 とあかしされている栄光の主であられるからです。 私たちはこの世で味わうさまざまな苦しみと悲しみの中で、それが現実であるがためにうめきます。けれども、それは絶望のうめきではありません。先ほど引用しましたローマ人への手紙8章18節ー23節は、全被造物のうめきを伝えていますが、そこに望みがあることを示しています。なぜなら、私たちのうちには、先ほどお話ししました、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして贖いの御業を成し遂げてくださり、私たちがそれにあずかっているからです。私たちはすでに神さまの御前に義と認められており、神の子どもとしていただいており、実際に、御霊によって導かれて、神の子どもとして歩んでいます。残されていることは、ただ「私たちのからだの贖われること」、すなわち、終わりの日における、栄光のからだへのよみがえりだけです。 神さまはご自身の契約に基づいて、贖いの御業を実現してくださり、私たちをそれにあずからせてくださっています。その契約に基づいて、終わりの日に、すべてを完成に至らせてくださいます。 いま私たちは、このからだにあって全被造物とともに苦しみ、うめきつつ、これらの痛みや悲しみは、もはや「虚無」として私たちを支配するものではなくなったということ、むしろ、栄光に至るための「産みの苦しみ」に変わっているということを、身をもってあかししているのです。 |
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