(第189回)


説教日:2009年4月5日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りに出てくる、新改訳で「試み」と訳されたことば(ペイラスモス)は、聖書の中では、よい意味と悪い意味の2つの意味で用いられています。よい意味の場合には、さまざまな困難な問題や苦しみなどを通して人を試して、その人がどのような人であるか、どのような状態にあるかを明らかにすることを意味しています。このような場合には、このことばは「試み」あるいは「試練」と訳されます。これに対して、悪い意味の場合には、その人が罪を犯すように誘うことを意味しています。このような場合には、このことばは「誘惑」と訳されます。
 これまで、聖書に記されている、神さまが人を試みられた事例として、神さまがアブラハムを試みられたことと、荒野においてイスラエルの民を試みられたことについてお話ししました。そして、神さまがご自身の民を試みあるいは試練に会わせられる時には、積極的な意味があるということをお話ししました。
 今日は、ヤコブの手紙1章2節〜4節に記されている、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

というみことばを中心として、試練の意味を考えてみたいと思います。


 ここで注目すべきことは、これが1節に記されている挨拶のすぐ後に記されているということです。このことは、ここに記されていることが何らかの意味で緊急を要することであることを示しています。それで、この手紙の読者たちが「さまざまな試練」に会うことは単なる可能性ではなく、すでに、読者たちは「さまざまな試練」に会って苦しんでいると考えられます。
 「さまざまな試練」ということばは、読者たちが直面している試練にはいろいろなものがあることを示しています。具体的なことは直接的には述べられていませんが、推測することはできます。この手紙の中には、貧しい者たちと富める者たちへの教えが繰り返し出てきます。そして、貧しい者たちがさげすまれている現実や、富める者たちが貧しい者たちを搾取している現実が糾弾されているところもあります。
 たとえば、5章1節〜6節には、

聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。

と記されています。
 ここで糾弾されている人々がこの手紙の読者たち、すなわち、主の契約の共同体に属する人々か、それとも、これは主の契約の共同体の外に人々かについては、意見が分かれています。お話が少しそれてしまいますが、それとして大切なことですので、この問題を取り上げておきます。
 この人々が「あなたがた」というように、2人称で呼びかけられていることは、この人々が読者たち、すなわち主の契約共同体の中にいることを思わせます。けれども、いくつかの理由によって、これは主の契約の共同体の外の人々についてのことばであると考えられます。
 第1に、2章1節〜7節には、

私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

と記されています。
 ここでは、主の契約共同体の中で貧しい兄弟たちが軽蔑されている現実があることが取り上げられています。その際に、ヤコブはそのような差別をしている人々のことを糾弾しています。しかし、1節では、

私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。

と言われていていて、彼らのことを「私の兄弟たち」と呼んでいます。また、5節では、

よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。

と言われていていて、「愛する兄弟たち」(直訳「愛する私の兄弟たち」)と呼んでいます。
 けれども、問題となっている5章1節〜6節で取り上げられている人々は「金持ちたち」と呼ばれているだけで、「兄弟たち」とは呼ばれていません。
 第2に、先ほど引用しました2章5節で、

よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。

と言われていることは、この手紙の読者たちの多くが「この世の貧しい人たち」であったことを踏まえています。経済的に貧しいというだけでなく、奴隷や自らの土地を持たない小作人など、社会的な立場においても弱い立場にある人々が多かったと考えられています。
 その上で、続く6節、7節に記されている、

それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

ということばは、貧しい人々を軽蔑している人々をも含めたこの手紙の読者たちが「富んだ人たち」によって容赦なく搾取されていたことが示されています。そして、この6節と7節に記されていることばは、貧しい人々を軽蔑している人々は「この世の貧しい人たちを選んで」くださった神さまに倣うのではなく、「富んだ人たち」に倣っているということが指摘されています。神さまのみことばが示す価値観ではなく、「富んだ人たち」の価値観に従ってしまっているのです。その意味で、ここでは、「富んだ人たち」が神さまと対比されています。このことは、この「富んだ人たち」が主の契約共同体の外の人々であることを暗に示しています。そして、この「富んだ人たち」と訳されたことば(ホイ・プルーシオイ)は、5章1節で、

 聞きなさい。金持ちたち。

と呼びかけられているときの「金持ちたち」と訳されたことばとまったく同じことばです。
 第3に、問題として取り上げている5章1節〜6節の直前の4章13節〜17節には、

聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。

と記されています。
 ここに取り上げられている人々も主の契約共同体の外にある人々であるという見方もありますが、この人々は、このヤコブの手紙の読者たちの中の人々を想定していると思われます。「きょうか、あす、これこれの町に行き」ということばから分かりますように、これは実際にあった話というよりは、イラストレーションとして語られたことであると考えられます。この場合には、ここで取り上げられている人の問題点を指摘して終ってはいません。

むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

というように、本来のあり方を示して、さとしています。ところが、問題としている5章1節〜6節に記されていることには、このような教えとさとしはありません。そこには、

あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。

というように、徹底した糾弾のことばが記されているだけです。

 先ほど引用しました、2章6節、7節に記されている、

それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

ということばがどのようなことであるのかが、この5章2節〜6節のことばに示されています。自分たちは「畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金」を踏み倒すようなことをしておきながら、貧しい人々からは、裁判を起こして容赦なく取り立てるというようなことでしょう。合法的であるということで、貧しい人々への思いやりを捨ててしまっているということでしょう。これは、今の社会にもそのまま当てはまります。
 このようなことから、5章1節〜6節に記されているのは、主の契約の共同体の外の人々のことであると考えられます。その意味では、これは、旧約聖書における預言者たちが異邦の民の風習を糾弾していることに相当することと理解することができます。
 それにしても、このようなことを記すことにどのような意味があるのでしょうか。それは、この世の人々は悪いというような糾弾をして、自分たちはこの世の人々とは違うのだと言おうとしているのではありません。そうではなくて、ここに述べられているようなものの見方や価値観や生き方が自分たちの中にもあるのではないかということを考えさせるためのものです。このヤコブの激しいことばを聞いて、「金持ちたち」を糾弾する思いをもつようになったとき、その糾弾が自分自身に返ってくることになるのです。
 このようなことをより明確に見ることができるのは、ローマ人への手紙1章20節〜32節に記されていることです。長いので引用はしませんが、そこには、その当時のローマの社会において見られる罪の現実が明らかにされ、糾弾されています。それは基本的に、異邦人の間に見られる罪の現実のことです。ところが、その糾弾のことばに続いて、2章1節には、

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

と記されています。

 話を戻しますが、ヤコブの手紙の読者たちの多くは貧しい人々でした。しかも、それは富んでいる人々からの不当な搾取によっていることが多かったと考えられます。もちろん、それも、ヤコブが、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

と言うときの「さまざまな試練」の1つです。しかし、それが中心に会ったと考えられます。その貧しさのために、生活の上での苦労があったでしょう。また、病気に悩むこともあったでしょう。争いごとに巻き込まれることもあったでしょう。病気や事故などで愛するものとの死別を経験することもあったでしょう。さらには、自らの罪のために蒔いてしまった種の実を刈り取る形でやってくる問題もあったでしょう。そこには限定はありません。しかも、それらが1つずつ降りかかってくるとは限りません。ヨブの場合のように、いくつかの試練が同時に、あるいは、次々とやって来ることもあったでしょう。
 ヤコブは、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

と述べています。
 ここで「この上もない喜び」と訳されていることばは、直訳では「すべての喜び」(単数)というような言い方です。これをどのように理解するか難しいところですが、喜びの強さや完全性を表していると考えられます。そのようなことから、新改訳は「この上もない喜び」と訳していると思われます。しかし、このことは、喜び以外の何も感じてはいけないという意味ではなく、試練の厳しさの中で苦しみ痛むのですが、その状況の中で、純粋な喜び、喜びそのものがあるということを意味しています。
 「思いなさい」ということば(ヘーゲオマイ)は、確かな根拠に基づいて慎重に知的な判断をすることを意味しています。ですから、これは主観的な思い込みのことではありません。試練に会って痛みや苦しみや不安を感じることは、いわば、自分の中から自然と出てくる反応ですが、この「思いなさい」ということは、その先にあることです。このヤコブの手紙1章では、続く3節、4節で、試練に会ったときに、それを「この上もない喜び」と思うべき理由が記されています。それで、この「思いなさい」ということは、そこに述べられている理由に基づいて、その試練を「この上もない喜び」と思うということです。
 その3節、4節には、

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と記されています。

 信仰がためされると忍耐が生じる

と言われているときの「ためされる」と訳されたことば(ドキミオン)は名詞で、「ためすこと」を表します。このことばは、新約聖書の中では、このほかペテロの手紙第1・1章7節で、

信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

と言われている中に出てくるだけです。ここで「信仰の試練は」と訳されているときの「試練」と訳されているのが、このことばです。ここでは、「信仰の試練」は金の精錬と比べられています。
 ちなみに、この「信仰の試練は」と訳されていることばは、ヤコブの手紙1章3節で、

 信仰がためされると忍耐が生じる

と言われているときの「信仰がためされると」と訳されたことばとまったく同じことばです。
 この「ためすこと」を表すことば(ドキミオン)は、旧約聖書のギリシャ語訳である7十人訳では2回用いられています。詩篇12篇6節には、

 主のみことばは混じりけのないことば。
 土の炉で七回もためされて、純化された銀。

と記されています。ここで「土の炉で七回もためされて」と言われているときの「ためされて」と訳されたことばに当たるのがこのことば(ドキミオン)です。これは金属を精錬すること表しています。このことは、先ほどのペテロの手紙第1・1章7節の「信仰の試練」とも符合します。
 このことを生かして、ヤコブの手紙1章3節の、

 信仰がためされると忍耐が生じる

というみことばをより直訳調に訳しますと、

 あなたがたの信仰の精錬は忍耐を生み出す

となります。試練によって信仰が精錬されると「忍耐」が生み出されるということです。
 この「忍耐」ということば(ヒュポモネー)は、ギリシャ語の語源からは「下に留まる」というような意味合いがあります。しかし、旧約聖書の背景に照らして見ますと、ただじっと耐えているということではなく、その先にある、主のみことばに約束されている望みを見据え、主を信じて、待ち望み続ける姿勢を示しています。それで、このことは、続く4節に記されていることへとつながっていきます。

 4節では、

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と言われています。

 その忍耐を完全に働かせなさい。

と訳されている部分は、2通りの理解が可能です。これを直訳調の訳で訳しますと、

 その忍耐に完全な働きを持たせなさい。

となります。新改訳はこれを、

 その忍耐を完全に働かせなさい。

と理解しています。もう1つの理解は、

 その忍耐が完全な働きをもたらすようにしなさい。

というように理解します。つまり、この「完全な働き」(単数)とは「忍耐」がもたらす成果であるということです。ここで「働き」と訳したことば(エルゴン)は働きによって生み出された「成果」や「作品」を表すこともあります。
 新改訳の訳はすっきりしていると思われます。しかし、もう1つの理解は古くからある理解であるだけでなく、最近の著名な福音派の注解者たち(Moo、Davids、Martin)も、もう1つの理解の方を取っています。その場合には、「完全な働き」(単数)は個別の働きのことではなく、さまざまな面をもっている人格的な特質で、それがその人の信仰による行いに現れてくると考えられています。
 ここで「完全な」と訳されていることば(テレイオス)は、その後の部分で、

そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

と言われているときの「成長を遂げた」と訳されたことばと同じです。これは、このことばに「完成した」という意味合いがあるので、新改訳はそれを生かして「成長を遂げた」と訳しています。ここで「完全な」と訳されていることば(ホロクレーロス)は「傷がない」こと、「健全である」こと、「健康である」ことなどを表します。ここでは、この2つの同義語を重ねて完全で完結していることを強調しています。それだけでなく、これに「何一つ欠けたところのない」ということばを加えて、さらに補強しています。 いずれにしましても、ここで鍵となることばは「完全な働き」で「完全な」と訳され、その後で「成長を遂げた」と訳されたことば(テレイオス)です。このことばのよく知られた用例はマタイの福音書5章48節に見られます。そこには、

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。このことば(テレイオス)は、ここで「完全な」また「完全で」と訳されています。
 よく、

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

というイエス・キリストの教えは、到達できない理想を述べたものであると言われます。
 けれども、みことばの全体的な教えの光で見ますと、このことは単なる理想や努力目標ではありません。これは終わりの日に再臨される栄光のキリストが私たちの間に完全な形で実現してくださることです。イエス・キリストは、私たちに、

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

と教えられただけでなく、そのことを私たちの間に実現してくださるのです。ヨハネの手紙第1・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されているとおりです。
 これは、ヤコブのことばで言えば、

そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ということが文字通り私たちの現実となることを示しています。
 このことは、ただ単に遠い先の出来事であるだけではなく、そのことが実現するための基盤はすでに据えられており、そこに至る御業はすでに始まっています。永遠の神の御子イエス・キリストが、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって死んでくださり、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえってくださいました。そして、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、御霊を遣わしてくださり、御霊によって、私たちをご自身が成し遂げられた贖いの御業にあずからせてくださっています。私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、ご自身の栄光のかたちに造り変えてくださっています。コリント人への手紙第2・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。
 私たちはこの主のみことばの約束に基づいて、栄光のキリストの再臨の日、終わりの日における私たちの贖いの完成の時を待ち望んでいます。私たちは、その時まで、この世にあって「さまざまな試練に会う」ことになります。それは痛みや苦しみを伴うものであるでしょうが、その「試練」を通して私たちの信仰が精錬されて「忍耐」を生み出します。そして、私たちは終わりの日における完成の望みの下に「忍耐」を働かせ、主を信頼して歩みます。そして、そのことの中で、栄光のキリストは、私たちをご自身の栄光のかたちに造り変えていってくださいます。
 このようなことを見据えて、ヤコブは、

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

と教えています。

 


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