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説教日:2009年4月26日 |
先週は、これらのことをどのように考えたらいいのかということで、最終的に3つのことを確認しました。 第1には、神さまは、その永遠の聖定に基づき、また、無限の知恵による摂理の御手によって、サタンが私たちご自身の民を誘惑することを許可されることがあるということです。そして、そのようなときにも、神さまは決して、私たちが罪を犯すことを願っておられないし、私たちが罪を犯すように誘惑されることもないということです。 この場合、神さまはサタンを用いておられるのですが、それは、サタンを用いて私たちを誘惑しておられるということではありません。神さまはサタンの悪いたくらみをも用いて、私たちの信仰を強くしてくださり、私たちを聖めてくださり、ご自身にさらに近づくものとしてくださるのです。 第2に、私たちの目からは同じ出来事と見えることが、試練としての意味をもっていると同時に誘惑としての意味をもっていることがあるということです。 先週取り上げたヨブの事例で言いますと、サタンが働いてヨブに大きな災いをもたらしたとき、サタンはヨブが神さまをのろうようになるように誘っています。その点で、これは「誘惑」としての意味をもっていました。けれども、サタンがそのように働くことを許可(許容)された主のみこころは、それらの「試練」を通して、ヨブが真に神さまを恐れる者であることを実証してくださるとともに、ご自身の恵みとまことに満ちた栄光に触れさせてくださることでした。実際に、その「試練」を通してヨブが真に神さまを恐れる者であることは実証されました。そればかりか、ヨブは主の恵みとまことに満ちた栄光に触れて、さらに主に近づくようになりました。これらの点で、これは「試み」あるいは「試練」としての意味をもっていました。 第3に確認したことは、これら2つのことから、新改訳が主の祈りの第6の祈りを、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と訳しているときの「試み」ということば(ペイラスモス)に「試み」あるいは「試練」という意味と、「誘惑」という意味があるからといって、現実の状況の中でそれを区別することができないということです。 私たちがこの世で経験するさまざまな苦しみや痛みや悲しみなどは、それが起こることを許可された神さまのみこころからすれば「試み」あるいは「試練」であっても、私たちはそれによって不安に駆られ、神さまへの疑いや不信感を募らせてしまうことがあります。そのような場合には、その「試み」あるいは「試練」が私たちにとって「誘惑」として働いてしまうことになります。 これらのことを考え合わせますと、この主の祈りの第6の祈りの前半においては、 私たちを誘惑に会わせないで(ください。) と祈ると理解したほうがいいように思われます。最後に残る問題は誘惑であるように思われます。 これにはなおいくつかの問題がありますが、今日は1つのことを取り上げます。それは、果たして、 私たちを試みに会わせないで(ください。) という願いは、主の祈りの第6の祈りから除外されるべきものなのかということです。 このことを念頭に置いて、少し前に引用しましたヤコブの手紙1章13節、14節に記されている、 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 というみことばを見てみましょう。 ここでは、人が「誘惑に会ったとき」のことが取り上げられています。そして、先ほど取り上げました、 神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 ということを述べた後、人が誘惑に会う理由について、 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 と述べています。 ここで、ヤコブは誘惑を神さまのせいにしてはならないことを示しています。そればかりか、サタンのせいにすることもなく、私たちそれぞれのうちに誘惑に会う原因があり、誘惑に屈してしまうときの責任も私たちにあるということを明確にしています。 ここでヤコブは、 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 と記していますが、「自分の欲」の「自分の」ということば(イディアス)は「自分の」ということを強調することばです。これと、最初に出てくる「人はそれぞれ」(ヘカストス)ということばが相まって、誘惑を受けるときの原因とそれに屈してしまうことの責任が自らのうちにあることを明確にしています。 ここで「自分の欲」と言われているときの「欲」と訳されていることば(エピスミア)は、神さまが与えてくださったよい意味の「欲」を表すこともあります。おなかが空いたときの食欲や、本来の意味での性欲、より良いものを求める欲求などです。けれども、ここでは、そのようなよい欲求を与えてくださった神さまのみこころに反したり、みこころから逸脱したりして働く欲望を表しています。 このことばは、ここでは単数形です。それは1つの欲望を示すのではなく、さまざまな欲望が1つの特性の下にまとめられるということです。その現れてくる形としては、肉的な情欲、物や金銭に執着してそれを手に入れるために生きてしまうほどになる物欲、神さまの栄光よりも自分の栄誉を優先する名誉欲など、さまざまなものがありますが、そのすべてが「神さまのみこころから外れてしまっている欲」として1つにまとめられます。 また、ここで用いられている「引かれる」ということば(エクセルコー)と「おびき寄せる」ということば(デレアゾー)が魚釣りに関することばであるということから、釣りをしているのはサタンや悪霊たちであるというようなことまで読み取ろうとすることがあるようです。しかし、そのように理解することは、ここでヤコブが言おうとしていること、すなわち、誘惑に会うときには、私たち自身のうちに原因があり、それに屈してしまうことの責任も私たちにあるということを曖昧にしてしまうことになります。 実際、これらのことばは頻繁に使われているので、ヤコブの時代には、もともとの魚釣りにかかわるという意味合いは薄れてしまっていたということも主張されています。 このこと、すなわち、私たち自身のうちに誘惑に会う原因があるということは、イエス・キリストが公生涯の初めに、荒野において、悪魔の試みに会われたときのことを考えると分かりやすいかと思います。 その時、荒野において、サタンは自らの知恵の限りを尽くしてイエス・キリストを誘惑しました。けれども、イエス・キリストのうちには、サタンが提示したことに引き寄せられるような欲望や野望がありませんでした。それで、イエス・キリストはいささかでもそれに引きつけられるということはありませんでした。イエス・キリストにとって、それは「誘惑」とはならず、「試み」でしかなかったのです。(これは、神さまの贖いの御業の歴史の中で意味をもっていますが、いまはそれに触れることはできません。) これに対して、私たちの場合には、サタンが誘惑しなくとも、自らの欲望や野望のために、神さまを後回しにしたり、神さまのみこころを踏みにじったりしてしまうことがあります。また、先ほども触れましたように、神さまが私たちをご自身の子として育ててくださるためにお与えになる試練として、さまざまな困難な問題がやって来ますと、たちまち不安に駆られて、神さまを疑ったりしてしまいます。 ヤコブはこのような私たちの現実を明らかにしているのです。 このような私たち自身の現実をわきまえておくことは、主の祈りの第6の祈りの意味を理解するうえで大切なことです。イエス・キリストが、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と祈るように教えてくださったのは、このような私たちの現実をご存知であられるからです。 そればかりでなく、イエス・キリストご自身が、この世で生きることがどんなに苦しみや痛みや悲しみを伴うことであるかを、だれよりも深く経験しておられました。ヘブル人への手紙5章7節には、 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 と記されています。このみことばを読みますと、イエス・キリストが地上の歩みの最後の夜に、ゲツセマネにおいて祈られた祈りが思い起こされます。その時の様子を記しているルカの福音書22章44節には、 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。 と記されています。ヘブル人への手紙5章7節ではこの祈りのことが言われているのではないかという気がします。けれども、ヘブル人への手紙5章7節に記されているのは、ゲツセマネにおける祈りというような特定の祈りのことではなく、イエス・キリストの地上の生涯の全般にわたる祈りのことです。もちろん、ゲツセマネの祈りはその典型的なものでした。 私たちは自らのうちに罪の性質を宿しています。そして、そのために日々に思いとことばと行いにおいて罪を犯してしまいます。そのような私たちは、この世にあって、人の罪が生み出しているさまざまな現実に慣れてしまっています。そればかりか、自らが犯す罪に対しても鈍感になってしまっています。それで、そのような罪の下にある状況にあっても、自分が具体的な害を受けないかぎり、それほど苦しんだり痛んだり悲しんだりすることもないような者です。その苦しみや痛みや悲しみにも、私たち自身の罪の自己中心性が陰を落としています。 しかし、イエス・キリストには罪の性質がありません。そのような方が人の罪とその結果であるさまざまな悲惨に満ちているこの世界にあったときに、それによって、どれほどの痛みや苦しみや悲しみを感じられたか、私たちには想像することもできません。しかも、イエス・キリストが感じられた痛みや苦しみや悲しみには、罪の自己中心性の陰がありません。その痛みや苦しみや悲しみは、父なる神さまへの愛と私たちご自身の民を愛してくださる愛から出たものです。 それがどのようなことであるかを考えてみましょう。 詩篇119篇136節には、 私の目から涙が川のように流れます。 彼らがあなたのみおしえを守らないからです と記されています。これは、詩篇の記者が主と主の「みおしえ」を愛しているから、このように歌ったのであると理解されています。それはそのとおりです。しかし、その「みおしえ」を与えてくださった主ご自身の御思いは、ご自身の民がその「みおしえ」を守ることによって生きること、いのちの道を歩むようになることを願っておられます。そうであれば、この詩篇の記者の嘆きは、「彼らが」主の「みおしえ」を守らないで死の力に捕らえられてしまっていることへの嘆きでもあるはずです。 また、ご存知のように、預言者エレミヤはユダの民に迫ってきている主のさばきを預言したために、ユダの民からひどい迫害を受けました。そのエレミヤは、ユダの民のために涙を流して泣きながら預言をしました。9章1節には、 ああ、私の頭が水であったなら、 私の目が涙の泉であったなら、 私は昼も夜も、 私の娘、私の民の殺された者のために 泣こうものを。 というエレミヤのことばが記されています。これは、エレミヤが、ユダの民に対する主のさばきが避けられないことを預言している中で語った嘆きのことばです。また、これに先立つ8章18節には、 私の悲しみはいやされず、 私の心は弱り果てている。 と記されており、21節には、 私の民の娘の傷のために、 私も傷つき、 私は憂え、 恐怖が、私を捕えた。 と記されています。これらもユダの民の上に臨もうとしているさばきを預言したエレミヤの思いを述べたものです。 このエレミヤのことばに表れているのは、エレミヤだけの思いではなく、主ご自身の御思いでもあるとしている方々がいます。おそらく、その通りでしょう。事実、有名な31章20節には、 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。 それとも、喜びの子なのだろうか。 わたしは彼のことを語るたびに、 いつも必ず彼のことを思い出す。 それゆえ、わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない。 という主のみことばが記されています。 c イエス・キリストは預言者の主であられます。ヘブル人への手紙5章7節に、 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。 と記されているときの、「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られたのは、私たち人間の罪が生み出しているさまざまな悲惨に対する、痛みであり苦しみであり悲しみであったと考えられます。 確かに、ここでは神さまのことが「自分を死から救うことのできる方」と呼ばれています。それで、イエス・キリストはご自身が死から救われることを願って、そのように祈られたのではないかという気がします。けれども、これは神さまのことを表す一般的なことばで、神さまがいのちの主であられ、救いの御業を遂行してくださる方であることを表すものであると考えられています。それで、この「自分を死から救うことのできる方」という呼び方は、イエス・キリストの祈りの内容を示してはいないと考えられているのです。とはいえ、イエス・キリストはその公生涯の歩みを通して絶えず死の危険にさらされていました。それで、イエス・キリストはそのことからの救いを祈られたと考えられます。けれどもそれは、ヨハネの福音書に繰り返し出てくる(言い方は異なりますが)イエス・キリストの「時がまだ来ていない」(7章6節、30節、8章20節など)ということばから分かりますが、自らを救うためというより、最終的には、私たちのために、さらに恐るべき十字架の死を迎えるためのことでした。 いずれにしましても、イエス・キリストはこの世におられたときに「自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られました。それほどの、苦しみや痛みや悲しみを味わわれたのです。それは、私たちのためでありました。ヘブル人への手紙5章では、これに続く8節〜10節に、 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。 と記されているとおりです。 このこととの関連で思い出されるのは、2章17節、18節に記されている、 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。 というみことばです。また、4章14節〜16節には、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されています。 これらのみことばは、イエス・キリストがこの世において厳しい「試み」(試練)を受けて苦しまれたことを示しています。そこに出てくる「試みを受けた」、「試みに会われた」ということばは、主の祈りの第6の祈りに出てくる「試み」ということばの動詞です。 そのように、この世における「試み」(試練)の厳しさを味わっておられるイエス・キリストは、私たちの弱さを十分ご存知であられます。そのイエス・キリストが主の祈りの第6の祈りで、 私たちを誘惑に会わせないで(ください。) と祈るように教えられたときに、その教えには、 私たちを試みに会わせないで(ください。) と祈ることも含まれていたと考えることができます。 これには、なおいくつか考えなければならないことがありますが、時を改めてお話しします。 |
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