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説教日:2009年4月19日 |
これまで、聖書に記されている、神さまが人を試みられた事例として、神さまがアブラハムを試みられたことと、荒野においてイスラエルの民を試みられたことについてお話ししました。そして、前回は、試みあるいは試練についての一般的な教えとして、ヤコブの手紙1章2節〜4節に記されている、 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 というみことばについてお話ししました。 試みあるいは試練についての一般的な教えとしては、このほか、ペテロの手紙第1・1章7節に、 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。 と記されています。 これらのことから、神さまがご自身の民を試みあるいは試練に会わせられるときには、積極的な意味があり、私たちの益のためであるということが明らかになりました。 そうしますと、主の祈りの第6の祈りで、 私たちを試みに会わせないで(ください。) と祈ることは、神さまが私たちの益のために与えてくださり、そのゆえにヤコブが「この上もない喜びと思いなさい」と述べている試みあるいは試練が与えられないようにと祈ることになります。 このことが、主の祈りの第6の祈りは、 私たちを試みに会わせないで(ください。) と祈るものであるという理解を退ける人々の根拠となっています。 そうしますと、この祈りは、 私たちを誘惑に会わせないで(ください。) と祈るものであるということになると思われます。ところが、この理解を退ける人々にも言い分があります。それは、ヤコブの手紙1章13節、14節に、 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 と記されているからです。13節後半に、 神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 と記されています。そうであれば、「だれを誘惑なさることも」ない神さまに向かって、 私たちを誘惑に会わせないで(ください。) と祈ることは祈りとしての意味がないのではないか、という問題が生まれてきます。このことが、この祈りが、 私たちを誘惑に会わせないで(ください。) と祈るものであるという理解を退ける人々の根拠となっています。 これらのことをどのように考えたらいいのでしょうか。 いろいろなことが考えられますが、今日は1つのことをお話しします。この問題に対する解決の鍵の1つは、先ほど引用しましたヤコブの手紙1章13節後半に記されている、 神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 というみことばの理解です。注目すべきは、 神は・・・ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 と言われているときの「ご自分で」ということばです。これは強調のために付け加えられたことばですが、「ご自分で」ということを意味していると考えられます。これは、人が誘惑に会うときに2つのことがかかわっていることを踏まえています。 1つは、人が誘惑に会うとき、その人は罪を犯すようにと誘われているのですが、そのときに、神さまがその人を罪を犯すようにと誘われることは決してないということです。その人が罪を犯すことは神さまのみこころではないし、神さまがその人を誘導して罪を犯させることは決してないということです。 もう1つは、その人が罪を犯すようにと誘惑を受けることを、神さまがご存じないとか、神さまがそれに対してどうすることもできないということではないということです。神さまは、私たちが罪を犯すことも含めて、この世界に起こり来るすべてのものごとを永遠の聖定において定めておられますし、実際に、その永遠の聖定に基づく摂理の御手によって導いておられます。 そうであれば、創造の御業によって神のかたちに造られた人とその妻が、エデンの園において、「蛇」の背後にあって働いていたサタンの誘惑に会ったばかりか、それに乗ってしまって、神さまに対して罪を犯したことも、神さまの永遠の聖定において定められていたことであるということになります。それは、そのとおりです。そうであるとしますと、神さまが人に罪を犯させたのではないかという疑問が出てきます。 けれども、永遠の聖定はあらゆる点において無限、永遠、不変の存在であられる神さまが、ご自身の無限、永遠、不変の知恵によって、この世界のすべてのことを永遠に定めておられるものです。それは、神さまがお造りになったこの世界のすべてのこと、見えるものも見えないものも、かつてあったものも、今あるものも、またこれから起こるすべてのことをも包み込んでいて、無限の深さと複雑さをもっているものです。それが、この世界に起こっていることとどのようにかかわっているかを、あらゆる点において有限な存在である私たち人間が知ることはできません。あらゆる点において有限な私たち、あらゆる点において限りがある私たちには、無限、永遠、不変の神さまが、どのようにこの世界とかかわっておられるかを見通すことはできません。 私たちはこのような神さまと私たちの間にある「絶対的な区別」をわきまえなくてはなりません。そして、神さまの永遠の聖定が神さまの無限、永遠、不変の存在と知恵にかかわっていることをわきまえなければなりません。 そのことを踏まえたうえで、なお、私たちは神さまが、ご自身の永遠の聖定にかかわることを啓示してくださっておられるので、それを理解しなければなりません。そのためには、あらゆる点で有限である自分たちの立てる計画になぞらえて、神さまの永遠の聖定を理解するほかはありません。これが、私たちの現実です。 そのような中で、私たちは、聖書のみことばにしたがって、神さまは人をご自身のかたちにお造りになったことを信じています。それは、自由な意志をもって、自らのあり方をその自由な意志によって選び取ることができる人格的な存在として造られているということであるだけでなく、その本質的な特性が愛を本質とする人格的な特質であるということを信じています。 このような意味で神のかたちに造られた人が、自らの自由な意志によって、誘惑者のことばを受け入れたのであり、自らの意志によって神さまに背いて罪を犯したのです。決して、神さまが人に罪を犯させたのではありませんし、サタンが人をマインドコントロール状態にして神さまに逆らわせたのでもありません。 それでは、神さまの永遠の聖定をどのように考えたらいいのかという問題が残りますが、先ほど言いましたように、私たちはその永遠の聖定を有限な私たちの立てる計画になぞらえて理解するほかはありません。それで、神さまは永遠の聖定において、神のかたちに造られた人がご自身に対して罪を犯すことを「許容された」というように理解しています。これは、私たちの理解の限界の中での、ぎりぎりの表現ですが、このようにして、神さまの永遠の聖定と有限で時間的な存在である私たち人間の意志の自由をともに真実なものとして受け止めています。 このようなことを、踏まえたうえで、改めて、最初の人アダムとその妻エバがサタンの誘惑に会って、神さまに対して罪を犯してしまったことについて考えてみましょう。もちろん、ここでそのことにかかわるすべてのことを取り上げることはできません。今お話ししていることとかかわることだけを取り上げます。 「蛇」の背後にあって働いていたサタンがエバを誘惑したことは創世記3章1節〜7節に記されています。この記事については、すでに、主の祈りの第5の祈りである、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 という祈りについてお話ししたときに(「主の祈り」の181回目と185回目のお話の中で)お話ししています。 その時にお話ししましたように、サタンがエバとの会話の中で取り上げた、「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めは、創世記2章16節、17節に、 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 と記されているものです。 これは、最初の人とその妻に与えられた唯一の禁止の戒めでした。そして、これは、同じように食べるのによい木がいくらでもある中で、1つの木からは取って食べてはならないという戒めです。その木はエデンの園の中央に生えているということ以外は、他の木と違わない普通の木でした。この戒めは、それを守ることによって、誰かを助けるとか、何かを造り出すというようなことはない、いわば、それ自体としては何の意味がないことを命ずる戒めです。しかし、これは無意味な戒めではありません。これは、神のかたちに造られた人にとって大切な意味をもった戒めでした。 この戒めは、「神である主がそのように命じられたから」という理由だけによって守るべき戒めです。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られ、自由な意志をもっている人は、自分の意志の赴くままにあらゆることをすることができる状態にありました。そのような状態にあった人が、神さまが自分の主であられ、自分は神である主のしもべであるので、神である主の戒めに従う立場にあるということを思い起こさせてくれる戒めであったのです。その意味で、これは神である主が備えてくださった「恵みの手段」であったと言うことができます。 この「善悪の知識の木」についての神である主の戒めをめぐって、サタンがエバを誘惑したとき、サタンはエバが罪を犯すようにと誘惑しています。そして、実際に、エバはサタンのことばを受け入れて、神である主の戒めに背き、神である主に対して罪を犯してしまいました。 神さまが永遠の聖定において「蛇」を通してサタンがエバを誘惑することを「許容」されたというとき、私たちは神さまがエバが罪を犯すように誘惑されたと考えることはできません。先ほどお話ししましたように、これは私たちの理解力の限界の中で考えているのですが、神さまには別のお考えがあったと考えられます。そのような誘惑に会うことによって、エバは試されました。その時、エバが「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めを正しく受け止めていたなら、エバは、神さまが主であられ、自分が神である主のしもべであり、そのゆえに主の戒めに従うものであるということを、それまでより明確な形において、それまでよりはっきりと自覚して受け止めることができるようになったはずです。その誘惑に立ち向かうことを通して、自分と神である主の関係をより確かな形において受け止めることができるようになったはずです。少なくともこれが、サタンがエバを誘惑することを「許容」されたときの神さまのお考えであったと考えられます。 このことを、神である主の意図しておられたことから見ますと、神である主はエバに試練を与えられたということになります。それは、エバをご自身との関係において、より確かな状態へと導き入れてくださるためのことでした。しかし、この同じことをサタンが意図していたことから見ますと、サタンはエバを誘惑したということになります。サタンは、エバを神である主に背かせて、神である主との関係を断ち切ってしまうように仕向けたのです。 これと同じことがより明確に示されている事例があります。それは、ヨブ記1章、2章に記されていることです。そこには、サタンが主の許可を受けてヨブに厳しい災いを下したことが記されています。 ことの発端は、1章8節に、 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」 と記されていることにあります。 これに対して、9節〜11節に、 サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」 と記されていますように、サタンは、主がヨブについて言われたこと、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」であるということが間違っていると言って、主に挑戦しました。ヨブはただで神を恐れているのではなく、神が繁栄を与えてくれるので神を恐れているのだと言うのです。ヨブの信仰は御利益信仰だということです。そして、ヨブの持ち物をすべて奪い取ってしまえば、ヨブは神さまをのろうようになると言いました。 これを受けて、12節には、 主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。 と記されています。 この主のみことばに、サタンも主の「許可」(「許容」)を受けて働いていることが示されています。 そして、13節〜19節に記されているように、大変な災いが次々とヨブを襲います。ヨブは全財産を失ったばかりか、子どもたちやしもべたちをも失ってしまいます。しかし、20節〜22節には、 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。 「私は裸で母の胎から出て来た。 また、裸で私はかしこに帰ろう。 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。 と記されています。 もちろん、ヨブはすべてを失ってしまったのではありません。ヨブにとっていちばん大切なものは残されています。それは、主がヨブの神であられ、ヨブは主の民であるということです。そのことが、この、 主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。 という讃美に現れています。これによって、ヨブは、主から何かをいただくことを目的としてではなく、主が神であられるので、主を恐れていることが明らかになりました。 しかし、サタンはこれで引き下がりませんでした。2章には、サタンがさらに主に挑戦したことによって、さらなる試練が襲ってきたことが記されています。ヨブの全身がさまざまな病によって撃たれました。それでも、ヨブは主に対して罪を犯すことはありませんでした。 けれども、ヨブの試練はこれで終っていません。ヨブ記全体の構成から言えば、これらの試練はいわば序論に当たるものです。本当の試練は、3章以下に記されている、このヨブが受けた災いの意味をめぐるヨブと3人の友人たちとの間の論争にあります。友人たちはヨブの回復を願ってやって来て、ヨブを説得するのですが、物質的な繁栄の回復を目的としています。ヨブが求めていたのは主ご自身であって、物質的な繁栄ではありませんでした。それで、その議論はかみ合うことなく終ってしまいます。この友人たちとの論争を通して、ヨブの信仰は、古い契約の下における限界の中にあってのことですが、高さの極みにまで引き上げられていくことになります。私は、それは主の栄光の顕現に触れたモーセやイザヤの経験に匹敵するものであると考えています。ただ、この点に関しては、ここではこれ以上触れることはできません。[よろしかったら、私が記しました『ヨブ記』(新聖書講解・いのちのことば社)をご覧になってください。] いずれにしましても、サタンは主の許可を得て主の民を誘惑しています。けれども、主がサタンにそのような許可を与えられたのは、その試練を通してヨブが「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」であることが明らかにされるようになるためでした。そればかりか、具体的なことはお話しできていませんが、古い契約の基における限界の中にあって、ヨブの信仰を極みまで高めてくださり、ご自身の恵みとまことに満ちた栄光に触れさせてくださるためでした。 最後に、これらのことから、3つのことを確認しておきたいと思います。 第1に、これらのことから、先ほど触れましたヤコブの手紙1章13節に記されていた、 神は・・・ご自分でだれを誘惑なさることもありません。 というみことばを理解することができます。神さまがその永遠の聖定に基づき、また、無限の知恵による摂理の御手によって、サタンが私たちご自身の民を誘惑することを許可されるときにも、神さまは決して、私たちが罪を犯すことを願っておられませんし、私たちが罪を犯すように誘導されることはありません。神さまは「ご自分でだれを誘惑なさること」はありません。神さまはサタンのたくらみをも用いて、私たちの信仰を強くしてくださり、ご自身にさらに近づくものとしてくださるのです。 第2に、特に、ヨブの事例においてはっきりと見ることができますが、私たちの目からは同じ出来事と見えることが、試練としての意味をもっていると同時に誘惑としての意味をもっていることがあるということが分かります。サタンが働いてヨブに大きな災いをもたらしたとき、サタンはヨブが神さまをのろうようになるように誘っています。けれども、サタンがそのように働くことを許可された主のみこころは、その試練を通して、ヨブが真に神さまを恐れる者であることを実証してくださるとともに、ご自身の恵みとまことに満ちた栄光に触れさせてくださることでした。そして、実際にヨブは主の恵みとまことに満ちた栄光に触れて、主にさらに近づくようになりました。 第3に、このことは、新改訳が主の祈りの第6の祈りを、 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と訳しているときの「試み」ということば(ペイラスモス)に「試み」(あるいは「試練」)という意味と、「誘惑」という意味があるからといって、現実の状況の中でそれを区別することができないということを意味しています。私たちがこの世で経験するさまざまな苦しみや痛みや悲しみなどは、それが起こることを許可された神さまのみこころからすれば「試み」であっても、私たちはそれによって神さまへの疑いや不信感を募らせてしまうことがあります。そのことは、私たち自身が経験していることです。 私たちはこれらのことをわきまえるとともに、どのような場合においても、神さまが私たちをご自身の子として迎えてくださっていることを信じたいと思います。そして、その根拠は私たち自身のうちにはなく、ただイエス・キリストが十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いと、十字架の死に至るまでの従順を通して確立してくださった義にあずからせていただいていることにあるということを心に銘記したいと思います。もし神さまが私たちを受け入れてくださることの根拠が私たち自身のうちにあるのであれば、私たちは自らの罪や弱さによって絶えず揺らされることになります。 私たちはたとえ自らの罪によって苦しみや痛みや悲しみを刈り取ったとしても、イエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった罪の贖いと、私たちのために確立してくださった義によって、神の子どもとして、父なる神さまの恵みとまことに満ちた栄光のご臨在の御許に近づくことができますし、そのように私たちが常に御許に近づくことが父なる神さまのみこころです。 |
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