(第200回)


説教日:2009年7月19日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてお話しします。
 これまで、私たちが直面するさまざまな試み、試練について、いくつかのことをお話ししてきました。今日はさらに、もう1つのことをお話ししたいと思います。とはいえ、今日はそのための準備のようなお話をすることになってしまいます。
 すでにいろいろな機会にお話ししたことですが、マタイの福音書8章16節、17節には、

夕方になると、人々は悪霊につかれたものを大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

と記されています。
 ここには、イエス・キリストが、多くの人の病をいやし、人々から悪霊を追い出されたことが記されています。これをマタイの福音書の流れの中で見てみましょう。
 マタイの福音書では、1章と2章においてイエス・キリストの誕生にかかわることが記されています。そして、3章においてバプテスマのヨハネの働きが記されていて、その最後に、イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことが記されています。続いて、4章にはイエス・キリストが荒野においてサタンから試みられたことと、その後、弟子たちを召されたことが記されています。そして、5章〜7章には一般に「山上の説教」と呼ばれている、天の御国すなわち神の国についてのイエス・キリストの教えが記されています。これらのことを受けて、8章からイエス・キリストが人々の間で御業をなさって、ご自身がどのようなお方であるかをあかしされたことが記されています。
 ですから、今引用しました8章14節〜17節に記されていることは、そのイエス・キリストのお働きを記す最初の部分に当たります。もちろん、これには、この前の1節〜15節に記されている3つのことも含まれます、しかし、その3つのこと、ツァラアトの人がきよめられたこと、百人隊長のしもべがいやされたこと、ペテロのしゅうとめがいやされたことは特定の人にかかわることです。


 マタイは、イエス・キリストが、多くの人の病をいやし、人々から悪霊を追い出されたことを最初に記したときに、このイエス・キリストのお働きは、預言者イザヤの預言の成就であると言っています。イザヤは紀元前8世紀後半の740年〜700年くらいに活動した預言者です。
 マタイは、

彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。

というイザヤ書53章4節を引用しています。新約聖書が旧約聖書を引用しているときには、その前後を踏まえていて、その中心にあるみことばを引用することがよくあります。ここでもそのように考えられますので、3節〜6節を見てみましょう。そこには、

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かっていった。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

と記されています。
 イザヤ書40節以下には、一般に「主のしもべの歌」と呼ばれる4つの「歌」が出てきます。ここに引用したのは、52章13節〜53章12節に記されている「第4の歌」の一部です。
 一般には、この「第4の歌」は主のしもべの苦難を記していると言われています。それは間違ってはいません。確かに、この「第4の歌」においては、主のしもべ、すなわち、神さまが与えてくださる贖い主であるメシヤが、私たちの罪と咎に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けて下さることが預言として記されています。そして、私たちは、この主のしもべの苦難をとおして救われるということが記されています。
 けれども、この「第4の歌」を主のしもべの苦難を記しているものと理解することは一面的な理解です。「第4の歌」を全体として見ますと、これは、主のしもべの栄光を記しています。「第4の歌」は、52章13節の、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

ということばで始まっています。この「栄える」と訳されたことばには、新改訳欄外注にありますように、別の訳の可能性もありますが、

 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

ということばは、主のしもべの栄光を語っています。そして、この「第4の歌は」52章12節の、

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

という、主のしもべが贖いの御業を完成させ、霊的な戦いにおいて勝利することを示すことばで終っています。
 このことは、この「第4の歌」が全体としては主のしもべの栄光のことを述べているということを意味しています。
 そして、最後の53章12節においては、主のしもべが栄光を受けて霊的な戦いに勝利することの理由が、

 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

とまとめられています。
 ここには、理由を表す「・・・したからである」をどこにつけるかの問題があります。ヘブル語ではこの「・・・したからである」ということばがこの4つのことの最初に置かれていますので、それがどこまでかかるかの判断が必要なわけです。結論的に言いますと、この4つのすべてが理由を表しているのではないかと思われます。
 新改訳が最初の2つだけを理由を示すものとしているのは、おそらく、最後の、

 そむいた人たちのためにとりなしをする。

ということだけが、現在や未来のことを表す未完了時制になっていることを生かそうとしてのことでしょう。ちなみに、最初の3つは過去のことを表す完了時制で表されています。この完了時制は「預言的完了」と呼ばれるもので、人間にとって過去のことは変えることができないものとしての確かさをもっています。主が預言者たちをとおして語ってくださったことは、将来のことであっても、すでに起こったことと同じくらい確かなことです。それで「預言的完了」が用いられているということです。
 最後に未完了時制が用いられているのは、最初の3つの「自分のいのちを死に明け渡」すこと、「そむいた人たちとともに数えられ」ること、「多くの人の罪を負」うことは、主のしもべの働きにおいて、一度にすべて成し遂げられてしまうことであるのに、最後の「とりなしをする」ことだけは、その時だけでなく、その後もずっとなされることであるからでしょう。
 このことから、最後の「とりなしをする」ことは、主のしもべが霊的な戦いに勝利し栄光を受けることの理由にならないと考える必要はありません。いわば、主のしもべが贖いの御業が遂行された時に「とりなしをした」ことだけでなく、その後もずっと「とりなしをする」ことをも視野に入れて、その理由に数えられていると考えられます。
 いずれにしましても、「第4の歌」は、主のしもべの栄光は、そのお方が私たちの罪と咎に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださり、贖いの御業を成し遂げてくださることにおいて現されているということを示しています。

 さらに、数年前に「聖なるものであること」のお話の中で取り上げましたが、この「第4の歌」は、6章に記されているイザヤの経験と対応しています。長いので一部だけを引用しますが、6章1節〜6節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
 その栄光は全地に満つ。」
その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍の主である王を、
 この目で見たのだから。」
すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」

と記されています。
 このイザヤの経験を記している6章と主のしもべの「第4の歌」との対応は、少なくとも3つの点に見られます。
 第1に、6章1節でイザヤは、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。

と述べています。この「高くあげられた王座」の「高くあげられた」ということは、2つの動詞の組み合わせで示されています。ただ「高く」と訳されたことばは分詞です。そして、52章13節では、主のしもべのことが、

 見よ。わたしのしもべは栄える。
 彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。

と言われています。ここで「彼は高められ、上げられ」の「高められ、上げられ」は、6章1節で用いられているのと同じ2つの動詞の組み合わせで表されています。
 このことは、6章に記されている経験においてイザヤが見た「高くあげられた王座に座しておられる主」とは、主のしもべの「第4の歌」であかしされている主のしもべのことであるということを暗示しています。このことは、さらに、これからお話しします2つのことによって、明確になります。
 第2に、6章においては、「高くあげられた王座に座しておられる主」の御許には、罪に汚れているために、主の栄光のご臨在の御前に立つことができない者、主の聖なる御前で滅ぼされてしまうほかはない者、この場合はイザヤ自身ですが、そのような者のために贖いが備えられているということが示されています。それは、その御前においては滅ぼされるほかはない者のために、そして、それゆえに主の一方的な恵みによって、備えられている贖いです。
 そして、主のしもべの「第4の歌」では、その「高められ、上げられ、非常に高くなる」主のしもべご自身が、私たちのためにそのいのちを注ぎ出してくださることによって、贖いの御業が成し遂げられるということが示されています。これによって、主の栄光のご臨在の御許に備えられている贖いがどのようなものであるかが説明されていることになります。
 第3に、6章のイザヤの経験では、先ほど引用した部分より後にあるのですが、9節、10節には、イザヤが主のあかしのために遣わされるに際して告げられたことが記されています。そこには、

すると仰せられた。
 「行って、この民に言え。
 『聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」

と記されています。
 イザヤが自分の経験の中で示されたことをあかししても、人々は理解しないし、受け入れないというのです。主の栄光のご臨在の御許に罪の贖いのための備えがあり、その御前で滅びるほかない者を、それゆえに、まったくの恵みによって、それにあずからせてくださるということは、人々に理解されないことであるのです。人々は時文の側によいところがあるので、主は受け入れてくださるという発想を持ちつづけていますので、イザヤがその経験の中で示されたことを理解することができないのです。言い換えますと、そのように、一方的な恵みによって、罪に汚れた者のために贖いを備えてくださることにこそ主の栄光が現わされているということは、人々に理解されず、受け入れられないことであるということです。
 主のしもべの「第4の歌」においても、その「高められ、上げられ、非常に高くなる」主のしもべの苦難のことを述べるための導入のことばが、53章1節に、

 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 主の御腕は、だれに現われたのか。

と記されています。「高められ、上げられ、非常に高くなる」主のしもべの苦難のことを聞く人々は、それを信じることができないと言われています。また、この後に語られる大きな苦しみを受けるしもべにおいてこそ「主の御腕」が現れているということは、まったく理解できないことであるというのです。
 このことも、主のしもべの「第4の歌」と6章に記されているイザヤの経験とのつながりを示しています。
 そして、新約聖書もこの点における2つのつながりを示しています。ヨハネの福音書12章37節、38節には、

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。

と記されています。ここでは、

主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。

という、先ほどのイザヤのことばは、ユダヤ人がイエス・キリストの御業を見ながら信じなかったことにおいて成就していると言われています。ユダヤ人たちは、イエス・キリストがなさった奇跡を目の当たりにして驚き、それが神の御力の現れであると告白しています。けれども、彼らはそのイエス・キリストの御業を通して現されている、イザヤの言う、主のしもべとしての栄光を理解し、信じることができなかったのです。
 ヨハネの福音書12章では、これに続く39節〜41節に、

彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

と記されています。これも、ユダヤ人がイエス・キリストの御業を見ながら信じなかったことを、

主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。

という、イザヤ書のもう1つのことば成就であるとして示しています。これは、先ほど引用しました、イザヤ書6章10節からの引用です。
 これらのことは、6章に記されているイザヤが経験したことと、主のしもべの「第4の歌」とのつながりを示しています。
 このことから、イザヤが6章に記されている経験をしたからこそ、主のしもべの「第4の歌」に示されている、人の思いをはるかに越えた啓示を受け取ることができたと考えることができます。
 また、このことから、6章に記されている経験においてイザヤが見た「高くあげられた王座に座しておられる主」とは、主のしもべの「第4の歌」であかしされている主のしもべのことであると考えることができます。そして、新約聖書の光をもっている私たちは、これが人となって来てくださって、ご自身の民の罪を負って十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に上げられた、イエス・キリストにおいてすべて成就していることを理解することができます。
 このイザヤ書の2つのみことばがともにあかししていることは、主の栄光は、自らの罪のために、ご自身の栄光のご臨在の御許に立つことができなくなってしまった者たちのために、主ご自身が、その一方的な恵みによって贖いを備えてくださることに表されているということです。
 さらに、どうして、6章のイザヤの経験の中で示されているように主の栄光のご臨在の御許に贖いの備えがあるかということが、主のしもべの「第4の歌」において、「高くあげられた王座に座しておられる主」ご自身が、しもべとなられて、

 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。

からであると説明されています。そして、このすべてが、イエス・キリストにおいて成就しています。

 マタイの福音書8章16節、17節に戻りますが、マタイは、イザヤ書53章4節の、

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。

ということばを引用しています。これによって、マタイは、イエス・キリストが人々の病をいやし、人々を悪霊から解放してくださった時に、ご自身が「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」ということを伝えています。マタイは、ここで、ただ単に、イエス・キリストには多くの人々の病をいやし、人々を悪霊から解放する力がある、ということをあかししているのではありません。マタイはそれ以上のことをあかししています。それは、その時、イエス・キリストは、「私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負っ」てくださったということです。
 無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストにとって、病をいやし、悪霊を追い出すことは、それがどのような病であっても、どのようにたちの悪い悪霊であっても、いともたやすいことです。しかし、ここでマタイがあかししているのはそのことではありません。イエス・キリストが何の造作もなく病をいやし、悪霊を追い出されたということではありません。そのようなことであれば、ユダヤ人も信じていたはずです。
 マタイは、イエス・キリストが、神の御子としての洞察力と感受性を働かせて、ご自分の御許にやってきた一人一人の病と痛み、悪霊に縛られている人の悲惨さ、またその家族たちのさまざまな苦しみと悩み、叫びと涙を、余すところなく感じ取って、それをご自身の痛みとし苦しみとされたということです。
 マタイは、イエス・キリストが多くの人々の病をいやされ、人々を悪霊から解放してくださったことを最初に記したとき、それを、

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

ということばをもって結んでいます。これによって、この後になされるイエス・キリストのお働きのすべてが、そして、その地上の生涯のすべてが、このような意味をもっているということを、前もって示しているのです。
 ヨハネがイザヤ書53章1節のみことばを引用して、ユダヤ人がイエス・キリストの御業を見ながら、イエス・キリストを信じなかったと証言しているのは、ユダヤ人がイエス・キリストのお働きのこのような面を受け止めなかったということでしょう。

 そうであるとしますと、このイエス・キリストのお働きは、多くの人の病をいやし、人々を悪霊から解放されることで終わらないはずです。主のしもべの「第4の歌」において、さらに続いてあかしされている、

 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かっていった。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

ということにつながっているはずです。
 事実、マタイの福音書の終盤の27章45節、46節には、十字架につけられたイエス・キリストのことが、

さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

と記されています。
 このことについては、すでにいろいろな機会にお話ししましたので、簡単にまとめておきましょう。
 この十2時から3時まで続いた暗やみは、神さまの直接的なさばきを表示するものです。そこで、イエス・キリストは、私たちの罪に対する、神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けておられるのです。このさばきは、世の終わりに、神さまがすべての者をご自身の絶対的な義の尺度に従って、公正にさばかれるさばきに相当するものです。その意味で、これは、イエス・キリストが十字架の上で、私たちの身代わりとなって受けてくださった以外には、いまだかつて、だれも経験したことがないさばきです。十字架につけられて処刑されたというのであれば、初代教会のクリスチャンたちの中にもいました。しかし、それは最後のさばきに相当するさばきを受けることではありませんでした。
 この時、イエス・キリストの上には、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒り怒りが余すところなく注がれ、イエス・キリストはまったく見捨てられてしまいました。そこには、何の憐れみも容赦もなく、神の義に基づく聖なる御怒りだけがありました。イエス・キリストは、その恐ろしい現実の中から、

わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。

と叫ばれました。
 この方の栄光のご臨在の御前においては、あの大預言者イザヤでさえも滅びを直感し、身の毛もよだつ思いで、

 ああ。私は、もうだめだ。

と叫ばなければならなかったのです。その栄光の主であられる方が、十字架の上で私たちの罪を負って、

わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。

と叫ばれました。この叫びは、イザヤが、

 ああ。私は、もうだめだ。

と叫んだ後に、続いて叫ばなければならなかったはずの叫びです。それをこの方が代わって叫んでくださり、イザヤには贖いの恵みが示されることになりました。
 このイエス・キリストの十字架の死によって、私たちはこの方の民としていただいています。
 これらすべてのことが、私たちがこの世で受ける試みとかかわっています。いくつかのことが考えられますが、今日は、1つのことだけを確認しておきましょう。
 それは、これまで繰り返しお話ししてきたことです。これらのことから、やはり、私たちがこの世でさまざまな試練に直面するとき、それは神さまが私たちをお見捨てになったことの現れと考えることはできないし、そのように考えてはならないということです。
 私たちはイザヤのあかしを聞いています。それは、神である主の栄光は、当然ご自身の栄光のご臨在の御前に滅び去るべき私たちのために、贖いを備えてくださっていることにこそ、もっとも豊かに表されているということでした。また、それはイエス・キリストの十字架の死に至るまでの生涯を通してこの上なく豊かにあかしされています。私たちがさまざまな試練の中で苦しむときには、

彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。

とあかしされていることが、私たちの現実となっています。それは、私たちの資質によってではなく、このお方の一方的な恵みによっています。そうであるので、私たちはこの方が、試練の時に、私たちとともにいてくださることを信じて、すべてをお委ねすることができるのです。

 


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