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説教日:2008年8月2日 |
繰り返しの引用になりますが、イザヤ書6章1節〜6節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。」 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。 「ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。」 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。 ここに記されていることは「イザヤの召命体験」ですが、主が幻によってご自身がどのような方であるかをイザヤに啓示してくださったものです。この時、イザヤは主の栄光のご臨在に触れています。これはイザヤが予測していたことというよりは、主が、その主権的で一方的な恵みによって、したがって、イザヤにとっては突然にというか、思いがけない形で、ご自身をイザヤに示してくださったと考えられます。 ここにはセラフィムが出てきます。「セラフィム(ヘブル語・セラーフィーム)」は「サーラーフ」の複数形です。いろいろな説がありますが、これは「燃える」、「燃やす」ということを意味する動詞(サーラフ)の関連語で、この御使いが燃える炎のように輝く存在で、主の栄光のご臨在の聖さを表示していると考えられます。このこととともに、「セラフィム」という呼び名は、6節、7節に、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています、主のご臨在の御許の祭壇からの火による罪のきよめの啓示にかかわっていることと関連している可能性があります。 セラフィムはこのように主の栄光のご臨在の至近において仕えているのですから、当然、聖い御使いです。聖書の中には、同じように主の栄光のご臨在の御許において仕えている御使いとして、ケルビムが出てきます。「ケルビム(ヘブル語・ケルービームあるいはケルビーム)」は「ケルブ(ヘブル語・ケルーブ)」の複数形です。セラフィムはケルビムとともに最も聖い御使いに属しています。 主の栄光は主の無限の聖さの現れであり、主の栄光のご臨在の御前にあるセラフィムも顔と両足を覆って、ひたすら、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と叫ぶほかはない栄光でした。 ここで「聖なる」ということばが3回繰り返されているのは、主の聖さを強調するものです。実際には、主の無限の聖さの現れである栄光が常にセラフィムを圧倒しているために、セラフィムは絶えず、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 と叫ばなければならない状態にあったと考えられます。これは、私たちがすばらしい景色を見たときに、自らの内側から揺さぶられて、思わず「すごい」とか「きれい」ということばが出てくるのと同じです。ただ、この場合、私たちはすぐにそれに慣れてしまって、新鮮な驚きがなくなってしまいます。しかし、セラフィムにとっては、主のご臨在の栄光に触れることは、その感動が常に新しく湧き上がってくるということです。 そのように常に変わることない感覚が湧き上がってくるということは、私たちには分かりにくいことです。これは、人間が大きく燃えさかる火のすぐ前にいることを考えれば分かりやすいと思います。その火の熱さにさらされている間は、絶えず「熱い」と感じて、その熱さに慣れてしまうということがありません。そして、それがあまりにも熱いと、思わず「熱い。」と叫び続けることでしょう。 もちろん、このたとえには無理もあります。人間が大きく燃えさかる火にさらされるということは、過酷なことで、苦しいことです。しかし、セラフィムは主の栄光のご臨在の御前において、その栄光を讚えています。これは、時に私たちが陥りがちな、機械的で空疎な讃美ではありません。ですから、セラフィムは内側から、また絶えることなく、主の栄光の豊かさとすばらしさに揺り動かされているのです。つまり、セラフィムは主のご臨在の栄光に触れて、その豊かさに満たされ、自らの内側から揺り動かされてその栄光をを讚えます。それによって、さらに主のご臨在の栄光の豊かさに満たされていくので、さらにそれを讚えずにはいられないという、常に新しい感動と喜びのうちにあるということです。 どうしてこのようなことになるのかと言いますと、神である主の栄光が無限、永遠、不変であり、セラフィムが神さまによって造られた被造物として有限な存在であるからです。 セラフィムであっても神さまによって造られたものであり、被造物としての限界のうちにあります。それで、主の無限の栄光を直接的に見ることはできません。テモテへの手紙第一・6章15節、16節には、 神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。 と記されています。 このことは、人間ばかりでなく、ケルビムやセラフィムを含めた御使いたちにも、そのまま当てはまります。無限、永遠、不変の栄光の主を、直接的に見ることができると考えることは、神さまと人間や御使いたちとの違いを相対的なものと考えることです。 少し分かりにくいことですので、一つの例を用いてみましょう。最近、日本でも皆既日食がありまして、その前には、日食の時でも太陽を直接見てはいけないと言われました。そのようなことをすると失明する恐れがあるというのです。太陽の光の圧倒的な強さを物語っています。けれども、失明覚悟で太陽を見ようとすれば、一瞬ではあっても、見ることができます。実は、私は小学生の頃に、そのようなことをすれば失明する可能性があるということも知らずに、ほんの一瞬ですが、太陽を見てしまったことがあります。ほんの一瞬だけ見ようと思ったのではなく、あまりのまぶしさに見続けることができませんでした。太陽の光のすごさを感じました。これは、太陽と私たちの違いを示すのもではありますが、これでも、同じ被造物の間の相対的な違いでしかありません。 無限、永遠、不変の栄光の主にして造り主である神さまと神さまによって造られたものの間の絶対的な区別は、私たちには実感することはできません。御使いたちにもできません。私たちには神さまの無限、永遠、不変の栄光を、一瞬たりとも、見ることも知ることもできないからです。 では、イザヤが幻のうちに啓示されたことはどういうことだったのでしょうか。セラフィムが栄光の主のご臨在の御前に仕えているということはどういうことなのでしょうか。それは、人間になぞらえた言い方をしますが、主がその身を無限に低くしてご臨在してくださっているので、その御前において、セラフィムが仕えているということです。また、イザヤもその栄光の主のご臨在に触れることができたのです。 それは神さまが無限に身を低くしてご自身を示してくださったものです。ですから、その栄光のご臨在に触れて大変な感動に包まれたとしても、その栄光の底が見えてしまうということがありません。御使いや人間が、時間的に永遠に神さまの栄光の豊かさに触れ続けていくとしても、それで、神さまの無限、永遠、不変の栄光の豊かさの底が見えてしまうということはなく、私たちにとってはいつまでも、神さまの栄光は無限、永遠、不変であり続けます。これは数字の無限大からいくら大きな数を引いても無限大であることにたとえられます。ただし、神さまの無限は無限大とは質的に違います。 そのようにして、セラフィムが絶えず、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と言って、主のご臨在の栄光を讚えていることには、常に新鮮な驚きと感動をともなう喜びがそのうちに溢れ出ていると考えられます。 このようにして、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる方が無限に身を低くして、その栄光を御使いたちや人間に示してくださることは、御子のお働きによることです。三位一体の神さまの御父、御子、御霊のお働きによる私たち区割り分担において、御父は無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられ、御子は無限に身を低くしてこの世界とかかわってくださり、私たちに神さまを啓示してくださっています。ヨハネの福音書1章18節に、 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。 と記されているとおりです。 このことを、この「イザヤの召命体験」の記事に当てはめて言いますと、イザヤが、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。 と記している「高くあげられた王座に座しておられる主」は、ご自身、無限、永遠、不変の栄光の主であられるのに、無限に身を低くして、ご自身を啓示してくださった御子イエス・キリストであるということになります。このことは、すでにお話ししましたように、この後、続いて起こる、主の栄光のご臨在の御許の祭壇からの火による罪の聖めが啓示されることによってより明確になっていきます。 そして、先週お話ししましたように、ヨハネは、その福音書の12章39節、40節において、この「イザヤの召命体験」の記事のみことばを引用しています。そして、続く41節で、 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。 と記して、イザヤが幻のうちに見た栄光の主のご臨在は、御子イエス・キリストの栄光のご臨在を預言的に指し示すものであったとあかししています。 イザヤも、このような主の栄光のご臨在の御前に立たせられました。しかし、イザヤのうちからは、セラフィムとはまったく違うものが出てきました。それは主の栄光を讚える喜びではなく、この上ない恐ろしさを伴う絶望でした。5節には、 そこで、私は言った。 「ああ。私は、もうだめだ。 私はくちびるの汚れた者で、 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。 しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから。」 と記されています。イザヤは自分が罪に汚れているために、ただちに滅ぼされるべき者であることを実感し、恐ろしさのあまり、 ああ。私は、もうだめだ。 と、絶望的な叫びを叫ぶほかはありませんでした。セラフィムが、同じ主の栄光に触れて、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と讚え続けていることと比べますと、その違いの大きさに驚かされます。また、イザヤの絶望の深さがよりいっそう際立ってしまいます。 イザヤ書を見ましても、イザヤは自分のことをほとんど記していません。この点で、自らのうちなる葛藤を記していて、「涙の預言者」と呼ばれるエレミヤと対照的です。しかし、イザヤはここに記されているような、幻による啓示を受け止め、主の栄光のご臨在の御許から遣わされた預言者でした。このことから、イザヤ自身は人としてとても優れた人物であったということが、十分に察せられます。けれども、その優れた人となりも、主の栄光のご臨在の御前においてはまったく通用しませんでした。イザヤは主の栄光が映し出す主の聖さの前に、自らの罪の恐ろしいまでの現実性を実感させられ、立ち所に滅びを直感するほかありませんでした。 しかし、イザヤは、そのような、自分が直ちに滅ぼされると感じるほかない恐ろしい現実の中で、思いもよらないことを示されます。6節には、 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。」 と記されています。主のご臨在の御許に罪の贖いの備えがあって、主の一方的な恵みによって、イザヤはそれにあずからせていただきました。 この啓示を通して、イザヤは、罪のために御前で滅ぶべきでしかない者が、主の栄光のご臨在の御許に備えられている罪の贖いによって、その御前に立つことができるようにしていただけるということを示されました。 これらのことによって、イザヤは、まず、主の栄光は、その栄光のご臨在の御前においては、最も聖い御使いたちも、顔と両足を覆って、ひたすら、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。 と讚えるほかはない主の聖さの現れであることを啓示されて、それを悟ります。また、そのゆえに、罪ある者は、その栄光のご臨在の御前に滅びるほかはないことを、恐ろしいまでの実感とともに啓示されて、悟りました。さらに、それと同時に、その主の栄光は、罪に満ちて御前に滅びるほかはない者のために贖いを備え、罪に満ちている者を、その贖いによって罪からきよめて、御前に立たせてくださる恵みに満ちた栄光であるということ啓示され、悟ったのです。 決定的に大切なことは、イザヤがこのことを単なる教えとしてではなく、身の毛もよだつ恐ろしさとともに絶望のどん底に沈んでしまった自分の身に起こったこととして知るようになったということです。 最も聖い御使いに属するものとして、絶えず主の栄光のご臨在の御許において仕えているセラフィムはどうだったのでしょうか。セラフィムは、主の栄光は、罪に満ちて御前に滅びるほかはない者のために贖いを備え、罪に満ちている者を、その贖いによって罪からきよめて、御前に立たせてくださる恵みに満ちた栄光であるということを啓示してくださる主のお働きに参与しています。けれども、それはセラフィムから出たことではありません。この時、主はセラフィムをとおしてイザヤに働きかけておられます。セラフィムはイザヤに、 見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの不義は取り去られ、 あなたの罪も贖われた。 と告げました。しかし、それはセラフィムが主のみことばをイザヤに告げたものです。セラフィムのひとりが「祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭」をイザヤの口に触れたのも、主の命令によってしたことです。 そのことの意味を、セラフィムがどれほど悟っていたかは分かりません。ペテロの手紙第一・1章11節、12節には、 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。 と記されています。このことから、御使いたちも初めからすべてを分かっているわけではない、ということが分かります。おそらく、セラフィムも内心驚きをもって、主が命じられたことを行なっていたのではないかと思われます。そうではあっても、セラフィムが、罪のために御前で滅ぶべきでしかない者が、主の栄光のご臨在の御許に備えられている罪の贖いによって、その御前に立つことができるようにしていただけるということを理解したことは確かです。 けれども、セラフィムは、そのことを自らの経験としては知ることができません。セラフィムは、主の栄光が映し出す主の聖さの前に、自らの罪の恐ろしいまでの現実性を実感させられ、立ち所に滅びを直感したイザヤの絶望を実感することができません。セラフィムは、そのような罪ある者が主の聖なるご臨在の御前に滅ぼされてしまうことを、厳粛な思いにおいて受け止めることはできても、滅び去るべき者の絶望を実感として知ることはできません。 ところが、イザヤはそれを自分のこととして、恐ろしいまでの実感とともに味わいました。それだけに、主の栄光のご臨在の御許に贖いが備えられていて、栄光の主は、その御前においてただちに滅びるほかはない者の罪を贖ってくださるということを、自分のこととして経験しました。そのことの驚きはどれほどのものであったでしょうか。実際に、それによって、罪の赦しを宣言していただいたときに感じた、主の恵みの深さに対する驚きはどれほどのものであったでしょうか。そのような恵みにあずかって、主の栄光のご臨在の御前に立つことが許されたことを知ったときの喜びはどれほどのものであったでしょうか。 それは、先ほど詳しくお話ししましたセラフィムのうちに常に新鮮な感動とともに湧き上がってくる主の栄光を讃美することの喜びに、はるかに優ったものであると言ったら言い過ぎでしょうか。決してそのようなことはありません。この、イザヤに啓示された主の恵みに満ちた栄光は、ローマ人への手紙5章20節に記されていることばで言えば、 しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 という形で現される主の栄光でした。そして、この恵みに満ちた栄光において、イザヤはセラフィムにまさる恵みを受けています。それも、イザヤが自らの罪の現実に打ちのめされて絶望のどん底に沈んでいたからこそのことです。 イザヤ書6章1節、2節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。 と記されています。この時、イザヤは主の栄光のご臨在に触れていますが、その主ご自身をはっきりと見ているわけではありません。イザヤが見ているのはそのご臨在の主の「すそ」に当たる部分です。これに対して、イザヤは主の御顔も仰ぎ見たのだけれども、とても描くことはできなかったのだという見方もあります。けれども、出エジプト記33章23節には、 あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。 という、主がモーセに語られたみことばが記されています。古い契約の仲保者として、古い契約の下での王、祭司、預言者の基礎を据えたモーセであっても、恵みとまことに満ちた栄光の主ご臨在に触れながら、その御顔を見ることができなかったのです。このことから、イザヤもそれはできなかったと考えられます。 また、先ほどお話ししましたように、主はセラフィムをとおして、イザヤの罪が贖われたことを示してくださいました。そのことにおいても、主ご自身はイザヤに現されていません。 けれども、すでにお話ししましたように、イザヤはこのような恵みに満ちた主の栄光をあかしする預言者として、主の栄光のご臨在の御許から遣わされました。そして、その預言活動をとおして、ますます主がどのようなお方であり、主の恵みに満ちた栄光がどのような栄光であるかを知るようになります。そして、ついには、古い契約の限界の中でではありますが、主の恵みに満ちた栄光の核心にあることを啓示していただくようになります。それが、52章13節〜53章12節に記されている、主のしもべの「第4の歌」です。 私たちは、イザヤが預言的にあかしした恵みに満ちた栄光の主が、無限、永遠、不変の栄光の主であられるのに、私たちご自身の民の罪を贖うために人となって来てくださった御子イエス・キリストであることを知っています。 イエス・キリストは、十字架において、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けてくださいました。このことにおいて、ご自身が私たちの罪がもたらした絶望を極みまで味わってくださいました。この点で、あのセラフィムとは違います。このようにして、私たちのあわれみ深い大祭司となってくださったイエス・キリストご自身が、私たちの罪を赦し、私たちをきよめてくださいます。主はセラフィムをとおしてイザヤに働きかけてくださいました。しかし、イエス・キリストは、ご自身が私たちとともにいてくださって、いわば直接的に、私たちの罪を赦し、私たちをきよめてくださるのです。 また、イエス・キリストは私たちを永遠のいのちによって生かし、ご自身の栄光のご臨在の御前に立たせてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。それで私たちは、この恵みに満ちた主の栄光のご臨在の御前に近づいて、主の御顔を仰ぐことができます。そして、この主の恵みは、私たちが自らの罪に絶望するその絶望が深ければ深いほど、より豊かに示されるという不思議なものであるのです。 |
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