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説教日:2009年6月7日 |
これまでお話ししてきたことは、このどちらの理解の仕方にも耳を傾けるべき点があるということでした。また、この2つの理解は矛盾するものではないということでした。 ヤコブの手紙1章13節で、 神は・・・ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 と言われているのは、神さまご自身が誰かを誘惑することはないという意味です。けれども、神さまは、ご自身の計り知れないみこころによって、人が誘惑に会うことを許可されることがあります。 何度も取り上げていますが、最初の人であるアダムとその妻エバが、「蛇」の背後にあって働いていたサタンによる誘惑に会ったことは、神さまの許可なしに起こったことではありません。その場合に、サタンはアダムとエバが契約の神である主に背いて罪を犯すようにと誘惑しました。けれども、神である主のみこころは、より深く確かな自覚をもって、主を主として愛し、主のみこころに従う者であることを実証するようになることにありました。 もしアダムとエバがその試練の中で、主を愛して主のみこころに従いとおしていたならどうなっていたでしょうか。2つのことが考えられます。 1つは、神のかたちに造られて、自らのうちに罪がなかったときのアダムとエバにとって、神である主のみこころに従うことは、ごくごく自然で当たり前のことでした。それは、当たり前のことであるために、改めて意識しなくても、繰り返される可能性がありました。けれども、アダムとエバがその誘惑という試練の中で、主のみこころに従うときには、誘惑者の言うことではなく、主の言われたことを信じてそれに従うことをはっきりと自覚して選び取ることになります。ものごとは対比の中でより鮮明になります。あることを知るときにも、対比の中で知るときに、より鮮明に知ることができます。このことをとおして、主は主であられ、自分は主のしもべであるということを、より明確に自覚することができるようになったはずです。それは、アダムとエバにとっては、主との関係においてより成長するということを意味しています。それによって、2人はより深く確かな自覚をもって、主を主として愛し、そのみこころに従う者となっていくということです。 もう1つのことですが、契約の神である主は天地創造の御業とともにアダムをかしらとする人類に契約を与えてくださっていました。それは、神である主の戒めに従いとおすことによって、その報いとして、栄光あるいのち、すなわち、永遠のいのちを受けるようになるという約束を伴う契約でした。アダムとエバは、より深い確かな自覚をもって、主を主として愛し、そのみこころに従う者となることによって、やがて、主が契約のうちに約束してくださっていた栄光あるいのちにあずかるようになったはずです。 このように、アダムとエバがサタンの働きによる誘惑に会うことを許可された神である主のみこころは、その誘惑の経験をとおして、2人が主との関係において成長すること、そして、最終的には、その完全な服従に対する報いとして、永遠のいのち、栄光あるいのちをもつ者となることでした。その意味で、2人がサタンの誘惑に会うことは、試練としての意味をもっていました。契約の神である主は、2人への試練として、サタンの誘惑を受けることを許可されたということです。 この事例では、誘惑と試みの区別をつけがたいことになります。というか、どのような視点から見るかによって、誘惑と言うこともできますし、試練と言うこともできるわけです。これは、神である主の意図からすると試練であり、サタンの意図からすると誘惑であるのですが、それだけのことではありません。アダムとエバの受け取り方によって、同じことが主から与えられた試練として生かされるか、サタンの誘惑に屈してしまうかが分かれるものであったのです。 これは、最初に、神のかたちに造られて罪がなかった状態のアダムとエバに起こったことです。人類は最初の人アダムにあって、アダムとの一体性において、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それ以後は、ヤコブの手紙1章14節に記されている、 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 ということが当てはまる状態になっています。罪によって神さまの御前に堕落してしまっている人間においては、その欲望が罪によって自己中心的に歪められてしまっています。それで、取り立ててサタンが誘惑しなくても、人は自己中心的に歪められてしまっている自らの欲望に引かれて、誘惑されてしまいます。先週も触れましたが、また、あまり現実的なことではありませんが、目の前に大金が落ちているという、分かりやすい事例を考えてみましょう。そのようなときに、その人が、ふと、これが自分のものになったらと考えてしまったとしましょう。その場合、そこに落ちている大金が、その人を誘惑しようとして働きかけているわけではありません。その人が自分のうちにある自己中心的に歪められた欲望に引かれて、そのようなことを考えてしまうわけです。世間的には、それは罪であるとは言われませんが、私たちをご自身のかたちにお造りになり、和の心を見通しておられる神さまの御前には罪です。 その意味では、これは誘惑でありますが、同時に、試練としての意味をもっています。このことをとおして、自らのうちに罪によって自己中心的に歪められた欲望があるということに、現実のこととして気がつくことができます。そして、それが自分の現実であるので、神である主の恵みによって、誘惑から守られ、御霊によって、主のみこころに従うように導いていただく必要があるということを自覚する機会ともなります。それによって、ますます自らの力にではなく、主の恵みに信頼するように導かれることになります。 このことにおいても、同じことが、私たちの受け止め方によって、私たちに対して誘惑として作用して、私たちを罪に引き込んでしまうか、試練として作用して、私たちを主の恵みに信頼することへと導いてくれるかの違いが生まれてきます。 このことは、私たちがこの世でさまざまな苦しみや痛みや悲しみを経験するときには、よりいっそう、その違いが深刻なものとなります。もしかすると、その苦しみは本当に耐えがたいほど大きなものであるかもしれません。また、それが地上の生涯を通して続くものであるかもしれません。そのような場合には、私たちはさまざまな誘惑にさらされます。 私たちがこの世で経験する誘惑の典型的なものとして、2つのことを取り上げます。 1つは、苦しみの中にあって、神さまが自分をお見捨てになったから、このような苦しみがやってきたのではないかと考えるようになることです。これに対しては、自分のことをそれほどよいものであるとはを信じられないから、このように感じてしまうのであって、その人は、自分のことを謙遜に考えているのだと言われるかもしれません。けれども、このような考え方というか、感じ方は、根本的なところで誤ってしまっています。いまお話ししていることに合わせて言いますと、誘惑に屈してしまっています。どのようなことかは、後でお話しします。 形としては、これとまったく反対のものもあります。それは、ものごとがうまくいっているときに、これは自分の中によいところがあって神さまが受け入れてくださっているので、このようにうまくいっているのだと考える、あるいは、感じるということです。あるいは、自分がこのようにうまくやっているから、神さまは自分を受け入れてくださっていると考える、あるいは、感じてしまうことです。これも、根本的なところで誤ってしまっており、誘惑に屈してしまっています。 この2つのことは、形としては正反対に見えますが、本質的な問題は同じです。 どういうことかと言いますと、私たちは初めから、私たち自身の中に何かよいところがあって、神さまに受け入れていただいているのではありません。また、途中から、何かよいところがあるからということで、神さまに受け入れていただくように変わったのでもありません。たとえば、救われて神さまの子どもとしていただいたのは、私たちのよさを認めていただいたからではなく、ただ、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく、恵みによっている。けれども、救われた後の歩みにおいては、私たちのよさによって神さまが受け入れてくださったり、受け入れてくださらなかったりするというような考え方、あるいは、感じ方です。このようなことは、みことばが教えていることではありません。私たちが神さまに受け入れていただいているのは、初めから終わりまで、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みによっています。決して、私たち自身のうちにあるよさや業績によってはいません。 ヨハネの福音書6章37節〜40節には、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストの教えが記されています。 ここで、イエス・キリストが、 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。 と述べておられるときの「わたしのところに来ます」ということは、イエス・キリストを約束のメシヤとして信じ、主として従うようになることを意味しています。このみことばは、私たちがイエス・キリストを信じて、救われ、イエス・キリストの民となったのも、父なる神さまが、その一方的な愛と恵みによって、私たちをイエス・キリストに与えてくださったからであるということを示しています。さらに、イエス・キリストは、そのようにしてご自身の民となった私たちを「決して捨てません」と約束してくださっています。そして、そのことは、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というみことばにおいて、終わりの日における救いの完成に至るまで変わることがないものであることが示されています。ここでは、単数形の「すべての者」が繰り返されていて「ひとりひとりすべてを」という意味合いが繰り返し示されています。ですから、私たちはこのようなイエス・キリストのみことばの約束によって、最後まで主の民として保たれていきます。言うまでもなく、それはイエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいています。 ですから、私たちはさまざまな試練に会っても、それを、主が私たちをお見捨てになったからやってきたものであると考えてはならないのです。そのように考えることは、このような、イエス・キリストの約束を空しいものであるとすることになってしまいます。 また、逆に、ものごとがうまくいっているときに、自分がこのようにうまくやっているから、主は自分を受け入れてくださっていると考えてはなりません。私たちがどんなにうまくやっていると思えても、また人がそれを称賛してくれるとしても、それは限りある人の目にそのように見えるだけのことです。私たちは自らのうちに罪を宿しているものです。そのために、私たちの思いとことばと行ないのすべてに、この罪のしみがついています。そのために、どのようなときにも、私たちは自分のよさによって主に受け入れていただくことはできません。 何度も引用したものですが、マタイの福音書7章21節〜23節には、 わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」 と記されています。 ここで、イエス・キリストによって「不法をなす者ども」と呼ばれている人々は、自分たちが主の御名によってなして目覚ましい結果を生み出した奉仕を認めていただいて、「天の御国」に入れていただこうとしています。この終わりの日に至るまで、自分たちのなしたこと、すなわち自分自身のよさを念頭に置いて、それを頼みとして、自分たちは主のものであると考え続けていたのです。 私たちが主のものであることの根拠は私たちのうちにはありません。ただ、永遠の神の御子であられるイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪を、過去に犯した罪も、これから犯すであろう罪も、完全に贖ってくださっていること、そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことにあります。 私たちは、さまざまな苦しみや痛みや悲しみの中で、試練に会います。そればかりでなく、主の御名によって大きな働きをして成果を上げたときにも、試練に会います。その試練の中で、ひたすら主を仰いで、主の恵みに信頼して主に近づくことが、試練をお与えになった主のみこころです。けれども、私たちはさまざまな苦しみや痛みや悲しみの中で、主に対する不信を募らせてしまうように誘惑されることもあります。また、主の御名によって働いて大きな成果を上げたときに、それが根拠となって、自分が主によって受け入れられていると感じるように誘惑されることもあります。どちらの場合も、それによって、福音の恵みから外れてしまいます。 このようなことを踏まえたうえで、さらに、いくつかのことをお話ししたいと思いますが、今日は、1つのことだけを取り上げます。 ある方は主を信じて歩んできたのですが、寝たきりの状態になってしまいました。実際に、このような方はたくさんいらっしゃいます。家内も先週そのような方にお会いしてきました。また、これに類する苦しみを味わい続けておられる方もたくさんいらっしゃいます。しかしここでは、ある1人の方のこととしてお話しします。その方は、寝たきりになってしまって、何の奉仕もできなくなってしまったばかりか、家族の世話になるばかりの自分がなおも生きていていいのだろうかという疑問を持ち続けておりました。やがて、その方は、そのような疑問の根本に、自分のよさや自分がなしたことを根拠として、主によって受け入れられているという感じ方があったことを理解するようになりました。そのために、何の奉仕もできなくなった自分が生きていても意味がないと感じてしまうということに気がついたのです。それによって、自分が主のものであるのはただ主の恵みによっているということを、改めて捉え直すことになりました。それ以来、ご自分がこのような寝たきりの状態で、なおも、主のものとして存在していること自体に意味があるということを信じるようになりました。 大変厳しい状況の中で、このような理解をして歩んでおられる方が何人もおられます。そして、私はその方々が主から特別な使命を委ねられていることを確信しています。その使命とは、もし主の贖いの恵みにあずかって主の民とされていなかったら絶望していたはずなのに、主の一方的な恵みによって、望みのうちに生きておられる方(方々)が「実際にいる」というあかしを立てることです。救いは自分がなした行ないによらないで、ただ主の一方的な恵みによっているということを、その存在と在り方をとおしてあかしするということです。 形としては、目に見える実績は上がりません。それがどれだけ人の目にとまるかも分かりません。もしかすると、今日の福音派の教会では、このようなあり方によって、神の国のあかしが立てられているということが理解されていないかもしれません。このようなことは、主の御前において実を結んでいる奉仕であるとは考えられていないかもしれません。もしそれが現実であるとしたら、教会が成果主義の発想に陥っているということに他なりません。 また、個人的なことになってしまいますが、私は理論的にはかなり前から、神の国の中心にこのような方々の存在があるということに気がついておりました。それで、玉川上水キリスト教会において牧師としての働きを始めて間もなく、教会には2つの中心がある。1つはさまざまな賜物をもって奉仕しておられる方々であり、もう1つは、さまざまな苦しみや痛みや悲しみを経験しておられて、なおも主の民であることを信じておられる方々であるということをお話ししておりました。この2つの中心の重要性や意味の大きさは、少なくとも同等で、おそらく、さまざまな苦しみや痛みや悲しみを経験しておられて、なおも主の民であることを信じておられる方々の存在の方が重いのではないかというようなことをも、お話ししておりました。そのように考える理由の1つは、私たちの主イエス・キリストが、幼子たちを弟子たちの真ん中に立たせて、 神の国は、このような者たちのものです。 と言われたことです。自らの力で何事かを達成することはできず、ただ一方的な恵みによって支えられている存在こそが、神の国の中心にあるということです。 もちろん、この2つの中心のどちらにも属しておられる方々もいるのです。というより、実際には、すべての人のうちにこの2つの中心があるけれども、人によって、そのどちらかの方がより前面に出ているということでしょう。 私は玉川上水キリスト教会の設立の当初から、そのようなことをお話ししておりましたが、実際に、このことを実感するようになり、現実のことととして確信するようになったのは、教会において、さまざまな試練に直面しておられる方々との出会いと交わりにあずかるようになってからのことです。それも、初めからすんなりと受け止められたわけではありません。いろいろなことをとおして、そのことを本当に信じているのかどうかを試されました。もちろん、それは過去のことではありません。今も、試され続けています。何度も兄弟姉妹たちを傷つけ、心の痛む経験もしました。そのようなことをとおして、少しずつ現実的なこととして受け止める眼を開かれていきました。そして、それによって、聖書のみことばへの理解の幅も広げられてきました。 いずれにしましても、イエス・キリストをかしらとしていただき、キリストのからだである教会には、このような価値観がなくてはならないと信じています。今日の教会はこの時代を特徴づけている成果主義的な理解の仕方をするように誘惑されていますので、このことを深く心に留めたいと思います。 |
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