(第193回)


説教日:2009年5月17日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてお話を続けます。先週は講壇交換をいたしましたので、主の祈りについてのお話は1週あきました。それで、まず、これまでお話ししたことで、今日お話しすることと関係していることを復習しながらお話を進めます。
 いまお話ししているのは、この祈りの前半の、新改訳で、

 私たちを試みに会わせないでください。

と訳されている部分についてです。これをどのように理解するかということについては意見が分かれています。それは、新改訳で「試み」と訳されていることば(ペイラスモス)に「試み」あるいは「試練」という意味と、「誘惑」という意味があることによっています。主の祈りの第6の祈りで、このことばがどちらを意味しているのかをめぐって意見が分かれているわけです。
 それぞれの言い分をまとめますと、これを、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

という意味であると理解する人々は、聖書の中では、神さまがお与えになる「試み」あるいは「試練」には積極的な意味があるということに注目します。そのことを示すみことばの1つであるヤコブの手紙1章2節〜4節には、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と記されています。
 このみことばに示されていますように、神さまが私たちを「試み」あるいは「試練」に会わせられるのは、私たちを「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」となるように育ててくださるためです。そうであれば、主の祈りの第6の祈りで、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈ることは、神さまが私たちのために与えてくださる「試み」あるいは「試練」を退けることになってしまうと考えます。それで、主の祈りの第6の祈りは、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈るものであると考えます。
 これに対して、主の祈りの第6の祈りは、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈るものであると考える人々は、ヤコブの手紙1章13節、14節に、

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

と記されている中で、

 神は・・・ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

と言われていることに注目します。そして、もし、主の祈りの第6の祈りが、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈るものであれば、「だれを誘惑なさることも」ない神さまに向かって、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈ることになると考えます。それで、この祈りは、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈るものであると考えます。



 これまで、このような問題を踏まえて、いくつかのことをお話ししてきました。今日はその1つのことを取り上げて、関連するお話をします。
 私たちがこの世で経験するさまざまな苦しみや痛みや悲しみは、神さまもどうすることもできない物事の流れの中で起こるのではありません。かつて、私たちが天と地を造られた神さまを知らなかったときには、神仏はこの世界の大きな流れに働きかけて、その流れを変えてくれるものというようなイメージをもっておりました。その場合には、この世界の大きな流れは神仏と独立してあるわけです。しかし、神さまはすべてのものをお造りになり、すべてのものをご自身のみこころにしたがって導いておられます。それで、すべてのことは、私たちの思いをはるかに越えた神さまのみこころにしたがって起こります。
 私たちは、私たちがこの世でさまざまな苦しみや痛みや悲しみを経験することを、神さまは許可(許容)されると理解しています。そして、私たちがこの世でさまざまな苦しみや痛みや悲しみを経験することを許可された神さまのみこころは、私たちがこれらの苦しみや痛みや悲しみの中で、ますます神さまに信頼し、神さまに近づくようになることです。言い換えますと、神さまはそれらのことを用いて、私たちの信仰を強くしてくださり、私たちを聖めてくださり、ご自身にさらに近づくものとしてくださるのです。それで、私たちがこれらのこれらの苦しみや痛みや悲しみを経験することは、「試み」あるいは「試練」としての意味をもっています。
 けれども、私たちは、この世にあってさまざまな弱さを負っています。何よりも、私たち自身のうちになおも罪の性質が残っており、私たちは罪を犯してしまいます。先ほどのヤコブの手紙1章14節には、

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

と記されていました。それで、私たちはそれらの苦しみや痛みや悲しみに会うと不安に駆られてしまいます。そして、神さまへの信頼が揺らいでしまい、疑いが忍び込んできてしまうことがあります。この場合には、その「試み」あるいは「試練」が私たちにとって「誘惑」として働いてしまっています。
 このように、同じ苦しみや痛みや悲しみであっても、神さまはそれを「試み」あるいは「試練」として与えられるのですが、私たちはそのことによって、不安に駆られ、神さまへの信頼を見失い、神さまを疑うようにと「誘惑」されてしまうことがあるのです。


 このことは「荒野のイスラエル」において典型的に見ることができます。「荒野のイスラエル」については、すでにこの主の祈りの第6の祈りについてのお話の第187回目と188回目の中で簡単に触れたことがあります。その時は、主がご自身の民に試練をお与えになることには意味があるということとのかかわりでお話ししました。今日は、その試練も誘惑として働いてしまっていたということにまで触れたいと思います。
 主は荒野においてイスラエルの民を試練に会わせられました。そのことは申命記8章2節〜5節に、

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

と記されています。
 これは、荒野において「四十年の間」さまよった後、いよいよ約束の地に入ろうとしているイスラエルの民の第2世代の者たちにモーセが語った戒めです。「四十年の間」ということばには、イスラエルの民の第1世代と第2世代が含まれていますが、第1世代の者たちは主への不信から主を試み続けてさばきを受け、約束の地へは入ることができませんでした。
 主は力強い御手によってイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。そればかりではありません。3節に、

主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

と記されていますように、荒野という普通では人が生きることができない所で、「マナ」をもってイスラエルの民を養ってくださいました。「あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナ」ということばは、「マナ」は人の歴史の中で誰も経験したこともなく、聞いたこともないものであったことを示しています。
 また、出エジプト記12章37節、38節に、

イスラエル人はラメセスから、スコテに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も、彼らとともに上った。

と記されています。このように、その時にエジプトを出てきたのは、「徒歩の壮年の男子は約六十万人」でした。これに女性や子どもや老人たちを加えれば、その数倍の数となります。これに対しては、この理解で「千」を表していることば(エレフ)を12人ほどの「部隊」とする理解の仕方や、「氏族」とする理解の仕方があります。そして、これらを基に計算して、エジプトを出てきたイスラエルの民は全体として数万人であったと理解する試みもなされています。しかし、これは広く受け入れられているわけではありません。かりにこの理解が正しいとしても、数万の人々が荒野で40年間にわたって「マナ」をもって養われたということは大変なことです。さらに、38節には、エジプトを出てきたのはイスラエルの民だけでなく「さらに、多くの入り混じって来た外国人と、羊や牛などの非常に多くの家畜も」いたと記されています。また、荒野で生まれた子どもたちの数を加えることも忘れてはなりません。主はそのすべてを「マナ」をもって養ってくださったのです。
 そればかりではありません。申命記8章4節に、

この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

と記されています。主はただ食べる物だけを備えてくださったのではありません。荒野の旅の全行程において「着物」がなくなることもなく、歩くための力も備えてくださいました。つまり、健康を支えてくださり、肉体的な力も備えてくださったのです。
 これらすべてのことが、契約の主がイスラエルの民とともにおられることをあかししていました。それ以上に、主がシナイ山においてモーセに示してくださった幕屋には、主のご臨在を表示する「」(シェキナの雲)が常にあり、主がイスラエルの民とともにおられることをあかししていました。出エジプト記40章36節〜38節に、

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

と記されているとおりです。


 注目すべきことは、申命記8章2節前半に、

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

と記されていることです。ここでは、荒野におけるこの40年間の旅のことが「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程」と言われています。この荒野の旅は「あなたの神、主が・・・歩ませられた」ものであったというのです。それで、それが荒野を歩くことであっても、40年にわたる旅であっても、主はご自身の契約の民であるイスラエルの民の間にご臨在されて、1日も欠けることなく「マナ」をもって養ってくださり、着る物を備えてくださり、健康も支えてくださったのです。
 これは、今日においても、私たち主の契約の民にそのまま当てはまります。主は人間の常識からすればとても立ち行かないと思われる状況の中に私たちを導かれることがあります。もはや私たちの知恵や力では万策尽きたと思われるような事態の中に導かれることがあります。そこでは、もう主がともにいてくださることを信じて、主を信頼して待つほかはなくなります。まさに、荒野に導き入れられたイスラエルの民と同じです。
 あまり、自分のことを言うのはどうかと思いますが、私は自分のこれまでの歩みを振り返ってみて、このことを覚えないわけにはいきません。
 私がアメリカの神学校で学ぶことができたのは、家内の父が秘かに家内のために貯金してくださっていたもの以外は、何の経済的な保証もない中でのことでした。奨学金も受けたことはありませんでした。自分のような者は受けるのにふさわしくないのではないかと思って、申請しなかったためです。もちろん、家内の苦労はひとしおではなかったのですが、その時その時に思いがけない出会いや助けが与えられました。今も、どうして最後まで支えられたのか考えれば考えるほど不思議なことです。ただ、ひたすら主を信じて待ち望んでいたと言いたいところですが、憶病者の私にはそのような勇気ある信仰もなく、不安がよぎる中で必死で主にすがっていたというだけのことです。
 また、日本に帰ってきて、玉川上水キリスト教会の皆さんとめぐりあったこともそうです。ここに教会があったわけではありません。開拓伝道に携わったと言えば聞こえはいいのですが、実際には、とてもそのようには言えません。普通は、開拓伝道に重荷をもっておられる方が開拓伝道にかかわるのですが、私の場合は、そのような重荷があったわけではありません。当然のことながら、私はその方面のことへの準備はなく、右も左も分かりませんでしたので、何もできませんでした。おまけに、教会がスタートしたときから、「強制されるような思いがしたときには、何もしなくていいのです」というようなことまで言っていました。その考え方は今も変わっていません。さらに、私がお話しすることときたら、やはり今もそうですが、私の力の限界のために、分かりやすくて感動的なお話はできませんでした。日本に帰ってくるに当たって、家内と2人で、私のこのような話に耳を傾けてくださる方がいるのだろうかと話し合ったくらいです。どう考えても、たちまち行き詰まってしまうはずです。そんな私たちですが、主は皆さんと出会わせてくださって、皆さんの犠牲的な献身に支えられてのことですが、ともに今日まで歩ませてくださいました。その間に、主が必要なすべては備えてくださったと言うのは、私の鈍感さによることではないと思います。


 申命記8章に戻りますが、これに続く2節後半〜3節においては、

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

と記されています。
 ここでは、2節後半に記されている、

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

ということばから分かりますように、この40年にわたる荒野の旅の全行程が「試み」(試練)としての意味をもっていたことが明らかにされています。前にお話ししましたように、これは、主がイスラエルの民の「心のうちにあるもの」が分からないので、それを知ろうとして試練を与えられたということではありません。主はイスラエルの民の「心のうちにあるもの」を初めから知っておられます。しかし、イスラエルの民は主の御前における自らの現実に気がついていません。自分たちは大丈夫だと思っているのですが、主がご覧になる姿がどのようなものであるかには気づいていないのです。それで、主はイスラエルの民が、主の御前における自らの現実を知るようになるために、試練を与えられました。
 注目すべきことは、ここで、

あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と言われていることです。原文のヘブル語の順序では「あなたの心のうちにあるもの」が先に来て、「あなたがその命令を守るかどうか」がそれに続いています。「その命令」は複数ですが、「彼の命令」で「主の命令」のことです。この「あなたの心のうちにあるもの」と「あなたがその命令を守るかどうか」ということばは、新改訳の訳のように、「知るためであった」にかかると考えられます。このことをはっきりさせるために新改訳では順序が逆になっていると思われます。いずれにしましても、この2つのことばの組み合わせによって、主の命令を守ることが主の民の「心のうちにあるもの」の現れであることが示されています。そして、主の御前においては私たちの「心のうちにあるもの」が問われているということが示されています。形だけ主の戒めに従っているとしても、それで主の目をごまかすことはできません。形としては主の戒めを守っているとしても、その心のうちにはしぶしぶ従う思いしかないということもありえます。
 それでは、主が真に注目しておられる主の民の「心のうちにあるもの」とは何でしょうか。それは、これまでお話ししてきたことから察することができますが、契約の神である主が自分たちとともにいてくださるということを信じて、主を信頼しているかどうかということです。主の命令の根本にあるのは、主がともにいてくださることを信じて、主を信頼して歩むことです。その人が心から主を信頼しているかどうかは試練をとおして明確になります。
 その主のご臨在がともにあることへの信頼は、

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

と言われている試練をとおして教えてくださった、

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる

ということを悟らせてくださることから、生まれてくるものであるのです。
 「主の口から出るすべてのもの」と言えば、何よりもそれは主のみことばです。しかし、主のみことばは単なることばではありません。それは主のご意志の表現であり、それを実現する力があるのです。主はそのみことばをもって、天から「マナ」を降らせてくださり、着る物が欠けることがないようにしてくださり、身体的な力を与え続けてくださいました。「主の口から出るすべてのもの」とは、これらすべて、すなわち、主のみことばとみことばによって実現してくださったことのすべてを含んでいると考えられます。
 このこととの関連で注意したいのは、主が天から「マナ」を降らせてくださり、着る物が欠けることがないようにしてくださり、身体的な力を与え続けてくださったのは、

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる

ということを悟らせてくださるためであったということです。大切なことは、奇跡的なことが起こったということではなく、この真理を悟って、契約の主がともにいてくださることを信じ、主を信頼して歩むようになることです。ですから、真に、

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる

ということを悟ったなら、もはや、奇跡的なことは必要なくなります。私たちの日常的な歩みが神である主の摂理の御手によって支えられ、導かれることも、「人は主の口から出るすべてのもので生きる」ことであるのです。今日私たちが目覚めて主にあいまみえ、食事をいただき、この場に集って主をともに礼拝することができたことも、主がそのみことばをもってそのために必要なすべてを備えてくださり、実現してくださったことです。
 このように、主は荒野の40年の全行程をとおして、イスラエルの民に試練をお与えになり、それをとおして、

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる

ということを悟らせてくださり、イスラエルの民がご自身に信頼して歩むように導いてくださいました。


 しかし、これと同じことが、誘惑となって働いたこともありました。それは、エジプトの奴隷の状態から贖い出されたイスラエルの民の第1世代の者たちにとってのことでした。イスラエルの民の第1世代の者たちは度重なる不信仰によって約束の地に入ることができませんでした。
 彼らは、エジプトと紅海において、主の救いとさばきの御業を目の当たりにしました。そして、シナイ山においては、そこにご臨在される主の栄光の顕現(セオファニー)を目撃し、そのご臨在の御許から語られた御声を直接耳にしました。その御声を聞いたために、自分たちのが滅ぼされてしまうことを実感したくらいです。さらに、その主のご臨在がイスラエルの民の間にあることを表示する幕屋が与えられ、彼らはそこにある「雲」をいつも見ていました。そして、その旅の間は主が「マナ」をもって養ってくださいました。さらに、水がなくて渇いた時には、主が岩から水を出して彼らに飲ませてくださいました。もちろん、主は着る物も健康も備えてくださいました。そのすべてが、主が彼らとおもにおられることをあかししていました。
 ですから、イスラエルの民はその歩みの中で与えられる試練の時に、自分たちの間にご臨在してくださっている契約の神である主を信じて、主に信頼して歩むように招かれていたのです。それによって、ますます主を親しく、現実的に知るようになることができたはずです。
 ところが、実際には、イスラエルの民は試練の時に主を試みました。その典型は、荒野の旅の初めのころの、荒野のマサにおける試みです。出エジプト記17章7節には、

それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

と記されています。これは荒野で水がなくてイスラエルの民が渇いた時のことです。その時、イスラエルの民は主を試みたのですが、主は岩から水を出して、イスラエルの民に飲ませてくださいました。

「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた

というみことばに、イスラエルの民が主を試みたことの本質が表されています。イスラエルの民は、エジプトと紅海における主の御業を目の当たりにしていながら、主がともにいてくださることを疑ったのです。そして、その疑いから、主がともにおられるならその「しるし」を見せるように要求したのです。「しるし」を要求することは不信仰から出ています。主を試みることと「しるし」を要求することの結びつきは、マルコの福音書8章11節に、

パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。

と記されています。
 主がともにいて導いてくださっていることを信じて、必要であれば、奇跡的なことをしてでも支えてくださると信じることと、主がともにいてくださることを疑って、ともにいてくださるのであれば奇跡的なことをしてくれと「しるし」を要求することはまったく異質のことです。
 荒野のマサにおいて、主はイスラエルの民のために岩から水を出してくださいました。荒野の旅路の初めにおいては、主は忍耐をもって、イスラエルの民がご自身を試みたことに接してくださり、ご自身がともにいてくださることを示してくださったのです。それで、イスラエルの民は主がともにいてくださることを信じるようになったかといいますと、そうではありませんでした。別の試練がやって来たときに、やはり、主を疑い、主を試みてしまいました。そのようにして、イスラエルの民の第1世代は、不信仰により、最後まで主を試み続けました。そして、そのことへのさばきを受けて、約束の地に入ることができなくなりました。
 このようにして、主は試練をとおしてイスラエルの民をご自身を信じるように招いてくださっていたのですが、イスラエルの民の第1世代にとっては、それは主を試みることへの「誘惑」として働いてしまいました。
 私たちはこのイスラエルの民の第1世代の事例からも学び、自らへの戒めとしたいと思います。そして、主が与えてくださる試みの中で、主がともにいてくださることを信じて、主に信頼し、主が歩ませてくださる道を歩みたいと思います。

 


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