(第192回)


説教日:2009年5月3日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてお話しします。今日は、先週お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。
 これまで、この祈りの前半の、

 私たちを試みに会わせないでください。

という部分についてお話ししてきました。まず、これまでお話ししてきたことをまとめておきたいと思います。
 この部分をどのように理解するかということについては、意見が分かれています。それは、新改訳で「試み」と訳されていることば(ペイラスモス)に「試み」あるいは「試練」という意味と、「誘惑」という意味があることによっています。それで、主の祈りの第6の祈りで、このことばがどちらを意味しているのかが問題となりますが、どちらの意味に取っても、問題が残ります。
 聖書の中では、神さまがお与えになる「試み」あるいは「試練」には積極的な意味があるということが示されています。ヤコブの手紙1章2節〜4節には、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と記されています。
 神さまが私たちを「試み」あるいは「試練」に会わせられるのは、それが私たちのためになるという理由によっています。それで、主の祈りの第6の祈りで、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈ることは、神さまが私たちのために与えてくださる「試み」あるいは「試練」を退けることになってしまうのではないかということが問題となります。
 その一方で、ヤコブの手紙1章13節、14節には、

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

と記されています。13節後半では、

 神は・・・ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

と言われています。それで、主の祈りの第6の祈りで、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈るのであれば、「だれを誘惑なさることも」ない神さまに向かって、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈ることになってしまうということが問題となります。


 この問題を考えるために、まず、3つのことを確認しました。
 第1に、神さまは、ご自身の無限、永遠、不変の知恵による永遠の聖定に基づく摂理の御手によって、サタンが私たちご自身の契約の民を誘惑することを許可(許容)されることがあるということです。
 これは、神さまがサタンを用いて私たちを誘惑されるということではありません。神さまは私たちに罪を犯させようとするサタンの悪いたくらみをも用いて、私たちの信仰を強くしてくださり、私たちを聖めてくださり、ご自身にさらに近づくものとしてくださいます。
 第2に、同じ出来事が、試練としての意味をもっていると同時に、誘惑としての意味をもっていることがあるということです。
 私たちがこの世で経験するさまざまな苦しみや痛みや悲しみは、それが起こることを許可(許容)された神さまのみこころからは「試み」あるいは「試練」です。神さまはそれらのことを用いて、私たちの信仰を強くしてくださり、私たちを聖めてくださり、ご自身にさらに近づくものとしてくださろうとしておられます。けれども、私たちはそれらの苦しみや痛みや悲しみに会うと不安に駆られ、神さまへの疑いを募らせてしまうことがあります。その場合には、その「試み」あるいは「試練」が私たちにとって「誘惑」として働いてしまっています。
 第3に、この2つのことから、主の祈りの第6の祈りの前半の中心にある、新改訳で「試み」と訳されていることば(ペイラスモス)に「試み」あるいは「試練」という意味と、「誘惑」という意味があるからといって、現実の状況の中でそれを区別することができないということです。

 先週は、これらのことを踏まえて、ヤコブの手紙1章13節、14節に記されている、

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

というみことばを取り上げました。
 ここには、私たちが経験する誘惑についての教えが記されています。すでに触れました、

神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

というみことばは、

 神は・・・ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

ということを教えていますが、このことをそれとして教えているのではありません。このヤコブの手紙1章13節、14節に記されている教え全体の中では、私たちが誘惑に会ったときに、それを神さまのせいにしてはならないということを示しています。また、ヤコブはそれをサタンのせいにもしていません。14節に記されている、

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

というみことばは、私たちそれぞれのうちに誘惑に会う原因があること、また、それゆえに、誘惑に屈してしまうときの責任は私たちにあるということを示しています。
 このことは、先ほど触れました、同じ苦しみや痛みや悲しみをもたらす問題であっても、神さまのみこころからは「試み」あるいは「試練」であるけれども、私たちはそのような問題の中で、不安に駆られて、神さまのことを疑ってしまうようなことがあるということにそのまま当てはまります。私たち自身のうちに、なおも、神さまを全面的に信じきれていない状態があるために、思い煩いや不安に駆られて、神さまのことを疑ってしまうことがあるのです。
 主の祈りの第6の祈りは、このような、私たち自身のうちにある問題をご存知であられる主が、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈るようにと教えてくださったものであると考えられます。

 そうではあっても、先週お話ししましたように、主の祈りの第6の祈りに、

 私たちを試みに会わせないでください。

という意味がないと考えることはできません。というのは、私たちがこの世において直面する問題は、このような、私たち自身のうちにある罪からくる問題だけではないからです。
 神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人が、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまってから、この世界にはさまざまな形での虚無が入り込んできました。
 ローマ人への手紙8章19節〜22節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されています。20節では「被造物が虚無に服した」と言われています。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、全被造物が人との一体において「虚無に服した」のです。そのことの現れが、時として、自然災害という形において起こってきます。それは、私たち自身に直接的な原因があって生じてくる問題ではありません。
 それ以上に、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間自身が罪の力に捕らえられ、罪の自己中心性に縛られて、死と滅びへと至る道を歩んでしまっています。そのことから生まれてくるさまざまな争いが、この世における悲惨な状況を生み出しています。ヤコブの手紙4章1節、2節には、

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。

と記されています。
 私たちの主イエス・キリストは、私たちがこのような悲惨に満ちているこの世にあることをご存知であられます。そればかりでなく、先週お話ししましたように、主ご自身がこの世にある悲惨をだれよりも深く味わわれました。そして、そのような経験の上に立って、私たちのためのあわれみ深い大祭司となられました。先週も引用しましたが、ヘブル人への手紙2章17節、18節には、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。また、4章14節〜16節には、

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

と記されています。

 あわれみ深い大祭司であられるイエス・キリストは、私たちのためにとりなしをしてくださっています。同じヘブル人への手紙7章23節、24節には、

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

と記されています。
 もちろん、そのとりなしの中心は、イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって救われ、神の子どもとしていただいている私たちがなおも罪を犯してしまう現実に対するとりなしです。しかし、先ほどの2章17節、18節や4章14節〜16節に記されているみことばに照らしてみますと、私たちが罪の結果としてこの世にあるさまざまな苦しみを味わうことも視野に入れてのとりなしであると考えられます。
 主が私たちの苦しみをご自身のこととして知ってくださっていることは、旧約聖書においても示されています。イザヤ書53章3節、4節には、イエス・キリストにおいて成就する「苦難のしもべ」のことが、

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。
 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。

と記されています。また、63章9節には、

 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
 ご自身の使いが彼らを救った。
 その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
 昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

と記されています。
 これらのみことばは、主がご自身の民の苦しみをご自身の苦しみとされたことを示しています。
 主ご自身が私たちの弱さをご存知であられ、私たちの苦しみをご自身のこととして味わってくださるお方です。そして、そのような方として、私たちのためにとりなしをしてくださっています。そうであれば、主の祈りの第6の祈りに、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈ることも含まれると考えることができます。
 さらに、この理解を支持することがあります。それは、これまでも注目してきましたように、主の祈りが個人の祈りである以上に神の子どもたちの共同体の祈りであるということです。その意味で、私たちは、ただ自分のために、

 私たちを試みに会わせないでください。

あるいは、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈るのではありません。この祈りをもって互いにとりなし合うのです。
 エペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と記されています。これは、これに先立つ6章10節〜17節に記されている、霊的な戦いにおいて「神のすべての武具を身に着け」るべきことに続いて記されています。それで、ここでは、特に、霊的な戦いの状況にある「すべての聖徒のために」祈るようにと戒められています。その祈りは「すべての聖徒」たちを視野に入れて、イエス・キリストにあって「すべての聖徒」たちと一体にある者として、

 私たちを誘惑に会わせないでください。

と祈るとともに、「すべての聖徒」たちがこの世で経験しているさまざまな痛みや苦しみを思いはかって、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈るものでもあるはずです。

 このような理解には、1つの問題が残っています。それは、初めに触れましたように、神さまが私たちを「試み」あるいは「試練」に会わせられるのは、それが私たちのためになるという理由によっています。それで、主の祈りの第6の祈りで、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈ることは、神さまが私たちのために与えてくださる「試み」あるいは「試練」を退けることになってしまうのではないかという問題をどのように考えるかということです。
 これについては、これまでお話ししてきたこと以上の説明は必要ないと思われますが、さらに考えるべきことがありますので、それを取り上げておきます。
 まず、根本的なことですが、神さまが私たちを「試み」あるいは「試練」に会わせられるのは、それが私たちのためになるという理由によっているということは確かなことです。けれども、それは、人間的な言い方になりますが、神さまが喜んで私たちを「試み」あるいは「試練」に会わせられるという意味ではありません。神さまは、私たちがこの世で経験する痛みや苦しみや悲しみが、私たち人間の罪がもたらした悲惨であることをご存知であられます。人が犯す罪は本来あってはならないものです。それで、人の罪の結果この世に入り込んできたさまざまな悲惨も、本来は、あってはならないものです。神さまはそのような、本来は、あってはならないものをもお用いになって、私たちがご自身に信頼し、ご自身に近づくように導いてくださるのです。
 1つの事例を見てみましょう。
 創世記の最後の部分には、イスラエルの12部族の父祖となるヤコブの子どもたちのことが記されています。
 彼らは兄弟であるヨセフをエジプトに向かう商人たちに売ってしまいます。そこにはいろいろな駆け引きがありました。ヨセフが殺されるかもしれないと考えたルベンは後からヨセフを救おうとして、ヨセフを荒野の穴に入れておくことを提案しました。そして、ヨセフは穴に入れられてしまいます。どうやら、この後、ルベンは何らかの事情があってそこを離れていたようです。その間に、ユダもヨセフを穴の中に入れたまま殺さないで、エジプトに向かう商人に売ることを提案します。そして、このユダの提案の通りにヨセフはエジプトに売られました。
 この出来事には、ヤコブがヨセフを溺愛したことに対する、兄弟たちの複雑な思いがからんでいますが、ヨセフ自身にも問題がありました。
 ヨセフはエジプトで「パロの廷臣、その侍従長ポティファル」の家で奴隷として仕えるようになりました。主はヨセフを祝福してくださったのですが、「ポティファル」の妻の偽証によって投獄されてしまいます。そのことに触れている詩篇105篇19節、20節には、

 彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、
 ヨセフは鉄のかせの中にはいった。
 彼のことばがそのとおりになる時まで、
 主のことばは彼をためした。

と記されています。それはヨセフにとっては試練の時でした。普通ですと、そのような苦しみの中で兄弟たちへの憎しみを募らせていくことでしょう。しかし、その経験を通して主はヨセフを成長させてくださいました。
 やがて、ヨセフはパロの夢を解き明かして、来たるべき7年にわたる大豊作とその後に来る7年にわたる大飢饉のことを預言します。そして、それにどのように対処すべきかをパロに提案します。パロはヨセフの知恵を認め、ヨセフをパロの右に座して、パロの名によってエジプトを治める者に任命しました。
 そして、ヨセフの預言のとおりに大豊作の時がやって来ました。の後に大飢饉がやって来ました。ヨセフはその大豊作の時に食糧を備蓄しておきました。そして、その後にやって来た激しい飢饉の中で、ヨセフの兄弟たちが食糧を求めてエジプトにやって来ます。ヨセフは兄弟たちに気がつきますが、兄弟たちがヨセフに対して犯した罪を認めようになるまで、自らのことを明かさないで彼らに対処しました。創世記に記されているヨセフの兄弟たちへの対処の仕方にイライラさせられるかもしれませんが、ヨセフとしては兄弟たちが、強いられてではなく、自らの罪を認めるようになることを求めているのです。
 いろいろなやりとりの後、ヨセフは自分がヨセフであることを兄弟たちに告げました。その時のヨセフのことばを記している創世記45章4節〜8節には、

私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

と記されています。
 試練の中で育てられたヨセフは、自分が主の大きなご計画の中に使命を授けられていることを自覚するようになっています。そして、自分を売った兄弟たちの罪をないがしろにしませんでしたが、個人的な恨みを返すことはしませんでした。
 これはかなり極端な事例ですが、そうであるためにかえって試練の意味が分かりやすく示されています。とはいえ、私たちもヨセフに比べられる、考え方によってはそれ以上の使命を負っています。私たちは同時代の人々に先駆けて主の一方的な恵みによって、贖いの御業にあずかっています。そのような者として、この世に遣わされています。
 いずれにしましても、主はヨセフに試練をお与えになりました。そうであるからといって、兄弟たちのしたことが正当化されるのではありません。その意味で、兄弟たちがヨセフを売り飛ばすことは、主のみこころではありませんでした。しかし、主はそのような兄弟たちのなした悪をも用いて、ヨセフを御前に成長させてくださるとともに、そのヨセフを用いてくださって、ヤコブの家を存続させてくださったのです。そのようにして、アブラハムに与えられた祝福が受け継がれていきました。

 この事例からも分かりますが、確かに、神さまが私たちを「試み」あるいは「試練」に会わせられるのは、それが私たちのためになるという理由によっています。けれども、それで、私たちが試みや試練に会うことを積極的に求めるべきであるということにはなりません。特に、主の祈りのように、お互いのことを覚えて祈り合う祈りにおいては、信仰の家族の兄弟姉妹たちが、病や痛みや苦しみや悲しみから守られるように祈ることは正当なことです。
 その意味では、主の祈りの第6の祈りには、

 私たちを試みに会わせないでください。

という意味も含まれていると考えられます。
 これは、決して、神さまが私たちのために与えてくださる「試み」あるいは「試練」を退けることではありません。私たちは自分たちの弱さをわきまえ、

 私たちを試みに会わせないでください。

と祈りますが、それでもなお、神さまがご自身の計り知れないみこころにしたがって、私たちを「試み」あるいは「試練」に会わせられるときには、それによって、神さまが私たちをご自身に信頼し、御許にさらに近づくように導いてくださっていることを信じるのです。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第191回)へ戻る

(c) Tamagawa Josui Christ Church