(第197回)


説教日:2009年6月28日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 今日は、先週お話ししたことを補足するお話をいたします。いくつかのことを補足したいと思っておりましたが、今日は1つのことを取り上げることしかできません。
 これまで、この祈りの前半の部分を、新改訳のように、

 私たちを試みに会わせないで、

と訳すべきか、それとも、

 私たちを誘惑に会わせないで、

と訳すべきかをめぐって、意見が分かれているということをお話ししました。そして、そのどちらにも言い分があるということと、その2つの理解は、実際には、矛盾するものではないということをお話ししました。同じことでも、その受け取り方によって、試練として生かされることもあるし、誘惑となってしまうこともあるのです。
 先週は、その前のお話を受けてのことですが、私たちが陥ってしまうさまざまな誘惑の中でも、深刻な問題をもたらす事例として、成果主義的・功績主義的な発想についてお話ししました。これは福音の理解の根本をシロアリのように侵食して、私たちと神さまとの関係を破壊してしまうことになります。これをシロアリにたとえたのは、この問題が知らない間に私たちのうちに忍び込んできて、それに気がつくことが難しいからです。


 その典型的な例として考えられるのは、すでに取り上げました、マタイの福音書7章21節〜23節に記されている、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

というイエス・キリストの教えに見られるものです。
 このイエス・キリストの教えにつきましては、すでに、いろいろな機会にお話ししましたが、どちらかというと、結論的なことをお話ししました。これを機会に、今お話ししていることとかかわらせつつのことですが、もう少し詳しくお話ししたいと思います。
 ここには、終わりの日に再臨される栄光のキリストによるさばきの時に起こることが示されています。

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

という教えだけを見ますと、口先だけで「主よ、主よ。」と言っているだけで、行ないが伴っていないことが問題となっているというように思われます。けれども、ここでイエス・キリストが取り上げている人々は、口先だけの人で、行ないの伴わない人ではありません。その人々は、イエス・キリストの御名によって、「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」人々です。「奇蹟をたくさん行なった」には「たくさん」がつけられていて、それがその人にとっては、生涯に何回かあるかないかというような、まれなことではなかったことが示されています。
 この3つのことのそれぞれに「あなたの名によって」ということばが繰り返されていることは、これがイエス・キリストの御名によってなされたことであるということを強調しています。この場合の「あなたの名によって」ということをどのように理解するかということについては、いろいろな考え方が提案されています。というのは、イエス・キリストによって「不法をなす者ども」と糾弾されている人々が「あなたの名によって」と述べているために、これをどのように理解するかが問題になっているからです。いずにしても「」がその人自身を代表的に表現しているということは共通しています。結論的には、「イエス・キリストの御名の権威あるいは力によって」とか、「イエス・キリストの権威あるいは力によって」ということを意味していると考えられます。
 しかも、少し微妙なことですが、ここでの「あなたの名によって」という言い方は(「・・・によって」という前置詞によってではなく、ギリシャ語の格変化の「与格」によって表されていますので)、この人々がイエス・キリストの御名を実際に用いて、このような働きをしたことをうかがわせます。たとえば、悪霊を追い出すときに「イエス・キリストの御名によって命じる。この人から出ていけ。」というように、実際に「イエス・キリスト」、「イエス」、「キリスト」などの御名を用いたということです。
 私たちは、飲むことも食べることも、またすべてのことをイエス・キリストの御名によってなしています。それは必ずしも、というよりほとんどの場合、「イエス・キリスト」という御名を口で唱えてなすということではありません。それは、イエス・キリストをとおして啓示してくださった神さまのみことばに従い、イエス・キリストに信頼し、イエス・キリストのご栄光が現わされることを願ってなすということです。
 たとえば、主の祈りはイエス・キリストが教えてくださった祈りを祈るのですから、口で「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」と言わなくても、その意味をわきまえて祈ることは、イエス・キリストの御名によって祈ることです。逆に、紋切り型の祈りをして、その後で、「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。」と言えば、イエス・キリストの御名によって祈ったことになるわけではありません。

 このこととともに、この人々がイエス・キリストに向かって「主よ、主よ。」と呼びかけていることは、この人々がイエス・キリストのことを主として信じ、告白していたことを示しています。
 また、これは、イエス・キリストの御名によって、「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」というように、目覚ましい働きをした人々です。やろうとしてみたがだめだった、というようなことではありません。当然、人々からは神の御業をなしている人として知られていたはずです。また、この人々自身も、イエス・キリストの御名によってなしたら、このような働きができたのであるから、当然、自分はイエス・キリストの民であると考えていたわけです。これは、私の想像ですが、自分は他の人々よりイエス・キリストに近い者であるとさえ、感じていた可能性だってあります。
 けれども、イエス・キリストは、

 わたしはあなたがたを全然知らない。

と言っておられます。これは、イエス・キリストがその人々の存在を知らないとか、その人々がイエス・キリストの御名によって、「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」ことを知らないという意味ではありません。その人々を、ご自身のしもべ、ご自身の民としては知らないという意味です。ここでの言い方は、一度もそのような者として知ったことはないということを示しています。そのような、主とその民の関係にあれば、そこには交わりがあるはずですが、その交わりの中で知ったことはないということです。

 イエス・キリストがこの人たちのことを「不法をなす者ども」と呼んでおられることは、この人々がなしたこと、イエス・キリストの御名によって、「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」ことが不法であったことを示しているように見えます。
 この「不法」ということば(アノミア)は、律法に反することを意味していますが、ここでは、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

というイエス・キリストの教えとのかかわりで理解すべきです。つまり、この場合の「不法」とは、イエス・キリストが言われる「天におられるわたしの父のみこころ」に反することです。
 ここで注目すべきことは、この「不法をなす者ども」の「なす者ども」と訳されていることばは(冠詞によって実体化されている)現在分詞(ホイ・エルガゾメノイ)で表されているということです。これは、その人々が過去に不法をなしたということを示してはいません。時間的に見れば、その人々が常に「不法をなす者」であるというその人々の特質を表しています。そうしますと、ここでは、この人々がイエス・キリストの御名によって「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」ことだけが「不法をなす」ことであったのではなく、今このとき、

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。

と訴えていることも、イエス・キリストの父なる神さまのみこころを行なうことに反しているのです。
 ここでは、この「不法をなす者ども」ばかりでなく、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者」の「言う者」と、「天におられるわたしの父のみこころを行なう者」の「行なう者」も現在分詞で表されています。そして、イエス・キリストの、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく

という教えにおける「『主よ、主よ。』と言う」ことの実例が、終わりの日にイエス・キリストに向かって「主よ、主よ。私たちは・・・」と訴えかけることにあるとされています。このこととの関連で考えますと、「不法をなす者ども」が「不法をなす」ことも、終わりの日にイエス・キリストに向かって自分たちのなしたことを訴えていることの方に力点が置かれている可能性があります。

 それでは、この人々の問題はいったい何なのでしょうか。それは、今お話ししたような条件に当てはまる「不法をなす」ことです。考えられるのはただ1つです。それは、その人々が、イエス・キリストの御名によって「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」ことを頼みとして、主の民として認められ、天の御国にはいることができると考えているということです。そのように考えて、イエス・キリストの御名によって「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」し、この時も、そのことを根拠として、天の御国にはいろうとしているということです。
 このような考え方の根底に、成果主義・功績主義の発想があります。自分は主のためにこれだけ働いたのだから、また、これだけの結果を残したのだからということで、主の民として認められているし、天の御国にはいることができると考えてしまうということです。それは、すでに、この人々がイエス・キリストの御名によって「預言をし」、「悪霊を追い出し」、「奇蹟をたくさん行なった」ときにもっていた考え方であり、終わりの日に再臨される栄光のキリストの御前に立つときまで変わることなくもち続けている考え方です。
 けれども、神さまのみことばは、人は自分の行ないによっては義と認められないと教えています。たとえそれが、神さまのみこころを示す律法を行なうことであっても、その行ないによっては義と認められないと教えています。ローマ人への手紙3章20節には、

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

と記されています。
 神さまの律法は、私たちに対する神さまのみこころを示しています。それで、それを完全に行なうことができれば、人の目に完全と見えるようにということではなく、神さまの御目から見て完全に行なったとされるように行なうことができれば、それによって義と認められます。実際、イエス・キリストは人となって来ててくださって、律法だけでなく、ご自身に対する父なる神さまの特別なみこころをも完全に行なわれて、義と認められました。
 けれども、すべての人は罪を犯して堕落したものとして生まれてきます。自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に、思いとことばと行ないにおいて罪を犯します。私たちの思いの1つ1つに、私たちのことばの1つ1つに、私たちの行ないの1つ1つに、それが人の目に、また自分の目に、どんなに立派なものと見えても、聖なる神さまの御目から見ますと、私たちの罪の汚れが染みついています。先週詳しくお話ししました、イザヤ書64章6節に、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、
 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。

と告白されているとおりです。ですから、先ほどのローマ人への手紙3章20節では、

 律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

と言われています。律法という神さまのみこころの基準に照らして見ると、かえって、自分の罪の現実が明らかになってしまうということです。
 これが造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間の現実です。それは、啓示によって神さまの律法を与えられているユダヤ人であっても変わることはありません。
 ガラテヤ人への手紙2章15節、16節には、

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

と記されています。
 ここに記されていますように、人は自分の行ないによって功績を積んで、それによって神さまに義と認めていただくことはできません。

 大切なことは、それは、私たちが恵みによって救われる前にそうであっただけではないということです。私たちがイエス・キリストを贖い主として信じて、罪を赦されて、神の子どもとしていただいた後でも同じなのです。
 ある人々は、私たちが救われたのはただ神さまの恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によっているということを認めます。けれども、救われた後にも、イエス・キリストの民、神の子どもであり続けるためには、神さまのみこころに従って、よい行いをしなければならないと考えています。
 しかし、これは福音のみことばの教えに反しています。ガラテヤ人への手紙3章1節〜3節には、

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

というパウロのガラテヤの教会の信徒たちへの問いかけが記されています。パウロは、この問いかけから出発して、特に、アブラハムが信仰によって義と認められたことを中心として、いろいろなことを論じた後、5章4節において、

律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

と述べています。これは、ガラテヤの教会の信徒たちが、ただ恵みによって、またイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められて、救われた後に、にせ教師たちの教えに惑わされて、律法を行なうことによって義と認められようとするようになってしまっているという現実を指摘しています。先ほどの3章3節の、

御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

という問いかけが示している現実です。
 このことから、人が神さまの御前に義と認められるのは、救われる前だけでなく、また救われた後にも、ただ神さまの一方的な恵みによっているのであり、イエス・キリストを信じる信仰によっています。決して、救われる前の行ないによるのではありませんし、救われた後の、イエス・キリストの御名によってなす行ないによるのでもありません。
 私たちが主の民であることの根拠は私たちのうちにはありません。ただ、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪を、過去に犯した罪も、これから犯すであろう罪も、完全に贖ってくださっていること、そして、その十字架の死に至るまでの完全な従順によって、私たちのために義を立ててくださったことにあります。イエス・キリストがそのように完全な従順によって義を立ててくださったことは、父なる神さまがそれを認めてくださって、その報いとして、イエス・キリストに栄光をお与えになり、死者の中からよみがえらせてくださったことに示されています。ローマ人への手紙4章24節、25節には、

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

と記されています。

 先ほどの、イエス・キリストの教えにおいて、

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」

と言われている人々は、イエス・キリストを信じて、自分としてはイエス・キリストの民となったと信じている人々です。けれども、イエス・キリストは、

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

と述べておられます。先ほどお話ししましたように、

 わたしはあなたがたを全然知らない。

というイエス・キリストのことばは、イエス・キリストがこの人々を一度も、ご自身の民として知ったことはないと断言するものです。
 それで、これは、この人々が一度は、恵みによって救われて主のものとなったのに、その後その恵みから落ちてしまったということではありません。前にも引用したことがありますが、ヨハネの福音書6章35節に記されているように、イエス・キリストは、

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

と約束してくださっています。また、ヨハネの福音書10章28節には、

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

というイエス・キリストの教えと約束が記されています。ですから、神さまの恵みにあずかり、福音のみことばによってあかしされているイエス・キリストを信じて、神の子どもとなった者は、1人もその恵みから落ちて滅びてしまうことはありません。
 今お話している主の祈りの第6の祈りと関連していますが、試練としてやってくる誤った教えや、さまざまな誘惑に一時的に惑わされて、さまようことはあります。しかし、一時的に惑わされてさまよったからといって、それで神の子どもでなくなるわけではありません。いわゆる「放蕩息子」のたとえでも、息子が父の許を離れて遠くに行ってしまったからといって、息子でなくなってしまったわけではありません。最終的には、主の恵みによって、主の御許に帰って来るのです。
 パウロはガラテヤの教会の信徒たちに、

律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

と警告しています。パウロの説得を受け入れて、主の恵みに頼るようになる人々もいたでしょうし、にせ教師に惑わされたまま恵みから落ちた状態にとどまり続けた人々もいたでしょう。

 イエス・キリストの教えに関しては、もう1つの問題が残っています。そもそもイエス・キリストは、

わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

と言われたのではなかったでしょうか。「天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいる」ということは、父なる神さまのみこころに従って、よい行いをしなければ天の御国にはいることはできないということではないのでしょうか。
 もしそういうことであれば、これは福音のみことばのその他の教えを否定することになります。また、このようなことから、イエス・キリストの教えとパウロの教えは違うと言われることもあります。
 もちろん、そうではありません。
 ここでイエス・キリストは「天におられるわたしの父のみこころ」と言っておられます。ここで「天におられるわたしの父」と言われていますが、この言い方はマタイの福音書では、ここで初めて出てきます。これは、イエス・キリストが終わりの日のさばきを父なる神さまから委ねられたことにかかわっていると考えられます。私たちが考えている父なる神さまのみこころは、時に誤って受け止められることがあります。ここでイエス・キリストが問題として取り上げておられる人々も、父なる神さまのみこころをまったく誤解してしまっています。しかし、イエス・キリストは父なる神さまのみこころを完全に知っておられます。イエス・キリストは、そのようなお方として、最終的なさばきを執行する使命を委ねられています。つまり、イエス・キリストが言われる「天におられるわたしの父のみこころ」は、イエス・キリストのメシヤとしてのお働きとの関連で考えられる父なる神さまのみこころです。これと同じような意味での父なる神さまのみこころのことがヨハネの福音書6章39節、40節に、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

と記されています。
 とはいえ、これはイエス・キリストのメシヤとしての使命にかかわる父なる神さまのみこころであって、私たちに対するみこころではありません。実は、これと関連していて、なおかつ私たちに対する父なる神さまのみこころを示すみことばが、同じヨハネの福音書6章の少し前の、28節、29節に記されています。そこには、

すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

と記されています。
 このことから話が進んで、先ほどの39節、40節に記されています、

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

という、父なる神さまがイエス・キリストをお遣わしになったことにかかわるみこころが示されているのです。
 念のための確認ですが、29節では、イエス・キリストを信じることが「神のわざ」と言われていました。これは「神さまが求めておられるわざ」ということですが、決して、イエス・キリストを信じることが功績となって、それに対する報いとして義と認められ、救われるということではありません。
 これらのことから、イエス・キリストが言われる「天におられるわたしの父のみこころを行なう」こととは、基本的に、父なる神さまがお遣わしになったイエス・キリストを信じることです。そして、イエス・キリストによって、永遠のいのちをもつようになることです。このことを離れて、イエス・キリストが言われる「天におられるわたしの父のみこころを行なう」ことはできません。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第196回)へ戻る

「主の祈り」
(第198回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church