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説教日:2009年7月12日 |
神さまは人をご自身のかたちにお造りになりました。それによって、人をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださいました。また、同じく神のかたちに造られている者同士の愛の交わりのうちに生きるものとしてくださいました。この造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりこそが、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。 しかし、そのように神のかたちに造られている人類が、最初の人アダムにあって、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。その結果、罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきに服して、死ぬべきもの、さらには聖なる御怒りによる刑罰を受けて永遠に滅ぶべきものとなってしまいました。 その後、すべての人はこのような状態にあるものとして生まれてきます。造り主である神さまとの法的な関係においては、すでに、死の力に捕らえられ、永遠の滅びに至るべきものとして生まれてきます。また、人としての実質においては、自分自身のうちに罪の性質を宿しており、人としての本性が罪によって腐敗している者として生まれてきます。そのために、考えること、言うこと、行なうことのすべてに、自らの罪の汚れが染みついてしまっています。 その罪によって汚染されてしまっている状態の中心にあるのは、造り主である神さまを神としてあがめることはもとより、認めることもないということです。人は心で思ったり考えたりしたことを言ったり、行なったりします。その心に思うこと考えることが根本にあり、源になっているのですが、その根本にあることにおいて、造り主である神さまを神としてはいません。 たとえば、最も日常的なことですが、今もすべての人が呼吸をしています。そのためには、この世界に適度な酸素が含まれている空気がなければなりません。また、肺や心臓を初めとして、人のからだのすべてが正常に機能しなければなりません。神さまがこれらすべてのことを真実に支えてくださっていますので、人は呼吸をすることができています。しかし、罪によって神さまの御前に堕落してしまっている人は、このような神さまの支えを認めることはありません。まして、神さまに感謝することも、神さまをあがめることもありません。 私たちを含めてこの世界は、神さまがお造りになったものであり、神さまがその真実な御手をもって治めてくださっておられるものです。神のかたちに造られた人は、このことを知っている者として造られています。けれども、人の心に宿っていて、心を腐敗させてしまっている罪が、人の心を神さまに背かせてしまっています。それで、人は自分たちをお造りになり、自分たちの存在といのちのすべてを支えてくださっている神さまの御手に支えられているのに、その神さまを神として認めることもなく、あがめることもありません。 このようなことが、ローマ人への手紙1章18節〜23節に、 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されています。 このような状態になってしまっている人間は、自らの力によっては、神さまの御前に義と認められて、神さまの聖なるご臨在の御前に立って、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることはできません。それどころか、今引用しましたみことばの最初の18節には、 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 と記されています。 これまでお話したことは、私たち人間の側から見た人間の現実です。これには、より大切なこととして、神さまがこのような人間の現実をどのようにご覧になっておられるかということがあります。神さまはその聖さと義において無限、永遠、不変のお方です。神さまは、人の罪に対して聖なる御怒りをもって臨まれます。その聖なる御怒りによって、すべての罪をまた完全に清算されます。それは、終わりの日に、神さまが人間の罪に対する最終的なさばきを執行されるときに実現します。 ローマ人への手紙2章16節には、 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。 と記されています。 ここで注目に値するのは「私の福音によれば」ということばです。パウロが「私の福音」と言っているからといって、パウロだけの福音があるわけではありません。これは、神さまがみことばによって啓示してくださった福音ですが、パウロがそのみことばに基づいて理解し、信じており、それによって生きている福音のことです。そのようにして、福音がパウロのうちに根づいており、パウロのものとなっているのです。 このみことばでは、福音のうちに「神のさばき」が執行されることが示されているということが教えられています。これは、私たちには意外なことと思われるかもしれません。しかし、これはとても大切なことです。今日お話ししたいことの1つはこのことです。 もちろん、福音においては、私たちの救いが啓示されています。けれども、福音においては「神のさばき」が執行されることも啓示されているのです。病状を明確に診断しない治療がよい治療でないのと同じように、「神のさばき」の事実を明確にしない福音は、真の福音とは言えません。 そして、ここでは、神さまはそのさばきによって「人々の隠れたことをさばかれる」と言われています。先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られた人は自分の心で思ったり感じたりしたことを、ことばにしたり、行なったりします。人間の目に留まるのは、その人の口から出てきたことばであり、実行に移された行ないです。けれども、神さまはその人の心の中のすべてをもご存知であられ、人の目に隠れた罪をも、すべてきちんとおさばきになられます。 もちろん、福音は、ただ単に「神のさばき」が執行されるということを教えているのではありません。そのさばきが、私たちのために十字架にかかってくださって、私たちの罪に対するさばきを私たちに代わって受けてくださったイエス・キリストによって執行されるということを教えているのです。 福音は、御子イエス・キリストの十字架の死において、すでに私たちの罪に対するさばきは執行されて終わっているということを、明確にあかししています。しかし、そのことは、また、神さまが神のかたちに造られた人間の罪を必ずおさばきになることのあかしです。なぜなら、神さまが罪を見過ごしにされることがあるのであれば、ご自身の御子を身代わりに立てて、その十字架において私たちの罪に対する刑罰を執行される必要はなかったからです。神さまはご自身の義を立てるために、神のかたちに造られている人間の罪をすべてきちんと清算されます。それで、私たちの罪を贖うためには、御子イエス・キリストの十字架の死が必要であったのです。 ローマ人への手紙3章23節〜26節には、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 と記されています。 神さまはご自身の御子を私たちの罪のための「なだめの供え物」とされました。この「なだめの供え物」ということは、私たちの罪に対して神さまの聖なる御怒りが注がれているということを踏まえています。ただ、神さまはその聖なる御怒りを「なだめの供え物」となられた御子イエス・キリストに注がれたのです。そのようにして、神さまは神のかたちに造られている人間の罪を必ずおさばきになって罪を完全に清算されるお方であられることを示しておられます。これによって、「神ご自身が義で」あられることがあかしされています。 もちろん、イエス・キリストの十字架の死は神さまが愛であられることをこの上なく明確な形であかししています。ローマ人への手紙5章8節には、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と記されています。 このように福音の中には「神のさばき」が執行されることが示されているということをわきまえることは、福音の理解にとって大切なことです。そのわきまえを欠いてしまいますと、2つの問題が生まれてきます。 1つは、それによって、私たちにとっても「神のさばき」が執行されることは、何となく福音の外にあることであるというような感じ方をしてしまいます。そのために、「神のさばき」が怖くなって、それによって脅迫されるようになって、いたずらに動き回ったりしてしまいます。 もう1つのことは、福音とは神さまが私たちのためになしてくださったことですべてだという受け止め方をしてしまいます。そうしますと、今お話ししましたような、神さまがご自身の義をお示しになるという視点が見失われてしまいます。福音が人間中心にしか受け止められなくなってしまうのです。 このことと関連して、もう一個所見てみましょう。ローマ人への手紙1章16節、17節には、 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。 と記されています。ところが、これに続く18節には、 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 と記されています。「というのは」ということば(接続詞ガル)があることから分かりますように、これは、その前の16節、17節で、 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。 と言われていることを説明しています。 福音は私たちの救いのことしか示していないと考えていますと、わけが分からなくなってしまいます。しかし、福音の中で「神のさばき」が執行されることが示されているということをわきまえますと、ここでのパウロの話の進め方も理解できるようになります。神さまが、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださったのは、神のかたちに造られている人間の罪に対する神さまの聖なる御怒りを踏まえて初めて理解できることであるからです。 また、17節で、 福音のうちには神の義が啓示されていて と言われているときの「神の義」には、いくつかの面があることがわかります。ここでは2つのことだけに触れますが、その1つは、イエス・キリストがその十字架の死に至るまでの生涯をとおして父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義、すなわち、私たちが信仰によって受け取る義です。これは神さまが私たちご自身の民のために、御子イエス・キリストによって備えてくださった義という意味で「神の義」です。もう1つは、先ほどお話ししましたように、御子イエス・キリストの十字架の死は、神さまが必ず神のかたちに造られている人間の罪をすべておさばきになって完全に清算されるということに表されている「神の義」です。福音の中には、この意味での「神の義」も啓示されています。 このように、神さまは神のかたちに造られている人間のすべての罪をおさばきになって、完全に清算されます。それによって、ご自身が義であられることを表されます。 ただ、今は、その最終的なさばきの執行が終わりの日まで引き延されています。最終的なさばきの執行が終わりの日にまで引き延ばされていることには理由があります。それは、それまでの間に、神さまはご自身の民のために贖い主を備えてくださり、贖い主によってご自身の民のために、贖いの御業を遂行してくださるためです。 先ほど引用しました、ローマ人への手紙3章25節、26節には、 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 と記されていました。 ここでは、「今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られた」と言われています。けれども、それは、「キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しに」なるためのことでした。そして、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業を福音のみことばにおいてあかしし、ご自身の民をすべて御許に召し集めてくださるまでの期間のことです。しかし、神さまが定められた時が来れば、必ず、神さまは神のかたちに造られている人間のすべての罪を、完全に清算されます。 実際に、神さまは、ご自身の忍耐の期間において、御子を贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死によってご自身の民の罪を贖ってくださいました。また、御子イエス・キリストの十字架の死に至るまでの生涯の完全な従順によって、ご自身の民のために義を立ててくださいました。そして、御子イエス・キリストに栄光をお与えになって、死者の中からよみがえらせてくださいました。 このようにして、贖いの御業のすべては、神さまが御子イエス・キリストをとおして、すでに成し遂げてくださっていることです。そのすべてのことが御子イエス・キリストによって完全に成し遂げられていて、そこに欠けていることは何1つありません。また、このすべては、御子イエス・キリストが私たちご自身の民のために成し遂げてくださったものです。私たちはただこれにあずかりさえすればよいのです。 私たちは信仰によって、イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかります。私たちは福音のみことばにあかしされているイエス・キリストと、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業とその意味を、聖書に記されている福音のみことばのあかしにしたがって信じて、その恵みを受け取るのです。 その意味では、信仰は私たちがすることです。けれども、この信仰も神さまが恵みによって私たちのうちに生み出してくださったものです。私たちのために、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストは、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されました。そこから、約束の聖霊を注いでくださいました。それが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日の出来事です。 その時に起こったことを説明しているペテロの説教を記している使徒の働き2章33節には、 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 と記されています。 この栄光のキリストが遣わしてくださった聖霊は「御子の御霊」として私たちのうちに宿ってくださいます。ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節に、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されているとおりです。 御霊が「御子の御霊」として私たちのうちに宿ってくださることによって、私たちはイエス・キリスト、栄光のキリストと1つに結び合わされ、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるものとしていただいています。 それで、ガラテヤ人への手紙2章20節において、パウロが、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 と告白していることが、私たちの現実となっています。 前半の、 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 ということは、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストが御霊によって、私たちのうちにご臨在してくださっているということです。ただ私たちのうちに鎮座ましますというのではなく、いのちの御霊として私たちのうちにあって生きて働いておられるということです。 このように、栄光のキリストが御霊によって私たちのうちにご臨在してくださっているので、私たちは、 いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 という生き方をしているのです。 栄光のキリストが御霊によって私たちのうちにご臨在してくださっていることと、私たちが「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって」生きていることは、1つのことの裏表であって、決して切り離すことができません。 栄光のキリストの御霊が私たちのうちにご臨在してくださって、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださって初めて、私たちは聖書のみことばを理解し、悟り、みことばにあかしされているイエス・キリストを信じることができるようになります。 ですから、栄光のキリストの御霊によって新しく生まれることが、イエス・キリストを信じるようになることの前にあります。これは時間的な順序ではなく、論理的な順序です。十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストを信じる信仰を告白することは、新しく生まれたことの現れであり、第1のしるしです。 このこととの関連で考えられることですが、教会は、成人の洗礼に際して、その人に洗礼を授けて、主の民に迎えるべきかどうかの判断をするために、その人が新しく生まれているかどうか、神さまがその人をイエス・キリストと1つに結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださっているかを確かめる必要があります。それをどのようにして確かめるかと言いますと、その人のイエス・キリストに対する信仰告白が、聖書に記されている福音のみことばに沿っているかどうかの判断をするわけです。福音のみことばに沿わない信仰告白をする人々があることは、すでに取り上げました、イエス・キリストの山上の説教の結びの教えに示されていました。 このように、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるというときの信仰は、御霊が私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださって、私たちのうちに生み出してくださるものです。その意味で、この信仰も神さまが恵みによって私たちのうちに生み出してくださったものです。 神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださいました。それはすでに、今から2千年前に、したがって私たちの外で、しかし私たちのために、すべて成し遂げられています。 神さまはさらに、イエス・キリストによって、私たちのために成し遂げられた贖いの御業に基づいて、御霊によって、今ここにいる私たちに対するお働きを進めてくださっています。私たちを御霊によって新しく生まれさせてくださり、イエス・キリストを信じることができるようにしてくださいました。そして、その信仰によって、神さまの聖なるご臨在の御許に近づき、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としてくださっています。 神さまはこのすべてを、私たちに対する一方的な愛に基づく恵みによってなし遂げてくださっています。 私たちは、この世で経験するさまざまな試練によって試されます。そのようなときに、福音に対する理解が一面的であるために、何となく、自分は「神のさばき」に会っているのではないかと考えてしまうことがありえます。そのような考えに支配されてしまいますと、福音を根底から覆すことになりかねません。私たちの罪に対するさばきは、すべて、2千年前のイエス・キリストの十字架の死において終っているという、福音のみことばがあかししている完全な贖いを否定することになってしまいます。私たちは、常に、また、どのような場合にも、神さまが御子イエス・キリストをとおして、特にその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって示してくださっている一方的な愛に基づく恵みのうちに留まりたいと思います。 |
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