(第188回)


説教日:2009年3月22日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りを理解するうえで、まず問題となるのは、この祈りの中心にあり、新改訳で「試み」と訳されたことば(ペイラスモス)の意味です。聖書においては、このことばは、よい意味と悪い意味の2つの意味で用いられています。よい意味の場合には、さまざまな困難な問題や苦しみなどを通して人を試して、その人がどのような人であるか、どのような状態にあるかを明らかにすることを意味しています。このような、よい意味で用いられているときには、このことばは「試み」あるいは「試練」と訳されます。これに対して、悪い意味の場合には、その人が罪を犯すように誘うことを意味しています。このような悪い意味で用いられているときには、このことばは「誘惑」と訳されます。
 先週はこのことばがよい意味で用いられるときに表している「試練」についてお話ししました。そして、そのために、具体的な例を2つ取り上げてお話ししました。
 1つは、神さまがアブラハムを試練に会わせられて、その子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたことでした。もう1つは、出エジプトの時代に、40年の間荒野をさまよい続けたことをとおしてイスラエルの民に与えられた試練のことでした。今日は、それに補足を加えながら、さらにお話を進めていきたいと思います。特に、先週あまりお話しできなかったイスラエルの民に与えられた試練について補足したいと思います。
 アブラハムに与えられた試練においては、アブラハムが神さまのみことばにしたがってイサクをささげようとしたときのことが、創世記22章10節〜12節に、

アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

と記されています。12節には、

今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。

という主のみことばが記されています。
 「」はこのことをとおして、アブラハムが「神を恐れることがよくわかった」と言っておられます。
 もちろん、神さまはその存在と属性のすべてにおいて無限、永遠、不変であられますから、永遠から、アブラハムがどのようなものであるか、その生涯のすべてを、完全に知っておられます。その意味では、これは、アブラハムのことがいまひとつよく分からない神さまがアブラハムのことを知りたくて、アブラハムを試練に会わせられたということではありません。むしろ、主が一方的な恵みによって、アブラハムのうちに生み出してくださった信仰を、アブラハムが現実的に働かせる機会を与えてくださるために試練を与えてくださったということです。さらに、それは、その信仰によってアブラハムが信じたことを実現してくださるようになるためでした。
 その信仰がどのようなものであったかについて、先週も引用しましたヘブル人への手紙11章17節〜19節には、

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

と記されています。アブラハムはすでに与えられている、

 イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。

という主の約束を信じていたので、言い換えますと、その約束を与えてくださった主を信じていたので、

 神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、

とさえ考えるようになったというのです。
 アブラハムの信仰はこのような信仰ですが、初めからこのようなものであったわけではありません。主は恵みによってアブラハムを導いてくださって、その信仰を育ててくださっていました。その間には、アブラハムが信仰によって主に従ったことだけでなく、不信仰に陥ったこともありますし、主の約束を誤解したこともあります。
 具体的には、たとえば、飢饉の時にエジプトに逃れたアブラハムは、エジプト人を恐れて、自分のいのちを守るために、サラが自分の妹であることにして、自分の妻であることを隠しました。そのためにパロがサラをめとろうとして、主のさばきを受けそうになりました。(この問題については、「聖なるものであること」の140回目のお話で取り上げています。)アブラハムは同じことをゲラルの地においてもしてしまいました。また、アブラハムに子が与えられるという約束を受けて、サラが不妊の女性であったので、ハガルによって子が生まれるようにしてしまいました。アブラハムの血肉の子であればよいと考えてしまったわけです。その結果、イシマエルが生まれました。
 しかし、そのような不信仰や失敗をとおしても、主はアブラハムに大切なことを教えてくださって、アブラハムの信仰を育ててくださいました。これをアブラハムの側から見ますと、アブラハムの信仰は生きていて、このような信仰へと成長していったということになります。
 そのように、神さまはさまざまなことをとおして、アブラハムの信仰を育ててくださいました。そして、最終的に、神さまがアブラハムに、イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたことによって、アブラハムのうちにヘブル人への手紙においてあかしされているような信仰が生み出されたのです。


 イスラエルの民が40年間、荒野をさまよったことの意味については、申命記8章2節に、

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と記されています。
 ここでは、イスラエルの民に試練が与えられたのは、その試練をとおしてイスラエルの民の「心のうちにあるもの」を明らかにするためであったことが示されています。この場合も、主がイスラエルの民の「心のうちにあるもの」が分からないので、それを知ろうとして試練を与えられたということではありません。主はイスラエルの民の「心のうちにあるもの」を初めから知っておられます。それで、イスラエルの民が自らの現実を知るようになるために、イスラエルの民に試練を与えられたと考えられます。
 もちろん、

 あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と言われているのは、主がイスラエルの民の「心のうちにあるもの」を「知るためであった」という意味です。それで、これは、主が現実の状況の中で、イスラエルの民の「心のうちにあるもの」を知ってくださったこと、確認してくださったことを意味しています。そのことは、イスラエルの民と無関係になされているのではなく、イスラエルの民にとっても意味をもっていて、イスラエルの民が自らの現実に気がつく機会ともなっているのです。とはいえ、実際には、後ほどお話ししますが、荒野のイスラエル、エジプトを出てきたイスラエルの民の第1世代は、それにもかかわらず、自らの現実に気がつくことはありませんでした。
 また、ここで、主がイスラエルの民に向かって、

 あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と言われたこと自体も、イスラエルの民にとって意味をもっていたはずです。このみことばを聞いたイスラエルの民は、その荒野の40年の歩みをとおして、主の御前にあらわになったことは、自分たちの父の世代と自分たちの現実であったことを悟ることができたはずです。そのことが、イスラエルの民が自らの現実を自覚するようになることへとつながっていくはずです。
 さらに、主はイスラエルの民に対して、

 あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と言われたことがイスラエルの民にとっても意味あることであったことを、3節において明らかにしてくださっています。そこには、

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

と記されています。その試練をとおして、イスラエルの民は契約の神である主が自分たちとともにいてくださって、真実に支え続けてくださっていることを、現実のこととして学ぶことができたのです。そして、改めて、その主に信頼すべきであるということを教えられたのです。

 このことに関連して、先週お話しすることができなかったことに触れておきたいと思います。
 イスラエルの民が40年もの間、荒野をさまようようになったのは、イスラエルの民の第1世代の不信仰に対するさばきによることでした。主はイスラエルの民がエジプトの奴隷の身分にあって苦役に苦しんでいた時に、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こしてくださいました。そして、モーセを通して出エジプトの贖いの御業を遂行されました。それで、イスラエルの民はエジプトの地と荒野において契約の神である主がなされた数々の御業を目の当たりに見ることができました。
 イスラエルの民は、主がエジプトに対して十のさばきを執行されたことと、イスラエルの民をそのさばきから守ってくださったことを経験しました。最初の3つのさばきにおいては、エジプト人とイスラエルの民の区別は記されていませんが、さばきが厳しくなっていく中で、4つ目のさばきからはイスラエルの民がエジプト人から区別されて守られたことが記されています。とりわけ、過越の夜に執行されたエジプトの地にある初子を撃つというさばきのためには、主が小羊を備えてくださいました。イスラエルの民はその血を家の門柱と鴨居に塗ることによって、さばきを執行する御使いがその家を通り過ぎる(過ぎ越す)ということを経験しました。そして、主は紅海の水を分けてイスラエルの民を通らせてくださっただけでなく、同じ水をもってエジプトの軍隊を滅ぼされました。イスラエルの民はそれを身をもって経験しました。
 さらに、荒野において食べ物がなくて飢えたときには、天からマナを降らせてくださって、イスラエルの民を養ってくださいました。しかも、それは、その日から40年の間、変わることなくイスラエルの民のために備えられました。
 出エジプト記16章13節には、最初にマナが与えられた日には「うずら」も与えられたことが記されています。民数記11章に記されていますように、マナに飽きてしまったイスラエルの民が肉が食べたいとつぶやいたときに、そこにはマナしかないと言っています。また、その時、主は大量のうずらが飛んでくるようにされました。このことから、出エジプトの際に与えられたうずらは、イスラエルの民が飢えて弱ってしまったことに対する対処として、その日に限り与えられたと考えられます。さらに、水がなくてイスラエルの民が渇いて、主につぶやいたときには、主は岩から水を出してくださって、その渇きをいやしてくださいました。
 イスラエルの民がシナイ山の麓に宿営したときには、主はシナイ山にご臨在されました。それに伴う光景にイスラエルの民は震え上がって恐れました。そればかりか、イスラエルの民は、主がご臨在の御許から、自分たちに向かって直接的に語られる御声を聞きました。主はその御声をもって直接的に語ってくださって、十戒を与えてくださいました。そして、イスラエルの民は、その御声を聞き続けるなら自分たちは滅ぼされてしまうとさえ感じたのです。
 そればかりではありません。主はイスラエルの民に幕屋をお与えになり、その至聖所には主のご臨在を表示する雲の柱が常にあるようにしてくださいました。それが、昼は雲の柱、夜は火の柱となって、イスラエルの民とともにあり、イスラエルの民を導いてくださっていました。出エジプト記40章36節〜38節に、

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

と記されているとおりです。

 このように、主は力強い御手をもって、イスラエルの民を強大な帝国であったエジプトから贖い出して、イスラエルの民をご自身の契約の民としてくださいました。そして、荒野においてイスラエルの民とともにいてくださり、マナをもってイスラエルの民を養い続けてくださいました。けれども、彼らは主を信じることなく、主を試み続けました。その結果、遂に、主のさばきを招くこととなりました。
 カナンの地を探りに行ったイスラエルの民の部族の代表たちがその報告をしたときのことを記している民数記13章32節〜14章4節には、

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

と記されています。14節3節に記されている、

 なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。

というつぶやきのことばは、主に対する不信感を越えて、主に悪意があってここまで自分たちを導いてきたという告発でさえあります。
 そればかりでなく、ヨシュアとカレブが主を信頼して約束の地に入ろうとイスラエルの民を説得しますと、イスラエルの民は逆にヨシュアとカレブを石で撃ち殺そうとしました。
 主はそのようなイスラエルの民を打って滅ぼしてしまい、モーセから新しい民を起こすみこころをモーセに告げられました。しかし、モーセはなおも主にとりなしをして、主の御名のためにイスラエルの民をあわれんでくださることを祈り求めました。主はモーセの祈りを受け入れてくださいましたが、同時に、イスラエルの民へのさばきを宣告されました。14章20節〜24節には、

主は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。」

と記されています。22節、23節に記されていますように、主は、

エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。

と言われました。この「十度」は文字通りの「十度」ということを表す可能性もありますが、この場合には、完全数としての「十」が用いられていて、イスラエルの民がエジプトを出て以来、この時まで変わることなく、主に対する不信を募らせて、主を試み続けたことを指していると考えられます。このように、イスラエルの民が40年もの間、荒野をさまようようになったのは、その一貫して表された不信仰に対するさばきの結果です。

 いまお話ししていることとの関連でこのことを考えますと、1つのことが見えてきます。
 エジプトを出たイスラエルの民の第1世代にとって、この荒野の40年間は、自らの不信仰に対するさばきの執行の時でした。その意味では、この40年は不毛の40年であったと言うほかはありません。彼らは荒野で滅びるのを待つだけの身となってしまいました。ヘブル人への手紙3章17節に、

神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

と記されているとおりです。彼らの心はかたくななままになってしまい、もはや悔い改める機会もなかったと考えられます。
 それでは、その荒野の40年はまったく不毛の40年であったのでしょうか。そうではありません。主は、その40年の間も、イスラエルの民の聖所にご臨在してくださり、マナをもってイスラエルの民を養い続けてくださいました。そのことを通して、イスラエルの民の第2世代に対して大切なことを教えてくださいました。先ほど引用しました申命記8章3節に、

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

と記されていたとおりです。
 出エジプト記34章6節、7節には、

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。

という、契約の神である主、ヤハウェの御名による宣言が記されています。詳しい経緯は省きますが、これは、イスラエルの民が主のご臨在されるシナイ山の麓で金の子牛を作って、それを主、ヤハウェであるとして拝んだ時に、主の御怒りがイスラエルの民を滅ぼそうとしたときに、モーセのとりなしによってその御怒りがとどめられたことを受けて、語られた宣言です。
 イスラエルの民は、「あわれみ深く、情け深い神」であられる主、ヤハウェのご臨在の御前において、主への不信をつのらせ、主を試み続けたのです。そして、40年お間、荒野をさまようというさばきを受けました。けれども、「あわれみ深く、情け深い神」であられる主、ヤハウェのご臨在は、なおもそこにありました。そして、それは変わることなくまた絶えることなく与えられ続けたマナをもってイスラエルの民を養い続けてくださったことに現れておりました。このことをもって、

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

という大切なことをイスラエルの民の第2世代に教えてくださったのです。

 このこととの関連で、2つのことに注意したいと思います。
 1つは、主は、私たちが主に背いて罪を犯した結果、私たちが刈り取ることになった苦しみや痛みをも用いて、私たちをご自身に信頼するようにと導いてくださっているということです。ですから、たとえそれが自分の罪の結果としてやってきた苦しみや困難であっても、その苦しみや困難のうちにあって主に信頼し続けることが主のみこころなのです。
 その一方で、私たちは、自分が荒野のイスラエル、すなわちイスラエルの民の第1世代とどう違うのだろうかと感じてしまうかもしれません。
 人間的に見れば、私たちもその荒野のイスラエルと変わることはありません。主の恵みとあわれみによらなければ、不信仰のゆえに主を試みて終ってしまうほかのないようなものです。けれども、主が与えてくださっている試練の中で、そのような自分の現実に気がついて、主の恵みとあわれみに頼るようになるならば、主はその一方的な恵みによって備えてくださった御子イエス・キリストの贖いの御業に私たちをあずからせてくださいます。
 荒野のイスラエルの問題は、主がさまざまな試練を通して、彼らのうちなる現実を明らかにしてくださったのに、自らのうちにある不信仰に気がついて悔い改めることがなかったことにあります。むしろ、その代わりに、主や主のしもべであるモーセとアロンを責め続けたことにあります。先ほどの「十度も」という主のみことばに示されていますように、その姿勢が一貫して変わらなかったことにあります。
 主は私たちに試練を与えられることがあります。その時の主のみこころは、それによって私たちが主を信頼して、主にますます近づくようになることです。その試練のために、自分が主に捨てられたのではないかと疑ってしまったり、主への信頼を放棄することは、荒野のイスラエルの道を踏み行くことになってしまいます。

 


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