![]() |
説教日:2009年8月9日 |
イザヤ書6章には預言者イザヤの「召命体験」が記されています。1節ー7節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。 「ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。」 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。 イザヤは幻によって主の栄光のご臨在にかかわる啓示を与えられました。ここに記されていることには、いくつかはっきりしないことがありますが、この啓示をとおして、主はイザヤに大切なことをいくつか啓示してくださいました。それは、イザヤの預言者としての働きに決定的な方向性を与えるものとなります。 イザヤは、まず、主の栄光のご臨在の御前においては、最も聖い御使いたちも、顔と両足を覆って、ひたすら、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と讚えるほかはないということを現実的に知るようになりました。それと同時に、そのような主の栄光のご臨在の御前においては、罪ある者は直ちに滅びるほかはないことを知るようになりました。しかもそれは、滅びを実感して、 ああ。私は、もうだめだ。 と叫ばないではいられない自分自身の恐ろしい現実でした。 けれども、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されていますように、イザヤにとっては思いもよらないことが啓示されました。これによって、イザヤは、主の栄光のご臨在の御許には、罪に満ちて御前に滅びるほかはない者のために贖いが備えられていて、その贖いによって罪ある者を罪からきよめてくださり、御前に立たせてくださるということを知るようになりました。これもやはり、イザヤ自身の身に起こった驚くべき恵みの体験でした。 イザヤはこのような主の栄光のご臨在に関する啓示を土台として、預言者としての働きを始めます。 けれども、そのあかしは人々には受け入れられません。なぜなら、それは、主の栄光のご臨在の御前においては、すべての者が罪に汚染されていることが明白になり、そのために、すべての者が主の聖さを冒すものとしてさばかれるべき者であることを告げ知らせるものであるからです。それは、自分たちのよさが主の御前にも通用すると考えて、自分たちのよさを頼みとしている人々にとっては、受け入れがたいことです。そのために、主のご臨在の御許に、主の一方的な恵みによって、贖いが備えられていて、それにあずかることによって、主の栄光のご臨在の御前に立つことができるということも、信じがたいことであったのです。 もちろん、その人々も神さまの恵みを信じています。ただ、その恵みは、自分たちのなしたことに報いてくださる恵みであったり、頑張ったけれど足りないことを補ってくださる恵みであるのです。その根本には、自分たちのしたことを神さまに認めていただいて、何らかの意味で報いていただくということがあります。このような発想は、私たちのうちにも忍び込んで来る可能性があります。 イザヤはそのような厳しい状況の中で主の恵みに満ちた栄光のご臨在をあかしする預言者としての働きを続けていきます。そして、その困難な働きをとおして、さらに主の恵みに満ちた栄光に関する啓示を受けるようになります。その頂点に当たるのが52章13節ー53章12節に記されている、主のしもべの「第4の歌」です。 繰り返しになりますが、これは、52章13節の、 見よ。わたしのしもべは栄える。 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 ということばで始まっており、53章12節の、 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。 ということばで終っています。どちらも、主のしもべが栄光を受けることを述べています。このことから、この「第4の歌」は、基本的に、主のしもべの栄光のことを預言的に明らかにしていることが分かります。 ところが、この「第4の歌」は、先ほど引用しました初めと終わりにあることば以外は、主のしもべの苦難とその意味に関する預言のことばです。主のしもべが私たちの罪を負って、その罪への刑罰を受けて苦しむことを預言的に明らかにしています。このことから、主のしもべの「第4の歌」が明らかにしている主のしもべの栄光がどのようなものであるかが理解できます。主のしもべの栄光は、ご自身が私たちの罪を負って、苦しまれることに現されているということです。 そして、説明は繰り返しませんが、この主のしもべこそが、イザヤがその「召命体験」において、幻のうちに啓示された栄光の主ご自身です。イザヤがその「召命体験」において啓示された、主の栄光のご臨在の御許に備えられている、罪に満ちて御前に滅びるほかはない者のための贖いは、その栄光の主ご自身が「しもべ」となられて、ご自身の民の罪のために苦しみをお受けになって備えてくださるものであったのです。そして、この方においてこそ、主の恵みに満ちた栄光がこの上なく豊かに現されるのです。 この恵みに満ちた主の栄光は、イエス・キリストにおいて成就しています。 ヨハネの福音書1章14節には、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されています。 新改訳では、この最後の部分は、 この方は恵みとまことに満ちておられた。 と訳されています。しかし、この部分は、 この栄光は恵みとまことに満ちていた。 と訳したほうがいいと思われます。 (以下に、補足として、その理由を記します。) この部分には「恵みとまことに満ちた」という説明のことばがあるだけで、新改訳が「この方は」と訳している主語がありません。新改訳は、この「恵みとまことに満ちた」ということばが、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 と言われている「ことば」のことを説明していると理解しています。これは「満ちた」ということば(形容詞・プレーレース)が男性形であるからです。この前にあるのは男性形の「ことば」(ロゴス)と女性形の「栄光」(ドクサ)ですので、「ことば」の方を説明していると理解しているのです。 しかし、この「満ちた」ということばが変化しないことば(無変化詞)として用いられることがあったことが認められています。それで、文法的には、これは「この方の栄光」を説明している可能性もあります。そして、この14節では、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 と言われた後に、 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。 と言われていて、主題が「この方の栄光」に変わっています。そして、この後に「恵みとまことに満ちた」という説明のことばがあります。それで、このことばは「この方の栄光」を説明していると考えるほうがよいと考えられます。(補足を終わります。) 人の性質を取って来てくださった神の御子イエス・キリストによって現された栄光は「恵みとまことに満ちて」いる栄光でした。これは、神さまの栄光が「恵みとまことに満ちて」いる栄光であるということを意味しています。 また、繰り返しになりますが、ヨハネの福音書12章39節、40節では、この「イザヤの召命体験」の記事からみことばが引用されています。そして、41節では、 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。 とあかしされています。イザヤが幻のうちに見た主の恵みに満ちた栄光のご臨在は、御子イエス・キリストの栄光のご臨在を預言的に指し示すものであったというのです。 このように、イザヤが幻のうちに啓示された主の栄光のご臨在は、人の思いを越えた恵みに満ちた栄光のご臨在でした。それは、人の性質を取って来てくださった永遠の神の御子イエス・キリストにおいて成就しています。 先ほど触れましたヨハネの福音書12章には、イエス・キリストの栄光にかかわることがさらに記されています。 20節ー24節には、 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 と記されています。ずいぶん前に、この主の祈りについてのお話の中で取り上げたことがありますが、今お話していることとのかかわりで、いくらかの補足を加えながら、お話ししたいと思います。 20節で、 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。 と言われている「祭り」は、過越の祭りのことです。 出エジプトの時代に、主はイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から解放してくださるために、十のさばきをもって、エジプトをおさばきになりました。その最後のさばきは、人も家畜も含めて、エジプトの地にある初子を撃つことでした。そのさばきの執行に先だって、主はイスラエルの民に過越の小羊を用意し、その日の夕暮れにそれをほふって、その血を家の鴨居と門柱に塗るようにお命じになりました。その夜、さばきを執行する御使いはエジプトの初子を撃ちました。しかし、小羊の血が塗ってある家に来ると、そこではすでにさばきが行われているとして、その家を通り過ぎました。それが過越です。過越の小羊はその家の初子の身代わりとなっていのちの血を流したのです。その後、イスラエルの民はこのことを覚えて過越の祭りを行ってきました。 イエス・キリストは過越の小羊の成就として、過越の日に十字架につけられ、その血を流されることになります。コリント人への手紙第一・5章7節に、 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 と記されているとおりです。 ヨハネの福音書12章20節以下に戻りますが、その年の過越の祭りのためにエルサレムに上ってきた人々の中に「ギリシヤ人が幾人か」いました。その人々がイエス・キリストにお会いしたいと願いました。間もなく、ユダヤ人たちはイエス・キリストを見捨てて十字架につけて殺してしまうことになります。そのような状況にあって、異邦人である「ギリシヤ人」がイエス・キリストの御許にやって来たのです。 そのことを受けて、イエス・キリストは、 人の子が栄光を受けるその時が来ました。 と言われました。ここで「人の子が栄光を受けるその時」とは、イエス・キリストが十字架につけらる時です。過越の小羊の本体としてご自身の民の罪を贖い、彼らにいのちを与えるためにご自身の血を流される時です。そのことは、これに続いて、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 と言われていることから分かります。 イエス・キリストの語っておられることばは、さらに続いていますが、数節後の27節ー32節には、 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と記されています。 イエス・キリストは、 父よ。この時からわたしをお救いください。 と言われ、さらに、 いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。 と言われました。これは、イエス・キリストの祈りのことばです。 この場合の「この時」も、先程と同じく、イエス・キリストが、過越の小羊の成就として、十字架にかかられる時のことです。 父なる神さまはこのイエス・キリストの祈りにお答えになって、 わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。 と言われました。 わたしは栄光をすでに現わした ということは、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして栄光を現されたということです。具体的には、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖うために、人の性質を取って来てくださったことと、一般にイエス・キリストの「公生涯」と呼ばれていますが、公に贖い主としてのお働きを始められたことを指していると考えられます。 このこととのかかわりで思い出されるのは、イエス・キリストの公生涯のお働きをイザヤの預言のことばとのかかわりで理解すべきことを示しているマタイの福音書8章16節、17節に記されている、 夕方になると、人々は悪霊につかれたものを大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 というみことばです。 イエス・キリストが大せいの人々から「みことばをもって」悪霊を追い出され、「病気の人々をみなお直しになった」ことは、主のしもべの「第4の歌」にある「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」という預言のことばの成就であるというのです。 すでにお話ししましたことですが、このことによって、イエス・キリストのお働きがどのようなものであったかが明らかにされています。 イエス・キリストは、いともたやすく、大せいの人々から悪霊を追い出され、「病気の人々をみなお直しになった」のではなかったのです。もちろん、イエス・キリストの御力ということから言えば、全能の神の御子として、いかなることも、たちどころにおできになります。けれども、マタイがあかししているのはそのことではありません。むしろ、神の御子としての洞察力と感受性を働かせて、ご自分の御許にやって来た人それぞれの病と痛み、悪霊に縛られることの悲惨さ、またその家族や友人たちのさまざまな苦しみと悩み、叫びと涙を、余すところなく感じ取って、それをご自身の痛みとし苦しみとされたということです。 そして、そのゆえに、これらの悲惨の根本原因となっている罪を贖わなければならないという思いを、よりいっそう強くされたのだと考えられます。このことにおいて、イエス・キリストが人々から悪霊を追い出され、「病気の人々をみなお直しになった」ことが、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださったことに深くつながっていることを理解することができます。 忘れてはならないのは、主のしもべの「第4の歌」は、基本的に主のしもべの栄光ををあかししているということです。つまり、ここに記されているイエス・キリストのお働きは主のしもべの栄光を映し出すものであるということです。イエス・キリストが、人々の痛みや苦しみをご自分のものとされたことに、主の栄光が現わされているのです。これこそが、父なる神さまが、 わたしは栄光をすでに現わした と言われたことに当たります。 父なる神さまは、さらに、 またもう一度栄光を現わそう。 と言われました。この「栄光」は、イエス・キリストが、 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 と言われたことに現れる栄光です。この、 わたしが地上から上げられるなら ということばは、先ほど、主のしもべの「第4の歌」の初めのことばとして引用しましたイザヤ書52章13節の、 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。 ということばを思い起こさせます。 実際、この少し後の37節、38節には、 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。 と記されています。 ここに引用されている、 主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。 というみことばは、主のしもべの「第4の歌」の一部であるイザヤ書53章1節からの引用です。そして、ヨハネはこれがユダヤ人がイエス・キリストを信じなかったことにおいて成就しているとあかししているのです。 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった と言われているときの「多くのしるし」とは、イエス・キリストが人々から悪霊を追い出し、人々の病をいやされたことなどの奇跡的な御業のことです。彼らはその御業を見て、イエス・キリストの御力に驚嘆しました。しかし、先ほどお話ししましたマタイがあかししている意味でのイエス・キリストの栄光、十字架につながる栄光は見なかったのです。 このようなユダヤ人の不信仰にもかかわらず、異邦人である「ギリシヤ人」がイエス・キリストの御許にやって来ていました。 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 というイエス・キリストのことばの「すべての人」にその「ギリシヤ人」も含まれています。 ヨハネは、このイエス・キリストのことばについて、 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と注釈しています。 この注釈がなければ、このイエス・キリストのことばは、ご自身が栄光をお受けになって死者の中からよみがえられ、天にあげられ、父なる神さまの右の座に着座されることだけを述べていると考えることでしょう。しかし、ここであかしされているイエス・キリストの栄光は、ご自身の民の罪の贖いのために十字架につけられて死ぬことに現される栄光です。 同時に、この、 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 ということばは、父なる神さまの右の座に着座されるイエス・キリストがご自身の民をご自身の御許に引き寄せてくださることをも指しています。 この二つのこと、すなわち、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死なれることと、栄光を受けて死者の中からよみがえって、父なる神さまの右の座に着座されることは、この世の尺度では、まったく別のものであるとされます。けれども、この二つのことが、どちらも主の栄光の現れであることは、イザヤの「召命体験」の記事と主のしもべの「第4の歌」において、預言的にあかしされていたことでした。そのどちらのことも、栄光の主であられる方が、私たちのために、私たちをご自身の御前に立たせてくださるためになしてくださったことです。そして、このどちらも、主の恵みに満ちた栄光の現れです。 |
![]() |
||