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説教日:2009年6月21日 |
ヤコブの手紙1章13節、14節には、 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 と記されています。 このみことばに示されていますように、私たちがさまざまなことによって誘惑されるのは、私たち自身のうちに罪の性質があるからです。私たちは、その罪によって自己中心的に歪められた欲望によって「引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」。 このように言いますと、物欲や情欲や名誉欲など、一般的にも悪い欲望とされている欲望のことが思い出されます。それはそうなのですが、それだけではありません。神の子どもにとっては、一般的には優れたこととして称賛されることも、誘惑となることがあります。その例は前回お話ししましたように、教会において、あるいは、教会に限らず社会的に、さまざまな奉仕をして、実績を上げて、人々にも認められるようになったとします。そうしますと、それで、自分は神さまに受け入れられていると感じてしまうということです。これは、私たちが、「救いはただイエス・キリストにある神さまの恵みによっている」ということを知らなかった時に身につけた成果主義・功績主義の発想に基づく感じ方です。 このような成果主義・功績主義的な発想は根強く私たちのうちに残っていて、さまざまな形で顔を出してきます。自分が奉仕において実績を上げたということから、自分は神さまに受け入れられているという感じ方をしていますと、何らかのことで、その奉仕がうまくいかなかったり、奉仕ができなくなってしまったときに、自分は神さまに受け入れられていないのではないかと感じてしまうことになります。 また、よく耳にするのは、私たちの奉仕は小さなものであるけれども、真心を込めてそれをすれば、神さまはそれを喜んでくださるということです。何となく、そのとおりであるという気がします。しかし、このような感じ方にも同じ問題があります。自分が「真心を込めた」「一生懸命やった」ということ、すなわち自分の「行ない」が功績となって、神さまが自分とその奉仕を受け入れてくださるという成果主義・功績主義の発想が根底にあるのです。 これに対して、真心を込めるのは心の姿勢であって行ないではない、と言われているかもしれません。しかし、それは表面的な区別、人の目に見えるか見えないかによる区別です。真心を込めることも、私たちが自分の意志ですることであり、私たちの内面的な行為です。もちろん神さまはそのすべてをご存知であられます。 真心を込めることや、熱心であることが意味のないことであるということではありません。それには意味があるのですが、そのために踏まえておかなければならないことがあります。それについては後からお話しします。 この問題を考えるためにイザヤ書64章6節を見てみましょう。そこには、 私たちはみな、汚れた者のようになり、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 私たちはみな、木の葉のように枯れ、 私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。 という告白が記されています。 私たちはみな、汚れた者のようになり、 と言われているときの「汚れた者」は、レビ記13章45節に、 患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。 と記されているみことばを連想させるものであることが指摘されています。このどちらにおいても同じことば(ターメー)で「汚れている」ということを表しています。もちろん、旧約聖書の儀式律法においては、たとえば、汚れたものに触れることによって、その人が「汚れた者」となることが示されています。しかし、ここで具体的なことには触れないで「汚れた者のようになり」と言われていることは、その典型的で代表的なこと、取り立てて説明されなくても分かることが取り上げられていると考えられます。それで「ツァラアトの者」が想定されていると考えられるわけです。いずれにしましても、これによって、聖なる神さまのご臨在の御許に近づいて、神さまを礼拝し、神さまとの交わりにあずかることができない状態にあること、そしてそれゆえに、神さまがご臨在される契約の共同体のうちにあることができないことを意味しています。 大切なことですが、ここでイザヤは、そのことを地上的なひな型で表していた「ツァラアトの者」だけではなく、「私たちはみな」、聖なる神さまのご臨在の御許に近づいて、神さまを礼拝し、神さまとの交わりにあずかることができない状態にあるということを指摘しています。 これに続いて、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 と言われているときの「不潔な着物」ということばは、新改訳の欄外注にありますように、「月のもので汚れた」という言い方で表されています。これは、たとえば、レビ記15章19節に、 女に漏出があって、その漏出物がからだからの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。 と記されていることを踏まえたものです。レビ記15章には、このほか男性のからだからの「漏出物」のことも出てきますが、このことも含めて、出産に関連する「漏出物」は汚れたものと見なされています。普通ですとおめでたいことであるはずなのに、どういうことでしょうか。それは、アダムにあって造り主である神さまに対して罪を犯し、神さまの御前に堕落してしまっている人間のいのちの始まりにかかわることであることによっています。これはまた、堕落後の人間が、その罪によって汚れており、罪に対する刑罰を受けて死んで、滅ぶべきものとなってしまっているということを踏まえています。 そのようにして、人が死と滅びの力に捕らえられてしまっているということが、続く、 私たちはみな、木の葉のように枯れ、 私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。 ということばによって示されています。言うまでもなく、 私たちはみな、木の葉のように枯れ、 ということばは、人がその罪によって死すべきものであることを示しています。また、 私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。 ということばは、詩篇1篇4節、5節に、 悪者は、それとは違い、 まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、 罪人は、正しい者のつどいに立てない。 と記されていることを思い起こさせます。この「風が吹き飛ばすもみがらのようだ」の「風が吹き飛ばす」ということは、神さまのさばきのことを表しています。同じように、 私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。 ということばも、神さまのさばきのことを示しています。人は聖なる神さまの御怒りによるさばきによって、滅びるべきものとなってしまっています。 今お話ししていることとの関連で特に注目したいのは、 私たちはみな、汚れた者のようになり、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 というみことばです。このどちらにおいても「みな」ということばがついていて、これには例外がないということを示しています。 繰り返しになりますが、 私たちはみな、汚れた者のようになり、 というみことばは、私たちが聖なる神さまのご臨在の御許に近づいて、神さまを礼拝し、神さまとの交わりにあずかることができない状態にあるということを意味しています。そして、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 というみことばは、「私たちの義」が、神さまの御前において汚れてしまっているということ、それゆえに神さまの聖なるご臨在の御前にふさわしくないものであるということを示しています。この「私たちの義」とは、私たち自身がよしとして認め、しばしば人の目にもよしと映り、私たちが頼みとしている義です。 しかし、 私たちはみな、汚れた者のようになり、 というみことばが示しているように、私たち自身が神さまの御前に汚れてしまっています。私たちは心の奥底から自らの罪によって汚れてしまっています。そのような私たちがなす行ないは、私たちの心の思いから始まっています。そのすべてに、私たち自身の罪の汚れがあります。その意味で、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 と言われているのです。 これが「着物」にたとえられていますが、人はその自分の義を「着物」のようにまとって、人前に立つわけです。それが自分に誇らしく感じられ、人にも称賛されることもありえます。しかし、聖なる神さまの御前においては、それは「不潔な着物」でしかありません。 これがアダムにあって神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっている人間の現実です。そして、私たち、福音のみことばのあかしにしたがって、御子イエス・キリストを贖い主として信じ、その十字架の死によって罪をまったく贖っていただいており、その復活のいのちによって新しく生まれている者の現実でもあります。 でも、私たちはイエス・キリストを信じて神さまの御前に義と認められているのではないでしょうか。その私たちも、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 と告白しなければならないのでしょうか。 そのとおりなのです。ヨハネの手紙第1・1章8節〜10節には、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 と記されています。 ここで「私たち」と言われているのはイエス・キリストを信じて罪を贖われた、神の子どもたちのことです。 そして、「罪はないと言うなら」と言われているときの「罪」は単数形で罪の性質を意味しています。ですから、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 というみことばは、私たちには罪の性質があるということ、私たちのうちになおも罪が宿っているということを示しています。また、説明するまでもありませんが、 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 というみことばは、私たちが実際に罪を犯しているということを示しています。 さらには、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 というみことばも、わが実際に罪を犯すということを踏まえています。 このように、福音のみことばは、イエス・キリストを信じて罪を贖われ、神の子どもとして受け入れられている私たちのうちに、なおも罪が宿っており、私たちは実際に罪を犯していると教えています。それで、私たちは、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 と告白しなければならない者なのです。 このことについて、もう少し考えてみましょう。 神さまのみことばは、イエス・キリストが真の神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられるとあかししています。そして、永遠の神であられる方が人の性質を取って来てくださったとあかししています。また、そのイエス・キリストが十字架において、私たちの罪を贖うために、いのちをお捨てになり、死の苦しみを味わってくださったとあかししています。ですから、イエス・キリストは、私たちの罪の贖いのために無限の代価を支払ってくださったのです。それは、すべての者のすべての罪を贖ってあまりあるものです。 それで、私たちが福音のみことばにあかしされているイエス・キリストを信じたとき、私たちは神さまの御前に義と認められています。ローマ人への手紙3章20節〜22節には、 なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。かし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 と記されています。 問題としたいのは、ここで言われている義がどのような義であるかということです。 結論を先に言いますと、この義は、私たちから出た義ではなく、イエス・キリストが、私たちのために、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって立ててくださった義です。 私は「信仰義認」すなわち「私たちは信仰によって義と認められる」ということを聞いたばかりの頃には、それは、「私たちはどのような行ないによっても義とは認められないけれども、私たちがイエス・キリストを信じたことが義と認められる」ということだと考えてしまいました。しかし、これはとんでもない間違いです。これでは、私がイエス・キリストを信じたという私の「行ない」が、私の義を生み出したということで、結局、人は自分の行ないによって義と認められるということになってしまいます。 ちなみに、このような考え方で考えられている「信仰」のことを「わざとしての信仰」と呼びます。行ないとしての信仰ということです。しかし、エペソ人への手紙2章8節、9節には、 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 と記されています。 それでは、「信仰義認」すなわち「人は信仰によって義と認められる」というときの「信仰」とは何でしょうか。 この場合の「信仰」は「受け取る手」にたとえられます。具体的には、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて立ててくださった義、すなわちイエス・キリストの義を「受け取る手」に当たります。イエス・キリストが私たちのために立ててくださった義のことが、先ほどのローマ人への手紙3章22節では「神の義」と呼ばれています。神さまが、御子イエス・キリストによって、私たちのために立ててくださった義です。そして、「それはすべての信じる人に与えられ」ると言われています。 イエス・キリストが私たちのために立ててくださった義が私の義となるためには、私がそれを受け取らなくてはなりません。私が福音のみことばのあかしと約束を信じて、そのイエス・キリストの義を受け取るのです。そのようにして私が信仰によって受け取ったイエス・キリストの義を、父なる神さまが私の義として認めてくださいます。そして、そのことに基づいて、私を義であると認めてくださるのです。微妙なことですが、神さまは、私がイエス・キリストを信じたという、私の行ないを義と認めてくださったのではなく、私が信仰によって受け取った、「イエス・キリストが私たちのために立ててくださった義」のゆえに、私を義と認めてくださったのです。 父が息子に「お小遣いをあげるよ」と言ってお金を差し出したとします。息子がその父のことばを信じてお金を受け取ると、そのお金は息子のものになります。信仰は、そのようにして息子がお金を受け取った手のようなものです。このたとえで言いますと、息子が先に手を出して、その手を出したことが立派なことであるということで、そのごほうびにお小遣いをあげるということではありません。先に父がお小遣いをあげると言ってくれたので、息子は手を差し出してそれを受け取ったのです。父なる神さまは、イエス・キリストが私たちのために立ててくださった義を、私たちに与えてくださると、福音のみことばによって約束してくださいました。私たちがそのみことばの約束を信じて、それを受け取ると、イエス・キリストが立ててくださった義が私たちの義と見なされ、私たちは義と認められます。 これにはもう1つのことがかかわっています。それは、このすべてが神さまの一方的な恵みによっているということです。そもそも、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった私たちのために、神さまがご自身の御子を贖い主として立ててくださったのは、神さまの一方的な愛に基づく恵みによっています。また、イエス・キリストが人の性質をお取りになって来てくださったことも、そして、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださったことも、イエス・キリストの私たちに対する一方的な愛に基づく恵みによっています。そして、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いに私たちをあずからせてくださったことも、神さまの一方的な愛に基づく恵みによっています。同じように、イエス・キリストが私たちのために立ててくださった義を、私たちに与えてくださることも、神さまの愛に基づく恵みによっています。 恵みによるということは、「価なしに」与えてくださるということを意味しています。ローマ人への手紙3章23節、24節には、 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 と記されています。必要なことはすべて神さまが、御子イエス・キリストをとおしてなしてくださったうえで、私たちにイエス・キリストが立ててくださった義を与えてくださいます。私たちはそれを信仰によって受け取るだけです。先ほど、信仰をイエス・キリストが立ててくださった義を「受け取る手」にたとえましたが、その「受け取る手」は、しばしば「空っぽの手」であると言われます。それは、買い物をするときのように、こちらの手にも相手に差し出す代金があるのではないということです。 ですから、神さまは、私たちがイエス・キリストを信じたことに対する報いとして、私たちを義と認めてくださったのではありません。 このことを誤解して、行ないとしての信仰によって義と認められるという理解をしてしまいますと、福音が歪められてしまいます。 たとえ、それがイエス・キリストを信じることであっても、私たちの行ないとしては、私たち自身のうちにある罪の汚れが染みついています。それには、 私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 というイザヤの告白がそのまま当てはまります。 私たちは行ないとしての信仰を頼みとするように誘惑されます。自分がちゃんと信じているから義と認められているというような考え方をしてしまいますと、それが突破口となって、自分がなした奉仕の実績や真心を込めて行なったとか熱心に取り組んだということなどを頼みとするような思いが忍び込んできます。 もちろん、神さまは私たちの礼拝、讃美、祈り、奉仕を受け入れてくださいます。それ以上に、私たち自身を受け入れてくださっています。しかし、それは、私たちがいい人であって、すべてのことを心を込めてするから、神さまが受け入れてくださるのではありません。私たちがそれを「イエス・キリストの御名によって」なすので、神さまが受け入れてくださるのです。この「イエス・キリストの御名によって」ということによって、私たちは、私たち自身も私たちの行ないもすべてイエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いに包んでいただいて、神さまの御前にささげているということを告白しているのです。このようにイエス・キリストの贖いに包んでいただいていることの中で、心から神さまを礼拝し、讃美し、祈ることや、奉仕をすることが意味をもっています。 |
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