(第194回)


説教日:2009年5月31日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 先主日には、春の特別集会をしましたので、主の祈りについてのお話はお休みしました。今日は主の祈りについてのお話に戻って、その第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 いつものように、これまでお話ししたことを振り返りながら、お話を進めていきます。いまお話ししているのは、この祈りの前半の、新改訳で、

 私たちを試みに会わせないで、

と訳されている部分についてです。
 新改訳で「試み」と訳されていることば(ペイラスモス)には、「試み」あるいは「試練」という意味と、「誘惑」という意味があります。それで、このことばがどちらを意味しているかは、それぞれの文脈、つまり、前後関係の流れの中で判断しなければなりません。しかし、その判断が難しい場合が多いのです。このことは、主の祈りの第6の祈りのこの部分を、

 私たちを試みに会わせないで、

という意味に訳すべきか、

 私たちを誘惑に会わせないで、

という意味に訳すべきかの判断にも当てはまります。これは難しい判断になります。そして実際に、これをどちらの意味に理解するかということで意見が分かれています。


 ヤコブの手紙1章13節には、

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

と記されています。1つの立場からは、このヤコブの教えに基づいて、「だれを誘惑なさることも」ない神さまに向かって、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈ることはおかしいと主張されます。
 けれども、ヤコブの手紙1章13節では、新改訳の訳に表されていますように、神さまが「ご自分で」誰をも誘惑されることはないということを述べています。世間一般においては、このような意味で用いられているわけではありませんが、聖書においては、誘惑ということは、その人が罪を犯して神さまに背くようになるように誘うことです。具体的にあることをするようにと誘惑する場合にも、最終的には、それによってその人が神さまに背くようになることへと誘うわけです。けれども、神さまは、罪を犯すようにと人を誘うことは、決してありません。
 ヤコブの手紙では続く14節に、

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

と記されています。ここに示されているように、誘惑されることの根本原因は、その人自身の中にあります。その人のうちにある罪によって自己中心的に歪められたさまざまな欲望によって、引き寄せられてしまうのです。人のうちにある欲望は、神さまが天地創造の御業によって造られた人に与えられたものとしてはよいものです。けれども、それが罪の自己中心性によって歪められてしまいますと、悪い欲望となってしまいます。たとえば、それをもって神さまと人に仕えるようになるために、自分に与えられた賜物を磨くことは、よい意味での向上心です。けれども、そのようにさまざまな能力を身に付けることによって、人を蹴落して、自分を高めようとするのは、自己中心的に歪められた「向上心」です。このように、誘惑されることの根本原因は、その人自身のうちにあります。
 もちろん、人を誘惑する存在がいないわけではありません。最初の人アダムとその妻エバが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことを記している、創世記3章には、「蛇」の背後で働いていたサタンがエバを誘惑したことが記されています。
 また、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書には、荒野においてサタンがイエス・キリストを誘惑した、あるいは試みたことが記されています。そこでは同じことばが用いられていますが、新改訳では、マルコの福音書では、イエス・キリストが誘惑を受けたとされており、マタイの福音書とルカの福音書ではイエス・キリストが試みられたとされています。それを誘惑と理解するか試みと理解するかの違いはさておき、サタンが個人的に働きかけたことは、確かなことです。
 けれども、私たちが誘惑に会ったときに、それが常にサタンの個人的・直接的な働きかけによるものであると考えることはできません。というのは、サタンは被造物ですから、1度に多くの人々のそれぞれに、個人的・直接的に働きかけることはできないからです。個人的・直接的に働きかけるということは、神さまだけに当てはまることです。たとえば、同じ時に、世界中の主の民がこぞって神さまに祈ったとします。実際には、それぞれの事情がありますし、時差の違いがありますので、そのようなことは起こらないのですが、かりにそのようなことがあったとしても、そして、それぞれの人がそれぞれの個人的なことを祈ったとしても、神さまはそのひとりひとりの祈りを、人間が一対一で聞いているのと同じように、聞いていてくださるということです。
 神さまは存在において無限、永遠、不変の方です。ですから、神さまは同時に、すべての人に、個人的・直接的に働きかけることがおできになります。もちろん、厳密に言いますと、それは父なる神さまが直接的に働きかけてくださるということではありません。無限の栄光の父なる神さまが直接的に私たちに触れられるなら、私たちは瞬時に焼き尽くされてしまいます。父なる神さまは、御子イエス・キリストにあって、また、御子イエス・キリストをとおして、私たちに個人的・直接的に働きかけてくださいます。けれども、被造物に過ぎないサタンにはそのようなことはできません。
 確かに、ペテロの手紙第1・5章8節、9節には、

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

と記されています。このような教えを見ますと、何となく、サタンもどこにでもいて、誰にでも働きかけているのではないかというような気がします。この教えは、すべての人に向けて語られた教えです。けれども、

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

と言われています。この「歩き回っています」ということばは、サタンがどこにでもいるわけではないことを示しています。ヨブ記1章6節、7節にも、

ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

と記されています。ここでもサタンは「地を行き巡り、そこを歩き回って」いることが示されています。とはいえ、ここでは、サタンが世界全体を視野に入れて働いていることが示されています。
 ですから、サタンを侮ってはなりません。しかし、サタンを神さまと同じような存在であると考えてはなりません。
 これらのことを踏まえたうえで、サタンが、

 善悪の知識の木からは取って食べてはならない。

という神である主の戒め(創世記2章17節)をめぐって、最初の人アダムとその妻エバを誘惑したときのことを見てみましょう。このことについては、すでに、主の祈りの第5の祈りについてお話ししたときにお話ししていますが、ここで、改めて、いまお話ししていることと関連することを取り上げたいと思います。
 もちろん、サタンが最初に誘惑したのはエバです。そして、エバがサタンの言うことを信じて、罪を犯した後には、サタンは後ろに退いて、エバがサタンの意図に沿ってアダムに働きかけています。
 最初に造られた状態のアダムとエバには罪がありませんでした。ですから、2人は、先ほど引用しましたヤコブの教えにある、「自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される」ということはありませんでした。また、2人を取り巻く環境も理想的なものでした。2人は神さまのご臨在のあるエデンの園に住まうものとされており、そこは神である主のご臨在の御許から溢れ出る祝福に満ちている所でした。ですから、アダムとエバは人間の罪の結果は入り込んできた、貧困や病気、また憎しみなどの人間関係の破れによって悩まされることはありませんでした。
 そのような状態にあったエバが誘惑され、屈してしまったのは、エバが、「蛇」の背後にあって働いていたサタンが語った、神である主についての誤った教えに耳を傾け、それを受け入れてしまったことから始まっています。
 創世記3章4節、5節には、

あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

という「蛇」(の背後にあるサタン)のことばが記されています。サタンは、人が「善悪の知識の木」から取って食べると「神のようになる」のだけれども、神さまはそのことを知っていて、人が神のようになってほしくないから、その木から取って食べてはいけないと命じられたのだと言っています。神さまは人をライバルのように見ておられて、人が自分より下にいてほしいから、その木から取って食べてはいけないと命じられたのだというのです。つまり、「善悪の知識の木」から取って食べてはいけないという戒めは、神さまの人に対するライバル心から出た悪意によっているというのです。
 エバはこのようなサタンの教えを信じて受け入れてしまいました。
 ここには、さらに巧妙なことがあります。それは、このサタンのことばを聞いていると、いつの間にか、サタンが自分たちの「味方」であり、神さまは自分たちに「意地悪をしているもの」であるというような錯覚の中に入り込んでしまうということです。もちろん、その時に、エバが、サタンの言っていることがどのような意味合いをもっているかをすべて理解していたわけではありません。それを見通すことができていれば、誘惑に陥ることはなかったことでしょう。
 エバがこのようなサタンの教えを信じてしまった理由については、すでに、主の祈りの第5の祈りについてお話ししたときにお話ししました。
 そのいちばん奥にあった問題は、エバが神さまの聖さを真の意味でわきまえることがなくなっていたこと、すなわち、神さまと自分たちの間にある「絶対的な区別」を見失っていたことです。もし、エバが神さまと自分たちの間にある「絶対的な区別」を真にわきまえていたなら、いかに「善悪の知識の木」という名がついていたとはいえ、1本の木から取って食べれば「神のようになる」というようなことは、まったく受け入れ難いことであったはずです。
 それでは、どうしてエバは神さまと自分たちの間にある「絶対的な区別」を見失ってしまっていたのでしょうか。それについて考えられることはただ1つです。それは、エバが契約の神である主のご臨在されるエデンの園に住まうものとされていたということです。エバは主との親しい交わりのうちに生きているうちに、いつの間にか、主も自分たちとあまり違わない存在であると感じるようになっていたと考えられます。逆に言いますと、自分たちも主と同じような存在であると感じていたということです。
 もう1つの、重大な問題として、エバが「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めを根本から誤解していたという問題があります。このこともすでにお話ししたことの繰り返しになりますが、再確認しておきましょう。
 創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、神さまは人を神のかたちにお造りになって、これを祝福し、歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。
 神のかたちの本質は自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。そして、その人格の本質的な特性は愛です。ですから、神のかたちに造られた人の自由な意志は愛によって導かれて働いていたのです。神のかたちに造られた人は、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行することの中で自らの愛を具体的に現していきました。つまり、豊かな実りをもたらすように地を耕し、それによって得られた収穫をもって、生き物たちのお世話をして、そのいのちを育むことの中で、自らの愛を具体的に現していったのです。
 神のかたちに造られた人は、このような使命の遂行を、自らの自由な意志によってなしていました。そこに、神のかたちに造られた人の自由と自律性があります。いわば、人はすべてのことを自分の思うとおりに行うことができたのです。しかも、この歴史と文化を造る使命は、神さまの祝福とともに与えられたものです。それを遂行することによって、豊かに実が結ばれ、結果が生み出されていきました。これは、まことに幸いな状態でした。
 しかし、そこにはある種の危険も潜んでいました。それは、自分たちが「主」であるかのように錯覚してしまうという危険です。それによって、神さまと自分たちの間にある「絶対的な区別」を見失ってしまうという危険です。このことと、先ほどお話ししました、エデンの園にご臨在してくださっている神である主との親しい交わりのうちに生きていたということが相まって、神さまと自分たちの間にある「絶対的な区別」を見失ってしまうという危険はさらに大きくなったと考えられます。
 このような「危険」に対処するために、神である主は、

 善悪の知識の木からは取って食べてはならない。

という戒めを与えてくださったと考えられます。
 「善悪の知識の木」そのものは、他の木と変わらない木であったと考えられます。ただ、それが園の中央に生えていたということで、他の木と区別されていたということです。エデンの園には食べるのによい木がいくらでもありましたから、「善悪の知識の木」から取って食べないということによって、アダムもエバも困ることはありません。また、それによって、誰かが益を受けるということもありません。この戒めは、ただ、神である主が、

 善悪の知識の木からは取って食べてはならない。

と戒められたからという理由だけによって、守られるべき戒めであるのです。神である主は主であられ、自分は主のしもべであり、主を愛し、主に従うものであるということだけが、この戒めを守って、この木からは取って食べない理由であるのです。その他には、この木から取って食べない理由はありません。つまり、この戒めは、神である主は主であられ、自分は主のしもべであるということを思い起こさせてくれる「恵みの手段」であったのです。
 また、その意味で、この戒めは、その他の主の戒め全体の焦点に当たる戒めでした。主の戒めには、それぞれ意味があったでしょうが、そのいちばん奥には、主が主であられ、自分は主のしもべであるので、主を愛してその戒めに従うという根本的な動機があります。
 ところが、エバはこの戒めの意味をまったく誤解しておりました。創世記3章2節、3節には、「蛇」の問いかけに対する、

私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と仰せになりました。

というエバの答え記されています。

 あなたがたが死ぬといけないからだ。

ということばは、ちょうど母親が子どもに「落ちて死ぬといけないから、池に近づいてはいけませんよ。」と言うのと同じです。エバは、「善悪の知識の木」が危険な木であるので、神である主は、その木から取って食べてはならないと警告してくださったと理解していたのです。また、

 それに触れてもいけない。

ということばは、「そんな危ない木には触れないでおこう」という自分で決めた「指針」「心得」を言い表したものであると考えられます。
 このような答えを聞いたサタンは、エバが「善悪の知識の木」そのものに何らかの力がある、この場合には、人を殺す力があると考えていることを察知しました。それで、先ほど引用しました、

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

ということを告げたのです。
 実は、「善悪を知る」ということは「神のようになる」ということを意味しています。それで、エバが考えているように「善悪の知識の木」そのものに何らかの力があるとしたら、それは、その木から取って食べる人を神のようにする力であるはずだというのがサタンの論理です。しかし、実際には、人は、神である主は主であられ、自分は主のしもべであり、主を愛し、主に従うものであるということをわきまえて、「善悪の知識の木」から取って食べないことによって、「神のようになる」べきものでした。主を主として愛し、主の戒めに従うことによって、その完全な従順への報いとして栄光を受けることによって、神さまに似た者としての神の子どもとなる、すなわち「神のようになる」べきものでした。
 このことは、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して私たちの現実となっています。イエス・キリストは十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださっただけでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして栄光をお受けになって、死者の中からよみがえってくださいました。そして、私たちをそのよみがえりのいのちにあずからせてくださって、新しく生まれさせ、神の子どもとしての身分を与えてくださいました。
 いずれにしましても、エバは神である主が備えてくださった「恵みの手段」である戒めを誤解してしまい、その理解の不備をつかれて、誘惑に陥ってしまいました。
 このことは、私たちが誘惑に陥ることの根底には、神さまの聖さに対するわきまえが欠けていることがある、ということを示しています。先ほど引用しましたヤコブの手紙1章14節には、

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

と記されていました。このみことばが示していますように、私たちが誘惑に陥るのは、私たちが自分自身のうちにある罪によって自己中心的に歪められたさまざまな欲望によって、引き寄せられてしまうからです。しかし、そのさらに奥には、神さまの聖さに対するわきまえが欠けているという現実があります。
 どういうことかと言いますと、罪の本質は、造り主である神さまを神としないことにあります。その裏側にあるのが、自己中心性です。それは、神をも利用して自らを高めようとするものです。そのような罪の自己中心性が私たちのうちにあるときには、神さまと私たちの間にある「絶対的な区別」も見失われてしまっています。
 もちろん、ことばの上では、神さまと人間の間には「絶対的な区別」があると言うのですが、私たちの生き方がそれを裏切ってしまうのです。神さまを第一にしていては自分の夢がかなえられないというような思いに支配されてしまうこともあります。問題がなかなか解決しないと、神さまもこのことはどうしようもないのではないかと感じたりしてしまいます。自分の思う通りに事が運ばないと、神さまに限界があるかのように感じてしまうのです。それは、必ずしも、サタンがささやいているわけではありません。自らの罪の自己中心性が生み出している思い違いです。
 このこととの関連で、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈るときの「会わせる」ということば(エイスフェロー)に注目したいと思います。いまは、誘惑のことをお話ししていますので、

 私たちを誘惑に会わせないで、

ということで考えていきます。
 この「会わせる」ということば(エイスフェロー)は基本的に「運び入れる」ことを表わすことばです。これと結びついている「誘惑に」と訳されていることばは、文字通りには、「誘惑の中に」という意味合いを伝えています。ですから、これは、

 私たちを誘惑の中に導き入れないでください。

というような祈りです。
 これをどのように理解するかについても見方は分かれます。
 1つの見方は、「誘惑」を領域的なイメージで捕えます。そして、私たちが、人を誘惑するものがあるところ、また、誘惑者が働いているところに入り込むことがないようにしてくださいと祈るというのです。
 別の見方では、私たちが「誘惑」に「陥ってしまう」ことがないように、つまり、「誘惑」に屈して、神さまに対して罪を犯してしまうことがないようにしてくださいと祈るのだと理解します。
 これらの理解は矛盾するものではありません。このどちらも、その時々の状況において必要な祈りとなるでしょう。
 それだけではありません。今日だけではなく、これまでお話ししてきたこととのかかわりで考えますと、このように祈ることにはより積極的な面があるということになります。
 これまで、同じ苦しみや痛みや悲しみをもたらす問題であっても、神さまのみこころからは「試み」あるいは「試練」であるけれども、私たちはそのような問題の中で、不安に駆られて、神さまのことを疑ってしまうようなことがあるということをお話ししました。その意味で、その苦しみや痛みや悲しみをもたらす問題が私たちには「誘惑」として働いてしまうことがあるということです。このこととの関連で考えますと、

 私たちを誘惑の中に導き入れないでください。

と祈ることは、私たちがそのような苦しみや痛みや悲しみをもたらす問題を「試み」あるいは「試練」として受け止めて、ますます神さまに信頼し、神さまに近づくことができるように導いてくださいと祈ることになります。
 このように祈ることは、先ほど引用しましたヤコブの手紙1章14節に記されている、

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

というみことばが示している私たちの現実を踏まえてのことです。私たちが誘惑に会うことの根本的な原因は私たち自身のうちにあります。私たちが私たち自身の「欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」。大金が落ちていたのを見て、それを自分のものにしたいと思ったとします。それは、そのお金が私を誘惑したのではありません。お金はただそこにあるだけで、それ自体は何もできません。私たち自身のうちにある欲望が働いて、それを自分のものとしたいと思ったのです。
 また、私たち自身のうちに、なおも、神さまを全面的に信じきれていないために、思い煩いや不安に駆られてしまうことがあります。
 私たちは、自分自身うちに、このような罪と弱さがあることを痛感しているからこそ、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈るのです。また、主はそのような私たちの弱さをご存知でいてくださるので、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈るようにと、私たちを教えてくださったのです。

 


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