(第201回)


説教日:2009年7月26日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という主の祈りの第6の祈りについてのお話を続けます。
 これまで、私たちが直面するさまざまな試み、試練についてお話ししてきました。先週から、それらのことを踏まえて、もう一つのことについてのお話を始めましたが、先週は、そのための準備のようなお話で終わってしまいました。今日は、そのことをもう少し補足するお話をしたいと思います。
 先週は、イザヤ書6章に記されている、預言者イザヤが経験したことと、52章13節〜53章12節に記されている、主のしもべの「第4の歌」との関連を考えました。
 イザヤ書6章1節〜6節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍の主である王を、
 この目で見たのだから。」
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 ここには、一般に、「イザヤの召命体験」と呼ばれる出来事が記されています。先週お話ししましたイザヤの預言活動が紀元前740年から始まっているということは、これが「イザヤの召命体験」であるという見方に基づいています。つまりイザヤの預言活動が「ウジヤ王」の死の年から始まっているということです。
 ここに記されていることは、単なるイザヤの経験ではなく、幻のうちにイザヤに示されたもので、主からの啓示としての意味をもっています。
 主の栄光のご臨在に触れたイザヤは、自分が罪に汚れているために、ただちに滅ぼされるべき者であることを実感しました。そこでは人間の目で見た相対的な義がものを言う余地はなく、ただ絶望しかありませんでした。イザヤはその恐ろしさのあまり、

 ああ。私は、もうだめだ。

と叫ぶほかはありませんでした。
 しかし、その恐ろしい現実の中で、驚くべきことを体験することとなりました。なんと、主のご臨在の御許に罪の贖いの備えがあって、ただ一方的な恵みによって、イザヤはそれにあずからせていただいたのです。この啓示を通して、イザヤは人の間で通用していた義が、無限の栄光の主の御前においてはまったく通用しないことを思い知らされます。それと同時に、主の栄光のご臨在の御許に備えられている罪の贖いによって、罪のために御前で滅ぶべきでしかないものが、その御前に立つことができるようにしていただけるということを啓示していただいたのです。
 人が自らのことを義であると思っているときの義は、人間がお互いを比べ合うことによって生まれてくる相対的な義です。自分はあの人よりは良いとか、人並みであるというような義です。それは、罪を宿す人間を基準にして考えられている義であって、絶対的に聖なる主の栄光のご臨在の御前においては、まったく義とは呼べないものであるのです。後に、イザヤは、その書の64章6節に、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、
 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

と記すようになります。
 この経験は、イザヤの預言に決定的な方向性を与えることになります。イザヤは、人間を基準として、その比較の中から生まれてくる相対的な義は、幻想でしかないことを悟り、そのような自らの義を頼みとすることの空しさを明らかにすることになります。イザヤはこのために、自分たちの良さが神である主に認めていただけると信じている人々から、拒絶されることになります。
 しかし、イザヤのように、自らの義を頼みとすることの空しさを心底悟ったときには、絶対的に聖なる主の栄光のご臨在の御許に罪の贖いが備えられていて、主が一方的な恵みによって罪ある者をそれにあずからせてくださるという主の啓示が、福音としての光を放っようになります。イザヤ書はこのような「絶対恩寵」の光を放つ預言の書となっています。


 主のしもべの「第4の歌」は、イザヤ書52章13節〜53章12節に記されています。これは、52章13節の、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

ということばで始まっています。そして、52章12節の、

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

ということばで終っています。どちらも、主のしもべが栄光を受けることを述べています。このことは、この「第4の歌」が全体としては、主のしもべの栄光のことを預言的に明らかにしているということを意味しています。
 ところが、一般には、この「第4の歌」は主のしもべの苦難のことを記していると理解されています。確かに、「第4の歌」において際立っているのは、主のしもべがご自身の民のために苦難を受けるということです。先ほど引用しました「第4の歌」の初めと終わり以外は、主のしもべの苦難とその意味に関する預言のことばと言っていいのです。
 そうではあっても、「第4の歌」は全体としては、主のしもべの栄光のことを記しています。これは、矛盾したことではなく、主のしもべの栄光は、主のしもべが私たちの罪をになって、私たちのために刑罰を受けて苦しむことにこそ現されているということを示しています。そして、このことがイエス・キリストにおいて成就しています。

 先週お話ししましたように、この「第4の歌」の初めに、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われているときの「高められ、上げられ」ということばは、二つの動詞で表されています。そして、この二つの動詞が、先ほどの「イザヤの召命体験」を記している6章1節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されているときの「高くあげられた王座」を説明する「高くあげられた」ということばに用いられています。
 さらに、主のしもべの「第4の歌」の初めでは、この二つの動詞の上にさらに「非常に高くなる」ということばが加えられています。この同じことを表す三つの動詞の組み合わせと、最後の動詞に「非常に」という強調のことばが加えられていることによって、主のしもべがこの上なく高められることを示しています。ほかのことを考えないで、ことばの比較だけで言いますと、主のしもべの方が「高くあげられた王座」よりも高くあると言ってもいいくらいです。
 このことは、イザヤが6章に記されている体験において見た栄光の主は、この「第4の歌」に預言的に示されている、主のしもべのことであることを示しています。また、このことは、先週お話ししました、その他のことからより確かなものとなります。
 このことと関連して、先週お話しすることができなかったことを一つ取り上げておきます。先週も取り上げましたヨハネの福音書12章37節〜41節には、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

と記されています。
 ここでは、ユダヤ人がイエス・キリストが行われた「多くのしるし」を見ながら、イエス・キリストを信じることがなかったのは、イザヤの預言の成就であるということが示されています。そして、38節に引用されている、

主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。

というみことばは、イザヤ書53章1節、すなわち主のしもべの「第4の歌」の中からの引用です。また、40節に引用されている、

主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。

というみことばは、6章10節、すなわち「イザヤの召命体験」の記事からの引用です。このことも、主のしもべの「第4の歌」と「イザヤの召命体験」の記事が、同じ特質をもったことを扱っていることを示しています。
 そればかりでなく、ヨハネは41節で、その「イザヤの召命体験」の記事とのかかわりで、

イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

とあかししています。ここで「イエス」と訳されていることばは原文のギリシャ語では「彼」ですが、文脈などからイエス・キリストを指しています。ここで、ヨハネは、イザヤ書6章1節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と記されている、イザヤが見た主の栄光は「イエスの栄光」であり、「高くあげられた王座に座しておられる主」とはイエス・キリストのことであったとあかししているのです。

 先週お話ししましたように、イザヤ書6章に記されている「イザヤの召命体験」と主のしもべの「第4の歌」のつながりは、とても大切なことを示しています。それは、6章に記されている主の栄光のご臨在の御許に罪の贖いの備えがあることの理由が、主のしもべの「第4の歌」において明らかにされているということです。それは、「高くあげられた王座」に座しておられる栄光の主ご自身が、貧しくなって来られて、ご自身の民の罪をその身に負われ、その罪に対する刑罰を受けて死なれるからであるということです。
 そして、このことをとおして、「高くあげられた王座」に座しておられる主の栄光とは、まさに、ご自身が、貧しくなって来られて、ご自身の民の罪をその身に負われ、その罪に対する刑罰を受けて死なれることにおいて最も豊かに現されているということがあかしされています。
 これは、この世の栄光の理解と正反対のものです。この「第4の歌」の初めの部分をもう少し先まで見てみましょう。52章13節〜15節には、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
 多くの者があなたを見て驚いたように、
 ―― その顔だちは、
 そこなわれて人のようではなく、
 その姿も人の子らとは違っていた。――
 そのように、彼は多くの国々を驚かす。
 王たちは彼の前で口をつぐむ。
 彼らは、まだ告げられなかったことを見、
 まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

と記されています。
 ここで、

 王たちは彼の前で口をつぐむ。
 彼らは、まだ告げられなかったことを見、
 まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

と記されていることに「王たち」の驚愕を見ることができます。この世の人々が考え、追い求めている栄光は、その圧倒的な力をもって、人々を驚かせ、屈服させ、人々を支配することにある栄光です。「王たち」はその頂点に立った人々です。しかし、その「王たち」が「第4の歌」に示されている主のしもべこそが、「高くあげられた王座」に座しておられる栄光の主であられることを悟るようになる時があります。栄光の主ご自身が、貧しくなって来られて、ご自身の民の罪をその身に負われ、その罪に対する刑罰を受けて死なれることに、その栄光は最も豊かに現されているということを悟る時、「王たち」が追い求めていたもの、「王たち」が誇りとしていたことが、いかに空しいものであったかが明らかにされるのです。
 このことがいつ起こるのかは明らかにされていません。これには二つの可能性があります。ひとつは、終わりの日に再臨される栄光のキリストにおいて、このことが明確に示されるときに、「王たち」が恐るべき驚愕の事実として悟ることを意味している可能性があります。その場合には、ローマ人への手紙3章19節に、

それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

と記されていることが実現するということになります。
 同時に、これは、「王たち」が福音のみことばに触れて、それを悟ったときの驚愕を示している可能性もあります。それはローマ人への手紙15章20節、21節において、パウロが自分の宣教について、

このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。
 「彼のことを伝えられなかった人々が
 見るようになり、
 聞いたことのなかった人々が
 悟るようになる。」

と述べている中に、先ほどの主のしもべの「第4の歌」のみことばが引用されていることに表されています。ただし、ここでは、それが「王たち」に限定されないで一般の人々に適用されています。
 もちろん、この二つのことは矛盾することではありません。すべての「王たち」に、また「王たち」ばかりでなく、すべての人に、この二つの可能性のどちらかのことが起こります。

 この世の人々が考え、実際に追い求めている栄光は、その圧倒的な力をもって、人々を屈服させ、人々を支配する「王たち」を頂点とする栄光です。そこでは、権力者を頂点とする栄光の序列が形成されています。このことの根底にあるのは、人間の罪の自己中心性です。その権力によって、人間の罪の自己中心性が極みまで表現されることになります。
 しかし、主のしもべの「第4の歌」にあかしされている主の栄光はそれとは質的に違っています。それで、イエス・キリストは権力をもって人々を支配することに現れてくる栄光を徹底的に退けておられます。
 そのことを明確に示しているのは、さまざまな機会にお話ししてきましたが、マルコの福音書10章35節〜45節に記されている記事です。35節〜37節には、

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

と記されています。ヤコブとヨハネは、イエス・キリストが「栄光の座」に着座するときのことを考えています。それは、彼らにとっては、イエス・キリストがこの世的な権力の序列の頂点に立つことでした。彼らは、その序列の頂点の次の席に自分たち十二弟子たちが着くと考えています。そのことから、さらに、その十二弟子たちの中でだれがいちばん偉いかということがしばしば論じ合われていました。この少し前の、9章33節、34節には、

カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

と記されています。すでにこの時、イエス・キリストの教えを受けていたのに、弟子たちはそれを理解し、悟ることができませんでした。そのため、再び、この世における権力の序列をめぐる争いのようなことを繰り返してしまっています。
 その10章に戻りますが、41節には、

十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

と記されています。これによって、「十人の者」もヤコブとヨハネと同じ思いでいたことが分かります。このことを受けて、イエス・キリストは、もう一度、弟子たちを教えられます。42節〜45節には、

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

と記されています。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。

というイエス・キリストの教えは、イエス・キリストの権威と栄光が、この世の権力の栄光と質的に違っていることを示しています。そして、

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

という教えは、イエス・キリストの権威と栄光が、これまでお話ししてきました、主のしもべの「第4の歌」においてあかしされている栄光であることを示しています。
 繰り返しお話ししてきたことですが、

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

天の御国で人の上に立ちたいのであれば、地上では仕える者となりなさいということを教えているのではありません。もしそうであれば、天の御国にこの世と同じ権力の序列があることになってしまいます。この教えは、地上においても天においても、また、この時代においても新しい天と新しい地においても、真の権威と栄光はイエス・キリストが「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与え」られたことにおいて最も豊かに現されているということを示しています。

 このように、イエス・キリストはご自身の権威と栄光が、この世の権力の序列の頂点にあるものではないということを一貫して示しておられます。そして、このことのゆえに、ユダヤ人はイエス・キリストをメシヤとして受け入れることができませんでした。実際に、彼らが追い求めていたのは、政治的なメシヤでした。メシヤの圧倒的な力によって、ローマ帝国を打ち破り、ユダヤ人を中心として、主の律法に基づく支配を確立させることによって、理想的な社会、理想的な世界が実現するというものでした。それは、メシヤがこの世の権力の序列の頂点に立つというものですから、その権力はこの世の権力と同質のもので、ただその規模がより大きいものであるということになります。しかし、イエス・キリストはそのようなメシヤではなかったので、にせメシヤの廉で告発され、十字架につけられて殺されました。
 もちろん、そこに神さまの計り知れない摂理の御手が働いていて、主のしもべの「第4の歌」によってあかしされていた、主の民の贖いが成し遂げられました。イエス・キリストは、この世の権力を、この世的な権力によって打ち倒すのではなく、この世的な権力を自己中心的に腐敗させている人の罪を贖ってくださることによって、この世の権力とはまったく異質な真の権威を示されました。また、それによって、この世の権力の栄光とはまったく異質な栄光を現されました。それこそが、「高くあげられた王座」に座しておられる主の栄光であり、主のしもべの「第4の歌」にあかしされていた栄光です。
 ヨハネの福音書10章18節には、イエス・キリストが示された、この世の権力とはまったく異質の権威に関する次のようなイエス・キリストの教えが記されています。

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

それは、私たちご自身の民の罪の贖いのために、ご自身のいのちをお捨てになる権威であり、私たちをご自身の復活のいのちで生かしてくださるために、もう一度、いのちを得てくださる権威であるというのです。
 私たちはこのお方の権威によって救われており、このお方の栄光にあずかっています。
 このことから、私たちがこの世で経験する試み、試練について考えられることがあります。それにつきましては、改めてお話ししたいと思います。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第200回)へ戻る

「主の祈り」
(第202回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church