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説教日:2009年7月5日 |
4章25節には、 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されています。 ここに記されている、イエス・キリストが「私たちの罪のために死に渡され」たということはよく分かりますが、イエス・キリストが「私たちが義と認められるために、よみがえられた」ということは、少し分かりにくいかもしれません。実際、このことに関してはいろいろな見方があります。 聖書のみことばを理解するうえでとても大切なことの1つは、それがどのような文脈、どのような前後関係の中で言われているかということに注意することです。ここでパウロは、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりの意味を説明していますが、それを、より大きな主題とのかかわりで説明しています。そのより大きな主題とは、3章からパウロが語ってきた、人が義と認められるのは何によるかということです。パウロは、人が義と認められるのは律法の行ないによるのではなく、神さまがみことばをとおして示してくださっている贖い主とその御業を信じる信仰によるということを明らかにしています。そして、そのこととのかかわりにおいて、イエス・キリストは「私たちが義と認められるために、よみがえられた」と述べているのです。ですから、ここではイエス・キリストの死者の中からのよみがえりのすべての意味を説明しているのではなく、あくまでも、私たちが信仰によって義と認められることとのかかわりで、その意味を説明しているのです。 結論的に言いますと、イエス・キリストが死者の中からよみがえってくださったことは、いわば、そのイエス・キリストを信じている私たちが、その信仰のゆえに義と認められていることの証拠あるいは根拠であるということを示していると考えられます。 コリント人への手紙第1・15章17節には、 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。 と記されています。このみことばが示していますように、もし、イエス・キリストが死者の中からよみがえられなかったとしたら、私たちの罪は贖われていないことになりますし、私たちが義と認められることはないということになります。 このことについては、すでにお話ししたことですが、振り返っておきましょう。 イエス・キリストの十字架の死には消極的な意味と積極的な意味があります。 イエス・キリストの十字架の死の消極的な意味は、その死は私たちの罪を贖うものであるということです。 無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストが、その人としての性質において、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。そのさばきは、終わりに日に執行されるさばきに相当するさばきで、私たちの罪に対する最終的な刑罰の執行でした。これによって、イエス・キリストは私たちの罪を、過去に犯した罪もこれから犯すであろう罪もすべて、完全に贖ってくださいました。これによって、私たちは、2度と再び罪に定められることはありません。 けれども、それは、私たちが義と認められるためにどうしても必要なことですが、それで私たちが義と認められるわけではありません。というのは、義とは罪がない状態のことではないからです。神さまが私たちを義と認めてくださるなら、私たちは神さまの栄光のご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができます。そのようにして、神さまの栄光のご臨在の御前に近づくことができるための法的な根拠が義なのです。 自分は神さまによって義と認められていなくても、神さまのご臨在の御前に近づくことができると考える人がいるとしたら、その人は、神さまの聖さをわきまえていません。この世では、自分たちが考えた神のいるとされるところに自由に出入りすることができます。せいぜい、水で手や口を洗うというようなことがなされるだけです。神さまのご臨在の御前に近づくことをそれと同じように考えることは、神さまを偶像と同じような存在と考えることです。 神さまは天地創造の御業において、人を神のかたちにお造りになりました。このことには、人がご自身の御前に近づいて、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるようにと、義の状態にお造りになったということも含まれています。神のかたちはとても豊かなものですが、その中に義である状態も含まれているということです。最初に造られた状態にあった人は、ただ、消極的に、罪がなかっただけでなく、より積極的に、義であったのです。この義を「原義」と呼びます。神さまが初めから、神のかたちに造られた人に、その一方的な愛と恵みによって、与えてくださっていた義です。これによって、神のかたちに造られた人は、神さまの栄光のご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができました。 ところが、そのように神のかたちに造られて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。人は神さまに対して罪を犯したことによって、神のかたちとしての自分自身を腐敗させてしまいました。それによって、義である状態にはなくなってしまいました。人は神さまのご臨在の御前に近づくことはできない者となってしまったばかりか、神さまの聖なる御怒りのもとにある者となってしまいました。そして、最終的には、神さまの義に基づく聖なる御怒りによるさばきによって、滅ぼされるべき者となってしまったのです。 イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、この私たちが受けるべき、神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちは罪を贖っていただき、神さまの聖なる御怒りによるさばきから救い出されています。けれども、それは、イエス・キリストの十字架の死の消極的な意味です。私たちが罪を赦されたということであって、義と認められたということではありません。 このように言いましても、実際には、ただ罪を赦されただけで、義と認められていないという状態はありえません。というのは、神さまは御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、贖いの恵み、救いの恵みの「すべてを」私たちに与えてくださるのであって、罪の赦しを与えてくださるだけで、義とは認めてくださらないということはないからです。けれども、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業の中には、私たちの罪を赦してくださるお働きと、私たちを義と認めてくださるお働きがあります。その2つはいわば「ワンセット」となっていて切り離すことができないのですが、私たちがそれぞれのお働きについて理解するために別々に考えているわけです。 イエス・キリストの十字架の死の積極的な意味は、十字架の死は、イエス・キリストが地上の生涯を通して父なる神さまのみこころに従い通されたことの頂点であったということです。イエス・キリストの十字架の死だけが私たちにかかわっているのではなく、イエス・キリストの地上の生涯の全体が私たちにかかわっているのです。イエス・キリストはその十字架の死に至るまでの地上の生涯を通して、父なる神さまのみこころに従い通されました。そして、その完全な従順に対する報いとして、栄光を受けて死者の中からよみがえられました。ピリピ人への手紙2章6節〜9節に、 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されているとおりです。 ですから、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことは、父なる神さまが、イエス・キリストがご自身のみこころに完全に従い通されたことを認めてくださったことの現れです。そして、その父なる神さまのみこころは、イエス・キリストが十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださることであり、地上の生涯を通して父なる神さまのみこころに従い通して、私たちのために義を立ててくださることです。イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、この父なる神さまのみこころがすべて成し遂げられたことの現れです。 このようなことを背景にして、ローマ人への手紙4章25節には、 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されていると考えられます。 私たちは、信仰によって、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みを受け取っています。また、イエス・キリストがその十字架の死に至るまでの生涯を通しての従順によって立ててくださった義を、信仰によって受け取っています。これは、私たちの側から見たことですが、これを神さまのお働きから見ますと、御霊が、私たちをイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずからせてくださっているということです。 ローマ人への手紙10章9節、10節には、 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 と記されています。また、14節には、 しかし、・・・聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。 と記されています。そして、17節には、 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。 と記されています。 ここでは、信仰は「キリストについてのみことば」を聞くことから始まると言われています。この「キリストについてのみことば」は「キリストのみことば」とも訳すことができます。その場合には、イエス・キリストが啓示してくださった福音のみことばを意味しています。おそらく、その2つの意味がこもっていると考えられます。イエス・キリストが啓示してくださっている、ご自身についてのみことばということです。いずれにしましても、この3つの引用を合わせてみますと、ここでは「キリストについてのみことば」を聞いて、そのみことばに基づいて、十字架にかかって死んで、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストを信じることによって義と認められると言われています。そして、イエス・キリストを主として告白することによって、救われると言われています。 このこと、すなわち、イエス・キリストを信じることと、イエス・キリストを主として告白することは、私たちのすることですあり、実際に私たちがしたことですが、私たちの生来の力でなしたことではありません。ここに記されていますように、私たちがイエス・キリストを信じたのは、「キリストについてのみことば」を聞いて、それを悟ったからです。けれども、それは私たちが自らの生来の力で悟ったのではなく、御霊が私たちにみことばを悟らせてくださったからです。 ヨハネの福音書14章24節〜26節には、 あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 というイエス・キリストの、弟子たちに対する教えが記されています。また、16章13節、14節にも、 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。 という教えが記されています。 このイエス・キリストの教えは、福音のみことば、すなわち「キリストについてのみことば」は、御霊に導いていただいて初めて理解し、悟ることができるということを示しています。ですから、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」が、御霊によらなければ「キリストについてのみことば」を聞いて悟ることができないのです。このことは、私たちがイエス・キリストを信じたことも、また、今、信じていることも、御霊に導いていただいてのことであるということを意味しています。 また、コリント人への手紙第1・12章3節には、 聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。 と記されています。 このように、私たちが福音のみことばを聞いて悟ることができたのも、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストとその十字架の死と死者の中からのよみがえりの意味を理解し悟ることができたのも、そして、イエス・キリストを信じて、主であると告白することができたのも、すべて御霊のお働きによることでした。そして、今、イエス・キリストを信じて、主として従っているのも、御霊のお働きによっています。 御霊は私たちを、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、今は父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストと結び合わせてくださっています。そして、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。ヨハネの福音書3章3節には、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 というイエス・キリストの教えが記されています.この「新しく生まれる」ということは、御霊が私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださることを意味しています。 このように、御霊が私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちで新しく生まれさせてくださったので、私たちは福音のみことばを悟ることができるようになりました。そして、福音のみことばがあかししているイエス・キリストを、父なる神さまが約束し、遣わしてくださった贖い主であると信じることができるようになりました。そして、そのように信じて、イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いの恵みを受け取り、イエス・キリストが十字架の死に至るまでの従順によって立ててくださった義を受け取っています。それで、父なる神さまは、そのイエス・キリストの義を私たちの義として認めてくださって、その義に基づいて、私たちがご自身のご臨在の御許に近づいて、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださっています。 最初に引用しましたローマ人への手紙5章1節に、 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 と記されているのはこのことです。ここで言われている「神との平和」は、消極的に、何も問題がなく、波風が立っていないということではなく、積極的に、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちにある平和です。 この父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりを実現し、導いてくださっているのは御霊です。ローマ人への手紙8章14節〜16節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と記されているとおりです。 このように、御霊が私たちを、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストと1つに結び合わせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださっています。そうしますと、今、御霊が私たちを生かしてくださっているいのちは、イエス・キリストの復活のいのちです。それは、今イエス・キリストがおられる父なる神さまの御許、すなわち、「パラダイス」とも呼ばれている「第3の天」にふさわしい栄光をもついのちです。 先ほどのローマ人への手紙5章1節に続いて、2節には、 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 と記されています。この「神の栄光」とは、神ご自身の栄光のことというより、神さまが私たちに与えてくださる栄光のことです。それは、ある意味において、すでに与えられています。御霊が私たちを、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストと1つに結び合わせてくださっていること、そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださっているからです。そればかりではありません。御霊は今も、私たちをイエス・キリストの栄光のみ姿に似た者に造り変えていてくださいます。コリント人への手紙第2・3章18節に、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されているとおりです。 そして、ヨハネの手紙第1・3章2節には、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されています。ここでは、この御霊によって始められている御業が、終わりの日に再臨される栄光のキリストご自身によって完成される、栄光のキリストが御霊によってそれを完成してくださることが示されています。 ローマ人への手紙5章2節で、 私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 と言われていたのは、このことへの望みを指しています。ちなみに、ここで「神の栄光を望んで」と訳されているときの「望んで」ということばは名詞(エルピス)で「望み」です。ここでは「神の栄光の望み」を「大いに喜んでいます」と言われています。この「「大いに喜んでいる」と訳されていることば(カウカオマイ)は、また「誇る」ということも表します。2つを合わせた意味としては、「確信をもって喜んでいる」というような感じになるでしょうか。 続く3節、4節に、 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 と記されていることは、これまでお話ししてきました父なる神さまの愛に基づく、イエス・キリストの恵みと、御霊のお働きによって私たちに与えられている祝福と望みを踏まえて語られています。 そして、5節には、 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 と記されています。 ここに出てくる「この希望」(エルピス「この望み」)は、そのすぐ前の4節で、「練られた品性が希望を生み出す」を受けていますが、それはさらに、2節の「神の栄光の望み」につながっています。「練られた品性が希望を生み出す」と言われているときの「希望」は、「神の栄光の望み」のことです。それは、私たちが神さまからいただく栄光、すなわち、イエス・キリストの復活のいのちが完全に私たちを生かし、私たちがイエス・キリストの栄光の御姿に似た者となることを望むことです。 そうしますと、3節、4節に、 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 と記されていることは、その前の2節で、 私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 と言われていることと、5節で、 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 と言われていることに囲まれています。 このことから、 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 と言われていることは、御霊が私たちをイエス・キリストの栄光の御姿に似た者に造り変えてくださることを、私たちの側から見ているのだということが分かります。御霊は私たちがこの世にあるがために試練として降りかかってくる「患難」をも用いてくださって、私たちをイエス・キリストの栄光の御姿に似た者に造り変えてくださるというのです。この「患難」と訳されていることば(スリプシス)は、激しい患難を表しています。 そして、そのように私たちが「患難」の中にあるときのことについて、 私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている と言われています。この「注がれている」と訳されていることば(エクキュンノー)は「豊かに注ぐ」ことを表わすことばです。それは、私たちを父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりをより深く確かなものとしてくださることを意味しています。 御霊は私たちが「患難」の中にあるとき、父なる神さまの愛を豊かに注いでくださりつつ、私たちをイエス・キリストの栄光の御姿に似た者に造り変えてくださいます。その中で、私たちはイエス・キリストが再び来てくださって、私たちをあらゆる点でご自身の栄光の御姿に似た者としてくださることに対する望みを確かなものにしていただいています。 このようなことから、ここでパウロが述べていることは、ヤコブの手紙1章2節〜4節に、 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 と記されていることと同じことを述べていることが分かります。 私たちはともすれば「患難」というほどのことではない苦しみの中ででも、不安に駆られて、神さまを遠くに感じたり、見失いがちなものです。けれども、みことばは、「患難」という大きな試練であっても、神さまは、それを用いてくださって、御霊によって豊かな愛を注いでくださり、私たちをご自身に近づけてくださり、お育てくださることを示しています。私たちは試練の中でこそ、神さまに信頼し、神さまに近づくようにと招かれています。 |
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